【金持ちが確実に世界を支配する方法】スーザン・ジョージ著   
 〜内容紹介〜  
  〜ネットにあった概要の後編より
≪・本書の前半では、「第1回報告」(これも架空)を振り返り、社会、経済、
 環境問題の展開を検証する。後半では、「階級闘争勝戦略」の提言を行う。
階級闘争勝戦略」は、投資家で世界第三位の大富豪ウォーレン・バフェット
の2006年の発言、「階級闘争があると言いたいなら、そう言ってもいい。しかし
戦いを仕掛けているのはわれわれの階級、金持ち階級のほうで、勝利は目前だ」
から取られたものであり、1%の野望をはずかしげなく洩らしている。
・本書によれば、リーマンショックにもかかわらず、1%への富の集中は進んで
いるので、彼らが仕掛けた階級闘争は順調。彼らの「必勝戦略」は、ひたすら
99%を洗脳する事と、言い変えると「文化的乗っ取り」あるいは「メディア戦略」。
「民主主義をお払い箱に」にし、人権を縮小し、自由競争や自己責任の言葉の
連発で、新自由主義に洗脳することが、1%層の宿願である。
・本書の架空の作業部会が、日本の採点をするとしたら、世界の優等生として
褒めてもらえそうである。福祉(医療、年金、生活保護)の切り下げ、消費税に
よる99%層への収奪、一方では大企業への減税の大盤振る舞い、経済格差の進展、
実所得の低下、子どもの貧困率のさらなる悪化、東電福島原発事故の発生と
その被害者の切捨て、秘密保護法の制定、集団的自衛権行使への動きとそれに
伴う軍需産業の動き、国民を犠牲にしても自由貿易を拡大しようとするTPP推進、
ますます政府の広報機関と化している新聞・テレビなど、日本で進行中の動きは、
本書が暴き出した「1%による99%支配の強化」の日本版と読替えれば、すべて
納得がいく。本書は、日本での動きが、世界を席巻するグローバリズム
新自由主義化)の一環であることを改めて教える。
・本書の性格上、99%による1%への対抗戦略は書かれていない。1%が何を考え、
そのためにどのような手段を使っているか、を寓話形式で知らしめることが
目的だからである。99%が明日からでも実行可能な、1%への対抗戦略については、
ジーン・シャープ著『独裁体制から民主主義へ』がある。≫
▼ この政策を実行するに、3つのS戦略が重要としている。 スピード
(すばやく)、セクレシイ(知らせず)、ステルス(水面下)である。これに
サプライズも加えることができるという。中国は、彼らと同じ体質を持っている。
この傾向は、短期間で達成している。地中海クラブに住む劣等国民には、憎悪
すら感じている。彼らは身に合わない生活をしてきたため、債権は、他の国が
払うべきと信じて疑わないが、これも時間の問題。アフリカ、中近東は、彼ら
の手先の一部王族が、天然資源を独占、営利を貪っている。それがIS国として
大きなウネリとして支持を得ている。世界は、1%の人たちのためにあるようだ。
・・・・・・
4782,大不況には本を読む
2014年04月18日(金)
  * 「本書のまとめ」      「大不況には本を読む」橋本治
 今さらだが、時代を鳥瞰するにクリアーで解りやすい。 ー(P183)
《【十八世紀の後半に起こった産業革命は、それまでの世界のあり方を変えて
しまった。その新しくなった"世界秩序"が日本にやって来て、日本は150年前に
開国した。開国した日本は、その時の世界秩序にのっかって、見事に成功した。
成功して行き過ぎて、第二次世界大戦バブル経済という二度の破綻を経験した。
成績トップになった優等生の日本は、それゆえに"見事な破綻"を経験するが、
その他の国はまだそこまで行っていないので、相変わらず"産業革命以後の体制"
は健在だったが、今度はアメリカが新たな破綻にぶつかった。産業革命以降の
体制は、アクセル全開の自由貿易主義だったが、そのこと自体にブレーキが
かかってしまった以上、改め"ブレーキをかけることの意味"を理解した方がいい。
 そんな世界的なあり方は、″会社の仕事に追い回されて、自分及び自分の家族
やその周辺のあり方を省みない゜という日本人のあり方にシンクロする。自分の
あり方を省みるために、もう一度‘本を読む’というところに立ち戻ったらいい】
 この考え方をエコノミスト的に裁断すると、私は「保護主義のイデオローグ」
ということにもなるが、私はエコノミストではない「人間のあり方に立脚する」
文芸関係者なので、「そりゃお門違いだろう」ということにしかなりません。
 バブル経済へ向かって進行する中で、いくつもの誤解は生まれましたが、
「経済が分からないのはバカだ。物事は経済的見地’にのっとって見なければ
ならない」ということになってしまったのも、その一つです。 経済の方で
保護主義的」と言われるものは、「人間のあり方に立脚する」立場からすれば、
「人が生きて行くために押さえておかなければならない基本」でもあって、
だからこそ私は、経済の方では「保護主義的」と言われるものを「自立」と
関連づけるのです。「金儲け」のことをあまり考えない、その能力があるとも
思えない文学や思想、哲学といったもの ーつまり「文学」「その他」は、
「働いて金を稼ぐ」に代表される現実生活のことを、ともすれば忘却しがちです。
 ・・・ 2008年秋以降の・金融危機・経済危機はそれで、「破綻してよかった」
でもあります。しかし、でありながらも「世界」の方は「豊かさの達成は進行中」
という前提に立って、相変わらずの「富の均質化」を求めます。だから、輸出量
や輸入量の調整は求められるのですが、この「調整」の向う方向は、一つです。
「豊かである国の、既に達成された豊かさを目標にして、世界中を均す」です。
既に経済危機で「豊かな国の豊かさの基準」はぐらついているのですが、世界が
「豊かさの達成はなおも進行中のはず」という前提に立っている以上、目標と
される基準値は「豊かな国の豊かさ」です。そしてこれは、「工業に追い抜かれ、
工業にすがりついて追いつこうとする農業の哀れさ」と同じ質のものなのです。》
▼ 大きな節目時に、読書をして行間を読むしかない、ということ。
 特に、アメリカの露ばらいをさせられた日本こそ、新たな解決をしなければ
ならない。「経済の自立=保護主義的になりざるをえない、という基本を押さえて
おくこと」には、考えさせられる。日本は明らかに衰退の道を歩き始めた。
しかし、現実をみると、誰も直視しない。そのツケは、株価と国債の暴落という
突然の崩壊で生じることになる。日本は近い将来、豊かさとは、かけ離れた国の
悲哀を味わうことになる。150年の間の政治経済のマクロの流れを振り返り、
今後の方向性を見つけることは至難の業だが、それでも見つけ出すしかない。
普通の国」が、キーポイントだが、地政学的に見て、日本は中国とアメリ
の間にある海洋国家。その辺りが鍵になる。今後10年間は、これまでの10年間
より遥かに厳しい事態になる。この20年間の変化が、10年間に圧縮して襲い
かかるとしたら、考えただけでも身震いがするが、興味もそそられる。
気の毒なのは、若い人たちである。
・・・・・・
4415, 余生を過ごす場所は?
2013年04月18日(木)
  * 今の場所で快適に過ごす工夫を!  「知的余生の方法」渡部昇一
 余生を過ごす場所は、生れ故郷か、はたまた別荘地か、海外か、そのまま現在
住んでいる場所か、迷うところ。著者は、現在住んでいる場所こそ「ふるさと」
と思い、別荘地など考えずクーラーでも入れ快適にするなど工夫すべきという。
「住めば都」で、心地よく住んでいるところが、いなかと諭す。ーその辺りよりー
≪ P・94 英語では一般的に「ふるさと」は単にホームという。イギリス民謡の
『埴生の宿』の原題は‘Home,SweetHome’だが、このホームがそうだ。ホームは
単なる「住み家」「生まれた場所」という意味に過ぎない。そこから懐かしさを
伴って、「ふるさと」をあらわすようになり、「家庭」を意味するようになった。
だから、「ふるさと」と「家庭」が相通じ、切り離せない関係にあるといえる。
そこには父や母がいて、昔の日本の田舎でいえば、囲炉裏を囲んで話をする風景。
そのホームも、今では崩れつつあるようだ。 ローマ時代からの諺に
「自分がうまく生活しているところ、そこがホーム、つまり自分の「ふるさと」
「故国」という意味である。これは言い得て妙で、都会暮らしの生活者にとって、
救いになる言葉である。田舎から東京に出てこようが、海外に移住しようが、
そこで成功し、そこで良い暮らしをしていれば、その土地こそ「ふるさと」である。
都会でうまく生活しているなら、都会こそ自分の「ふるさと」と腹をくくるべき。≫
▼ 思い切り移住するのも悪くないが、そのまま居座るのが自然。私のように、
 ブラックスワンの御蔭で、肩身が狭くても、「平気で死ぬのが悟りでなく、
平気で生きてこそ悟り」と、自分に言い聞かせ、割り切れば別に何とことはない。
 ソフト・ランディングだったこともある。しかし、5億、10億の現金があれば、
軽井沢のマンションか、ハワイを考える。としても、現在と大して変わりはない。
いや、違うか! 天使の様に、肩に羽をつけ、浮いたように生きればよいだけ。
 フワフワ生活するのはお手の物。いずれにしても死んでしまうのだから、
今を楽しむしかない。場所は二の次? 改善でよい。
・・・・・・
4041, 世界の旅行記101 ー2
2012年04月18日(水)
  * 旅行記は事件簿でもある
 はじめにー旅行記を読むということーの冒頭が、旅行記の本質をついている
≪ 古今東西、旅をする人たち、旅を愛する人たちは無数に存在した。そして
 無数の旅行記、紀行文が書かれた。どうも旅という非日常の行動は、文章の
起草をはげしくうながすものらしい。いろいろの旅行記がある。任務をもって
旅したものであれば、復命書を。さだめなき漂泊の旅にでたものであれば、遍歴
の跡をしるす随筆を。どれも当の本人にとっては、記録としての重みは、ひとしい
だろう。だが、旅行記を読む側からすれば、自から興趣には軽重の差がある。
「読み甲斐」のある旅行記とはどんなものであろうか。まず考えられるのは、
旅そのものが、冒険や危険にみちている場合。 安穏として、ほとんど日常の
域を出ない旅とはちがい、未知の領域や未踏の領野をゆく旅は、つねに発見と
遊遁にみちている。ドキドキ、ワクワクの連続は、旅する本人とともに読者をも、
不安と興奮にまきこむ。探検記、踏査記が長らく愛読されてきた由縁である。
 旅は始点と終点とがある事件であるとすれば、旅行記は事件簿でもある。
そこにふくまれる小事件のつながりが、どれだけ起伏にみち、意外性にあふれて
いるかによって読者へのアピールはことなる。実際には、みずからその事件に
参画することは困難だが、そのアピールをうけいれ、旅行記とともに旅という
事件を追体験する。おそらくは、なにがしかの潤色がほどこされるではあろうが、
旅は現実に存在した事件であるだけに、迫真の体験が身にしみる。アームチェア
で葉巻をくゆらせながら読むものも、通勤の電車内で文庫本に読みふけるものも、
旅行記から、かの体験をうけとるだろう。ときには、身にうずきを感じ誘われる
かのように、みずから旅への計画にむかうこともあろう。
旅行記の効用は、じつに広く深い。≫
▼ この事件簿は大事件の膨大な資料が詰まった代物。それぞれのダイジェスト
 は50数人が書いたのを編集したもので、紀元前から近代まで至っている。
2〜3ページに纏められているので、軽く読めるし飛ばし読みもできる。
2千数百年にわたる時代の世界各地を、それぞれの目線を通したフィールドワーク
を編集しているから、面白いはず。とはいえ、ダイジェストはダイジェストだから、
これを手引書として各書を読むと良い。旅という非日常から、旅先の日常を垣間
見るのも面白い。 私たちの生きている世界が、いかに極小で、特異ということ
にも気づかされる。 私たちは最高の特異の時代に生きてきた!のである。
・・・・・・・
3675, 節目どきに ー8
2011年04月18日(月)
  * 体重が減り始めてきた!
 毎朝のウォーキング(サイクリング)を20数年間続けてきたためか
体重は標準である。ところが、ここでスポーツジムに通いだしたため? 
半月で学生時代の体重まで落ちてきた。心労もあるかもしれないが、これは
明らかに運動効果である。入会時にジムの人に計ってもらった肉体年齢が私の
肉体年齢より11歳も若かったのに驚いた(54歳)。長年の早朝のウォーキング
の蓄積が肉体年齢を若くしていたようだ。 肉体的には健康的な日々だが、
精神的には、どうだろう。
  * CTスキャンは大量の放射能を?
 CTスキャンの被爆量が胸部レントゲン写真300倍に匹敵し、数十年後に
がん発症リスクは被爆で高くなるという。私など毎年の検診で20年近く
CT検査をしているので、大量の被爆をしていることになる。そろそろ被爆
結果が出てくる頃。知らないことは恐ろしいことである。チャンとした説明を
受けていれば、三年に一度位に減らしていた。 しかし適当な被爆なら、
細胞が活性化して、むしろ健康によいとも言うが。
  * 今でも、私にとって3月11日が止まっている
 TVの画面で、被災地の中年女性の言葉が印象的だった。 
「私にとって3月11日がそのまま止まっている。毎日が、そのまま3月11日の
繰り返しで続いている」と。 そうだろう、被災者にとっては、あまりにも、
その日の出来事は大変事で、その日をもって生活環境が一変してしまった。 
被災者の一人が、「ここにいる殆どの人たちには、生死の境目にいて、九死に
一生を得たドラマがある」と朴訥とした言葉で話していた。現在進行中の原発
事故が、今だに、この災害が終わってないことを告げている。我々が自覚して
いるより、遥かに危険な状態の置かれているが、まだ、序曲。 
そういう私も、震災ショックによる何の被害者である。
・・・・・・・
3310, 笑われ力  −2
2010年04月18日(日)
     「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
 笑われることができたら、会話も人生もラクになる!
 笑われ力: 飾らず、威張らず、強がらず、素の自分をさらけ出せる力。
「笑われ力」では、まずは「恥ずかしいこと」を全面的に認める。そうして
しまえば、まわりもそれ以上バカにできない。恥ずかしいという感情そのものを
曝け出すのである。 私は、平気でサエゼリアに行くし、その話をする。
サエゼリアが値段からみて価値がある思うからである。世界中の郷土料理を
食べてきて味に対する自信があるから、言えること。気楽に入る安いイタメシ屋
を小ばかにする方が野暮というもの。SC内のスーパーより安いのだから。
あれはファーストフードとみた方が分かりやすい。その辺の出来損ない?
のイタメシ屋と比べる方が無知といういうもの。 美味くなくていい、
不味くなければ。日本料理も、居酒屋料理も、フランス料理も、中華料理も
食べつくきたので言えるが。 週末などの外食は2千から5千円の店で充分。
もちろん二人で! 「笑われ力」も、実は、それと似ているのではないか。 
笑いで周囲に安らぎを与えることが出来れば、それが73パーセントの
「おとな力」の要素として、当人にプラスになる。「笑わせ力」を身につける
より「笑われ力」を伸ばす方が簡単。笑われる欠点を自分がよく知っているから。
人間の本能が「笑い」を求めている。もし「笑い」がなければ場は息苦しい空気に
包まれる。「笑い」が醸し出す「心地良さ」が、その場を良くする。
注意しなければならないのが「笑わせ力」である。ひとつ間違うと笑いの強要
になり、シラケを生む。無理をすると、タチの悪い「笑い」になることが多い。
特に第三者の失敗の話題で笑いを誘う「邪悪な笑い」は特に注意。 
著者は、 笑われ力をつけるには、準備が必要という。 まず、
・ダメな自分を集めてみる
 *過去:失敗談 *現在:無知、悩み、コンプレックス、苦手 *未来:妄想
・そのネタを次の公式(ネタ*表現)に当てはめて話をする失敗話、コンプレックス、 
 悩み、 勘違い、 なら幾らでもある。ただ、ヒタスラ隠してきただけ。
  (字数制限のためカット、2012年4月18日)
・・・・・・
2935,わが人生最良の瞬間 ー2
2009年04月18日(土)
 一番、具体的に納得した「人生最良の瞬間」は小野田寛郎
「29年後の終戦記念日」である。 彼にとっての終戦日は、昭和20年8月15日
でなく、その29年後であった。その間に死亡した二人と共に、ジャングルの中で
命令に従い戦い続けたのである。終戦直後から「降伏命令」のビラがまかれて
いたが、彼等は信用しなかった。そして29年後に彼を捜しに来た冒険家の鈴木
と遭遇した時も、フィリッピンの掃討兵と思い殺害しようと接近したが、思い
とどまり話をしているうちに、「命令解除の命令書を持ってくれば投降すると」
と、ボールを投げた。それを持ち帰った元上官がやってきて残留命令と任務解除
と投降命令を受けた。その瞬間「なぁんだ」と思ったという。・・投降という
ことは、それは死を覚悟したもの。・・ところがフィリッピン軍のレーダー基地
に着くと、捧げ銃の敬礼で迎えられた。捕虜にそんな礼を尽すわけがありません。
さらに面会したランクード司令官も、投降の意味で差し出した軍刀の受け取りを
拒否しました。そして翌日、マラカニアン宮殿で会見したマルコス大統領がこう
話したのです。「我われは、それぞれの目的で戦った。しかし戦はもう終わった。
私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為すべてを赦します」 
もう疑う余地はありません。昭和49年3月11日のその瞬間に私の身柄と生命は
保証され、「私の戦争」は終わりました。帰国のためにマニラ空港を出発する
私に、フィリッピン空軍の軍楽隊が日比両国の国歌と「ハッピーバースデー」
を吹奏してくれました。死を覚悟した戦闘の日々から解放されたのだと、
心から生きる喜びを噛みしめました。
▼ この人の人生最良の日は、まさに昭和49年3月11日であった。これほどの
 最良に日は、過酷の日々が兵隊生活の三十数年があればこそである。こういう
体験記を読むと、迂闊に「わが人生最良の瞬間」など言ったり書いたりは出来ない
と思い知る。彼の一言一言が、過酷な経験の裏づけをもって光り輝いてくる。
そういえば、人生最良の瞬間より、人生最悪の瞬間が心に残るのは如何いうこと
なのだろうか?「良いことが多くあったが、嫌なことも多くあったな?!」と、
「嫌なことも多くあったが   (字数の関係でカット2,011年04月18日)
 

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  今年の福島江の花見、雨が続いてためか、中途半端で終えた。
 明日は、悠久山の花見に早朝行くつもりだが、最近、以前ほど心が
動かなくなってしまった。
  
 ところで、巨人が不振続きで、原監督が、インフルエンザを理由に
休みに入ったが、呪縛がとけたように勝ち始めた。選手の気持ちが
原の思惑に行き過ぎて、何か小さくなり過ぎているような。
 まあ、このまま、休むのが一番、よいのだろうが・・・明日のネタか。
一過性の病も、時により薬になるというもの! 本人は辛いだろうが!

・・・・・・
 今日のYoutube
2571, ドル覇権の崩壊 -4
2008年04月18日(金)
                  ー読書日記
 2001年の9月11日のテロは、ことアメリカのドル政策、石油にとって
理想的な事件であった。そのため、当初はアメリカの国家としての陰謀か、
意識的に見逃した事件ではないかと疑われた。アラブ民族、イスラム諸国
にとって有利の事件だったのだろうか?と考えると、疑問は増す。
価値のない紙切れは、ドルだけではない、円もしかりである。私は、
少し落ちついた40歳を過ぎた頃から、意識的にお金を使うことにしていた。
といって、子供二人を大学に入れて毎年、1000万は使うこと!である。
   貯めたところで、それが通帳の数字以外の何ものでもないことを
父親の死に様から、学んだ。この程度は使ったうちではないが、普段の生活は
節約をしていたから、年2~3回の海外旅行など、割り切って使うべきことが
できた。この本、読めば読むほど心が寒々としてくる。
    ~~ 

第三章 かくしてドル覇権は崩壊していく
  P-155
今や処刑されたサダム・フセインは、2000年11月にイラクの石油輸出をユーロ
建てにすることを要求した。彼の公然たるアメリカへの挑戦とその傲慢さは、
ドルへの直接の脅威であった。彼がもっていたイラクの軍事力は既に相当に
疲弊して欠乏しており、アメリカにとってはたいした脅威ではなかった。
当時のポール・オニール財務長官(任期2001~2002)の発言で後にわかった
ことは、「2001年の1月のブッシュ新政権の初回の閣僚会議の主要な議題は、
 どの様にしてサダム.フセインを国際社会から追放するか」であった。
サダムフセインが米国に脅威を与えた直接の証拠は何も無かった。
大量破壊兵器、すなわち・核兵器や毒ガス兵器の開発計画の施設は遂に
発見されなかった。ブッシュ政権での、比較的温厚で、善良な閣僚であった
オニールには、このことが驚きであった。9・11事件後にブッシュ政権は、
中東地域に計画通りアメリカ軍を進駐させる計画を即座に実行開始した。
そのための自己正当化の理論として、「テロリストたちからの攻撃から、
アメリカ本土を防衛するために先制攻撃(プリエンプティブ.アタック)は
どうしても必要なことである」とアメリヵ国民を説得して戦争への支持を
呼びかけた。アメリカ国民はこれを承認して、積極的にブッシュ政権を支持。
政権への支持率は80%を超えた。国民と言うものは、指導者たちが煽動すると、
このように易々と戦争に動員されてゆくものである。人類の歴史は、
このように愛国心民族主義という考え方を鼓舞(インスパイア)する。
いとも容易炊きつけられて、無謀な対外戦争への道を歩まされる。
その数年後には、必ず大きな失望と幻滅が襲い掛かってくるというのに。
戟争と言うものは、古来、だいたい3年から4年で、それを支える
国民の熱狂と支持が消えうせるものなのである。剥き出しの報復感情と、
メディアを使って操られた国民が幻滅し、国民に自覚を促すのには、
それなりの時間がかかるのである。アメリカの軍事行動を故意に正当化
するために、どうやってイラクの独裁者サダム・フセインを、9.11事件と
結びつけるかという、事実の捏造にブッシュ政権が遭進したことは今では
良く知られている。9.11事件とイラク政府との関連性の証拠は全く見つ
からなかったし、更には大量破壊兵器の開発の証拠も全く見つからなかった。
それにもかかわらず、歪曲や猛烈な勢いの偽りの政府答弁と陳述によって、
世論や議会の支持が作り出され、サダム・フセイン政権の体制転覆
(レジーム・チェンジ)が正当化された。 サダム.フセインが「イラク
自国の原油を、ドル建てではなく、ユーロ建てで販売し、ヨーロッパ諸国
との資金を決済する」という決断をして、実際にこれを実行に移した。
このことで、基軸通貨(キー.カレンシー)であり、世界銀行が公認する
準備通貨(リザーブ・マネー)としてのドルの完全性を攻撃した。
サダム・フセインは、オイル・メジャーを支配するロックフェラー家
の逆鱗にふれたのである。だから、彼を国際社会から追放し、更には、
ヒトラー東条英機の閣僚たちと同じように縛り首にして、世界中に
アメリカ帝国への反抗者はこのような目に遭うそ」という見せしめの
像にされた。
~~
続刊が出たので、早速買って帰りの新幹線の中で読み始めたが、
「自分のいったとおりだろう!」という自慢と、同時に更に過激な内容に
なっていた。それは来週に書くつもりだが、5~10年はアメリカ発の
大恐慌に世界は混乱する!    娑婆の混乱もおつなものか?

・・・・・・・・・
2007年04月18日(水)
2206, 反時代的毒虫 -3
       b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
  「反時代的毒虫」
    ー中村うさぎとの対談「覚悟の文学、命がけの浪費」ーより

    浪費癖で借金してでもブランド品を買いまくりを売りにしている
   「ショッピングの女王」こと、あの中村うさぎ、との対談である。
    彼女は自らを
   「自分を売る職業・・・それが風俗や水商売なら、私の仕事だって同じことだ。
    私には、『自分を切り売りしている』という意識が常にある。」
   「そんなふうに自分を切り売りしている人々は、必ずそのことに復讐される。
    魂が壊れていくのだ。」と語っている
 
本を書くため身を削り、シリアスなキャラが売りで、まさに「覚悟の文学」
である。最初の結婚は、大失敗に終わり、2度目の結婚相手の現在の夫はゲイ。
「毎日一緒のベッドで寝ているが、互いの裸を見たことがない」という。
彼女の両親はゲイの夫に大きなショックを受ける。一人のホストにいれあげて、
出版社には前借りの借金を繰り返し、時には税金未納で銀行口座を差し
押さえられながらも、1本100万円のヘネシーをオーダーするまで
「命がけの浪費」をする。(字数の関係でカット2,008年4月18日)
              バイ! UvU/~
・・・・・・・・
2006年04月18日(火)
1841, 理解する技術ー情報の本質がわかる-2
   
     +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨ  ー 読書日記             
□第3章ー文章から情報を読み取る基本テクニック
  (字数の関係でカット2,008年04月18日)
               ー つづく  ヾ(。・ω・)ノバイ!
・・・・・・・
2005年04月18日
(月) 1476, 24歳の日記

ここで22歳・23歳の日記に続いて「24歳に日記」が始まる。数回だが。
あまり書きたくないのが本音であるが、自分を見つめ返すためには、目を
そむけてはいけない足跡である。途中から、日記をカード式に切り替えたが、
そのカード式の日記帳は全て捨てた。今から考えてみたら残しておけばよかった。
残っている日記帳には十数日分は書いてあるが、大まかにしか書いてない。
まず、生活信条が書いてあった。 真面目に書いたものである。
それが若さであろう。 35年経っても、ほとんど変わってない自分がそこにいる。
それでは24歳の日記ー十数日分だが、開始である。直視したくないので、
数回で終えるが。
中原中也の詩の中に、当時の私の気持ちがそのまま書いてあった。
当時、ある姉に勤めたら薄れ汚れてしまった感じといわれたが、
当時の悲しみが直に伝わってくるものだ。 それと中原中也の心も。

それと当時の両親の温もりと愛情もそのまま自分の中に残っている。
人は愛情の中で生かされていることを実感する。全ての人に感謝をしなくては。
特に両親に対して。昨夜、独身時代の自分の夢をみた。
 ーーー
1970年3月
ー私の生活信条

誠実であることー動機においても結果においても常に清潔であること

愛情を基本とすること
  ー常に相手の意思・立場を理解をして、それを持って自己の満足とする

毅然たる態度でー何があっても自分を見失わないで、自分の善に従うこと

善悪を明確にしておくこと
      ー他人(自分以外の人)に対して、自分と等しく愛するように勤める
     善悪の基準は他人に対して、いかに自分と同様に満足せしめるかにおく
     打算においても、同じ扱いをする
     動機において不純はさけることとする 
     (最後に拠るべきは純粋な動機のみである)

人間関係ー常に相手側と同じ立場におく
     ただし、能力レベルが同等に対してであるが

不言実行(無言実行)ー
     有言不実行の矛盾に陥らないこと
     経験を振り返ると無言実行が一番実効があった
     言葉が先に立ったときは、自信のないときと自覚すること

自己投資をすること
      -人生とは、投資である。
      自分に対して、そして創造行為もである
     与えられた時間、物、金、チャンスを投資に向けること

克己ー 自立性と自主性を持って,他人志向的個人主義を目指す
   そのために己に打ち勝つこと

 ーー
 1970年3月21日

現在、自分を見直すために会社を辞めた。
そして、現在は長岡の自宅にいる。
会社には丁度1年在社したことになるが、いざ辞めてみて解ったいたことだが、
動揺があまりにも大きい。 今も夢の中にいるようだ。
辞表を出して、2~3週間大きな揺れがあった。
色いろのことがあったこともあるが、自分も人間だったのだ。
これからは決心をしてしまったからには、1年ジックリ勉強のやりなおしである。

コンピューター関連は、技能職でしかないので私には向いていない。
マーケッテングのほうも面白そうだ。義兄に西村さんに聞いてみようと
思っているが。この一年間どうすれば一番効果のある時間を過ごせるか
考えてみなくてはならない。それより、この一年で一生の自己設計を
つくるのがポイントになるだろう。そのために如何するかを考えるべきである。

日記を考えると、即自と対自の会話である。
また自分自身である時間。 反省と焦りが交差するところである。

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2004年04月18日(日)
1111, 「今時の若いものは!」

エジプトの遺跡にも「今時の若いものは・・・」と書いてあったという。
数年前から、数人の知人が会社の後輩に対して「今時の若いものは!」と、
批判的にいっている言葉が気になった。 年寄り臭い嫌な響きがあった。
若い人にも個々それぞれある。この言葉は自分の価値観が若い人の変化を
受け入れられない心理から出ている。
「それにしても、今の若いものは!」という言葉が出てきそうだが。

一年前、アメリカがイラクへの侵攻から、若ものの間でイラクが究極の
旅行先としてのターゲットになっているという。今回のイラクの人質
騒ぎも、その類の範疇でしかない。
ボラティアの女性だけが救いであったはずが、??を吸いにいく丁度
よい名目?で、NPOを利用してだけ?という疑惑も浮かびでてきた。
18歳の坊やも、共産党一家のパフォーマンスでしかなかったのか。
といって、彼らには彼らの正義があったはずである。

インターネットの検索で調べたら、私が書いた文章より、内容の濃い
ものでてくるから困ったものだ?しかし、このテーマを考えたらこそ、
より深く見えてきたこともあるが。

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演題:「近頃の若者」 養老猛

この講演は平成10年6月に鎌倉芸術館小ホールにて行われました。
その時の講演の録音テープをおこして原稿を作成し、
養老 孟司先生に御了解を得て、このホームページに掲載しています。

「近頃の若者」という題をいただきましたが、私ももう相当な年になった
のでこの題がちょうどいいのではないかと思われたのではないかと思います。
「今時の若い者は…」というのは一番古くは、エジプトのパピルスに書いて
あるといいます。ですから紀元前の頃から年寄りは若者のことを
「近頃の若い者は…」という習慣というか癖があったようです。

自己紹介いたしますと、私は1年だけをのぞき、小学校からずっと学校に
おりまして卒業してからは教師になり、東京大学に57歳までおり、
58歳からは北里大学におります。ですから仕事では若い方とお付き会い
するというのがほとんどでございました。

戦後50年を過ぎましたけれども、この半世紀で世の中が相当変わりました。
その間に若い方もずいぶん変わってきたというのは当然でございます。
私が小学校に入った時というのは戦争中でございまして、1年生の時が
昭和19年でした。ちょうど東京で空襲が始まった頃です。

その頃病院に入院したことがありましたが、ご存知のように病院の食事
というのはひどいものですが、そのひどいのが戦争中でしたから一層
ひどいものでした。その時代、親は食べていくことで精一杯。
子供たちは青天井で、学校が終わると川へ行って魚を捕ったり、空き地で
虫取りをしたりの生活でしたので、学校は大変ありがたいところでした。

私がまず最初に「近頃の若者」と違いを感じたのは、団塊の世代でした。
団塊の世代の人たち(昭和21年~25年生まれの人たち)は何でもみんな
でやるという世代で、戦後の典型的民主主義教育を受けて育った人達。

私たちの世代は(私と同い年の人というと橋本龍太郎美空ひばり
江利チエミ雪村いずみさんなどですが)自分は自分、人は人という
個人主義的世代で、自分自身で決めればよいと考える私と、団塊の世代
人達は合わなかったのです。昭和42年に東大で助手になり昭和52年に
教授になりましたが、その間大学紛争の後始末に明け暮れたという感じ。

次に非常に驚かされたのがオウムの世代であります。
よく宇宙人と言いますが、ある日、解剖の実習をしていましたら、
ある学生が突然「先生、尊師が水の底に1時間いる実験をするので、
一緒に見に行って証人になってください。」と言います。
「何をやっているのか」と聞くと「ヨーガをやっている」と言い、
良いことがあったか聞くと、「食欲や性欲がなくなった。オウムでは
空中浮遊等も日常的だ。」と言う。 まったく愕然としました。
  ・・・・・(中略)
現代においては9割の人が病院で生まれ、病院で死を迎えます。
人間の抱えている自然が隠れてしまい、非常に多くの人が自分が
死ぬとは思っていないのです。日本では勉強することはマニュアルを
頭に入れることだと思っています。知るということが軽く扱われています。
「知る」ということは恐ろしいことなのです。

技法でない知に吸い込まれてしまった一部の人がオウムであります。
近頃の若者は全てのものが頭の中で並列に並んでいます。

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2003年04月18日(金)
744, まずは一日一図から -2 

これを実行して10日が経つ。 三日坊主と思っていたが、
今もしっかりと続いている。始めたら面白いのだ。一番面倒で
避けたい思考が面白いのだから、大変な習慣であり収穫である。
この歳で色いろのことが解り始めている、この鈍さも実感する。

ポイントは
・初めに漫画を中央に小さく書き込み、
・それに、漫画の「声の噴出し」を書いてしまう。
・そして漫画の上にテーマを書きこむ。
・「噴出し」に思いついたことを気楽に書き込んでいく。

 漫画の人形を書いたケースの場合、自分の分身と思ってしまう為か、
頭の中から色いろなことが浮かび上がってくる。
「半分遊び気分で問題の追及」を、結果としてしてしまう。
「左手を上に挙げ、右手を腰に当てている小さな人間の絵を中央に描いて、
左右に三づつ声の噴出しを書き込む」と、どういう訳か難しい問題でも、
気楽に考えられるのだ。

 読書法で10~100倍の速度が可能という本が多く出版されている。
私の場合、その方法を身につけて10倍以上の読書力になった。
それもこの1^2年である。しかし、「一日一図」を始めてわずか10日で、
10倍の思考力が増えた?ようだ。その程度の頭脳でしかないのが、事実だ。 
以前から天才のノート法とかいう本を読んで、色いろ工夫していたが
「毎日一図の習慣と、漫画を中心に描いてから、埋める方法」がよい。

 随想日記を書き始めて、文章力と文章量はそれまでの十倍に増えた。
そうすると、「読書力と文章力と思考力」がこの数年で10倍になった
ことになるが、集中力がそれだけ増えた事は間違いない。これらの方法は
過去からいくらでも在ったのだから、今になってやっと気づいたに過ぎない。
この随想日記を続けてきたことが、こういうノウハウを身につかせて
いるのだろう!

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2002年04月18日(木)
380, 姉正子さん

姉正子が亡くなって2ヶ月すこし経つ。
去年の6月に来て,3時間半なにを話したか?
大体がこんな内容であった。
・自分の生い立ちー声楽のコンクールで、中沢桂に高校時に負けたことが
一生の分岐点であった
・高校しかいけなかったハンデキャップが一生ついてまわったこと
・倒産時に私に助けてもらったのが、地獄に仏であった
・今回自分はセンガンでないが、主治医がセンガンと書いてくれた為、
保険が全額降りた。
・いつもこの家に来ると、肩に重い何かが被さるが今回はないのが不思議だ
・両親の思い出、今までの思い出
・なにがあっても自分は生きぬくーEM 菌を飲んでいるので順調
・病気の状態ー入院の後先の話
彼女にとって、「もしかしたらこれが最後の実家帰り」という気持ちが
あったのだろう。彼女にとってここは(自宅)やはり実家なのだ

 この内容から私なりの彼女の心理分析をすると
・この長岡の街で、この世界を出ることができなかった一生であった。
・やはりやってはいけない事?をしてしまった無念、後悔。
・両親に対する恨みと、反面後悔。
・病気の恐怖に対しての自分の気持ちの説得ー自己詭弁

一昨年の手術の前日の20時過ぎか電話が鳴り、「実は自分は肺がんで明日手術。
最後の電話をやはり貴方に電話をしてしまった。これからお風呂に入って
身体を清め、手術に臨む。もしものことがあるかもしれない。いろいろ有難う。」
ー私「もし間違えてあの世に行ったら、両親によろしく。それとうまくやって。」
ー正子「仲良くするし、待ってるからね」 だいたいこんなものだった。
 
 面白い人でもあった。