つれづれに

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 今日から大相撲が開幕。 
白鵬は予定通り、横綱特権を使って休場。
休んでも給与が出るのだか、無理して出ることもなし。




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4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9
2013年05月12日(日)
      ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 ーこれまでの7つの登山道を更に簡略すると、次になる(後書きより)ー
・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。
 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。
 今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。
 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 
 思い込んでいるだけだ。
 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。
・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道
 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでも
 あとで死んでも同じよなものだ。人生は死刑のようなもの。だが、それは、
 悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、
 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、
 生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、
・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。
 138億年前にできて、直径276億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙
 スケールから見ると、何て人間は小さいことか。しかも、地球上に70億人も
 うごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。全体から
 見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的些細なこと。
・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。
 客観的な時間は、138億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできた
 かもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。過去と未来は圧縮され、
 生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は
 記憶にしかないし、あなたの未来は想像上の産物。あなたには今しかない。
 あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。だから、あなたの主観
 時間に、死の入り込む余地はない。
・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。
 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。
 そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、能動と受動
 といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解
 ではなく、ものごとを考えやすいように、そのように定義しているだけだ。
「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義する
 から死を恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として
 世界であるだけであって、自分も死もないのだ。
・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。
 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の
 目を気にしない傾向。これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践
 できる達人の生きかた。・・ここに到達した人は、持続的な至福を感じる
 ことができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に
 到着することができる。・
・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。
 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達する
 ことができる。いや、ルート6のいずれからでも到達することができると言う
 べきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、
 同じところ。死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。
 昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学によってしかそこに
 到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。
 脳科学の知見は意識が幻想だという事実を僕たちに突きつける。
▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、
 そこでの主観時間は幻想。それを感じている己も定義でしかない。そこでは、
他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い>
が活きるコツ。ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた
天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。

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4065, お金と神 ー1
2012年05月12日(土)
  * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている ~?      
        ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、金と神との同定の視点が面白い。
両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。一部の支配者が神の信託に、
紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 
 ーまずは、抜粋から。
≪ 金と神は似ている。一般に、金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。
いずれ実体のないバーチャルなものなのに、人びとの行動に大きな影響を与える。
適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。
宗教が狂信者を生んで世界を恐怖に陥れるように、現代における金への強い執着
は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。
◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に
 作ったバーチャルな世界である。それはときとしてリアルな物より人間行動に
強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、
人間は多くの過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然
現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。
その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、
大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。それらを使って
人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、
宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な妄想を抱かせている。
しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な
快楽や美しさへの想像さえ否定する。すべては無であるという禅宗の経典、
般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、
心の平安を得ようとする。これによって宗教は完全にリアルから切り離され、
バーチャルな観念へと昇華きれる。 
◎一方、お金はどうか。ーつづく ≫
▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。世の中の9割方の問題が
 金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。神が共同幻想なら、
それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在で
しかない。信じばこそ、そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置
の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、金である。
アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラク
(欧米の資本主義)が崩壊しつつある。