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   今日のYoutube

 今朝のポタリング、雨雲で諦めかけたが、急に明るく
なったため7時過ぎに出発。今日も暑さは変わらない。





・・・・・・
・・・・・・

3805, 哲学人 ー⑥
2011年08月26日(金)

 * 学生時代の恩恵 
 学生時代の恩恵は、現在でも大いに実感している。 もしも学生時代に一度、頭を粉々にしてなかったら
と思うと・・・ マギーは、ここでイギリスのエリート学生の内面を正直に書いている。哲学と芸術の長い
歴史が大学にあり、そこのプログラムを学生はこなしているのである。都市には、美術館があって歴史的
名画を身近に見ることができる上に、コンサートも子供時代から親から連れて行ってもらっている。 
教養のベースが、風土の中に染み付いているのである。
                   ー「哲学人」ブライアン・マギー著よりー
【 結局、大学が知性という面で私にしてくれたことの中で一番肝心なことは、知的価値が芸術的価値と
は独立して存在しているということ、そして、知的価値に関心を持つように仕向けてくれたことである。 
一年目には、理知的で気の合う仲間の中に、他にもまして知的な価値に傾倒している人がいることを知って
カルチャーショックをうけたことである。彼らとの交流のかなで、そうした価値を自分なりに受け入れられる
ようになるに三年目まで待たなければならなかった。そのおかげで、知的価値は私にとって欠かせないもの
となり、私の人生と考え方に色褪せることのない彩を添えてくれた。ちなみに、私はこのような経験をした
おかげで、一部の聡明な人々に対する理解を深めることができたのではないかと思っている。それは、
さまざまな理由から大学教育を受けたことがなく、そのためにこういだ経験をしていない人々について。
そういった人々がどんなものの見方をするか私はわかるつもりだし、彼らの身になってみることもできる。 
ひょっとしたら自分も同じ立場になっていたかもしれないからだ。 正式な教育は、世界というものが
個人の見解や意識や関心や想定の単なる拡張ではないという考えを育むよう仕向けてくれる。
これは正式な教育が授けてくれる最大の恩恵である。当然のことながら、こうした教育は他者の助けなし
にできない。 他者は私たち個人をしばっている拘束をまぬがれているからである。けれども、ここから
導かれるのは、独学の者は生半可な教育を受けた程度にしかなりえないという、残念だが逃れようのない
事実である。
 オックスフ・オード入学当時の私の考え方にはっきりいって欠けていたもののうち、最も重要だった
のは、その後の経過を考えると、哲学ということになる。 人間の関心事の中で最も価値があって大切な
ものとして、哲学は確かに偉大な芸術に近い水準に達しているし、その理由も似通っているように思う。
どちらも、人間が到達しうる最も高いレペルで真理を探究する活動である。どちらも物事の本質を、
つまり存在の根源的な神秘を探ろうとしている。 それを果たせないとしても、人間の理解に限界が
あるせいにすぎない。ショーペンハウアーが述ベているように「芸術家が具体的に行なっていることを、
哲学者は抽象的に行なっている。」哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念と
いうものにはどうしても一般性がつきまとうため、哲学は芸術ほどの深みには到達できないかもしれない。 
だがその一方で、哲学にはできても芸術にできないことがある。
 アイリス・マーギックは
「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は哲学より深いところに達する」と語ったが、哲学には芸術より
すぐれた面がいくらかはあるという意味ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという
意味でもそのとおりである。】
 ▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような文章を読むと、
より芸術に触れておくべきだったと実感する。芸術作品は、作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み
出した人物が全霊を捧げて、作品の中に魂を入れ込んだ名作である。それに直接触れ、感動するのが
一番、人間の魂を高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。
・・・・・・・
3440, 再び、死について考えてみる ー4
2010年08月26日(木)
  * 死を喩えると
 死を喩えると、旅と、眠り、とされる。 「死ぬ」が旅と、眠り、に喩えとされることは、プラトン
ソクラテスの弁明』の一節にある。ー「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一なのです。
あるいは全く何もない.無」といったようなもので、死んでしまえば何も少しも感じないといったもの
なのか、あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいにとって、ここの場所から他の場所へと、
ちょうど場所をとりかえて、住居を移すようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚も
なくなることであって、ひとが寝て、夢ひとつ見ないような場所の、眠りのごときものであるとした
ならば、死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになるでしょう。・・・・また他方、
死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなものであって、人が死ねば、誰でもかしこへ
行くという、あの言伝えがが本当とすると、これより大きい、どんな善いことがあるのでしょうか、
裁判長諸君。」ー
 葬式で、「故人は旅立たれました」というが、夢なら醒め、旅なら帰ってくるのが前提にある。
永遠の眠りというと、そこで夢を見る可能性がある。無に帰した者が夢の見ようがない。あくまで心象
風景でしかないのが、これでわかる。 最近、ブラックホールに喩えることがある。その人の全てが、
その中に吸い込まれ、再び戻ってくることはない、という意味で、喩えとして科学的風である。 
ブラックホールは生命を終えた星が爆発をして、その重圧で空間の歪が生まれ、穴が開いて異次元?の
時空に周辺のものを吸い込んでいく。これを死に喩えることは、これはこれで、説得力がある。
最近、ホワイトホールも、存在も云われるようになってきた。何処かの歪から何が噴出している
空間の存在。それは生命ということになる。面白いのが、死の喩えを、生そのものにしている説がある。 
これまでの死の喩えのは、生のうちで経験される現象=旅、眠る、去る、失う、等々である。
それらは再び我われの元に帰ってくる可能性がある。死は絶対性であるから、「死ぬ」に永遠性が
現われてくる。そうすると、永遠に眠る存在になる。こんなそんなで、結局、死は喩えると分かり
やすそうだが、生きている人間の論理というのが露出するだけ。 同じ動物の牛に喩えると、
先ほどの喩えは不自然である。死も、生きていることも、幻想でしかないなら喩えでイメージ
するのも良いではないか。 少し、眠たくなってきた。
 
・・・・・・・・・
3065,ウワサを考えてみる
2009年08月26日(水)
   * オルレアンのうわさ
『オルレアンのうわさ』とは、1969年5月、フランスのオルレアンに流れた女性誘拐の噂。
 オルレアンは、パリの南方100kmほどのところの人口十数万人の地方都市。この街のブティックで、
女性が消えると言う噂が流れたのは、1969年5月。若い女性がブティックの試着室に入ると、催眠性の
薬品を嗅がされたり薬物を注射されたりして、前後不覚になったところを誘拐され、地下道から
外国の売春宿に売り飛ばされていく、というもの。 
  (字数制限のためカット2011年8月26日)
・・・・・・・・
2700, 「レンタルの思想」-6
2008年08月26日(火)                 ー 読書日記
 進化生物学者長谷川真理子との対談が面白い。
ネアンデルタール人と、現生人類が重なってた時期があるが、何故に 現生人類が生き残ったのか?
脳の大きさよりコネクションが違っていて、そのことが多くの道具を使うことを促して生き延びた
こと、言語能力が格段と上だったこと、更に病気に対する抵抗力の差があったという。そして
「おばあさん」の誕生が現生人類の特徴という。 それまでの色いろな人類のメスは排卵が終わると
直ぐに死んだ。 しかし現生人類の女性はその後も生き延び、お産のノウハウを娘に伝授したので
人口が増えたという。人骨から「おばあさん」の骨が多く発見されたことから分かったという。 
面白い節である。

ーおばあさんの誕生ー 長谷川真理子×松井孝典
  *おばあさんの不思議
長谷川: いまある限りの現生人類の骨から年齢を測ると、おばあさんの骨が含まれているから、
 長生きしたのだと思います。
松井: それは現生人類が繁栄するという意味で、非常に本質的な点ですね。なぜそうなのかに
 ついて何かアイデアはあるのですか。
長谷川: 「グランドマザー仮説」というのがありまして、祖母の知恵が、娘が母親になるときの
 孫の生存率を上げたのではないかと言っています。
松井: それはそう思いますね。出産の経験がまったく蓄積されないで単なる生物として初めて
 出産を経験するのと、出産とはこういうものだということをあらかじめ意識として持っている
 のとではすごく違いますよね。
長谷川: 全然違いますね。
松井: それで人口が増えることに加えて、寿命も長くなるわけで、環境には二重の負荷がかかる。
長谷川: そうですね。でも流行病とかが時々ありますから、長いこと人間の人口はそんなに
 増えませんでした。だけどまず一万年前に増えて、それから産業革命から増えて・・。
 でもそれから豊かになると出生率が減るでしょう。進化的に生物として考えると、 自らの
 繁殖率を減らそうとする生き物はいないわけです。豊かになるということは条件がよくなるわけで、
 条件がよくなると普通はもっと産むので、だから人間がどうして豊かな暮らしになればなるほど
 持ちたい子供の数が減るのかなと。
松井: おばあさんが存在するという不思議と、もう一つは豊かさがあるところに達すると
 産まなくなるという不思議と。
長谷川: 全世界的にそうです。それがどうしてそういう心理状態になるのか。
松井: やはり出産が大変じゃないのかな。本当は産みたくないんじゃないのかな。
長谷川: それもあるかもしれませんが、進化生物学的に考えれば、そんな心理を持つこと自体が 
 不思議なことですから、いろいろモデルをたてて研究している人がいます。そこから見えて
 きたのは、べつにこういう先進国だけではなく、牧畜民の社会とか、農耕社会とか、少しでも
 富の蓄積ができたあとには、 子供だけではなくてー子供も富と数えてー
 持っている富全体を最大化しようとするみたいなのです。・・・・・
  ~~
 (-対談を終えて) 松井孝典
これまでの人間論には、生物学的人間論と哲学的人間論があった。今回は生物学的人間論とは
いかなるものか、ということで長谷川さんと対談した。現生人類の起源には、多地域進化説と
出アフリカ説とがあり、後者が有力になりつつある。
 (字数制限のためカット2011年8月26日)
・・・・・・・・・・
2007年08月26日(日)
2336, ホッファー  -3       (★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
一昨日、アマゾンで注文をしていた中古本の、ホッファーの自伝が送って来た。
一昨夜半、二時間かけて読破したが期待したどおりの内容であった。 ミス・フィットや港湾
労働者の立場で、何故独学であらゆる分野の知的好奇心を持ち続けることが出来たのだろうか、
まず疑問を持った。それは7~15歳までの盲目体験である。そして、彼の父親がやはり働者に
係わらず、読書好きの教養人だったことが彼の勤勉性を培ったようだ。さすらいのホームレス
から見た、ミス・フィットの人たちの生態も克明に書かれていて、時空を越えた当時の生身の
生活が垣間見れ、彼と一緒に20世紀前半のアメリカを彷徨っている気持ちになってしまった。 
ホッファーの言葉を幾つかのHPから拾ってみた。  なかなか含蓄の深い言葉ばかりである。    
 (ー ~~ ー は私の内語である。)
  ーーーー
<世界で生じている問題の根源は自己愛にではなく、自己嫌悪にある。>
 ー自己嫌悪を無くすには、他人への愛が必要ということ!
  自己愛は、人への慈愛から育てるのが近道。それが出来ないのが人間か~
  でも、半々と割り切ってしまうしかないか、自己愛と自己嫌悪!
  他人が嫌ってくれているのに、自分まで同調することもないだろうにー  
<驚くべきことに、われわれは自分を愛するように隣人を愛する。
 自分自身にすることを他人に対して行う。自分自身を憎むとき、他人も憎む。
 自分に寛大なとき、他人にも寛大になる。自分を許すとき、他人も許す。
 自分を犠牲にする覚悟があるとき、他人を犠牲にしがちである>
 ー{これはホッファーの「思いやり」についての最も深い部} というが、
  自己犠牲という奴ほど、自己というエゴがヘバリツイテイルということに
  注意しないと、軽い?人間のボランティアになってしまう。解る?その意味ー
<私の言う知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに
 方向と形を与える教授の権利を持っていると思っている人たちである。
 知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。
 教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである>
 ーそういうこと!「教育のあるエリートの一員」か~? 
 エリートなんぞ対比の問題でしかないのが解らないのは、単なる馬鹿!
 ある本を読んでいたら、何処かの大学の教授が自らを日本を代表する教養人と 
 のたまっていた。まあ、可愛いいから許せるか?-
ー字数の関係上カット(2008年08月26日)        バイヾ(・ω・`)ノバイ
・・・・・・・・・
2006年08月26日(土)
1971.事業百訓 ー1995年(9)
ー H0701新年にあたりー
 ー字数の関係上カット(2007年08月25日)
ーH0701  事業百訓 ー
446 “ドーナツの穴”、あれこそ色即是空です。
  ああそれと小沢昭一がいった“色っぽい事をすると空しくなる。
 ”あれも、まさにその意味をいいあてている。 -永六輔
  447 業態とは損益分岐点である。-ヨーカ堂、鈴木社長
  448 「自分なりに」を禁句とせよ!
   自分を限界づけて、その範囲内という意味におちいってしまう。-田舞徳太郎
  449 ほうたいをまいてやるなら、他人の傷にふれてはならない。-ヘッセ
  450 人の痛いのは三年でも我慢する。-ことわざ
  451 好きな事より、してよっかったと後で思える事をせよ。-ドバル
  452 真理はしばしば矛盾の中にある。
  453 釈迦については、人類史上最初に人間の肉体と人生より
  “精神”というものを抽出し、凝視し、よき作用を見、悪しき作用の機能を指摘した。
   さらに悪しき作用を押さえこむ処方まで与えた。 それが仏教であるといえる。
  この凝視と方法に医学が気付くのに十九世紀末のフロイトまでまたねばならなかった。
                        -司馬遼太郎
  454 「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」
  といわれました。大事なものは取られても生活を根底より覆されるような被害ではない限り、
  いつか忘れる。それで自殺した話は聞かない。 しかし悪口を言われて死んだ老人の話や
  子供の話はよく聞きます。それは人をおいやり子供を精神薄弱にする力がある。...
  私達は二つの尺度を持っている。「自分のする事は、そう悪くない」
  「人のする事は大変悪い」自分の過失を咎める尺度とは、全く違う。 ...自分の
  未来を勝手に決めないで下さい。こんな未来しか持ってないと、わかった顔をしないで下さい。
  紙の書かれるシナリオと貴方の書かれるシナリオは全く違うのです。..ドイツのことわざに
 “共に喜ぶのは二倍の喜び、ともに苦しむのは半分の苦しみ”があります。-三浦綾子
ーH0701  テーマ日記ー
(字数の関係でカット08年8月26日)
ーH0703 事業百訓ー
455 行動の動機が、行動の本当の判断基準である。 みかけ上は同じような行動を千人がする。
 本当はその動機が違えば、みな違うものである。
<なぜなら行動とは意志のことだからである。>しかし意志は行動と同じではない。
<行動せずに考えたり、意志したりすることは、そこにチャンスが存在するとしても
“壺”の中の炎や、砂にまかれた種と同じである。燃えずに消え、芽を出さずに死んでしまう。>
 仏教徒と同じようにスウェデンボルグは、人間とはその人の意志した行動の総和だと断言する。
<人間の霊的肉体とは彼が自分の意志によってした行動以外の何ものでもない。>
 そして<天国への道は、この世の外にあるのではなく、この世にある。>(スウェデンボルグ伝より)
456 自分の“木”をみつけるべし。さがしつづければ、ある日その木はどれだと判るはず。(山尾三省
457 (a)七千万年前に原始ザルが生まれ、
  (b)二千年前に霊長類が生まれ、
  (c)七百~八百万年前に今の人類の原型が生まれた。
  (d)一万二千年前に農耕がはじまり、地球上に三百~四百万人の人類が存在した。人類は“森林”
    の中で天敵がなかった。その為自らのうちに敵を持つシステムをつくっていった。
河合雅雄
ーH0703 ブラジル旅行記
“行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。
カーニバルはリオディジャネロだけでなく、全国津々浦々の都市で行われており、四日間全国が
お祭りの為休みとなる。その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれなのである。リオの
カーニバルのランクがA・B・CとなっておりAランクが9チーム、Bランクが15~16チーム、 
Cランクは数十チームとなっている。AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー800mを
80分の持時間で踊りながら行進する。そこは六万人の観客席があり、審判席で厳格に審査され、
その年の優勝等順位があらそわれる。チケットは一般の人はほぼ入手不可能である。TV新聞等で
目にするのはCチームが街頭で行進するものでしかなかった。チームは四千名が1チームで構成
されており、それが約500名×8チームに細分化され統一のコンセプトのもとに仮装が華やかに
つくられている。音楽も各チームごとに毎年新しいコンセプトのもと有名作曲家が名誉をかけてつくる。
その作曲も採点の大きなポイントになるという。一日6~8チームが夜の七時より翌朝の七時まで延々
と踊りの行進が続く。観客席もその行進曲にあわせて半数以上が踊っている。音響もすさまじく
隣の人の声は全く聞こえない。上位数チームが翌週の土曜日に優勝をかけて再び行進がおこなわれて、
優勝チームは10億以上の賞金がつき、かつ翌年に向けてのよいスポンサーが約束される。
その年の山車とか衣装は翌年に持ちこさずすべて破棄するという。カーニバルをみていて“気”
とか“色即是空”とか“禅の悟り”が、すべて含まれている。東洋的なこのような言葉が小さく
みすばらしくさえ思えるくらいだ。ブラジルの印象を書くと、“サッカー”と、“サンバ”
(カーニバル)と、“森林”と、“イグアスの滝”そして“汚職まみれの国”である。
さらに加えるなら“まずしさ”である。

・・・・・・
3805, 哲学人 ー⑥
2011年08月26日(金)

* 学生時代の恩恵 
学生時代の恩恵は、現在でも大いに実感している。 もしも学生時代に一度、頭を粉々にして
なかったらと思うと・・・ マギーは、ここでイギリスのエリート学生の内面を正直に書いている。 
哲学と芸術の長い歴史が大学にあり、そこのプログラムを学生はこなしているのである。都市には、
美術館があって歴史的名画を身近に見ることができる上に、コンサートも子供時代から親から連れて
行ってもらっている。 教養のベースが、風土の中に染み付いているのである。
                   ー「哲学人」ブライアン・マギー著よりー
【 結局、大学が知性という面で私にしてくれたことの中で一番肝心なことは、知的価値が芸術的価値
とは独立して存在しているということ、そして、知的価値に関心を持つように仕向けてくれたことである。 
 一年目には、理知的で気の合う仲間の中に、他にもまして知的な価値に傾倒している人がいることを
知ってカルチャーショックをうけたことである。彼らとの交流のかなで、そうした価値を自分なりに受け
入れられるようになるに三年目まで待たなければならなかった。 そのおかげで、知的価値は私にとって
欠かせないものとなり、私の人生と考え方に色褪せることのない彩を添えてくれた。
ちなみに、私はこのような経験をしたおかげで、一部の聡明な人々に対する理解を深めることが
できたのではないかと思っている。それは、さまざまな理由から大学教育を受けたことがなく、そのため
にこういだ経験をしていない人々についてである。そういった人々がどんなものの見方をするか私は
わかるつもりだし、彼らの身になってみることもできる。 ひょっとしたら自分も同じ立場になっていた
かもしれないからだ。 正式な教育は、世界というものが個人の見解や意識や関心や想定の単なる拡張
ではないという考えを育むよう仕向けてくれる。これは正式な教育が授けてくれる最大の恩恵である。
当然のことながら、こうした教育は他者の助けなしにできない。 他者は私たち個人をしばっている
拘束をまぬがれているからである。 けれども、ここから導かれるのは、独学の者は生半可な教育を受けた
程度にしかなりえないという、残念だが逃れようのない事実である。オックスフ・オード入学当時の私の
考え方にはっきりいって欠けていたもののうち、最も重要だったのは、その後の経過を考えると、哲学
ということになる。 人間の関心事の中で最も価値があって大切なものとして、哲学は確かに偉大な芸術
に近い水準に達しているし、その理由も似通っているように思う。どちらも、人間が到達しうる最も高い
レペルで真理を探究する活動である。どちらも物事の本質を、つまり存在の根源的な神秘を探ろうとしている。 
それを果たせないとしても、人間の理解に限界があるせいにすぎない。 ショーペンハウアーが述ベている
ように「芸術家が具体的に行なっていることを、哲学者は抽象的に行なっている。」
哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念というものにはどうしても一般性が
つきまとうため、哲学は芸術ほどの深みには到達できないかもしれない。 だがその一方で、哲学には
できても芸術にできないことがある。 アイリス・マーギックは 「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は
哲学より深いところに達する」と語ったが、哲学には芸術よりすぐれた面がいくらかはあるという意味
ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという意味でもそのとおりである。】

▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような文章を読むと、より芸術に
 触れておくべきだったと実感する。芸術作品は、作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み出した人物が
全霊を捧げて、作品の中に魂を入れ込んだ名作である。それに直接触れ、感動するのが一番、人間の魂を
高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。
・・・・・・・
3440, 再び、死について考えてみる ー4
2010年08月26日(木)
 * 死を喩えると
死を喩えると、旅と、眠り、とされる。 「死ぬ」が旅と、眠り、に喩えとされることは、プラトン
ソクラテスの弁明』の一節にある。 ー「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一なのです。
あるいは全く何もない.無」といったようなもので、死んでしまえば何も少しも感じないといったものなのか、
あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいにとって、ここの場所から他の場所へと、ちょうど
場所をとりかえて、住居を移すようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚もなくなる
ことであって、ひとが寝て、夢ひとつ見ないような場所の、眠りのごときものであるとしたならば、
死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになるでしょう。
・・・また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなものであって、人が死ねば、
誰でもかしこへ行くという、あの言伝えがが本当とすると、これより大きい、どんな善いことがある
のでしょうか、裁判長諸君。」ー
 葬式で、「故人は旅立たれました」というが、夢なら醒め、旅なら帰ってくるのが前提にある。
永遠の眠りというと、そこで夢を見る可能性がある。無に帰した者が夢の見ようがない。あくまで心象
風景でしかないのが、これでわかる。 最近、ブラックホールに喩えることがある。その人の全てが、
その中に吸い込まれ、再び戻ってくることはない、という意味で、喩えとして科学的風である。 
ブラックホールは生命を終えた星が爆発をして、その重圧で空間の歪が生まれ、穴が開いて異次元?の
時空に周辺のものを吸い込んでいく。これを死に喩えることは、これはこれで、説得力がある。
最近、ホワイトホールも、存在も云われるようになってきた。何処かの歪から何が噴出している
空間の存在。それは生命ということになる。 面白いのが、死の喩えを、生そのものにしている説がある。 
これまでの死の喩えのは、生のうちで経験される現象=旅、眠る、去る、失う、等々である。それらは
再び我われの元に帰ってくる可能性がある。死は絶対性であるから、「死ぬ」に永遠性が現われてくる。
そうすると、永遠に眠る存在になる。こんなそんなで、結局、死は喩えると分かりやすそうだが、
生きている人間の論理というのが露出するだけ。 同じ動物の牛に喩えると、先ほどの喩えは不自然。
死も、生きていることも、幻想でしかないなら喩えでイメージするのも良いではないか。 
少し、眠たくなってきた。
・・・・・・・・・
3065,ウワサを考えてみる
2009年08月26日(水)
   * オルレアンのうわさ
『オルレアンのうわさ』とは、1969年5月、フランスのオルレアンに流れた女性誘拐の噂。
オルレアンは、パリの南方100kmほどのところの人口十数万人の地方都市。この街の
ブティックで、女性が消えると言う噂が流れたのは、1969年5月。若い女性がブティックの試着室に
入ると、催眠性の薬品を嗅がされたり薬物を注射されたりして、前後不覚になったところを誘拐され、
地下道から外国の売春宿に売り飛ばされていく、というもの。 
  (字数制限のためカット2011年8月26日)
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2700, 「レンタルの思想」-6
2008年08月26日(火)                 ー 読書日記
  進化生物学者長谷川真理子との対談が面白い。
ネアンデルタール人と、現生人類が重なってた時期があるが、何故に 現生人類が生き残ったのか?
脳の大きさよりコネクションが違っていて、そのことが多くの道具を使うことを促して生き延びたこと、
言語能力が格段と上だったこと、更に病気に対する抵抗力の差があったという。
そして「おばあさん」の誕生が現生人類の特徴という。 それまでの色いろな人類のメスは排卵が終わると
直ぐに死んだ。 しかし現生人類の女性はその後も生き延び、お産のノウハウを娘に伝授したので
 人口が増えたという。人骨から「おばあさん」の骨が多く発見されたことから分かったという。 
 面白い節である。
ーおばあさんの誕生ー 長谷川真理子×松井孝典
  *おばあさんの不思議
長谷川: いまある限りの現生人類の骨から年齢を測ると、おばあさんの骨が含まれているから、
   長生きしたのだと思います。
松井: それは現生人類が繁栄するという意味で、非常に本質的な点ですね。なぜそうなのかについて
   何かアイデアはあるのですか。
長谷川: 「グランドマザー仮説」というのがありまして、祖母の知恵が、娘が母親になる
   ときの孫の生存率を上げたのではないかと言っています。
松井: それはそう思いますね。出産の経験がまったく蓄積されないで単なる生物として初めて
   出産を経験するのと、出産とはこういうものだということをあらかじめ意識として持っている
   のとではすごく違いますよね。
長谷川: 全然違いますね。
松井: それで人口が増えることに加えて、寿命も長くなるわけで、環境には二重の負荷がかかる。
長谷川: そうですね。でも流行病とかが時々ありますから、長いこと人間の人口はそんなに増えません。
 だけどまず一万年前に増えて、それから産業革命から増えて・・。でもそれから豊かになると出生率
   減るでしょう。進化的に生物として考えると、 自らの繁殖率を減らそうとする生き物はいないわけ。
 豊かになるということは条件がよくなるわけで、条件がよくなると普通はもっと産むので、
 だから人間がどうして豊かな暮らしになればなるほど持ちたい子供の数が減るのかなと。
松井: おばあさんが存在するという不思議と、もう一つは豊かさがあるところに達すると産まなく
   なるという不思議と。
長谷川: 全世界的にそうです。それがどうしてそういう心理状態になるのか。
松井: やはり出産が大変じゃないのかな。本当は産みたくないんじゃないのかな。
長谷川: それもあるかもしれませんが、進化生物学的に考えれば、そんな心理を持つこと自体が 不思議な
   ことですから、いろいろモデルをたてて研究している人がいます。そこから見えてきたのは、べつにこう
   いう先進国だけではなく、牧畜民の社会とか、農耕社会とか、少しでも富の蓄積ができたあとには、 
  子供だけではなくてー子供も富と数えてー
持っている富全体を最大化しようとするみたいなのです。・・・・・
  ~~
 (-対談を終えて) 松井孝典
これまでの人間論には、生物学的人間論と哲学的人間論があった。今回は生物学的人間論とは
  いかなるものか、ということで長谷川さんと対談した。現生人類の起源には、多地域進化説と
  出アフリカ説とがあり、後者が有力になりつつある。
 (字数制限のためカット2011年8月26日)
・・・・・・・・・・
2007年08月26日(日)
2336, ホッファー  -3       (★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
一昨日、アマゾンで注文をしていた中古本の、ホッファーの自伝が送って来た。
一昨夜半、二時間かけて読破したが期待したどおりの内容であった。 ミス・フィットや港湾労働者の
  立場で、何故独学であらゆる分野の知的好奇心を持ち続けることが出来たのだろうか、まず疑問を持った。
それは7~15歳までの盲目体験である。そして、彼の父親がやはり働者に係わらず、読書好きの教養人だった
  ことが彼の勤勉性を培ったようだ。さすらいのホームレスから見た、ミス・フィットの人たちの生態も
  克明に書かれていて、時空を越えた当時の生身の生活が垣間見れ、彼と一緒に20世紀前半のアメリカを
  彷徨っているような気持ちになってしまった。ホッファーの言葉を幾つかのHPから拾ってみた。  
  なかなか含蓄の深い言葉ばかりである。    
 (ー ~~ ー は私の内語である。)
  ーーーー
<世界で生じている問題の根源は自己愛にではなく、自己嫌悪にある。>
 ー自己嫌悪を無くすには、他人への愛が必要ということ!
  自己愛は、人への慈愛から育てるのが近道。それが出来ないのが人間か~
  でも、半々と割り切ってしまうしかないか、自己愛と自己嫌悪!
  他人が嫌ってくれているのに、自分まで同調することもないだろうにー  
<驚くべきことに、われわれは自分を愛するように隣人を愛する。
 自分自身にすることを他人に対して行う。自分自身を憎むとき、他人も憎む。
 自分に寛大なとき、他人にも寛大になる。自分を許すとき、他人も許す。
 自分を犠牲にする覚悟があるとき、他人を犠牲にしがちである>
 ー{これはホッファーの「思いやり」についての最も深い部} というが、
  自己犠牲という奴ほど、自己というエゴがヘバリツイテイルということに
  注意しないと、軽い?人間のボランティアになってしまう。解る?その意味ー
<私の言う知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに
 方向と形を与える教授の権利を持っていると思っている人たちである。
 知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。
 教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである>
 ーそういうこと!「教育のあるエリートの一員」か~? 
  エリートなんぞ対比の問題でしかないのが解らないのは、単なる馬鹿!ある本を
   読んでいたら、何処かの大学の教授が自らを日本を代表する教養人とのたまっていた。 
  まあ、可愛いいから許せるか?-
ー字数の関係上カット(2008年08月26日)        バイヾ(・ω・`)ノバイ
・・・・・・・・・
2006年08月26日(土)
1971.事業百訓 ー1995年(9)
ー H0701新年にあたりー
 ー字数の関係上カット(2007年08月25日)
ーH0701  事業百訓 ー
446 “ドーナツの穴”、あれこそ色即是空です。
  ああそれと小沢昭一がいった“色っぽい事をすると空しくなる。
 ”あれも、まさにその意味をいいあてている。 -永六輔
  447 業態とは損益分岐点である。-ヨーカ堂、鈴木社長
  448 「自分なりに」を禁句とせよ!
   自分を限界づけて、その範囲内という意味におちいってしまう。-田舞徳太郎
  449 ほうたいをまいてやるなら、他人の傷にふれてはならない。-ヘッセ
  450 人の痛いのは三年でも我慢する。-ことわざ
  451 好きな事より、してよっかったと後で思える事をせよ。-ドバル
  452 真理はしばしば矛盾の中にある。
  453 釈迦については、人類史上最初に人間の肉体と人生より
  “精神”というものを抽出し、凝視し、よき作用を見、悪しき作用の機能を指摘した。
   さらに悪しき作用を押さえこむ処方まで与えた。 それが仏教であるといえる。
  この凝視と方法に医学が気付くのに十九世紀末のフロイトまでまたねばならなかった。-司馬遼太郎
  454 「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」と。
   大事なものは取られても生活を根底より覆されるような被害ではない限り、いつか忘れる。
   それで自殺した話は聞かない。 しかし悪口を言われて死んだ老人の話や子供の話はよく聞きます。
   それは人をおいやり子供を精神薄弱にする力がある。...私達は二つの尺度を持っている。
  「自分のする事は、そう悪くない」「人のする事は大変悪い」自分の過失を咎める尺度とは、全く違う。
  ..自分の未来を勝手に決めないで下さい。こんな未来しか持ってないと、わかった顔をしないで下さい。
   紙の書かれるシナリオと貴方の書かれるシナリオは全く違うのです。..ドイツのことわざに
   “共に喜ぶのは二倍の喜び、ともに苦しむのは半分の苦しみ”があります。-三浦綾子
ーH0701  テーマ日記ー
(字数の関係でカット08年8月26日)
ーH0703 事業百訓ー
455 行動の動機が、行動の本当の判断基準である。 みかけ上は同じような行動を千人がする。
 本当はその動機が違えば、みな違うものである。
<なぜなら行動とは意志のことだからである。>しかし意志は行動と同じではない。
<行動せずに考えたり、意志したりすることは、そこにチャンスが存在するとしても
“壺”の中の炎や、砂にまかれた種と同じである。燃えずに消え、芽を出さずに死んでしまう。>
仏教徒と同じようにスウェデンボルグは、人間とはその人の意志した行動の総和だと断言する。
<人間の霊的肉体とは彼が自分の意志によってした行動以外の何ものでもない。>
そして<天国への道は、この世の外にあるのではなく、この世にある。>(スウェデンボルグ伝より)
456 自分の“木”をみつけるべし。さがしつづければ、ある日その木はどれだと判るはず。(山尾三省
457 (a)七千万年前に原始ザルが生まれ、
  (b)二千年前に霊長類が生まれ、
  (c)七百~八百万年前に今の人類の原型が生まれた。
  (d)一万二千年前に農耕がはじまり、地球上に三百~四百万人の人類が存在した。
   人類は“森林”の中で天敵がなかった。その為自らのうちに敵を持つシステムをつくっていった。
                                         ―河合雅雄
ーH0703 ブラジル旅行記
“行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。
カーニバルはリオディジャネロだけでなく、全国津々浦々の都市で行われており、四日間全国が
 お祭りの為休みとなる。その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれなのである。リオの
 カーニバルのランクがA・B・CとなっておりAランクが9チーム、 Bランクが15~16チーム、 
 Cランクは数十チームとなっている。AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー800mを
 80分の持時間で踊りながら行進する。そこは六万人の観客席があり、審判席で厳格に審査され、
 その年の優勝等順位があらそわれる。チケットは一般の人はほぼ入手不可能である。TV新聞等で
 目にするのはCチームが街頭で行進するものでしかなかった。 チームは四千名が1チームで構成されて
 おり、それが約500名×8チームに細分化され統一のコンセプトのもとに仮装が華やかにつくられている。
 音楽も各チームごとに毎年新しいコンセプトのもとに有名作曲家が名誉をかけてつくる。 その作曲も採点
 の大きなポイントになるという。一日6~8チームが夜の七時より翌朝の七時まで延々と踊りの行進が続く。
観客席もその行進曲にあわせて半数以上が踊っている。音響もすさまじく隣の人の声は全く聞こえない。
上位数チームが翌週の土曜日に優勝をかけて再び行進がおこなわれて、優勝チームは10億以上の賞金が
 つき、かつ翌年に向けてのよいスポンサーが約束される。その年の山車とか衣装は翌年に持ちこさず
 すべて破棄するという。カーニバルをみていて“気”とか“色即是空”とか“禅の悟り”が、すべて
 含まれている。東洋的なこのような言葉が小さくみすばらしくさえ思えるくらいだ。
ブラジルの印象を書くと、“サッカー”と、“サンバ”(カーニバル)と、“森林”と、
イグアスの滝”そして“汚職まみれの国”である。さらに加えるなら“まずしさ”である。