つれづれに

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 今朝は、3時起き。 随想日記を書きあげた後、
曇天の中、ポタリングに出発。何と降られないで済んだ。

 空は晴れてきたが、どうなることやら。








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4095, 古代ローマ皇帝の最期は?
2012年06月11日(月)
 先月、ローマ人が現代日本にタイムスリップし2000年の時空を行ったり来たりする「テルマエ・ロマエ
という映画をみてきた。当時のローマ皇帝は体制を維持するため、何処の街にも劇場とローマ風呂をつくり
住民を懐柔する政策をとっていた。そこで歴代のローマ皇帝の最期が如何なるものかを調べてみたところ、
その最期は壮絶なものが多い。 ーネット調べてみると
≪ 初代オクタヴィアヌス・アウグスツ帝(BC27)から、最後のアウグスツス(AC476年)まで、
 503年間に、皇帝は81を数えた(名前だけの神聖ローマ帝国は、1806年までも続いていたが、ここ
では省く)81人という数も見方によって違いが出る。時どき数人併立したりしたからである。とりあえず
81人として、 平均在位年数は六年四ヵ月、あまり長くはない。奇妙な偶然だが、古代ローマの継承者を
次々と自ら任じた歴代ローマ教皇の平均在位年数が、やはり六年四カ月になる。その諸帝の最期は、暗殺、
毒殺、強制された自殺、反対派に捕まって処刑などが34、戦死9、事故死1、計44人が非業の死。死因すら
もはっきりしないのが17帝で、ローマ式ベッドの上で死ねたのはわずかに20帝、四人に一人でしかない。
平均の六年四カ月以上在位できた皇帝は22人、これも四人に一人にすぎないが、その中に、強制自殺させられ
たネロや、親衛隊に殺されたコモドゥスなど非業死を合んでいる。残る12帝も暗殺未遂などあったはず。≫
 とあった。
▼ これだけ絶大で安定していた古代ローマ帝国のトップの地位は、逆に非常に不安定であった。そこから
 人間的な権力闘争が垣間見るることが出来る。人間の権力欲と闘争本能は決して変わることがない人間の業。 
未来永劫、この業による争いは変わらず続くのだろう。人類は歴史から何も学ばないのである。日本の首相は
仕組みからみて一年間袋叩きでズタズタにする。実はズタズタは国そのものであるのに、鬱憤をトップ攻撃に
向ける。目先の安易を求め、国が破綻しようが構わないギリシャと同じ。
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3729, 全米N0・1弁護士の勝ち抜きセオリー  ~⑥
2011年06月11日(土)
                『議論に絶対に負けない法』ー ゲーリー・スペンス著
【  * 常に主導権を確保せよ -そのためにー
 「スペンスさん、あなたは私たち陪審員を信用していなかったんですか」「もちろん、信用していました。
どうしてですか」。私はあわてて答えた。「あたは大変苦労して、私たちが人格の優劣によって、この評決を
下すのではないかと、心配している」とばかり話していたからです。私たちは事実に基づいて評決を下した。
どちらが魅力ある弁護士か、で決めたのではありません」 突然、私は「自分」に魅力がないことを証明して
しまったのだと気づいた。手遅れだった。私は自分の言い分の正当性を陪審員に主張するよりも、相手の弁護士
を非難することに時間を使ってしまったのだ。 私が相手にあまりに多くの力を与えたために、彼の主張は私
自身の主張よりも正しいことになってしまったのだ。私は自分の敵が誰なのか、まったくわかっていなかった。
 私は自分が作り出した絶対に勝ち目のない巨人に立ち向かっていたのだ。私は自滅したのである。私は
この巨人に、私を打ち負かすのに十分な力をそっくり与えてしまったのだ。 あのころは、今私がここで教え
たいと思っていることをまだ学んでいなかった。それは学ぶのも覚えるのも大変な勉強だ。私たちはしばしば、
自分が得意としていない分野を得意とする相手に出会う。ほとんどの相手は自分より聡明で、博識で、頭の
回転が速く、外見もいい。相手のカを心配することに時間とエネルギー、全ての力を浪費し、相手に自分の力
を与えてしまう。 どんな議論をどんなにうまくやってのけても、相手を変えることはできない。自分の力で
変えることができるのは、自分自身だけだ。それ以来、相手に自分の力をこれっぽっちも渡すまいと私は
思っている。私は自分の力を自分の手元にしっかりと置いておく。そして自分の主張の準備をするため、
自分の主張に気を配るため、そして自分の依頼人の心配をするために使う。 私は自分に話しかけてくる、
かすかな声に耳を傾けることを覚えた。「大丈夫。君なら十分できる。もし自分自身を見つけ、ありのままの
自分でいることに力を使えば、もしできるだけ誠実に自分自身を表現すれば、もし子供らしさの最後のかけら
が残っているところ、つまり何の邪心もない心の奥底から話をすれば、そこからすべての本当の力が生まれて
くる。それで十分だ」。 】
▼ 相手に気を奪われ、自分の内なる知恵に耳を傾けなかった大失敗を通して、主導権を取るとは如何いう
 ことか学んだのである。相手に気を取られ、それが自滅を誘ったのである。それより準備をし、自分の内
なる声に従って対峙して主導権を取る方が近道。その辺のことが分からないから自滅をすることになる。
ようするに自分のペースで議論を運ぶこと。そのためにシナリオつくりの準備を充分にすることである。
これは議論だけでない、人生も同じ。人生のシナリオと、その準備を数十年かけ作ること。
シナリオが狂った?
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3364, 人みな骨になるならば ー14
 2010年06月11日(金)
 * どうということはない地位と財産  P-126
≪ 財産や地位などというものは、「あるに越したことはない」のである。ただし、「あるからといって、
あるいは、ないからといってどうということはない」という点を忘れるのは問題である。現実に財産や社会的
地位のあるものの殆んどは、「あるからといってどうということはない」点に気づきにくい。また恵まれ
ない者ほど、「あるからといってどうということがない」と信じたがりすぎる。もし「あるからといって
どうということはない」のなら「ないからといってもどうということはない」のだ。古来の聖賢たちが、
財産や地位を警戒してきたのは、ひとつには、いったん得てしまうと今度はそれを失わないために汲々として
しまいがちなこと、あるいはさらなる欲望にとらわれがちなるとによる。なぜ、これらが警戒しなければなら
ないことかというと、それによって人生が空費されてしまうからである。財や名声を追い続けていると百年に
満たない生涯はたちまち尽きてしまう。 ・・・ 財産や地位の空しさを論証するのはたやすい。
「あの世まで持っていけるものではない」からである。一生かかっても使い切れない資産というのは食べ
きれない料理と同じである。歴史に残るほどの偉業をなしても人類の歴史そのものが永遠ではない。
世界一の金持ちもいずれ死んで財産はそのうち四散する。世界の帝王になったとしても跡目は誰かに譲る
か簒奪される。≫
▼ 以上だが、分かっていても囚われるのが人間。「死んで三日もすれば三百年前に死んだと同じこと」と
 ハッキリと自覚すれば、何も目先のことに気持ちが大きく揺れることもないだろうに。生きていること自体
が最も大事なことに気づく時は、死を自覚した時など切羽詰らないと、なかなか無い。ここで、著者が最後に
指摘しているように、「好きなことをして自然に転がり込んでくるような名利でないかぎり、我が身や時間を
切り売りしてまで欲しがるべきではない。百億の資産、大臣の椅子といったところで、所詮はサルが食べきれ
ないほどのエサを掻き集め、あるいは、ひとつのサル山での順位を目一杯あげただけだ」ということ。われわれ
にはもっと他に大事なことがあるはずだが。 無いよりも、有ったほうがと、言うのが本音になるが・・・

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2989,歩く木
2009年06月11日(木)
 歩く樹木があるという、その名は”ウォークパーム”。
アマゾンに生息しており、太陽の光を求めたり、成長するための空間を確保するために、根をタコ足のように
伸ばして年に10数センチも移動する。アマゾンの中でも樹木の争いがある。光の当たる方に根を伸ばし陰に
なったほうが腐ってくのだそうだ。50年で5~6メートルも移動するのだから大変なものだ。 
(字数制限のためカット 2012年6月11日)
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2008年06月11日(水)
『いのち楽しみ給え』吉川英明編  (講談社
  ーまずは、 第二章 人間の本質 から抜粋してみる
 理想のない漂泊者、感謝のない孤独、それは乞食の生涯だ。
西行法師と乞食とのちがいは、心にそれがあるかないかの違いでしかない。
   評)理想ある漂流者、感謝のある孤独か? 詩は心だからである。 (『宮本武蔵』火の巻) 
*今の足の向き方ひとつで生涯大きな違いが生じるのだ。必然こうなるものだと決定された人生などが
 あろうとは考えられない。偶然にまかせて歩くよりほか仕方がない。
   評)必然と偶然、哲学の話になる。               (『宮本武蔵』火の蓋)
*一個の人生にしたところで、余り気まま暮しな人間や、物に困らないものが、却って、
 幸福でない例を見ても、総括した民心というものにも、艱難する時代と、共栄謳歌する時代と、
 こもごもの起伏があっていい。なければ却って、民心は倦む。    「新誉太閤記
*生きようとすれば、あがきの爪が、何かをつかむ。         (『「本太平記」みなかみ帖)
   評)最近の若者の大多数?は、あがきもしない。
*どんな大難も、一過を待てば、おのずから雲間に晴天を見せてくれる。(『「本太平記」帝獄帖)
*「なべて眼のあたりのことは、うこかし難い、また、変るなき鉄則に見えますが、
 どんな現実というものも、じつは間断なく変っています、変るなと願っても、
 推移せずにはおりませぬ。人の境遇も、人お互いの心も」(麻鳥)  (「新・平家物語』静の巻)
*人と人との応接は、要するに鏡のようなものである。 驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。
 人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒っているようなものといえよう。(「三国志」 望蜀の巻)
   評)人を恨めば穴二つ、ということか。
*はたらいた俺にはあるぞ夕涼み 「書簡・詩歌集」     評)はたらかぬ俺にはあるぞ閑の味
  老けて行く春を化粧の瓶の数  「書簡・詩歌集」     評)老けていく春をサプリの空の瓶
  どん底の人に不思議な顔の光沢(つや)「書簡・詩歌集」  評)去年、癌で亡くなった人の顔
 ▼ 評)は無かった方が良かったが、これを書かぬと味気ない。
    後で読み返した時の(いま・ここ)の自分のマーキングである。    ーつづく
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2007年06月11日(月)
2260, ミスター・ドーナツの原価 ?       
           (っ´Ι`)っ { おはよう
 先日、新幹線で学生が二人話しているのが聞こえてきた。「ミスター・ドーナツでバイトをしているが、
原価が6~7円。手間がかかる分、荒利が大きい。」との二人の話。  そうすると原材料費が大よそ20分の1
ということになる。まあ、空気を食べているようなものである。 要はお客を如何に呼び込める!かである。
何でも同じだが。ミスター・ドーナツの繁華街店の入れ替わりが多いと聞いているが、新潟市長岡市
関しては粘り強く生き残っている。
 (字数制限のためカット 2011年6月11日)
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2006年06月11日(日)
1895, 閑話小題              おっ w(゚Д゚)w ハァョ?
 ー長岡スーパー戦争が面白そう!ー
倒産したスーパーツチダの旧店舗を新潟市を本拠を置くウオロクが引き継ぐことになったと、昨日の新聞に
載っていた。ウオロクもあまり芳しくない話を聞いていたが・・他に引き受けてが無かったのだろう。
関係者の話によると、「地元のスーパー原信と感情的になっているほど、商売上の叩きあいが凄い」
と聞いていた。
    (字数制限のためカット 2011年6月11日)
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2005年06月11日(土)
1530, わたしの酒中日記ー6
 金沢ー4   ー1972年3月末日
大学時代の友人の島村君が訪ねてくる。年賀葉書に金沢にいると書いたためだ。何か金沢というと、東京では
憧れがあるようだ。会社の同期の桜井君が訪ねてきた。寮には社外の宿泊禁止規定があるが、こっそりと泊める。
これだけうるさい会社で、二回も規定違反をするのだからスリルがある。二人とも、寮に泊めてもらうつもりで
来ているから。夜に落ち合って香林坊で飲む。金沢の独特の雰囲気にのまれ、行く先々に興奮気味だった。
私の現状はこれ以下ない惨めさである!観光気分の立場とは全く違うのだ。それにしても、大学を卒業して
激しい環境にいたのを島村君と対比して実感する。丸善石油の総務にいて、ほとんど苦労していないみたいだ。
それに引き替え私は、あまりにも惨めな気持ちである。居酒屋にしてもスナックにしても、東京とは全く違う。
ただただ目を白黒している。直感的に金沢の異質な世界がわかるようだ。最後はホテルの最上階のスカイ
ラウンジに連れて行く。金沢の街が一望に見えるバーカウンターで、学生時代を懐かしむ。しかし懐かしむ
ほど、惨めな気分になる。サラリーマンは気楽で良いものだ。「私は独立を目指してここにいる」という
気持ちが、現在の自分を支えているだけだ。
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2004年06月11日(金)
1165, 哲学についてー2
「私は何をすることができるか」の「形而上学」は事物の本質、
 存在の根本原理を思惟や直観によって研究する学問であるが、
アリストテレスにおいては存在一般を考察する存在論、また超越的なものを探究する学問。
ーカントは純粋理性からの認識論をめざした。
ヘーゲルは反弁証法的思考を形而上学的と呼んだ。
 我々の住む世界の特徴は、空間(三次元)と時間(一次元)から成り立っているが、
その「空間とは、時間とは、そもそも何ぞや」という疑問から、その問いに対する答えを探そうとする。
そこでは信仰にすりかえたり、権威にすりかえることは許されない。哲学といえば形而上学には二つの
基本課題がある。
・「存在するものは何か」
・「もし何かを知ることができるとしたら、それはどのようにして可能か」である。「存在論」と「認識論」。
この何が存在し、何を知ることができるか、という課題は哲学で探求される問題の大前提である。
  哲学を芸術と宗教と科学の違いから見てみると
 ー宗教は理より信仰がまずあり、宗教心を育てることに重きを置く。
 ー芸術は哲学とものごとの底流にある真実をもとめ、人間を理解しようとするが、
  その手段が絵画や音楽などの作品を通して直接的な感にうったえる。
 ー科学もしかりである。真実を追究するが、実験や観察によって答えが出せる問題に限られる。
  物質的な問題が主になる。
フォイエルバッハではないが「宗教にとっては神聖なるもののみが真実である。哲学にとっては真実なる
もののみが神聖である。」というが、芸術は、さしずめ作品そのものの感動が真実である。これらはけっして
相反するものではなくどれも宇宙や社会や人間の存在という不思議を深く理解しようとするものである。
また、直感と批判をどれもが必要としている。   ーつづく
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2003年06月11日(水)
 798,「ありがとう」の言葉  ー1
長年生きてきてつくづく感じるのが「幸せ系の人」と「不幸系の人」がはっきり分かれていること。
家柄、結婚の相方との相性、本人の品性等いろいろの要素がある。 多くの人を見てきて、不幸系の人に
感謝の念が足りない人ー特に両親に対する感謝が少ない人ーが多いことに気づいた。両親に対する不信感ー
が本人を不幸にしていることに気がついてないのが、更に不幸を拡大している。その不信感が人間観になって
しまうからである。 夫婦間のトラブルー権力争いーが子供を傷つけ、子供が恨みで感謝を忘れてしまう
ことも起因している。人間には感謝はしないが感謝される事を求める傾向がある。
昨日図書館で何げなく借りてきた本を読んでいたら、あるページに目が釘つけになった。
 ー以下に書き写してみるー
 不思議なことに、心を込めない「ありがとう」でよいから2万5千回ほど言うと、涙が出てきます。
呪文のように言っておくと、その累計が2万5千回を越えたあたりで、突然涙がどっとあふれてくるという
ことが、多くの人にあるようです。その涙というのは、短い人で1時間、長い人で3時間、平均2時間ほど
で、とにかく止まらないのです。こんなに自分の体から涙が出てくるものと思うほど激しく流れ続けます。
この涙が出終わって、そこからまた続けて「ありがとう」と言おうとすると、今度は心底から感謝の念が
わいてきて、体中が温かい思いに満たされ、本当に有り難くて「ありがとう」という言葉が出てくるようです。
 さらに、心を込めた「ありがとう」が湧いたところから、2万5千回ほど心を込めて「ありがとう」を言い
続けると、なぜか突然「私」にとって奇蹟と思えることが起こるようになります。この話をあちこちでしていて、
「実際言ったが、そんな涙出てこない!」という質問を受けました。私はその人達に同じ質問をしました。
「2万5千回に到達する前に、不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わなかったですね」と。その答えは
すべて「言ってました」でした。「それを言った瞬間、チ~ンという音がして『ありがとう』の回数がゼロ
になったのだと思いますよ」と答えています。・・・  ー続くー
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2002年06月11日(火)
 434,創業の勧め?
過去に創業を何回か繰り返してきた。好きで自分で望んだ事だから、そう苦ではなかった。しかしそう甘くも
なかった。その時は、のるか反るかの大勝負を賭けている。やはり脳は全開、見えない相手を考え尽くした
上で一つづつ判断していかなくてはならない。ゼロからの出発である。表面には出してないが、しかし色で
出ているだろうが、キーワードは「発狂」である。まったく存在してない自分の主張を、実際のカタチに創り
上げていく工程を踏んでいるのだから。部外者の人は狂っているという。そうでなくては実際新しい創造は
不可能だ。基本に忠実にゼロから一人で、一日一日孤独の行為の積み重ねである。その時、見えるのは人間の
浅ましさと嫌らしさである。これは自分の事でもある、人間の底である。
・人間はエゴであるー生命の発展はそれぞれのエゴイズムが原点である。
・それがどうしたというのかーその当然の行為を始めたのだ。・その積み重ねが事業の出発点である。
・馬鹿二代目が冷笑している、結構である。むしろそれが正しい事を証明してくれている。
・赤裸々な莚旗を立てた赤裸々な姿、それが創業である。
・事業に関していえば、まずは金そして金そして金・・・・
(字数制限のためカット 2012年6月11日)
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2001年06月11日(月)
 「49」一期は夢 ただ狂え
 世の中はチロルにすぐる チロリチロリ
 何ともなやなう 何ともなやなう  浮世は風波の一葉よ
 何ともなやなう 何ともなやなう  人生70古代稀なリ
 ただ何事もかごとも  夢幻や水の泡
 笹の葉に置く露の間に あじきなの世や 夢幻や南無三宝
 燻む人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現がおして
 何しょうぞ くずんで 一期は夢よ ただ狂へ            ー 閑吟抄ー
▼470~480年位前、富士山の近くに庵を開いていた名も知らぬ男が古今集をまねた歌の一つ。
‘人生など一瞬でしかない。なら狂ったようにしたいことをして生きたいものだ’と言う内容である。
今年の年賀状にこの一節を載せたほど、感じろところがあった内容だ。500年前この無名の男の
人生‐過去に何があったのだろうか? 今500年の時空を越えて、激しく共感するのはなぜか!