先日のTVレポートで、ナウル共和国の現状を報じていた。
街中、大相撲の小錦、曙のような肥満体の人が、何をするでもなく
ブラブラして姿があり、国民の9割が失業者。 欧州諸国に"発見"される
前は主に漁業で自給自足の生活をしていたが、イギリスの植民地時代には
強制労働に徴用され、そして独立後はリン鉱石の輸出により何もしなくても
基本給が勝手に口座に振り込まれるようになった結果は・・ 〜ネットより〜
≪ 2007年に日本テレビ世界の果てまでイッテQ!』の取材班が訪れた際、
 日中の街中を無為にうろつき回る多数の島民の姿が映し出されていた
・面積:21平方キロM 〜バチカンモナコ公国に次いで世界で三番目に狭い
・人口:9322人(2011年)〜バチカン、ツバルに次いで世界で三番目に少ない
・失業率は実に90%。そして、残り10%のうち95%は公務員
 働いていない方が「正常」とみなせるレベルの数字。
 アメリ国務省によると、公務員以外の労働者は僅か300人。
 ほとんどの国民が労働を知らず、勤労意欲もない国民が労働しなくなった
 ため、肥満も加速。肥満比率は8割を超えて世界一
ナウル国は、サンゴ礁の上に何百万年もの間にわたって海鳥のフンが堆積して
できた島。その海鳥のフンは長い年月の間にやがて良質なリン鉱石へと変質。
そのリン鉱石を採掘し、海外へ輸出することによって、ナウルは莫大な富を
得ることになった。そのため、
・税金無し、教育、病院、電気代は無料
・結婚した人には政府から新居が提供され
・飛行機をチャーターして海外にショッピングに行く人も
・自炊なんてしない。缶詰やミネラルウォーターを買う
 もしくは、外国人経営のレストランに行く
・徒歩で出かける人もまばら。移動手段は車かバイク
リン鉱石の採掘作業も他国からの出稼ぎ労働者に。
 働いているのは、国会議員と政府の役人だけ(100名足らず)
・1980年代には国民一人当たりのGNPがアメリカ以上、日本の倍に
・全世代に年金(基礎給与)を支給 ≫
▼ ところが、そのリン鉱石が掘り尽くされ、枯渇した現状は、糖尿に
蝕まれた無気力な肥満体の住民だけ。 欧米文化に翻弄され、最後は、
こうなるという事例で知られるようになった。「リン鉱石立国」として
1968年に独立国家となった繁栄は、無計画な採掘で15年と持たなかった。
採掘できる資源には限度があることは、分かっていたはず。
しかしリン鉱石で稼いだお金の半分は国民に分配、残り半分は政府
により国外への投資に向かったが、これもホボ失敗。
・・・・・・
2014年03月31日(月)
4764,閑話小題 ー3年前の日記より ー2
  * 昨日で、あの日から三年になった
 先日、3・11災害から3年経った、と書いた。そして10年日記帳から、
3月9日〜19日までを書き写した。今度は、会社整理の日々になる。先日に続き、
2011年3月20日〜4月2日の二週間。(一般債権がほぼゼロもあり)自宅も、会社
の事務所にも一度も抗議電話も押しかけが無かった。債権者会議も当然無く、
無事、切り抜けていた。それもあってか、計画倒産の噂が流れたが、そんな
ことは出来よう筈がない。事業計画をたてる段階から、万一のリスク管理
(下の数値ライン設定と、避難のためのシェルターを長年かけ用意)をしていた。
これを計画倒産と言われれば、それまでだが・・ これを書き写していて、
涙が出そうになったが、面白いと懐かしがっている自分もいる。
・3月20日(日):この連休明けから、具体的手順に入る。差し迫ってきた。
    モーニングショーでは、大震災を詳しく報じている。それもあるが、
    私も、ある意味、被災者である。 あとは、流れに任せるしかない!
・3月21日(祭日):TVで週末の東京の歌舞伎町、新橋、銀座、魚河岸など
    中継していたが、震災のためいずこも閑散。昼食は近くの
   ‘サエゼリア’で。満席だが、被災民と思しきグループが目立った。
    これが現実である。
・3月22日(火):新潟の万代のラブラに行くが、人は閑散。 昼飯は
    ケンタッキーの鳥ハンバーガー。コンサルトの林氏にメール。
    今日、決断をしたが、この2〜3ヶ月、特に動揺をしている。
    この災害が、後押しをしたのは確か。
・3月23日(水):大矢、斎藤、弁護士と事務所で、状況について
         最後の話合い。17時〜18時半。
・3月24日(木):16時40分に弁護士と打ち合わせ。厳しいが、しかたがない!
・3月25日(金):弁護事務所で、弁護士と打ち合わせ。最後の決断の確認。
・3月26日(土):NTTで、携帯電話の会社から個人への切替の手続きをする。
・3月27日(日):NTTへ、再度、手続きをしなおしに行く。
・3月28日(月):整理の具体的手順に入る!身体が浮いたようで、
頭はフル回転。違う人格が入り込んでいるようだ。 
・3月29日(火):会社には行かず、個人の整理のための手順の幾つかを踏む。
久々に際どい危機感の中の自分が、いる。
・3月30日(水):13時より、弁護士二人に女子事務員と、現金など経理部門
の引渡しを大矢と私、5人で始める。そして、17時に正式に
弁護士の宣言で、30年以上の会社が消滅をした。 
全員、起立をしてm(_ _)m。
・3月31日(木):9時10分より、弁護士と二人、第四、商工中金、新潟信金
の順にまわる。何処も、豆鉄砲をくらった様子。
        :13時、従業員を集め、解雇の言い渡し。全員が不安そうな
顔をしているのを見て、気持ちが切れ涙を流す。
        17時、車で帰路の途中、Iさんより携帯に電話。迷ったが、
これも記念と、18〜20時半まで長岡駅裏の居酒屋で酒を飲む!
Iさんも、まさかと信じられない顔。
・4月01日(金):13時半、弁護士と会社の事務所で打ち合わせ。
15時、昨日の説明会で出席できなかった5人に説明。
         18時半〜燕のKさんと燕で酒を飲む。3人の就職先の依頼を。 
21時44分で長岡に帰る。
・4月02日(土):県内の親戚に数人に事情の電話。仙台の学生時代の行方
不明だったO君より無事の電話。5分の差で助かったとか。
前に仙台の住所にハガキを出していたのが、遅れて届いていた。
▼ 良質もあるが、悲しいとか、惨めとかいう感傷的気分はゼロに近い。
 目の前の一日をひたすらこなし過ごすしていた。それは今も同じだが。
 それでも「喉ぼと過ぎれば熱さ忘れる」で、何事も2年半〜3年。
 陰湿の嫌がらせはないことはないが、慣れてしまえ、「理解出来る範囲で
 見ている方々の程度の測量」で遊ぶ楽しみになる。これは実体験でないと
 分かるはずがない。その意味でも、自分観察、人間観察でベストの経験。 
 救ったのは長期のリスク管理
・・・・・・
2013年03月31日(日)
4397,「武士道」という諸悪の根源         
  * 「武士道」という諸悪の根源   《「世間」の捨て方 ー3》
「武士道」が諸悪の根源という説は面白い見方。しかし少し考えれば当たり前
のこと。徒党を組んだ侍の親分が武力で農民の米を徴収し、仲間内に配っていた。
その暴力装置を持つ集団が綺麗ごとで尤もらしい規範をつくりあげだけ。
それを子育てを含め根こそぎ否定しているところが新鮮。ーその辺りから抜粋ー
≪ 子育ての見本として、絶対に見習ってならないのが江戸時代の武士道。
「武士という者が日本を悪くした存在です。(略)武士の頭の中にあるものは
主君に使えるということだけ。端的に言えば、奴隷ですよ。(略)・・
この奴隷というものを、武士道だなんて、日本人はやけに持ち上げるんですよね。
・・(略)その点、ヨーロッパは違いますね。武士はすべて傭兵だった。
戦争は国王が傭兵を使ってするわけです。武士は『七人の侍』みたいなもので、
雇われの用心棒だった。「日本は典型的な武士の社会。
鎌倉幕府が成立して以後、ずっと軍事国家だと私は思っています」≫
▼ 現在も武士社会が会社に入れ替わっただけ。そのため現在でも勤め先の藩と
 役職と禄高で、社会的評価がされている。そうこうみると、我われは現在でも
奴隷、それも人生の大半を何も考えずに、その生活に満足して過ごす。その中で、
人は趣味を見出し、奴隷生活の中で自由な時間を持つ。士農工商が江戸時代の
身分制度。そこで他の奴隷管理をしていた武士のつくった武士道など
信じるなどもっての外。  ーウィキペデアで葉隠れをみると
≪「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」葉隠の中で特に有名な一節。 
 葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈
されていて実際、太平洋戦争の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われたが、
山本常朝自身は「私も人である。生きる事が好きである」と後述している様に、
死を美化した書物と一括りに出来ない。現代でいうビジネスマナーのマニュアル
に近い記述がほとんど。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に
近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。戦後、軍国
主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活
に根ざした書物として再評価されている。先述したように処世術のマニュアル本
としての一面もあり『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。≫とある。
 奴隷社会の処世術というところ。どうも日本人は、やたら道を付けたがる。
商人道、柔道、剣道とか。何かを極めるのに、どの位置にいるかを知る道標が
必要だから、道を思い浮かべたのだろうが。日本が、戦後、ここまで経済成長を
遂げたのも、江戸時代の「お家制度」の文化が背景にあったのも事実。
絶対否定は出来ない。元長岡藩の城下町、今でも色濃い武家社会の影響が大きく、
世間とかいう噂の奴隷の群れがいる。
・・・・・・
2012年03月31日(土)
4023, シングルイン、31年間の総括 ー5
  * どこで間違えてしまったのか?
「会社の寿命30年説」を検索したところ、日経ビジネスが1983年に総資産額の
ランキング分析を基に唱えたもの、とあった。私の事業も、この説のとおり
30年で寿命を向かえた。 創業当時、私が30歳代半ば、当時のマネジャーと、
次長は20歳半ばから後半。30年後の現在、3人の平均年齢が60歳近くになって
いた。ホテル4棟の平均年齢も25年になっており、引き時と見ることができる。 
 ここで、三つの震災などの外的要因を別にして、
「この事業、何処で間違えてしまったのか?」という問いを立ててみる。 
◎ 首都圏から新幹線2時間圏内の駅前ホテルの客室需要が数分の一に
  落込む予測が出来なかったのが大きな原因。
◎ 更に企業の営業活動のあり方が、この20年間に根底から変わった。
  20年前のバブル崩壊と、ソ連・東欧の崩壊で東西の垣根が無くなり、
  グローバル化が日本の国力を根こそぎ奪ってしまった。その意味を捉える
  ことが出来ず、思い切った方向転換を出来なかった判断ミスが次の要因。 
◎ それに加えて1995年にマイクロソフトが、ウィンドウ95を発売、
  パソコンが飛躍的に使いかってが良くなり、爆発的に普及した。
  それにネットが結びついたネット社会が現実社会の上位に出来てしまった。
  これで、ビジネスのあり方が根本的に変わってしまい、経済も社会も、
  スピードと変化が激しくなり、それが資産デフレと物価デフレをもたらす。 
◎ 首都圏と地方という経済と社会の関係が、首都圏と東南アジアとへシフトが
  変わっていった。そのため、日本の地方の力を大きく削いでしまった。 
  それにリーマンショックと、東北大震災が重なり致命的大打撃になった。
 ー 以上を、簡約すると、
* 20年前のバブル崩壊の影響が、ここまで日本を弱体化させる
  重大性が理解できなかったこと。
* 資産デフレと、物価のデフレが、これほど長期に続くと読めなかったこと。
* 情報化で、ネット社会が現実社会の上位に出来上がり、経済・社会を
  根こそぎ変えたスピードが、ここまで早いとは。要するに、バブル崩壊
  情報化がもたらす影響の大きさの読みが甘かったこと。
  30年前は新潟駅に新幹線がオープン。新潟駅周辺は活気に溢れていた。
  しかし10年後のバブル崩壊で、20の都市銀行も三行になっていった。 
  時代の激変がもたらす影響を理解できず、バブル後に、さらに客室数を増加。
  これが最大の間違い。間違ってなかったとしても、それも時代の大津波
  襲って破壊しているだろうから、どこで間違えたのだろうか?という問いが
  間違えていることになる。 継続しているじゃないか?というが、
  良くて半分、悪いと五分の一。 これに原油高に、消費税のアップ。
 ・・・・・・・
2011年03月31日(木)
3657, つれづれに
 私にも大きな試練と転機がきた。65歳ということか。 
毎日が、原発事故の悪化を示すニュースである。本格的な恐慌へ一歩
踏み込んだようだ。 今日は、ホテル開業30周年になるが、・・
違う意味でのメルクマールになる!偶然だが、去年の下の文章が身に沁みる。
 ・・・・・・・・・
2010年03月31日(水)
 3292, 人みな骨になるならば ー8
 * くぐり抜けた境地   (p−237)
ーまずは、スカッとする?部分を抜粋するー
            (人によれば、冷水を浴びせらた感じか!)
 これまで縷々と述べてきたことは、要するに世界はわれわれに対して、
期待するほどには親切ではないが、危惧するほど冷酷ではないということだ。 
もちろん、われわれの幸運・不運によっては、期待する以上に慈悲深かったり、
また危惧していた以上に残酷だったりするが、それにも特別な意味などない・・
 究極の課題は、われわれがあらゆる無用な縛りを脱ぎ捨てて、自分だけの
人生を積みあげることである。それはたぶん海岸で砂の城を築くような児戯で
しかないだろう。いずれ波が浚っていき、後には元の砂浜が残るだけだろう。
そのことが何故、かなしむことなのだろうか。われわれは僅かな時間でも立派
砂の城を積み上げたのに。この事実だけは何も否定できない。神であろうと
宇宙であろうと。われわれの人生というものは、ひとつのモニュメント
≪記念碑≫である。それだけで意味や価値の有無など関係ないのである。・・ 
誰も認めたがらないことだが、おそらくわれわれ一人一人の人生は無駄である。
われわれの人生は将来だれにも顧みられることのない記念碑なのだ。
歴史的・空間的に座標を持ちはするが、束の間に開花して終わるモニュメント
でしかない。 早晩、誰も憶えている人が居なくなってしまう無駄な記念碑
こそが、われわれ一人一人の生涯である。無駄ならせめて輝く無駄でありたい。
この場合、「何もかもが無駄なら、輝こうが輝かなくても同じだろう」
という野次には抵抗力をつけておこう。 単に、くすんでいるより、輝いて
いた方が良いだけだという、切り返せなくてはならない。この「無駄である」
という自覚を通してしか、われわれは知的な、あるいは心情的な束縛から抜け
きることが出来ない。「無駄である」という覚悟がないと、現世のさまざまな
意味や価値や人道や正義に惑わされてしまう。臨斉義玄が警戒した「人惑」とは、
これら総称したものである。・・意味や価値の雲海を抜けきった先には、実は
何もないのである。それを解放と感じることができない人々は、元の古巣に
戻るしかない。・・ 「おそらくわれわれの一人一人の人生は無駄である」
「無駄であるという自覚を通してしか、知的な、心情的な束縛からぬけきる
ことができない」「人生が無駄であると悟ることで、意味や価値の雲海を抜け、
その先が実は何もないことを知り、それが解放と感じる境地が全てである」と。 
般若心経の色即是空、そのものではないか。それを虚無主義とかいうベールで
包んで、色=現象の世界の絶対言明としている全てを根こそぎ掘り起こし、
そんなものは何ということはない!と、断じているのである。 虚無も決して
マイナスではないのである。 チロリか
 ・・・・・・・・
2009年03月31日(火)
2917,日本人の8人に1人が鬱病
 現在日本人の8人に1人が鬱病という。女性と男性の割合は、女性2に対し
男性1、の割合で女性の方が倍になる。イタリヤ人は4人に1人の割合というから、
陽気なイタリア人のイメージとは、かけ離れている。私自身は20歳代半ば
まで少しは欝的だったが、本質的には陽気。 欝は青年期は誰でも通る道。
精神的な落ち込みは独りで乗り越えてきたが、落ち込む余裕さえ無かったのが
実情。20年ほど前になるが、取引先の営業の人が重い躁鬱になってしまった。
病院の塀の上から内側に落ちるかどうかの際どい場面が何度かあったが、
何時の間にか、その病気の聞き役になっているうち、コントロール役になって
しまっていた。その人も数年前に亡くなったが、「原因」は、プライバシーに
関わるから書けないが・・。本人の口から欝の状態をこと細かく聞いたが、
壮絶の一言である。 家中の家財をバットで叩き壊すなど・・ 
自分ではコントロール不能とか云々。亡くなる数年前から、自分で危なくなると、
医者に行って入院を10日ほど願い出て、落ちつくと退院をしてきた。
そうなると精神病ではなく、精神症というらしい。病と症の境は、周囲に迷惑を
かけるかどうか。精神も肉体も同じで、病である。医者と相談をして、発症した
ときは薬を飲んだり入院をして俗世界から一歩引けばよい。そのことを本人が
相談にくるといい続けていた。欝になる前には必ず異常な躁状態になる。
そうすると周辺から電話がかかってきて、「欝の発生の予告」が来る。 
そして、何時ものパターンが始るのである。 今回の調査の結果の「8人に1人
鬱病」には驚いたが、周りをみると、そういえば・・。2〜3家族に一人に
なるから深刻。生真面目で、常に誰かに頼っていて、周りに気づかいをしすぎ、
自然の笑いの無い人。私は自分の弱さを知っているので、予防の知識を充分に
積んだが、それでも最近の不況は心を暗くする。 毎朝ウォーキングをし、
仏壇前で5〜6分瞑想的な祈りをし、美味い酒でも飲んで憂さを晴らせば欝に
なりようがないと思いきや、そうでもない。歳をとると何らかのカタチで
欝的状態がついてまわる。そりゃそうだ。一つずつ病が加算され、身体は
老いていき、友達・親兄弟は亡くなっていけば、欝状態になるのが自然である。 
この世界恐慌は「グローバル欝」を誘発する。それを利用して戦争を起こし、
チャラにしたのが、これまでの方法。これからは、無いとは言えないのが世界。 
突き詰めると、やはり戦争??
・・・・・・・・・
2008年03月31日(月)
2553, ヒルティの幸福論    ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]
 アランの幸福論といえば、次にヒルティの幸福論を取上げなければなるまい。
幸福論といえば、この数年来、哲学に熱くなっているので、浅いというイメージ
がわいてしまう。格言や、哲学書の中で、軽く考えるレベルと信じていた。
しかし、突き詰めれば幸福感を求めているのかもしれない。幸せな人より、
不幸せな生き方の人の姿?から、その不幸論がシビアに見えるからである。
まあ、それはそれで・・ いや、無知が全ての原因ということが、あまりに
哀れで! 自分の姿を合せ鏡で見えたのだろう。 所詮、人間は結末は不幸
なのだから。カール・ヒルティ1833年生まれの法律家。アランの「幸福論」は
ストア哲学的であるのに対してヒルティの「幸福論」はキリスト教的で、堅い。
アランの幸福論ともに、幸福を、自分の内部だけで完結するものでなく、
自分を離れた、外的な環境や社会に対しての関心や、献身的行動にこそ幸福が
あるとしている。ヒルティの幸福術のポイントといえば、仕事こそ最高の幸福
と思い、良い習慣を身につけることだ第一 自分の意志で幸せになれる人間を
知ることになる。   ーそれぞれの印象的な部分を抜粋してみた。   
「我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働きびとは
最も幸福である。」「本当に大切なのは、なによりも習慣の問題である。 
 第一の主要な規則は、すなわち、われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと
努力するよりも、むしろ常に良い習慣を養うように心掛けねばならぬ
ということである。」   

つれづれに

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昨日は午後から、今日は朝方のポタリングをしてきた。
これは、始めると、癖になってしまう。冬期間は休むが、
その間に、毒が溜まっているのが分かる。

春は何か、気分が不安定になり、イライラすることが多い。
しかし、春先の桜咲く時は、何か夢があって良いこともある。



・・・・・・
2553, ヒルティの幸福論
2008年03月31日(月)
                     ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]
  アランの幸福論といえば、次にヒルティの幸福論を取り上げなければなるまい。
  幸福論といえば、この数年来、哲学に熱くなっているので、浅いというイメージがわいてしまう。
  格言や、哲学書の中で、軽く考えるレベルと信じていた。
  しかし、突き詰めれば幸福感を求めているのかもしれない。
    幸せな人より、不幸せな生き方の人の姿?から、その不幸論がシビアに見えるからである。
    まあ、それはそれで・・・・ いや、無知が全ての原因ということが、あまりに哀れで!
    自分の姿を合せ鏡で見えたのだろう。 所詮、人間は結末は不幸なのだから。
  カール・ヒルティ1833年生まれの法律家。
   アランの「幸福論」はストア哲学的であるのに対して
   ヒルティの「幸福論」はキリスト教的で、お堅い。
  アランの幸福論ともに、幸福を、自分の内部だけで完結するものでなく、自分を離れた、
  外的な環境や社会に対しての関心や、献身的行動にこそ幸福があるとしている。
    ヒルティの幸福術のポイントといえば、
  ?仕事こそ最高の幸福  ?良い習慣を身につけることだ第一  
  ?自分の意志で幸せになれる ?人間を知ること  になる。
     それぞれの印象的な部分を抜粋してみた。   
ーーー
?=
「我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働きびとは最も幸福である。」
?=
「本当に大切なのは、なによりも習慣の問題である。 
 第一の主要な規則は、すなわち、われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも、
 むしろ常に良い習慣を養うように心掛けねばならぬということである。」
?=
「喜びはある程度まで努力してつくり出すことができる、しかもごく簡単な方法によって。
 まず第一に、自分の持っている良きものに目を向け、その価値を認めて感謝することである。
 感謝は喜びにきわめて近い感情である。 
 次ぎには、他人に喜びを与えることである。これは誰でも、病人でさえも、できることであり、
 ひとに親切にする機会は、つねに、どこにでも十分にある。」
「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
 われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、
ひと言でいえば、われわれの所産の一切である。
 われわれの力の及ばないものは、肉体、財産、名誉、官職など、
われわれの所為でない一切のものである。 われわれの力の及ぶものは、
その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、
 われわれの力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、
他人の力の中にあるものである。」
「それゆえ、きみが本来隷属的なものを自由なものと思い、
他人のものを自分のものと見るならば、きみは障害に会い、悲哀と不安に
おちいり、神を恨み、人をかこつことになるであろうことを忘れるな。
 これに反して、きみが真に自分の所有するものを自分のものと思い、
他人のものを他人のものと認めるならば、だれもきみを強制したり、
妨害したりはしないであろう。 きみはだれをも恨まず、非難せず、
 またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要はないであろう。 
だれもきみを害せず、きみは一人の敵をも持たないだろう。
そして、きみの不利となることは一切、起きないだろう。」
「苦しみは人間を強くするか、それともうち砕くかである。
 その人が自分のうちに持っている素質に応じて、どちらかになる。
 苦しみに出会ったら、まず感謝するがよい。それから、その苦しみが
何のために役立つかをたずね給え。あなたがそれをただ避けようとせず、
その苦しみの意味を理解しようと真剣に願うならば、
 やがて必ずそれを発見するだろう。」
「幸福に生活しようとする人は、何よりもまず自分の「気分」
から完全に解放されることが必要である。」?=
「人間を知り、人間を正しく判断することが われわれの実生活に
とって極めて大切だということを、仮りにも本気で疑ってみた者など、
まだ一人もいないであろう。人間知を得る第一歩は、自分を知ることと、
 自分を善くすることである。
 第二は、人間をば、自分のためでなく、彼らのために知ろうという決心である。
 そして第三に、人間についての完全無欠な知識を期待してはならないことで
「人間を知ることは、人を観察する者がまず確かな自主性を持ち、またなんら
の欲望もいだかぬとき、つまり観察する者の側で一切の利己心をできるだけ
完全に捨て去るときのみに可能である。」
 ~~
 アランに比べると、少しお堅いが、じっくりと人生論として読むとよい。
 少しキリスト教倫理っぽいが。    ゚+.(ノ*・ω・)ノ* ホンジャ
・・・・・・・
2007年03月31日(土)
2188, 宮城まり子 -3
         (~Q~;)  おはよう~~
 今日で日経新聞の「私の履歴書宮城まり子」が終わった。
深い世界を垣間見た思いである。純粋な動機こそ、一番強いのだろうか?
彼女にとって、この生き方しかできなかったのだろう。
障害者の一生を受けとめることは、生易しいものでない。
人生の全てをかけて受けとめているのだから、これこそ人生の格闘。
数日前の、この場面が彼女の性格と強さが出ている。
「私がやらなければならない!」という自負が、
捨て身でコトに当たれるのだろう。

ーー
ねむの木学園が始まったばかりで高校に進学する子はまだいませんでした。
「なぜ」「制度がないんだよ」私は躊躇いもなく東京に帰って、首相官邸
に行きました。1972年の9月16日。どんどん入っていって、
「首相にお会いしたいんです」と言うと、2~3分もしないうちに、
大きなしわがれ声がして田中角栄さんが出てきました。

「今日は、総理大臣にお知らせしたいことがあって参りました。
両親のない子、貧しい子、よくできるのにお金がない子が日本中の
擁護施設にいます。大學にいくらなら自分で働いたらよいでしょう。
けれども働いても定時高校にいけない子もいます。
その子が優秀なら高校にいけるようにしてください。
面倒を見る職員のことも少し考えてください。」
「高校へ?」「はい」。
総理はしばらく黙って私を見ておられましたが
「やあ、ありがとう。勉強になりました。すぐ返事ができなくて
残念だが、待っていて下さい」と言われました。翌年1月17日に
二階堂進官房長官から連絡施設が入り、養護入所児童等で
高校に進学できる能力を認めたものには国からの費用を交付する。
直接処遇職員については基本給に12~16?を加算するという制度に
変わったことを教えていただきました。

吉行淳之介さん、亡くなって13年たちますが、ねむの木学園で
格闘しているうちに、愛する淳之介さんの病気が、慢性の肝硬炎から
肝硬変に進み、その原因がC型肝炎であることをこっそり知らされました。
入退院を繰り返す中の彼の一挙手一投足を素知らぬふりをしながら眺めて
「まり子、淳之介とねむの木学園の子供達とどっちが大切なの」
と思うときがあります。
「淳ちゃんを一番愛している。そしてもう一つの、一番愛して
いるのはねむの木の子ども」私は、愛ってマシュマロみたいに柔らくて、
二つに分けたらふわって大きくなると思っています。
すこし色彩が違うだけ。愛って、二つも三つにも増えても大丈夫、
愛して、愛して、愛しちゃって、もういっぱい愛しちゃったの。
こんな歌を歌ったことがありました。ミュージカル
「イルマ・ラ・ドゥース」の中で。そして私の淳のことを
ドクターの野郎は「ガンが見つかりました」と教えてくれました。

豊かな心の持ち主とは、こういう人をいうのだろう! 
このように人知れず人生を恵まれない人に捧げている人 が
数知れず存在している。豊かさとは何か考えさせられた一月であった。
       ホンジャ~~ヾ(´ω`)バイバイ
・・・・・・・
2006年03月31日(金) 1823, 日暮里界隈 -3
              才八∋ウ_〆(∀`●) 
飲み屋の話になると話は、止まらない! 
日暮里の・谷中銀座の商店街が、何ともレトロの味がある。
数十軒の商店が両側に並ぶが、空き店舗が一軒も見当たらない。
昼間は観光客で溢れかえっているのだろう。
魚屋、衣料品店、肉屋などパパ・ママストアには商品が満ちていた。
夕方の閉店まぎわの店の雰囲気が何ともいえない情緒がある。
こういう風景に惹かれるのは地方の商店街では、
もう失われてしまったからだ。

その通りから一歩はいった処に、情緒ある居酒屋が目に入った。
前までいくと料金が書いてあったが、普通の居酒屋の倍近い。
次男も一緒なので、たまには良いだろうと入った。
25坪ほどの店だが居酒屋にしては高級つくりである。
変わっているのは、店の中央に奥の料理場から人ひとりが商品を出せる
空間のある10席位のカウンターがある。(吉野家のカウンターのような・・)

サラリーマン風の中年男性が4人飲んでいた。
その入れ替わりに60歳代後半の品の良い旦那様風の人が入ってきた。
何かのキッカケで話を始めたが、上野周辺で『三河屋』という老舗の
葬儀関係の商品を扱う旦那という。 ( ・・)つ― やきとりどーぞー♪
「新潟から来て、東京在住の息子と飲んでいる」というと、
自分の生活圏の文化ー趣味(常磐津・・)とか、町内の話などを
面白おかしく話してくれた。下町文化の話は聞いていても飽きない。
二軒目に入った店なので、あまり注文しなかったためか高くは
なかった上に谷中ならではの雰囲気を充分味わえた。  
旦_(。-_-。)いい仕事してますな~

ところでJRの日暮里駅駅周辺の居酒屋は、店構えは良いが
殆んど外れである。下町の為か、朝鮮系の店が多い。宿泊している
ホテルに紹介された駅近くの居酒屋に行ったら、かん酒(前の客が
残してアルコールの抜けた酒)を出されたり、どう計算しても何割か
高く後味の悪い思いをしたこともあった。日暮里界隈というイメージ
とおりの危ないところもある。その危なそうなところが面白いのだが!
               バイ ._〆('Д'*⊂⌒`つ
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2005年03月31日(木) 1458, はだしの学者ー西江雅之

以前、図書館から借りた西江雅之旅行記「花のある遠景」
を読んで、常識をはるかに超えた生き方に驚いてしまった。

世界を乞食のように放浪して、その土地・土地の言語と文化の研究
に従事、50ヵ国の言語を話す。ハダシの学者といわれるように、
目線が現地人になっている。そのためか、どこの地に行っても
誰とでも友人になってしまう。深い教養があってこそである。

「砂漠で出会った人と、二人で手を取って歩きながら、
どちらかが失敗したら死ぬであろうというギリギリの状況で
二月、三月と一緒に過ごしたというような経験がたくさんある。
別れたらもうその人と生涯会えない。住所を聞こうにも、
手紙を書こうにもその人は字が読めないし、書けない。
居所もわからない。 そういう経験を何十回も重ねて・・
そのときの思いは言葉では表現できない。いやしたくない」と、
ときには言葉を重ねないことの大切さを述べている。
無理に言葉に置き換えるという作業が、驚きを別のものに
してしまいがちになる。

「外国の何とか村を紹介した本があって、読むと面白かったり
するでしょう。だけど本当は、その村が面白いんじゃなくて、
書いた人が面白いんです。その人は何とか村を面白がれる力が
あるんです。面白がる力があれば、世界中どこでもおもしろい。
実力のない人は、変わったものでないとよく見えないんです。」

以上の言葉から見ても、その言葉の奥行きの深さを充分に
知ることができる。以前読んだ本の概要を紹介してみよう。
 
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「花のある遠景」
 西江雅之著 (旺文社文庫
 副題は「東アフリカの裏町から」である。

アフリカであっても、普段多くの人間は街に住んでいる。
働いてもいるし、食事もするし、酒も飲むが、しかしほぼ働いていない。

この旅行記で出てくる女たちは娼婦である。彼女らは著者にとっては、
性の相手対象ではなく、キクユ語の先生であり友達である(著者は、
言語学者文化人類学の研究をしている)。
彼女らは娼婦だからといって、娼婦的な陰鬱さが全く無い。
さわやかさまで感ぜられるほど、さばさばいている。

この本の内容は日本では考えられないことがほとんどだ。
彼らにとって、それがなんでもない日常でしかないのだ。
旅行をしているというと、じゃあ俺も一緒にいこうという。
荷物持ちでも何でもいいから雇ってくれ、と。西江は中古車を買って、
運転手を雇って旅行しようと思い立つ。雇った運転手に車を修理してもらい、
出発する段になって雇った運転手の男が、じゃあ荷物をとってくるから待てという。
もってきたのは帽子とズボンだけ。しかもそのズボンを、この部屋で
帰るまで預かってくれという。バッグも金もなんにも無い。
面白そうだからただその話に乗ろうというのだ。そういう動機の方が
自然で面白い。本当に着の身着のまま。他に何が必要か。
恐らく真剣には考えていない。考えたところで仕方が無いのだ。

お前が行こうとしているところに俺の婚約者がいる。
久しぶりに会えるというので大変にはしゃいでいる。ところが着いたとたん、
そこで偶然知り合った女と仲良くなってどこか消えてしまう。
彼女と会うのはまた今度でいいや。出発する時には何にも悪びれる様子もない。
ーー
まあ、こんな感じでアフリカの原住民の生活が、そのまま正直にリアル
に書いてある。そのため読んでいて、引き込まれてしまうのだ。
読んでいると、現地にタイムスリップしたような気分になってしまうから
不思議である。その運転手と、突きつめた自分と何処が違うというのだろう。 
何も違わないのだ。
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ー以前書いた著者の本の感想文である。

2003/11/14 954、「意味」の意味を考える
(以下字数の関係でカット2008年3月31日)
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2003年03月31日(月)
726, 結婚式で思う

私は結婚式と葬式に参列するのが好きだ。 その中に色いろな
人生の圧縮がみえるからだ。一般には「人生で集まって褒めてくれる」
のは、「生まれた時と結婚式と葬式の三回」だけだ。
そのうち結婚式だけが、祝福されるているのが自覚できる。
「人生は結婚式で道半ば」ともいう。それで人生の大半が決定して
しまうからだ。当たりか外れは神のみぞ知るである。

今はジミ婚になってきて「社会の体面や家どうしの対面」というより
「本人同士のお祝い、かつメルクマール」という面が強くなってきている。
以前よりは結婚式に対しては、気楽な式になったようだ。
若い二人が夢を持っての門出を祝うのは気持ちのよいものだ。

 つぎは葬式である。
本来葬式はお祝いであるべきだ。その人が人生を終えて、
無に帰っていくのを送る儀式である。人生の卒業式である。
悲しみであると同時に、その人にとって大きい意味を持つ。

参列して思うのは、その人の生き様がそのまま現れていることだ。
その厳粛な雰囲気がなんともよい。その人の「魂と社会と世間が
そのまま圧縮されている」といってよい。人が一人亡くなるのは、
その人の積み重ねた人生が無に帰ることである。

ごくわずかな身内の人達の心のこもった葬式が好きである。
それぞれの社会的なものもあろうが、今は生き残った人の
体面の場になっている。葬式もそれぞれの残されたものの
価値観があるから、とやかくいう問題ではないが。

最近は葬式に出席すると、いつも遺影を常に自分の顔に
当てはめて考えてしまう。その目で会場の人達を見ると、
何ともいえない気持ちになる。「死んでしまえばお終いよ!」と。

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2002年03月31日(日) 362,ある思い出-慈善

中学の頃の話である。 隣にMという一家がいた。
そこに一歳年上のカッチャンという遊び友達がいた。
その家の裏に倉庫があった。
そこに乞食のような生活をしている親娘が住んでいた。
母親が肺病で、私のある姉にあの家の近くに近寄らないように
言われていた。カチャンの母親が気の毒がって面倒を見ていた。
カッチャンの父親は数年前亡くなり、母親とカッチャンとその姉と
3人の家族。今考えるとカッチャン一家は、その生活を維持するのに
精一杯の筈だ。その苦しい中、その親子を面倒見ていたのだから
大変だったろう。ところが彼女(母親)が癌で、なくなってしまった。
神も仏もあるものかである。残されたカッチャンと姉さんは、
おじさんと同居する事になった。その肺病の母親もまた二年後
亡くなった。そして娘は施設に引き取られていった。

その事を今から20年前に、何かの拍子に思い出した。
そのMという人の心に気がついた。どういう気持ちでその苦しい
生活の中、その人を面倒を見ていたのか。そしてその中で死を
迎えた時の本人の気持ちは、いかなるものだったのか?

人間の一番大事なことは何であるのか? それとは関係なく、
現実は非情に動く。「愛は世界の中心である」という言葉がわかるが、
反面本当かとも疑問が湧く。人生で最後残るのは、そういう愛の行為か。 
少なくともカッチャンと姉さんには、深く残っているのではなかろうか? 
それとその娘の心に!

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<お笑い>
[殿の姉の死]☆☆☆

この小話は7~8年前に仕入れたが、一番気に入っている1つである。
  ーー 
殿様と家老が話をしているところに家老の家来が緊急にと、
青い顔して耳打ちをした。「殿(家老)の姉ぎみが亡くなった」と。
家老はてっきり殿様の姉と、勘違いをしてしまった。それを聞いた
殿は、うろたえ城内は大騒ぎ!しかし、その後家老の姉と判明した。
家老に殿は怒り心頭「無礼千万な!わしの姉を勝手に殺しおって、打ち首!」
と刀を振り上げた! その瞬間ハッとして、刀をしまった。
「わしには姉がいなかった!」