つれづれに

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 少し鼻風邪気味で、昨日はスポーツジムのヨガを休むことになった。
TVで、録り溜の映画とドラマを何本かをみたが、これが面白い!
 
 今日は折角の天気だが、ポタリングは中止。シネマは、二週間ぶりに
行く予定だが… 





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3922, 精神力ーその偉大な力 ー12
2011年12月21日(水)
  「 精神力ーその偉大な力  ー 」 ダン・カスター著
  * 取り越し苦労をやめるには
 20歳代半ばまでは取り越し苦労をする方だったが、人生経験を重ねるに従い、
「その時になれば、その時!」という言葉が自然と出るようになった。事前に
考え尽くし、最悪も想定して、その対処を列挙して対策を練った後は、その場に
実際に立って知恵をだすしかない。あんずるより産むがやすし、が現実である。 
この本にも、そのことが書いてある。人生は最善を尽くした後は、なるようにしか
ならないのである。未来を恐れない、後悔しないこと、最後は自分独りであること
を充分自覚することである。  取り越し苦労で、多くは自滅をしてしまう。 
 ー まずは、その部分ー
【 仏教徒は、「感情の王国の二つの悪魔は、怒りと恐れである。怒りは燃える
 激情、恐れは凍る激情である。」と言う。怒り、いきどおり、抵抗は、過去に
起こったことへの非健康的な反応です。取り越し苦労は、将来起こうるだろうと
思うものへの恐れは陰惨な非健康的な反応です。起こってないが、起こるだろうと
恐れることです。それは苦難を求めて手を差し出すことです。その習性は繰り返す
ことで現実になることが多いのです。取り越し苦労が頭によぎったら
「悪魔よ、我が後ろに下がれ」と言うがよい。 ・・人間は推理しうる唯一の動物。
推理することは連想すること。取越し苦労は、その推理をマイナスに使うことです】
▼ 取り越し苦労も、必要な場合もある。しかし、やる前に、自滅して人生その
 ものを無為に過ごすほどの失敗はない。どんな問題でも、その中心点を想定し、
エネルギーを集中し続けていれば、いつの間にか、その問題は解決することが多い。
  ーここで著者は次のように自己暗示の言葉を述べているー
《 私は健康で幸福で自由だ。私の知る最善の方法で、なすように計画されたこと
をしている。家族、友人、隣人、仕事仲間を愛している。けんぜんで、そして完全
な創造的な方法で大生命力を表現。最善が私から出ていくので、最善が私に帰る。
愛と善意が不断に私を通して流れ、接触するもの誰しもが私が身を置くあらゆる
ものを祝福する 》 何か、教会で牧師の説教を聞いているようだ。それでよい。
取り越し苦労に身を焼いているよりは。20歳代半ばに、不安の中、誰知れず必死
に読んだ本を40年過ぎた現在に読み返し、納得し、事前、事後を見つめる
のも面白い。信念、志は心の基礎である。

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5394,自分史の書き方  ー⑥
2015年12月21日(月)
           『自分史の書き方』立花 隆(著)
   * 「はしがき」と「あとがき」について
 本を読むとき、まず「はしがき」と「あとがき」を読み、「目次」に
目を通し、次に最後の章と、第一章を流し読みをする。自分史を書くとき、
‘「まえかき(はしがき)」と「はしがき」は、最後に書け’という。
書き手と、読み手は、全く逆である。この読書日記も、抜粋した要点を
コピペをし、その前後を、「はしがき」「「あとがき」で挟んでいる。
何年後かの自分と、読み手に、『読書や、ネットサーフィンで、こんな
本を読んだよ!』という報告形式の読書日記である。~その辺りから
≪ 自分史の場合、書くことは基本的にきまっている。それは、自分という
人間がどのようにできあがってきたか、自分自身のメーキング・オブである。
このあたりで、まず、紹介しておきたいのが、先に言及した、わたしの授業で
最初に提出された自分史を書いた、継潔さん(69歳・年齢は当時。)である。
 わたしが授業の最終段階で述べたことは、自分史を書き上げたら、最後に、
「はしがき」と「あとがき」を付けろということだった。そこまでいって
はじめて自分史が完成したといえるということだった。われわれプロの物書き
にしても、一冊の本を仕上げるというのは、「はしがき」と「あとがき」を
書き終えたときなのである。
ここで大事なのは、「はしがき」は決してはじめに書くものではないし、
「あとがき」は全部が終わったあとに書くものではないということだ。
「あとがき」というのは、手紙のポストスクリプト(追申)みたいなもので、
書き終わったあとに、あ、そういえば、あれも付け加えておかなくては、と
あわてて付け加える「ただし書き」のたぐいと思えばよい。それプラス、書き
終えての自分なりの感想である。ずれにしても、本文部分を全部書き終わった
あとで、「あとがき」は自然に出てくるから、出てくるままに書けばよい。
そして、「はしがき」はそのあとに書くのがよい。全部が完成したところで
(「あとがき」までいったところで)、自分史を書くということがどういう
ことであったのかがあらためて見えてくるはずである。その上で書くのが
「はしがき」だということだ。・・ ≫
▼ この随想日記も同じこと。 「はしがき」と「あとがき」は、本文を
 俯瞰して、書き足し、説明の役割を果たすこと。だから、まず、読み手は、
そこから入ればよい。

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2817, ケインズの「相場は『美人投票』論」」
2008年12月21日(日)
 ケインズは以下のように、相場と『美人投票』の類似性と、相違から、相場の本質を述べている。
「玄人筋の投資は新聞紙上の美人コンテスト、参加者は100枚の写真の中から最も美しい顔かたちの六人を
選び出すことを要求され、参加者全員の平均的な選好に最も近い選択をした人に賞品が与えられるという
趣向のコンテストになぞらえてみることもできよう。 このようなコンテストでは、それぞれの参加者は
自分がいちばん美しいと思う顔を選ぶのではなく、他の参加者の心を最も捉えそうだと思われる顔を
選ばなければならない。全員が問題を同じ観点から見ているのである。」と 述べている。
 
結果としてどうなるかというと、他の者は誰を選ぶか、という観点から予想される者が選ばれることになる。
この点に関し、岩井克人東大教授は、「その結果選ばれる『美人』とは、皆が美人として扱うから皆が美人
として扱うという『自己循環論法』の産物にすぎない」という。解りやすい例えである。ソローの論は、
この辺もヒントになったのか?。 新自由経済資本主義のフリードマン的な考え方には、再び戻ることは
ないとしても、時間と共に再び規制が緩和され、 同じような大規模な金融危機が発生する可能性もある。
それはさておいて、投資と、投機は違うもの、投機は美人投票論に近いだろう。『儲かると信じて買い、
結果として損をして売る』パターンが一般人の結果としてなる。上がり切ったところで、逆張りをして
反対の流れをつくって暴落させる、これもあるから、素人が儲かるわけがない。「賭場の八百長ツボふり」
と、同じである。 それもNTTの株売却時のように、国家単位で仕掛けてくる。

 このケインズ美人投票理論を応用したものが、GooglePageRankだと言う。よく考えるものだ。
 検索エンジンが、勝手に独自の評価項目を作り上げて選んだページではなく、Webページ同士のリンク
という投票行動を、ページのランキングスコアとして採用したのである。これによって、検索が原始時代
から抜け出すことができるようになった上に、広告効果が飛躍的に伸びたのである。持っているお金さえ、
国家間では相場で決まることから考えても、金を持つこと自体が投機行為である。
 その貨幣が現在、一番不安定ときているから・・・・

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 2007年12月21日(金)
2452, 居場所を見つけたときに人間は変わる -1
                  (。´_`)ノおはぁ。
人生の中で、しっかりした家庭で育った人は結局紆余曲折があっても元に戻るものだ。人間には何が
あっても、あなたを受け入れてくれる家庭を必要とする。そこが本人にとっての居場所なのであろう。
以下の短い文章の中に、家庭、夫婦、人間に必要なことは何かを考えさせられた。 強い父、優しい母、
そして喧嘩する兄弟が必要である。親、教育者、上司として、考えさせられる示唆が多く含まれている。
そういえば、ヘレンケラーの恩師のサリバン先生の指導に似ている。
そうこう考えると、人間には最低の教養と、暖かい家庭が必要ということだ。
ーーーーーーー  「存在の大地」高史明・芹沢俊介上田紀行
 芹沢:
いまの話にも関わってくるような象徴的な話を聞いたことがあります。  それは、
一人の青年の話なのですが、物を盗んで仕方がない二十歳ぐらいの青年がいて、
月に何回となく物を盗むのです。  それで、何回となく捕まる。
ところが警察はちょっとした盗みぐらいでは刑務所へ送らない。
裁判にまで持っていくことはないのです。 彼も「もう二度とやりません」と言っては、
また盗みをやる。それでまた捕まるということを繰り返していた青年がいました。
この青年に対して、ある施設で、二つの対応策が出てきたのです。

・一つは、警察や裁判所をうまく使って、彼を一度きつい場面へ追い込もうと。
強い規律と訓練と指導とがあるような場所を通過させて、その後に自分たちが引き受けようという
方策を提案した人がいました。ところがもう一人、その案に対して「ノー」と言った人がいるのです。
そして結局、その施設では後の人の案を採用して、青年に対応することになりました。

・彼と対応したのは一人の女性だったのですが、その人が彼にどういう接し方をしていったかと言うと、
とにかく特別扱いをするということをしたのです。その青年は、いまの言葉で言えば非常にキレやすい人
なので、キレたときには、すぐ一対一になってとことん彼の言い分を聞くということがひとつ。
もうひとつ、その青年は人に殴りかかったりすることはないけれども、大声を出したり、
物を投げたり蹴飛ばしたりして人を威嚇することがあるのです。その場合は、とことんやりあう。
つまり、彼が大声を出せば、それに負けないぐらいの大声でどなり返す。相手が物を蹴飛ばせば、
自分も蹴っ飛ばす。要するに、喧嘩の相手をきちっとやる。その二つを徹底するのです。

・そして最後にもうひとつ、これがとてもすごいことなのですけれども、
「あなたのことが好きだ」ということを彼に伝えるのですね。「あなたのことが好きなので、
あなたがどんなことをしても、私はあなたのそばを離れない」というのです。
そういう対応をしながら、その女性は彼の過去を探っていくのです。そうすると青年が母さんに
捨てられたことがわかってくる。生まれてすぐに捨てられ、乳児院に預けられる。
乳児院から養護施設を経て成長していくのですが、記録を見て驚いた。乳児院と養護施設で代わる
がわる彼に関わった10人の職員の中で、誰として彼の長所を挙げた人がいない。欠点ばかり書かれた
データが残っているだけなのです。あらためて彼女は、彼を特別扱いして一対一で対応することと喧嘩を
きちっと一緒にやるということ。そして「あなたのことが大好きで、どんなことがあったって離れない」
ということを伝えるという三つの対応を続けることを心に決めた。さてその結果どうなったかと言うと、
警察に逮捕される回数が激減していくのです。毎月のように何度も捕まっていたのが、
去年は年間を通して四回、今年は10月までに1回といったように、次第に減ってきた。
ーーー
以上だが、夫婦関係にも似ている。どんなに喧嘩をしても、何があっても別れない。
相手を必要としている、というメッセージを出し続けることである。 相性の悪いのは、仕方がないが、
しかし少なくとも対話の訓練、いや、相手の話を聞く訓練はしておくべきである。でも、相性もあるか?
後記)たまたま、このテーマを取上げたら、去年の同日、家族について取上げていた。 不思議なことだ!           
            つづく  (。・∀・)ノ゛
・・・・・・・・・
2006年12月21日(木)
2088, 14歳からの哲学-1      才八∋ウ_〆(∀`●)   
   「14歳からの哲学」 池田晶子著 
                   - 読書日記   
「知ることより考えること」と、「人生のほんとう」と、「41歳からの哲学」と、
この「14歳からの哲学」の中から、その都度目についたテーマを考えてみる。
人間として、社会人として、家庭人として、色いろな問題を地頭で考えているから、
そして子供向きに書いてあるから、解りやすく、深いところが考えやすい。
 今回は、
   ー「家族」ーである。 
「家族」については、家庭崩壊が大問題になっている現在、その本質をつかまえておかなければおかなければ
なるまい。家庭内離婚の含めたら半分は家庭崩壊というが、その中で一人一人が夫婦とは、親子とは何かを
しっかりと把握しておかないと両親の犠牲になったり、子供の犠牲になってしまうことになる。

カナダでは親の責任は高校卒業するまでという。卒業したら学費を夏休みと冬休みにアルバイトで稼ぎ出す
のが常識になっている。観光地の若い従業員は殆どが大学生の学費稼ぎである。首相の子供でも、大金持ちの
子供でも、もし親が出しているということが知れると、一人立ちできない人間として軽蔑されるという。
どこかの国の、いい歳をしたフリーターとは「独立心・自立」という面で雲泥の差がある。
動物の母親の責任は子が外敵に襲われても個体で対処できる時点という。
その時点を過ぎると、親は子供を冷たく突き放す。これは殆どの動物に共通の親子関係であり、
例外は人間位のもの。 本来、人間も当てはめることが自然である。
    
ー著者の「家族」についての章の中の要点を抜粋してみる。なかなか面白い!
 ーーー
世の中にはたくさんの他人がいるが、その一番近い他人が、家族である。
その痛みや心が解らないという意味で、たしかに他人である。
君が君のもともとの君は、誰から生まれたものではない。もともと君自身なのだ。
両親は、あなたの両親ではないというなら、いったい誰なのだろう。

彼らのほうから考えてみよう。彼らにしたって、あなたが生まれたから君の親になったのであって、
はじめから君の親としていたわけではない。あなたが生まれなかったら、彼らはただの彼らであって初め
から親という彼らではない。この事実を、多くの場合忘れている。誰が生まれるかわからなかったのに
君が生まれたという、他人と他人のこの不思議な出会いの感動を忘れて、君のことを自分の子供だと
思い込んでしまう。

親の役割は動物では、子供が独り立ちできるようになるまで、危険から守って育てることだ。
子供が独り立ちできるようになれば、それ以上手を出そうともしないどころか、逆に突き放そうとする。
それでは動物の親でない人間の親の役割があるとすれば、それこそが、他でもない、人生の真実を教える
ことのはずだ。子供より先に生きている者として、何が危険で、何が大事か、人はどのように生きるべき
かを教える役割がある。真実とは何かを考え、教えることができるのは人間だけなんだ。
両親が全知全能と思っていたかもしれないが、君が生まれることによって、初めて親になったんだ。
完全な親なんて、人間の中には存在しないのだ。完全な親であることができるのは、動物の親だけなんだ。
彼らの目的は生命を全うすることだけだからだ。人間としての親は、人生とは何か死ぬまで考えている
のだから、その限りすべての人間は不完全だ。どうしてあなたの親だけ完全のわけがない。
ーーー
 以上だが、半年位前のこと、帰省していた息子と酒を飲んでいた時に、酔った勢いでか、
「親として、尊敬できない!」と言われたことがある。その時の私の答えが、「それじゃ、お前は尊敬
できる親になれるというのか!」であった。子供もドッキとしたようだったが。尊敬できる父親では
ないことは確かだが、軽蔑される親でもないはずだが?  もう一つ。いま一人の子供が高校生の頃、
家内に「自分が親になったとき、親父と違って子供には優しくするつもりだ」と言っていた聞かされた。
かなりショックだったが・・・  そのときの私の心の声は、
「しかし、じゃあ御前さんが優しい親となったとして、御前さんのような現状で優しくするというのか、
自分自身そのものが、いまのその結果だろう」だったが・・・尊敬できる親が存在したら見てみたいもの
だが、多いのかも知れない。尊敬できる親と、優しい父親か~。それより黙って温かく見守る両親が
望ましいのか。家族は、外の社会の多種の他人とどう付き合っていくかを予習する場所。
よりにもよって、自分の両親の縁で生まれたことの意味を考えると面白い。
たまたま縁あって両親の下に生まれてきただけ、自分というこれ!は、親から生まれただけであって、
「本人そのもの、そう自分自身でしかない」のだ。なぜ、この親の元で生まれたか、この親から何を学べ
ばよいか?  考えれば考え尽きることはない。ただ私の場合は、両親には恵まれすぎるほど恵まれた。  
 黙って温かく見守る父親は、家庭が子供にとって社会への予習の場と見れば
 最低の父親ということになる。社会は温かくは見守ってはくれない!むしろ逆だろう。
 そうすると、時に厳しく、時に優しく、そして温かくすればよいが・・そうはいかないものだ。
  教えられるのは生活姿勢と、生きてきた生き様と、やはり人生の真実である。
              (+>∀<+)ノ ホンジャ~
・・・・・・・・
2005年12月21日(水)
1723, ベルグマンの法則
             オハョョヨヨ∃"ヽ( ゚∀゚)ノ"ョョヨヨ∃ゥ!!
 生物学上の法則に「ベルクマンの法則」がある。 哺乳動物の分布と体の大きさの関係を表した法則で
「近縁のものが南北に渡って分布するときは、 寒い地域に生活するもののほうが、体が大きくなる。」
というもの。例えばクマでは北海道のヒグマと本州のツキノワグマではヒグマの方が体が大きい。
ホッキョクグマ 体長3.5m 体重400~500kg
ヒグマ 体長 2m 体重300kg     
ツキノワグマ 1.5m 体重60~150kgと、極端に北にいくほど大きくなる。
                     ☆━━━…‥‥ソウカ~('(ェ)'ヽ)
 その理由は、体重の大きなものは小さいものに比べて体表面積の割合が小さく、それだけ保温効果が
大きいから。もっっとわかりやすく言うと、大きな鍋と小さな鍋ではどっちがさめにくいか、考えてみる
とよくわかる。 他にも「アレンの法則 」というのもある。 キツネやアメリカのウサギ類の耳のように  
「より寒冷地に行くに従って体の突出部が小さくなる傾向がある」というもの。突出部が小さいと熱の
放散量が多く、突出部が小さいと放散量が少ないためだ。さらに「グログラーの法則」というものもある。
哺乳動物の分布と体の色との関わりを表した法則。「近縁のものが南北に渡って分布するときは、北に
生活するものがほど体色が薄く白っぽくなる傾向にある」というもの。   
     ∥┓  ((  
    (_)  匚P  
    ━┻      
 人間もほ乳類だから、この原理は当てはまる。確かに北国の人は色が白い。
 中間のアジアは黄色で、南にいくほど黒くなる。旅行してきて気がついたことは、
 カナダや北欧で黒人やインド人をほとんど見かけない。 体質的に合わないのだろう。
    
 ・・・・・・・・・
 2004年12月21日(火)
1358, あなた、ここにお座りください

「あなた、ここにお座りください」夫に出て行けといわれた妻が、
「私の大切な物を一つ持って行きます」と風呂敷を広げた後にこう言ったそうです。 
 昨日の朝日新聞の一面広告の中の、思わず手帳にメモをしたくなる
「身近な人の名言・格言」と「手帳・日記・家計簿の商品企画」の大賞受賞作である。
 他にも幾つかあった。
ー字数の関係でカット(2008・12月21日) 
 
         お後はよろしいようで・・・
・・・・・・・
2003年12月21日(日)
991, 離婚事情ー2

2日前に長岡の大手通りの市役所サービスセンターに印鑑証明をとりにいった時、隣りの市役所
相談室という小さなコーナーに電話がかかってきた。老齢の相談員の話し声が聞こえてきた。
「ハイハイ、・・・・・、ところで貴女の年齢は幾つなんですか? エッ74歳!その歳で離婚ですか。
何をいっているのですか、いいを歳をして」その声を背にして帰ってきたが、何か切ない思いが残った。
数軒先の近所の人が最近60歳を過ぎて二組離婚をしたとか。以前も離婚について書いたことがあった。
家庭内離婚を含めて、5分5分とは恐ろしいことである。ということは、この文章を書かない方がよいのだが。
一番に身近にいる他人が連れ添いである。それが一つ屋根に住んで、舅姑などの圧縮された人間関係の中で
二人の権力闘争が絡んでくるから一層難しい問題になる。その人の全て圧縮されたのが夫婦問題といってよい。
一つ間違えばお互いの人生の破滅も待っている。以前、取引をしていたメーカーの社長は玄人向きの女好き
だが、その結果として奥さんに「?病」をうつしてしまった。離婚はしなかったが、酷いものだ。 
この人の過去をみていると、一番世話になった人の裏切りの積み重ねであった。
勤めていた会社の取引先や同僚を奪っていた。

「自分とは何かを考えるということは、他人とは何かを考えることである」その一番身近な他人が連れ
添いになる。浮気や、可処分所得の分配、互いの身内との人間関係などで、自分と他人の関係の接点で
トラブルが生じてくる。ある仲睦ましい老夫婦にその秘訣を聞いたところ「我慢、我慢、我慢・・ただ我慢!」
と答えたというジョークのような話しがある。子供の頃両親の喧嘩も何回か見てきた。親の喧嘩は一番子供
の心を傷をつけるものである。子供の神経症は、殆ど両親の不仲からきている。以前、遠い親戚の老齢に
なってからの離婚のことを書いたことがある。やはり、その子どもは神経症で病院通いをしていた。
スナックのママさんを見ていると、結婚は大事にしなくてはならないものだと実感する。
しかし「合わないのは合わない!」のはよーく解るが!
 当たり外れは5分というのも神様は酷な課題を与えたものだ! 本当!
 以前書いた文章です。
 ーーーーー
533, 離婚事情
2002年09月28日(土)
ー字数の関係でカット(2007・12月21日)
  
・・・・・・・
2002年12月21日(土)
617,パタゴニア旅行記(タンゴ)ー4

アルゼンチンタンゴがすばらしい!昔はブエノスアイリスは女性が少なく、その憂さを晴らすため
船員同士が女のふりをしてエロッチクな踊りをふざけて踊ったのが由来という。それが波止場近くの
娼婦の売り込みの踊りと変化していった。そして、その踊りが西欧の人達に認められていった。
従って内容はエロチックで情念丸出しのものであった。ブエノスアイリスで一番の1400人収容
の店で、ショーが2時間以上にわたって繰り広げられた。全く期待をしていかなかったのが良かったのか、
初めから終わりまで拍手喝さいのすばらしいショーであった。お客の全員が感動に包まれ、アンコール
の連続であった。今まで見たショーで一番の感動と言ってよい。辛口のツアーの同行者もこれだけは
絶賛をしていた。この旅を締めくくるに最高のイベントでもあった。写真を見てもらえれば解るはずだ。
よいのはダンサーが一番楽しんでいる事だ。 心に多くのものを残してくれた。

・・・・・・・
2001年12月21日(金)
276、べきことを、べき時に、べくすべき

ーべきことを、べき時に、べくすべき
 昔からこの言葉が好きだった。「時節到来」ということか。その時その時の何かの時節がある。
 それを見つけ、積極的に挑むということだ。 昨日書いた「後回し」の諌めでもある。
 学生時代は勉強を、働く時期には働き、引退すべき時は引退をという事だ。
 これがこのまま出来ないのが人生だ。あるいは社会だ、それだから面白いのだ。
 その時のすべきことが見えなくなってしまうからだ。その意味で家族、親の果たすべき役割は大きい。
 結局それを刷り込むのが親の教育だからだ。親として耳が痛いが。
 その世界に埋没してしまうと、べきことが見えなくなってしまうケースが多い。
 常に変化に対し、チャレンジと闘いをしつづけていく姿勢が必要だ。
 その時々、基本としてウオームハートとクールヘッドが必要だ。
 いつもウオームヘッドとクールハートになっているからだ。

・・・・・・・
ある時間の断片
12月21日  ー1968年
 昨日に続き、今日も空白になっていました。 明日からは続いています。
(おそらく卒論の最後のまとめで、書いている余裕が無かったと思います)