つれづれに

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 今日のYoutube

昨日は午後から、今日は朝方のポタリングをしてきた。
これは、始めると、癖になってしまう。冬期間は休むが、
その間に、毒が溜まっているのが分かる。

春は何か、気分が不安定になり、イライラすることが多い。
しかし、春先の桜咲く時は、何か夢があって良いこともある。



・・・・・・
2553, ヒルティの幸福論
2008年03月31日(月)
                     ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]
  アランの幸福論といえば、次にヒルティの幸福論を取り上げなければなるまい。
  幸福論といえば、この数年来、哲学に熱くなっているので、浅いというイメージがわいてしまう。
  格言や、哲学書の中で、軽く考えるレベルと信じていた。
  しかし、突き詰めれば幸福感を求めているのかもしれない。
    幸せな人より、不幸せな生き方の人の姿?から、その不幸論がシビアに見えるからである。
    まあ、それはそれで・・・・ いや、無知が全ての原因ということが、あまりに哀れで!
    自分の姿を合せ鏡で見えたのだろう。 所詮、人間は結末は不幸なのだから。
  カール・ヒルティ1833年生まれの法律家。
   アランの「幸福論」はストア哲学的であるのに対して
   ヒルティの「幸福論」はキリスト教的で、お堅い。
  アランの幸福論ともに、幸福を、自分の内部だけで完結するものでなく、自分を離れた、
  外的な環境や社会に対しての関心や、献身的行動にこそ幸福があるとしている。
    ヒルティの幸福術のポイントといえば、
  ?仕事こそ最高の幸福  ?良い習慣を身につけることだ第一  
  ?自分の意志で幸せになれる ?人間を知ること  になる。
     それぞれの印象的な部分を抜粋してみた。   
ーーー
?=
「我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働きびとは最も幸福である。」
?=
「本当に大切なのは、なによりも習慣の問題である。 
 第一の主要な規則は、すなわち、われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも、
 むしろ常に良い習慣を養うように心掛けねばならぬということである。」
?=
「喜びはある程度まで努力してつくり出すことができる、しかもごく簡単な方法によって。
 まず第一に、自分の持っている良きものに目を向け、その価値を認めて感謝することである。
 感謝は喜びにきわめて近い感情である。 
 次ぎには、他人に喜びを与えることである。これは誰でも、病人でさえも、できることであり、
 ひとに親切にする機会は、つねに、どこにでも十分にある。」
「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
 われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、
ひと言でいえば、われわれの所産の一切である。
 われわれの力の及ばないものは、肉体、財産、名誉、官職など、
われわれの所為でない一切のものである。 われわれの力の及ぶものは、
その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、
 われわれの力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、
他人の力の中にあるものである。」
「それゆえ、きみが本来隷属的なものを自由なものと思い、
他人のものを自分のものと見るならば、きみは障害に会い、悲哀と不安に
おちいり、神を恨み、人をかこつことになるであろうことを忘れるな。
 これに反して、きみが真に自分の所有するものを自分のものと思い、
他人のものを他人のものと認めるならば、だれもきみを強制したり、
妨害したりはしないであろう。 きみはだれをも恨まず、非難せず、
 またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要はないであろう。 
だれもきみを害せず、きみは一人の敵をも持たないだろう。
そして、きみの不利となることは一切、起きないだろう。」
「苦しみは人間を強くするか、それともうち砕くかである。
 その人が自分のうちに持っている素質に応じて、どちらかになる。
 苦しみに出会ったら、まず感謝するがよい。それから、その苦しみが
何のために役立つかをたずね給え。あなたがそれをただ避けようとせず、
その苦しみの意味を理解しようと真剣に願うならば、
 やがて必ずそれを発見するだろう。」
「幸福に生活しようとする人は、何よりもまず自分の「気分」
から完全に解放されることが必要である。」?=
「人間を知り、人間を正しく判断することが われわれの実生活に
とって極めて大切だということを、仮りにも本気で疑ってみた者など、
まだ一人もいないであろう。人間知を得る第一歩は、自分を知ることと、
 自分を善くすることである。
 第二は、人間をば、自分のためでなく、彼らのために知ろうという決心である。
 そして第三に、人間についての完全無欠な知識を期待してはならないことで
「人間を知ることは、人を観察する者がまず確かな自主性を持ち、またなんら
の欲望もいだかぬとき、つまり観察する者の側で一切の利己心をできるだけ
完全に捨て去るときのみに可能である。」
 ~~
 アランに比べると、少しお堅いが、じっくりと人生論として読むとよい。
 少しキリスト教倫理っぽいが。    ゚+.(ノ*・ω・)ノ* ホンジャ
・・・・・・・
2007年03月31日(土)
2188, 宮城まり子 -3
         (~Q~;)  おはよう~~
 今日で日経新聞の「私の履歴書宮城まり子」が終わった。
深い世界を垣間見た思いである。純粋な動機こそ、一番強いのだろうか?
彼女にとって、この生き方しかできなかったのだろう。
障害者の一生を受けとめることは、生易しいものでない。
人生の全てをかけて受けとめているのだから、これこそ人生の格闘。
数日前の、この場面が彼女の性格と強さが出ている。
「私がやらなければならない!」という自負が、
捨て身でコトに当たれるのだろう。

ーー
ねむの木学園が始まったばかりで高校に進学する子はまだいませんでした。
「なぜ」「制度がないんだよ」私は躊躇いもなく東京に帰って、首相官邸
に行きました。1972年の9月16日。どんどん入っていって、
「首相にお会いしたいんです」と言うと、2~3分もしないうちに、
大きなしわがれ声がして田中角栄さんが出てきました。

「今日は、総理大臣にお知らせしたいことがあって参りました。
両親のない子、貧しい子、よくできるのにお金がない子が日本中の
擁護施設にいます。大學にいくらなら自分で働いたらよいでしょう。
けれども働いても定時高校にいけない子もいます。
その子が優秀なら高校にいけるようにしてください。
面倒を見る職員のことも少し考えてください。」
「高校へ?」「はい」。
総理はしばらく黙って私を見ておられましたが
「やあ、ありがとう。勉強になりました。すぐ返事ができなくて
残念だが、待っていて下さい」と言われました。翌年1月17日に
二階堂進官房長官から連絡施設が入り、養護入所児童等で
高校に進学できる能力を認めたものには国からの費用を交付する。
直接処遇職員については基本給に12~16?を加算するという制度に
変わったことを教えていただきました。

吉行淳之介さん、亡くなって13年たちますが、ねむの木学園で
格闘しているうちに、愛する淳之介さんの病気が、慢性の肝硬炎から
肝硬変に進み、その原因がC型肝炎であることをこっそり知らされました。
入退院を繰り返す中の彼の一挙手一投足を素知らぬふりをしながら眺めて
「まり子、淳之介とねむの木学園の子供達とどっちが大切なの」
と思うときがあります。
「淳ちゃんを一番愛している。そしてもう一つの、一番愛して
いるのはねむの木の子ども」私は、愛ってマシュマロみたいに柔らくて、
二つに分けたらふわって大きくなると思っています。
すこし色彩が違うだけ。愛って、二つも三つにも増えても大丈夫、
愛して、愛して、愛しちゃって、もういっぱい愛しちゃったの。
こんな歌を歌ったことがありました。ミュージカル
「イルマ・ラ・ドゥース」の中で。そして私の淳のことを
ドクターの野郎は「ガンが見つかりました」と教えてくれました。

豊かな心の持ち主とは、こういう人をいうのだろう! 
このように人知れず人生を恵まれない人に捧げている人 が
数知れず存在している。豊かさとは何か考えさせられた一月であった。
       ホンジャ~~ヾ(´ω`)バイバイ
・・・・・・・
2006年03月31日(金) 1823, 日暮里界隈 -3
              才八∋ウ_〆(∀`●) 
飲み屋の話になると話は、止まらない! 
日暮里の・谷中銀座の商店街が、何ともレトロの味がある。
数十軒の商店が両側に並ぶが、空き店舗が一軒も見当たらない。
昼間は観光客で溢れかえっているのだろう。
魚屋、衣料品店、肉屋などパパ・ママストアには商品が満ちていた。
夕方の閉店まぎわの店の雰囲気が何ともいえない情緒がある。
こういう風景に惹かれるのは地方の商店街では、
もう失われてしまったからだ。

その通りから一歩はいった処に、情緒ある居酒屋が目に入った。
前までいくと料金が書いてあったが、普通の居酒屋の倍近い。
次男も一緒なので、たまには良いだろうと入った。
25坪ほどの店だが居酒屋にしては高級つくりである。
変わっているのは、店の中央に奥の料理場から人ひとりが商品を出せる
空間のある10席位のカウンターがある。(吉野家のカウンターのような・・)

サラリーマン風の中年男性が4人飲んでいた。
その入れ替わりに60歳代後半の品の良い旦那様風の人が入ってきた。
何かのキッカケで話を始めたが、上野周辺で『三河屋』という老舗の
葬儀関係の商品を扱う旦那という。 ( ・・)つ― やきとりどーぞー♪
「新潟から来て、東京在住の息子と飲んでいる」というと、
自分の生活圏の文化ー趣味(常磐津・・)とか、町内の話などを
面白おかしく話してくれた。下町文化の話は聞いていても飽きない。
二軒目に入った店なので、あまり注文しなかったためか高くは
なかった上に谷中ならではの雰囲気を充分味わえた。  
旦_(。-_-。)いい仕事してますな~

ところでJRの日暮里駅駅周辺の居酒屋は、店構えは良いが
殆んど外れである。下町の為か、朝鮮系の店が多い。宿泊している
ホテルに紹介された駅近くの居酒屋に行ったら、かん酒(前の客が
残してアルコールの抜けた酒)を出されたり、どう計算しても何割か
高く後味の悪い思いをしたこともあった。日暮里界隈というイメージ
とおりの危ないところもある。その危なそうなところが面白いのだが!
               バイ ._〆('Д'*⊂⌒`つ
・・・・・・・・・・・・・・  
2005年03月31日(木) 1458, はだしの学者ー西江雅之

以前、図書館から借りた西江雅之旅行記「花のある遠景」
を読んで、常識をはるかに超えた生き方に驚いてしまった。

世界を乞食のように放浪して、その土地・土地の言語と文化の研究
に従事、50ヵ国の言語を話す。ハダシの学者といわれるように、
目線が現地人になっている。そのためか、どこの地に行っても
誰とでも友人になってしまう。深い教養があってこそである。

「砂漠で出会った人と、二人で手を取って歩きながら、
どちらかが失敗したら死ぬであろうというギリギリの状況で
二月、三月と一緒に過ごしたというような経験がたくさんある。
別れたらもうその人と生涯会えない。住所を聞こうにも、
手紙を書こうにもその人は字が読めないし、書けない。
居所もわからない。 そういう経験を何十回も重ねて・・
そのときの思いは言葉では表現できない。いやしたくない」と、
ときには言葉を重ねないことの大切さを述べている。
無理に言葉に置き換えるという作業が、驚きを別のものに
してしまいがちになる。

「外国の何とか村を紹介した本があって、読むと面白かったり
するでしょう。だけど本当は、その村が面白いんじゃなくて、
書いた人が面白いんです。その人は何とか村を面白がれる力が
あるんです。面白がる力があれば、世界中どこでもおもしろい。
実力のない人は、変わったものでないとよく見えないんです。」

以上の言葉から見ても、その言葉の奥行きの深さを充分に
知ることができる。以前読んだ本の概要を紹介してみよう。
 
ーーーー
「花のある遠景」
 西江雅之著 (旺文社文庫
 副題は「東アフリカの裏町から」である。

アフリカであっても、普段多くの人間は街に住んでいる。
働いてもいるし、食事もするし、酒も飲むが、しかしほぼ働いていない。

この旅行記で出てくる女たちは娼婦である。彼女らは著者にとっては、
性の相手対象ではなく、キクユ語の先生であり友達である(著者は、
言語学者文化人類学の研究をしている)。
彼女らは娼婦だからといって、娼婦的な陰鬱さが全く無い。
さわやかさまで感ぜられるほど、さばさばいている。

この本の内容は日本では考えられないことがほとんどだ。
彼らにとって、それがなんでもない日常でしかないのだ。
旅行をしているというと、じゃあ俺も一緒にいこうという。
荷物持ちでも何でもいいから雇ってくれ、と。西江は中古車を買って、
運転手を雇って旅行しようと思い立つ。雇った運転手に車を修理してもらい、
出発する段になって雇った運転手の男が、じゃあ荷物をとってくるから待てという。
もってきたのは帽子とズボンだけ。しかもそのズボンを、この部屋で
帰るまで預かってくれという。バッグも金もなんにも無い。
面白そうだからただその話に乗ろうというのだ。そういう動機の方が
自然で面白い。本当に着の身着のまま。他に何が必要か。
恐らく真剣には考えていない。考えたところで仕方が無いのだ。

お前が行こうとしているところに俺の婚約者がいる。
久しぶりに会えるというので大変にはしゃいでいる。ところが着いたとたん、
そこで偶然知り合った女と仲良くなってどこか消えてしまう。
彼女と会うのはまた今度でいいや。出発する時には何にも悪びれる様子もない。
ーー
まあ、こんな感じでアフリカの原住民の生活が、そのまま正直にリアル
に書いてある。そのため読んでいて、引き込まれてしまうのだ。
読んでいると、現地にタイムスリップしたような気分になってしまうから
不思議である。その運転手と、突きつめた自分と何処が違うというのだろう。 
何も違わないのだ。
 ーーーー
ー以前書いた著者の本の感想文である。

2003/11/14 954、「意味」の意味を考える
(以下字数の関係でカット2008年3月31日)
・・・・・・・・
2003年03月31日(月)
726, 結婚式で思う

私は結婚式と葬式に参列するのが好きだ。 その中に色いろな
人生の圧縮がみえるからだ。一般には「人生で集まって褒めてくれる」
のは、「生まれた時と結婚式と葬式の三回」だけだ。
そのうち結婚式だけが、祝福されるているのが自覚できる。
「人生は結婚式で道半ば」ともいう。それで人生の大半が決定して
しまうからだ。当たりか外れは神のみぞ知るである。

今はジミ婚になってきて「社会の体面や家どうしの対面」というより
「本人同士のお祝い、かつメルクマール」という面が強くなってきている。
以前よりは結婚式に対しては、気楽な式になったようだ。
若い二人が夢を持っての門出を祝うのは気持ちのよいものだ。

 つぎは葬式である。
本来葬式はお祝いであるべきだ。その人が人生を終えて、
無に帰っていくのを送る儀式である。人生の卒業式である。
悲しみであると同時に、その人にとって大きい意味を持つ。

参列して思うのは、その人の生き様がそのまま現れていることだ。
その厳粛な雰囲気がなんともよい。その人の「魂と社会と世間が
そのまま圧縮されている」といってよい。人が一人亡くなるのは、
その人の積み重ねた人生が無に帰ることである。

ごくわずかな身内の人達の心のこもった葬式が好きである。
それぞれの社会的なものもあろうが、今は生き残った人の
体面の場になっている。葬式もそれぞれの残されたものの
価値観があるから、とやかくいう問題ではないが。

最近は葬式に出席すると、いつも遺影を常に自分の顔に
当てはめて考えてしまう。その目で会場の人達を見ると、
何ともいえない気持ちになる。「死んでしまえばお終いよ!」と。

・・・・・・・・・・
2002年03月31日(日) 362,ある思い出-慈善

中学の頃の話である。 隣にMという一家がいた。
そこに一歳年上のカッチャンという遊び友達がいた。
その家の裏に倉庫があった。
そこに乞食のような生活をしている親娘が住んでいた。
母親が肺病で、私のある姉にあの家の近くに近寄らないように
言われていた。カチャンの母親が気の毒がって面倒を見ていた。
カッチャンの父親は数年前亡くなり、母親とカッチャンとその姉と
3人の家族。今考えるとカッチャン一家は、その生活を維持するのに
精一杯の筈だ。その苦しい中、その親子を面倒見ていたのだから
大変だったろう。ところが彼女(母親)が癌で、なくなってしまった。
神も仏もあるものかである。残されたカッチャンと姉さんは、
おじさんと同居する事になった。その肺病の母親もまた二年後
亡くなった。そして娘は施設に引き取られていった。

その事を今から20年前に、何かの拍子に思い出した。
そのMという人の心に気がついた。どういう気持ちでその苦しい
生活の中、その人を面倒を見ていたのか。そしてその中で死を
迎えた時の本人の気持ちは、いかなるものだったのか?

人間の一番大事なことは何であるのか? それとは関係なく、
現実は非情に動く。「愛は世界の中心である」という言葉がわかるが、
反面本当かとも疑問が湧く。人生で最後残るのは、そういう愛の行為か。 
少なくともカッチャンと姉さんには、深く残っているのではなかろうか? 
それとその娘の心に!

・・・・・・・・・・
<お笑い>
[殿の姉の死]☆☆☆

この小話は7~8年前に仕入れたが、一番気に入っている1つである。
  ーー 
殿様と家老が話をしているところに家老の家来が緊急にと、
青い顔して耳打ちをした。「殿(家老)の姉ぎみが亡くなった」と。
家老はてっきり殿様の姉と、勘違いをしてしまった。それを聞いた
殿は、うろたえ城内は大騒ぎ!しかし、その後家老の姉と判明した。
家老に殿は怒り心頭「無礼千万な!わしの姉を勝手に殺しおって、打ち首!」
と刀を振り上げた! その瞬間ハッとして、刀をしまった。
「わしには姉がいなかった!」