朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」
   * 二つの大震災は「自然と文明」の大きな物語に開かれる機会だった!
 私の人生のテーマは、「創業と事業を遊ぶ」だったが、それもブラック・スワン(思いもよらない震災クラスの事象)
の何羽かの出現で終りを遂げたが、結果に対して挫折感は殆どない。むしろ、自分の手で息の根を止めることが出来て、
良かったと手前勝手に思っている。で、これも、物語。物語とは手前勝手の筋書きでしかない。無事にリタイアをして、
事業を次に送ったとしたら、閉じられた一つの物語だが、私の結末は、破壊により開かれた物語になる。
 ものは考えようである。 しかし、物語には節操が必要である。 ーその辺りからー
《 ー忘れられる節操ー  将来への不安がのしかかってなかで、私たちは小さく閉じたきな物語の方向に開かれる
 身近な物語に癒やされているわけです。最近は作曲家を話題にするときに、作品と関係のない事柄が全面に出てくる。
女性の研究者の話題でも、メディアは研究の内容関係ないファッションや趣味などを大きく取り上げる。それが節操のない
ことだという了解がなくなっている。 STAP細胞を発見したのが、30歳の女性ではなく、さえない中年の男性ならこれほど
社会的な関心を持たれることはなかった。本筋と関係ない過剰な物語がつくられることで、スタップ細胞について、
よりよく理解できたかというと、そうではない。
 物語は自ら完結する性質があります。つまり物語の外を遮断して閉じているということですが、この閉じた物語を
あえて開いて、外にまなざしを向けるのが人間の進歩というものだったと思います。
 けれども、物語を外に向けて開くことなく、心地よい物語を作っては消費して、飽きたら捨ててまた新しい物語を作る。
その繰り返しでは社会の進歩はありません。阪神と東日本の大震災は、「喪失と癒やし」といった小さな物語として
消費されてしまいがちですが、本来「自然と文明」という大きな物語の方向に開かれるいい機会でした。人間の文明など、
自然の力で一瞬にして押し流されることがある。そう気づいた以上、「私たちとは何者か」と語りなおすことによって、
内向きの物語が外に向かって開かれる可能性があったのですが。結局、「復興」という美名を冠したあまたの物語に
のみ込まれてしまっています。
 私が小説家として目指しているのは「閉じない物語」。いろいろな人間、価値観が混じりあって混然一体となった
空間です。いたるところに破れ目や出口がある。あえて完結はしない、大団円やオチがない物語が理想ですね。》
 ▼ 地元の城下町・長岡に戻ってきたとき、「アッ危ない!」と思った。『閉じられた孤島の世界があって、
  この価値体系に飲み込まれると自分の一生が潰されてしまう。とにもかくにも、距離を置くこと。自分の世界を
 つくり、第三者をいれないこと!』であった。こう割り切ると、これほど面白い世界はない。で、今回も、その
 距離のおかげで、比較的、冷静にいられる。「目くそ、鼻くそを笑う」というが、そんなもの、「ドくそ、目くそ、
 鼻くそ(を)、笑う」でしかない。逆に「ドくそ、目くそ、鼻くそを笑われる」と、割り切ればよい。所詮は、共同幻想
 しかないのだから。挫折を個人にとっての大震災と喩えると、その人を取り囲んでいる地球の、そして身近な
 「自然と文明」に、気づき、開かれる機会になる。この東北大震災も、リーマンショックも、日本人に、いや、
 人類にとって、「文明の行方の方向性を、根本から考え直せ」になる。私も、この結果を含めて人生の意味を考えると、
 森の生活から、サバンナの生活に移行し、早く馴染め! ということか。 
  これからして、{『東京オリンピック』は、明らかに愚行そのもの!} いや、{オリンピックは文明の象徴、
 これで良い!}と意見が分かれるが、私は、せっかくの再生のチャンスを潰す象徴!の方が正しいと思うが・・
・・・・・・
4428, 前期高齢者になって、気づいたこと!
2013年05月01日(水)
  * 老人教育の必要性
 前期高齢者になって丸二年になる。丁度、会社も無くなり、年金暮らしに入り、丸裸の自分に直面、そこで改めて
自分の年齢に驚いている。まず気持ちが年齢についていけない。まだ50歳半ばというところ。
 数年前に親戚の法事に出たが、宴席で80歳位の人の愚痴が始まった。「後期高齢者という命名が人を馬鹿にしたようで
気に入らない」「免許書換えで、返納を考えるように暗にいわれた」とか。そこで、年寄りの愚痴ほど周囲を不愉快にする
ことを教わった。私の両親の愚痴を殆ど聞いたことはない。 肉体の衰えが精神に転化し顕れるのが愚痴。スポーツジムに
毎日通って腰痛は軽くなったが、何かしらイライラする頻度が多くなった。さしあたった心配事がないこともある。
 「前期高齢者」「後期高齢者」という命名は確かに失敗。例えば前期を「グリーン高齢者」、後期を「プラチナ高齢者」
ぐらいにする心遣いも必要である。歳を重ねるたび身体は重く、気持ちは暗くなり、身内や身辺の悪口、あら探しの
度合いが強くなるのが老化のようだ。 他人をみると分かるが、自分になると自覚できない。それもあるから年寄りは
意識して明るくなければならない。それと自立が出来てなかった人ほど老人の甘えが強い。 政府が音頭をとって、
地域自治体に「お年寄りの心得」とかいうセミナーの聴講を義務づければよい。 私など最も手のつけられない偏屈老人に
なりそうだが・・ 日本は世界の名だたる長寿国になったが、それに備える知識教育はされてない。 その以前に、
自立と教養の問題に行き着く。 御隠居学とか、余生の過ごし方のようなノウハウ本には、長年かけた準備が必要とあるが、
今日明日、そう簡単に良い老人への変身など土台無理の話。そこで、せめて「明るく自立した生き方を目指すべき。
老人になると、人生で培ってきた要素の格差が大きく出てくる。老いていく自分を自虐的に鳥瞰するのも面白いもの!
  ー たまたまだが、以下の内容が、丁度つながる。
・・・・・・
4054, 吹き来る風が私に云う
2012年05月01日(火)
  ー 帰郷 ー   中原中也
柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ
路傍の草陰が あどけない愁しみをする

これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声もする

あゝ おまえはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云う
  ーー
 この最後の二行が、現在の自分の心?でもある。 自分だけでない、晩年の人間から湧き出る言葉。
「あゝ、おまえは何をしてきたのだと・・・吹き来る風が云う」 ったく!お前という奴は!と、まともに人生を生きてくれば、
この言葉が出るのが自然。 秘境ツアーで、平々凡々に生きてきた人が病気で突然、死に直面し慌てて人生の余白を埋めに
来た人に出会ったことがある。 死線を彷徨った手術の後、壮大な景色に感動して夫婦して肩を抱き合い泣いている姿も見た。
ネパールで遠景のヒマラヤ連峰が一望できる丘であった。 パタゴニアでは初老の婦人が何気なく、「親のいう通り生きてきたが、
ハッと気づくと、先が無い。 私の人生で何もしてこなかった。このままでは死にきれない。この旅行は、その穴埋めにきた」と、
道すがら語りかけてきた。「・・・吹き来る風が云う」声で追われるように旅立ってきて、そこで何を感じたのだろう。 
 実は、この矛盾こそ実在。 生きてきた証である。 エッ 証文が束になっている? 誰? ただ飄々と風がふく。
 ・・・・・・・・
3688, 自己を見つめる −11
2011年05月01日(日)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  愛の不在の人=肉親の愛情に恵まれなかった人を見抜くことは難しい。 両親の仲が悪い子供には往々に多いが。
 愛の不在の人は普段は分からないが、節目時に、それが表面化する。 人への憎悪と呪いが、そこで爆発する。
 これは誰々という訳でなく、全ての人の心の奥に巣くっている。 節目時は、傷ついている場合が多い。
 そのマイナーのエネルギーをプラスに転換するには、そのまま流される数倍のエネルギーを要する。
 しかし流される人は意志が弱いため、そのエネルギーが空回りをしてしまう。そして自爆になっていく。 
  以下の箇所も、充分、肯ける部分である。
  ー愛の不在ー
【 小さいときから、肉親の愛情に恵まれず、誰からも優しい扱いを少しも受けなかった人があったとすれば、多分その人は、
心の奥底に深い傷を抱いて、その後ずっと人生を恨みとおし、表面は穏やかであっても、おそらく心の底では、一生を通じてずっと、
他者に対して暖かい心をもつことができず、絶対に他人を許そうとはしないであろう。 小さい頃に親の愛情に恵まれなかった人、
また、周囲の人たちから嫌われ、いじめられ、除け者にされたと思っている人、さらに、長じてからも憂き世の労苦と意地悪な
世間にもみくちゃにされて、何の優しい愛の絆をも構築することができなかった人、そうした人は、その原因が何であれ、
その隠された心のなかで、人生を憎悪し、呪うことになるであろう。 そうした人は、自虐や他虐のふるまい方をする以外に、
人生への仕方をすることができなくなるであろう。 そのすさんだ心には、辛い人生に復讐する怨恨構の爆発だけが、
この世の慰めとなるであろう。 これは、ひとごとではない人生の最重要問題である。 こういう否定的な感情は多れ少なかれ、
誰のうちにも巣くっている心の病だからである。なぜなら人間は、どこにおいても、厳しい人間関係のなかに置かれ、
大なり小なり、この世の荒波にもまれ傷つ経験を免れがたいからである。】
 ▼ 無条件に親の愛をうけた人は、それが温もりとして性格を形成する。 逆の人は否定的感情に支配され、深く自分を傷つける。 
  それは誰も持っているが人により強弱がある。 普通の流れでは、それは出てこないが、節目時に暴風となる。それも家族全体が。
 ・・・・・・・
3323, 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由
 2010年05月01日(土)
  『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著 −3
「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。 そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。
自由は第一原因であることから、当然の帰結である。  自分の真にしたいことを人生を通して貫き、
創造性を発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。
 *「なぜ・なぜならば」の極限としての自由  ーP・205 から
≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、
意外に思われるかもしれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの使用法からすれば、
「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。
それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、
そして「第一原因」と、一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるをえなかったのである。
これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。
そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」というライプニッツ以来の問いに対する、
考えられうる「なぜならば」の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、ライプニッツによる
十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが自由はその成長の極致と言ってよい。
われわれ独自の定式で言えば、「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。
この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって答える以外にない。
究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。
カント自身も、「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」(理由=理性)の極限であれば、
理性にとってそれ以上の「なぜ」はあるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権を犯すことになり
言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。 というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、
理性の限界外には「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、しかしその中には何も
実在していないように。 非理性によって満足するものがあるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション)
であろうが、それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。・・・・
 たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。
カントも自由が「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者としての人間は、その自由ゆえ
自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者ではない。≫
〜「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する! この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由?
・・・・・・・・・
2948, 報道されないニュース
2009年05月01日(金)  
 ネットで「商業販売、過去最大24.0%減に」をみて驚いた。 大手の新聞記事を探したが見当たらない。
報道管制をしているのである? メーカーが40〜50パーセント減、流通・サービスが30〜40パーセント減、
と言われているが、あまり表面だった報道はされていない。ところが、共同通信社のHPに、この記事があった。
スーパー、百貨店などが24パーセント減とは、マスコミは間違っても報道はしないが、実際は、そんなところか?
日本は、とんでもない領域にあるということだ。 時間の経過と共にツルベオトシになっている。
これに豚インフルエンザときたら、5〜6月は大荒れになってしまう。即死の企業が多出するのは必然である。
*3月商業販売、過去最大24.0%減=卸の全業種マイナスに  4月28日11時1分配信 時事通信
  経済産業省が28日発表した3月の商業販売統計によると、卸売りと小売りを合計した商業販売額は前年同月比24.0%減の
  45兆0650億円となり、4カ月連続で過去最大の減少幅を記録した。自動車や半導体の輸出が不振で、卸売業販売額が
  29.2%減の33兆3420億円と急減したことが響いた。  卸売りは全業種でマイナス。 
*2月商業販売、過去最大21.5%減=卸、小売りの全業種がマイナス (2009/03/27-10:20)
  ≪字数制限のためカット 2011年5月1日≫
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2584, ただ、生命だけが‘びくびく’と生きている
2008年05月01日(木)
 ー「人生の答え」の出し方ー  柳田邦夫著 ー2
この本の「魂を揺さぶる言葉」という項目の中でー「いのちの初夜」 北條民雄著ーを取り上げていた。
ハンセン病のために隔離され疎外され、23歳で夭折した小説家・北条民雄の代表作「いのちの初夜」で、
古株の患者が新入患者である主人公に語る言葉の一部がある。 まず、その部分を書き写してみる。
 ーー
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち そのものなんです。
僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。 あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。
ただ、生命だけが‘びくびく’と生きているのです。 なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那(せつな)に、
その人の人間は亡びるのです。 死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では
決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。 けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、
全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです。復活そう復活です。 びくびくと生きている生命が
肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。
死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。
ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」・・?   「いのちの初夜」より
 ここからは、ー「人生の答えの出し方ーより??
・・ハンセン病になったとたんに、家族からも地域からも排斥され、社会的存在としての人間は抹消されてしまう。 
しかも、病気の進行によって、肉体は崩れて感覚器官もうしなわれていく。まさしく<生命だけが、びくびくと生きている>
状態になることを、北条は残酷なまでに表現している。<びくびく>という形容詞が情景と本質を正しく表現する決め手に
なっている。・・この作家が川端康成に出した手紙の中に次のような文章がある。
「この作品は書かねばならないものでした。・・僕には、生涯忘れることの出来ない恐ろしい気(ママ)憶です。
・・僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。」
 ーー
解)「人生の答え」など、あるわけがないと、この本を読むまでは考えていた。ところが、此処には、その答えがあったのである。
  この本の構想のメモには、
 <俺は俺の苦痛を信じる。如何なる論理も思想も信じるに足りない。 ただこの苦痛のみが 人間を再建するのだ。>
 とすざましいことをいっている。 人間は、死を直前に突きつけられると「生きる意味」に気づかされるのである。
 死を目の前に突きつけられると、自分が宇宙のチリの中の微粒子の、そのまた無に無限に近い存在に気づかされるのである。
 そして、そこから改めて現世に振り返って、そのことを考えている己を見つめ直すと生死の際でボウフラのように、ふわふわ
 している存在に大きな愛情を感じる。 著者のライ患者・北条は、そこで苦しみ苦痛こそ、崩れ去ろうとする人間性を 
 再建させてくれると悟り、 書くことに全てを捧げる。 それこそが、人生の答えの出し方である。 
 「その苦痛こそ、多くの人間の苦悩を救うことが出来る。それを書くという一点に全てを集中すること」
 それが人生の答であると、柳田邦夫は看破している。
 ・・・・・・・・・
2007年05月01日(火)  
 2219.平凡って幸せなの?         おはよう! (=゜ω゜)ノょぅ!
数日前の出勤前の朝飯の時に、家内が神妙な顔をして「平凡な生活って幸せなの?」と聞いてきた。私が読んでいた
「14歳からの哲学」(池田晶子)を、この数日の間、読んだ影響だろうと思ったが、待ってましたとばかりの
瞬時の私の答えといえば・・・
▼ 「もちろん、平凡ってのは幸せだと思う。何でもそうだが、平凡の生活も、非凡も、現象をどう受けとめるかだ。
脳には長年かけて作りあげた、絶対超越言明という、言葉の受け皿がある。その受け皿が<受け止め方>として、
自分の脳の中で、経験を分類・整理をするようになっている。だからマイナス要素の強い人なら、その受け皿の分類で
何ごともマイナスに選り分けることになるし、プラス要素の人ならプラスに分類・整理をするだろう。
だから、平凡な生活が幸せかどうかは、それぞれの人によって当然違ってくるし、他人がとやかく言う問題ではない。
平凡な生活という言葉だって、その人の受け皿の分類でしかないじゃないか。
その辺の連中は、自分で受け皿がしっかりできてないので、他人のことが気になって、その比較しか判断基準がないので、
平凡な生活が、幸せだとか、非凡の日々が如何だとか言いたがる。 要するに教養がないということ。」
何か、あまりにスラスラ出たので自分でびっくりした。ところで平凡って何だろうか?「平凡って何?」と検索をしたら、
面白い問題設定に、色いろな答えが次々と出てきた。「人間は深いところで生きているのに、驚いてしまった。
<平凡な生活に対する疑問>
毎日を平凡に生きている人間って、どうして生きているんでしょうか? はっきり言って僕は、そういう人間は
死んでしまってもいいと思います。毎日何も変化のない暮らしというのは最も最低な人間の生き方と思うのですが・・ 
みなさんはどう思いますか?        *この答えが、素晴らしい  これは次回のお楽しみ!
ーーー
2006年05月01日(月)
 1854, モーニング・ページ、7週間経過
毎朝、ペンが動くままノート・3頁に書き込む「モーニング・ページ」を始めて7週間経過した。
「8週間は読み返さないこと」と、あったので、ほぼ見てないが、あと7日で8週間になる。
MPの一週間の総括を始めるとまた変わってくるだろう。(週末に一週間単位に20分かけて一ページの総括をする)
7週間のMPの感想といえば、毎日が驚きに連続である。日記はその日の出来事を書くが、M・Pはただ頭に浮かんだことを
書き込むのだから、違ったものである。慣れてくると、何が出てくるか面白くなると同時に、気の重さは全く無くなる。
≪字数制限のためカット 2010年5月1日≫
・・・・・・・・・
2005年05月01日(日)
 1489, 男と女ー2
あるHPの「男と女」の格言が含蓄の深いものが多い。私の「my感想」を加えるてあるが、品位を疑われる内容もある。 
初めて読むときは、私の感想を見ない方がよい。それにしても、よく集めたものだ。そして男と女の本質をズバリついている。
   ≪字数制限のためカット 2010年5月1日≫
・・・・・・・・・
2004年05月01日(土)
1124, いま不幸と思っている人へ
 不幸論を書いたことがあるが、一般に自分のことを不幸と思っている人が多い。幸・不幸は、気分と解釈の問題でしかないと
割り切って考えないようにしてきた。躁の時は幸せ気分、鬱の時は不幸せ気分でしかないと。
 (字数の関係でカット09年5月1日)
・・・・・・・・・・
2003年05月01日(木)
757, ミスマッチ
(字数の関係でカット2,008年5月01日)
・・・・・・・・・
2002年05月01日(水)
 393, 倒産の後先
子供時の両親の話題はいつも「倒産、夜逃げ、自殺の話」であった。
子供なりに刺激の強い話しであった為、記憶に鮮明に残っている。
(字数の関係でカット2,012年5月01日)

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 この数年来の、ポタリングの途中に、水道塔があるが、
毎年、この時節に、鯉のぼりが掲げられる。これが昨日から掲げられた!
 
 信濃川の日赤前の土手の八重桜も、後半に入った。
この長閑な土手も、来なれると、魂が休まる時間になる。

 最後の写真も、何か別世界の霊的な写真。最近、こういう写真に出くわす機会が
多いのは、デジタルカメラの進化と、その公開だろう。

・・・・・・
1854, モーニング・ページ、7週間経過
2006年05月01日(月)
             ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★
毎朝、ペンが動くままノート・3頁に書き込む「モーニング・ページ」を始めて7週間経過した。
「8週間は読み返さないこと」と、あったので、ほぼ見てないが、あと7日で8週間になる。
MPの一週間の総括を始めるとまた変わってくるだろう。
(週末に一週間単位に20分かけて一ページの総括をする)

7週間のMPの感想といえば、毎日が驚きに連続である。
日記はその日の出来事を書くが、M・Pはただ頭に浮かんだことを書き込むのだから違ったものである。
    慣れてくると、何が出てくるか面白くなると同時に、気の重さは全く無くなる。
7週間も経過しても、書き出しから何を書いてよいか戸惑う。そのため前日の出来事を思い出して
書き込むか、朝方に考えたことや、前夜に見たドラマとか、夢とか・・・になる。それが良いのだ。
日記は、その程度の内容は自分の中の検閲官が、まずは書き込みを拒否する。
しかし、その検察官が拒否した内容こそが宝の山である。
MPは真っ白な頭で、真っ白なノートに書き込むのだから、自身の検閲官のチェックは最小になる。
 せっかく面白い発想が出ても、良い話を聞いても、大部分が忘却の彼方に消えてしまう。
一日経っても残っているだけでも、その中に重要なことが含まれているはず。
 MPを続けていると普段自分の考えていることが、ノートにそのまま現れてくる。
朝起きざま、そのまま頭に浮かんだことを書き込むのだから当然。 
普段自分が考えていることを誰がチェックしてくれるのか? 自分しかない!
それをMPがしてくれることになる。
 最近になって、「若いときに、このことに気づいていれば!」という知識がいやに多く入ってくる。  
浅い教養の自分に人生の後半になって、誰もが?気づくのだろうが!
                   ヾ(^ω^*) バイバイ!
・・・・・・・
2005年05月01日(日)
1489, 男と女ー2
あるHPの「男と女」の格言が含蓄の深いものが多い。
私の「my感想」を加えるてあるが、品位を疑われる内容もある。
初めて読むときは、私の感想を見ない方がよい。
それにしても、よく集めたものだ。そして男と女の本質をズバリついている。
読んでいると、耳年増になってしまう。
「人間に男と女があるのではなく、女と男を合わせて人間という」というジョーク?がある。
この格言をじっくり読むと、それもそうだと思ってしまう。それだけ、身体と心の構造が違う。
だから面白いのだ。何回か読まないと、奥行きの深さが解らないものもある。
  ーーー
まずは
ー男とはーの格言から
・どんな男の人と一緒になってみても同じ事だろうと私が言うと、
「そんな筈ないわ、石鹸だって、十銭と五十銭のじゃずいぶん品が違ってよ」
                    ー林芙美子「放浪記」
       ーmy感想ー女にだって言えること、長くつかわないと
        解らないのところが石鹸と違うが
・身も心も愛して欲しいのに、なぜ男は冷たいふりをするのよ。
                  ー川端康成(「雪国」のキャッチコピー)
       ーmy感想ー男はシャイなのです
・こんなことをしたら嫌われるのではないかと、何もしない男が一番嫌われる。
                    -中谷彰宏
       ーmy感想ーそれで何時も嫌われていました。それだけでもないか?
・人生が歌のように流れている時に楽しい気分になるのは容易だ。
 だが、立派な男とは何もかもうまくいかない時でも笑える男だ。ーE.ウィルコック
       -my感想ー私の場合は何時も引きつった笑いになってしまう!
・男ってなぁ、普段なんか茶色だろうが灰色だろうが構やしないんだ。
  いざって時に黄金色に輝やきゃあな。         -本宮ひろ志(漫画家)
       -my感想ー金メッキが多いからね、娑婆には。
             メッキの内側の色の方が良いのにね
             いざって時に、その茶色とか灰色が輝きゃよい
・男というものは、女房が小難しいことを喋っているときより、
 自分の食卓にうまい料理があるときのほうがもっと嬉しいものである。
                    ーサミュエル・ジョンソン
       -my感想ーうちの食卓には、あり得ないもんね?
             旨い料理は。料理上手は、床?手というか    
・男は自分の知っているたった一人の女、つまり自分の妻を通して、
 女の世界全体をいい加減に判断している。  -パール・バック『男とは、女とは』
       ーmy感想ー ・・・・・・・・?
・男というものは……家ではまったく邪魔になります!  -ギャスケル夫人
       -my感想ー連休など、身の置き所が無い悲しみが・・・
・女に懲りるのは一度でたくさん。だれもがそう思いながら二度三度と繰り返す。
                    ー田中澄江
       ーmy感想ープロセスが良いからです
・私は女性が愚か者であるということを否定はいたしませんが、
 全能の神は男性につりあうように女性を作られたのです。ージョージ・エリオット
・床の上で自分の子供の電気機関車をいじくって三十分を空費することのできる男は、
 どんな男でも実際は悪い人間ではない。     -シメオン・ストランスキー
       ーmy感想ー取り上げて、一日中イジクッテイル奴は馬鹿!?
・男というものはつねに女の友であることは決してありません。
 他に愛する女を持っているときは別ですが。   -リュー

・自己侮蔑という男子の病気には、賢い女に愛されるのがもっとも確実な療法である。
                    ーニーチェ
       -my感想ーしかし軽蔑もされよう     
・男は建設すべきものも、破壊すべきものもなくなると、非常に不幸を感じるものである。
                    -アラン
       ーmy感想ーいまは幸福です?
・どんな男でも、ある女性を自分のものにしようとするときは、その人が自分の愛に
最もふさわしい女性であり、自分がこんなに夢中になるのも、もっともなことだ、と
思いこんでいるのである。そして、それが迷いであったと気づくのは、あとになって
別の女を愛するようになったときである。  ーアルツィバシェフ
        -my感想ーうんだ、うんだ!
・女は男に欠点があるからこそ愛するのだ。
男に欠点が多ければ女は何もかも許してくれる。我々の知性さえもだ。
                    ーワイルド
       ーmy感想ー知性があればの話だろう     
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 偶然の一致だが、たまたま去年の同月同日も同じHPからの抜粋であった。
 面白いものである。
                     ー つづく
・・・・・・
2004年05月01日(土)
1124, いま不幸と思っている人へ

不幸論を書いたことがあるが、一般に自分のことを不幸と思っている人が多い。
幸・不幸は、気分と解釈の問題でしかないと割り切って考えないようにしてきた。
躁の時は幸せ気分、鬱の時は不幸せ気分でしかないと。
何げなく検索をしていたら、面白いHPに「不幸について」多くの格言がまとめてあった。
これを見ているだけでも、こころやすまるから不思議である。
結局他人と比べてしまうのが人を不幸にしているのだ。
「人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである」
といったドストエフスキーの言葉が真髄をついている。
仏様は人間は生きている限り、苦しむものだと看破をして
それを「四苦八苦」に分類。それを乗り越えるために「八正道」を説いた。
先人の不幸に対する解釈も深い。

ー面白いところだけを抜粋してコピーした
・もしある人が自分の不幸な出来事について話したら、
そこにはなにか楽しんでいるものがあると思って差し支えない。
なぜならば、本当にみじめさだけしかないとしたら、その人はそんなことを
口にしないだろうから。      ーサミュエル・ジョンソン

・不幸なる人々は、さらに不幸な人々によって慰められる。 ーイソップ
・他人の悲劇は、常にうんざりするほど月並みである。   ーオスカー・ワイルド
・人間には幸福よりも不幸のほうが二倍も多い。      ーホロメス
・大多数の人間は、静かな絶望の生活を送っている。ーヘンリー・デイヴィッド・ソーロー
・すべての不幸は未来への踏み台にすぎない。   ーソロー
・不幸に対する特効薬はありません。ただ昔から
退屈な忍耐とか、あきらめといった美徳があるのみです。ーアルドゥス・ハックリー
・結局のところ、最悪の不幸は決して起こらない。
たいていの場合、不幸を予期するから悲惨な目に会うのだ。 ーバルザック
・不幸な人間は、いつも自分が不幸であるということを自慢しているものです。
      ーラッセ
・それ自体の不幸なんてない。自ら不幸を思うから不幸になるのだ。
      ーアルツィバーシェフ
・不運な時に幸福な時代を思い出すことほど辛いものはない。
      ーダンテ
・人生の小さな不幸せは、我々が大きな不幸を乗り越えていくのを助けてくれる。
      ーエッシェンバッハ
・人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。
      ードストエフスキー
・どんな不幸のなかにも幸福がひそんでいる。どこに良いことがあり、
 どこに悪いことがあるのか、我々が知らないだけである。 ーゲオルギウ
・明日、なにをすべきか分からない人は不幸である。    ーゴーリキ
・「今が最悪の状態」と言える間は、まだ最悪の状態ではない。ーシェークスピア
・時間がやわらげてくれるような悲しみは一つもない。   ーキケロ
・いつまでも続く不幸というものはない、じっと我慢するか勇気をだして
 追い払うかのいずれかである。      ーロマン・ローラン
・人間は、自分が考えるほど不幸でもないし、それほど幸福でもない。
      ーラ・ロシュフーコー
・人間には不幸か、貧乏か、勇気が必要だ。でないと人間はすぐに思いあがる。
      ーツルゲーネフ
・人生は学校である。そこでは幸福よりも不幸のほうがよい教師である。
      ーフリーチェ
・絶望は死にいたる病。      ーキルケゴール
・不幸はナイフのようなものだ。ナイフの刃をつかむと手を切るが、
 とってをつかめば役に立つ。   ーメルヴィル
・不幸はこれを語ることによって軽くすることができる。ーコルニィエ
・人は自分が幸福であるだけでは満足しない。他人が不幸でなければ
 気がすまないのだ。      ールナール
・禍福は糾える縄の如し。    ー老子
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ー以前書いた不幸論をコピーする。

2003/01/06
不幸論ー中島義道
 図書館で借りてきたユング派の哲学者の中島義道の不幸論が面白い内容であった。
幸福論の自己欺瞞を鋭く指摘したあとに、人間の最終結末の死をとらえて
不幸論を書いている。しかしあくまでも幸福論の批判であって、
不幸論そのものを見すえて論じてはなかった。
しかし不幸を座視にして幸福論を批判するのは、逆に幸福論をより鮮明に
浮かび上がらせて理解するのに良い。幸福の構造は
1、自分の特定の欲望がかなえられていること
2、その欲望が自分の一般的信念にかなっていること
3、その欲望が世間から承認されていること
4、その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れてないこと
特に1~3までの実現に4が生じてしまう。
幸福論というと、エピクロスの快楽主義が思い浮ぶ。
「人生において、面白おかしくしたい事をする事が全てに優先されるべき」
バランスが問題になるだろうが。
最近の幸福論としてヒルティやアランである。
ヒルティの幸福論はキリスト教の理想的なカタチ
・アランは内省ー解釈の仕方ー気持ちの持ちよう
集約するとこんなものだろう。
私の幸福論はやりたい事を見つけどれだけやったかという
達成主義である。それもあくまで自己欺瞞でしかないのだろう。
愛・知・力という3点に自分の目標値は決め、達成のプロセスが=幸福という単純なものだ。
しかし死を宣告された時にその達成感など何の支えになるかと考えると、
その前に粟粒でしかない。
この不幸論の一番気にいったところを抜粋した
ーだいたい、幸福論を書こうという人の動機が気に入らない。
彼(女)は、
・まずだれでも幸福になるという基本態度を押し出す。
・次に、この磁石の上に、自分の体験を重ね合わせて、幸福とは大それたものでないことを、
それは考え方を変えることで誰の足元にもころがっているという、
壮大な建造物ー砂上の楼閣を創りあげる。
これは幸福教の布教にすぎないまやかしである。
幸福そのものが虚妄なのではない。
幸福そのものが、じつはあまりにも高いところに位置する。
幸福が安直に手に入ると思う事が、虚妄なのである。

各人の幸福は自分の五感で探すしかない。
そしてヤコブが砂漠で神と格闘したように、全身全霊でみずからの人生と格闘した後に、
とうてい到達できない事を知って、絶望するほかない。こういうことを悟った者は幸福でない。
しかし、幸福という幻覚に陥っている者より数段マシである。
以上がだいたい彼がこの本で貫いている主張の要旨だ。私の今の気持ちー敢えて気持ちと書く
ーは以下である。両親や身近な人の死に様や生涯をみて、一生かかって何かをやり終えた
人生そのものの判断を幸・不幸という言葉で論じるべきでない。
それは酔ってる気分の状態を論じているにすぎない。
「酔って気持ちが良いか、悪いかの」
まあ幸不幸は考えないのが一番良い??

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2003年05月01日(木)
757, ミスマッチ
 長岡のダイエーの出入口の横に一月少し前に、讃岐うどんの専門店が開店した。
開店予告の張り紙を見て、てっきり今流行のセルフの100円の讃岐うどん店が
できるものと思っていた。実際は380円、480円のプライスラインの讃岐うどん屋。
これは絶対にミスマッチの店と思っていたら、やはり見事の位にお客が入っていない。
通勤で行き帰りのちょうど食事時間に前を通るのだ。
 この隣はドトールコーヒーが出ており、反対側にはマクドナルドのハンバーガー店と、
その隣はコンビニエンスがある。この三軒は勝ち組である。
うどん店の以前のテナントはケンタッキーフライドチキンであった。
そしてドトールコーヒーの右隣はダイエー系のハンバーガーチェーンがあったが、
2軒ともマクドナルドに負けて撤退してしまった。
 恐らく100円のうどんショップだったら、ミスマッチではなかったろう?
間違いなく数年のうちに撤退するだろうというのは、私だけでなく
消費者なら解っていることだ。新潟駅に同じ店があるがそこは結構繁盛している。
数千万の損失は誰の目にも明らかだ。事前の調査の甘さが、数千万の損失を出してしまう。
事業の恐ろしさの典型だろう。
 店が開店をすると無意識のうちに、その店がどうなのかみてしまう癖がついてしまう。
結構間違った判断をしてしまうが、大筋は間違わない。
少しの判断ミスで微妙にその店の成否が決まってくるから面白い。
博打を横で見ているのと何か似ているようだ!