つれづれに

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  今日のYoutube

昨日は、シネマに。月曜日に、先週の金曜日分のシネマの振替えで
行ったため、今週は二日もいったことになる。これまで1~2度あったか。
昨日も、なかなか面白い内容だった。『モリーズ・ゲーム』 
  評価は90点。
アメリカの大金持ちの博打を専門とする女のドラマだが、こういう世界も
有るんだと思いながら見るのもよいもの。






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5536,閑話小題 ~地に足が着いた人生
2016年05月12日(木)
   * ある地に足が着いた人生
 幼児の頃から、両親の勤勉さと仕事と人生に対する飽くなき姿勢をみて、
人生の何たるかを教えられ育ってきた。それは、「凡人だけには陥らないこと、
学び続ける必要性」である。戦前、戦中、戦後の激しい時代の変遷の中で、
10人の家族が生き抜くための生存本能が働いたのだろう。 
 無我夢中で15年間も、この随想日記も書続けてきたのも、50年以上も、
早朝の読書習慣を続いているのも、その幼児体験があったため。
その卑小な自分を、ある人物の人生の合せ鏡でハッとさせられた。
ある酒席で、同年齢位の隣人に、『職業は何やってこられましたか?』と問い
かけると、少し考えた後に語った人生とは、『当時の中卒は、金の卵といわれ、
集団就職で、ある大手メーカーに勤めた。殆どの同期は、仕事の後から、
夜間高校に通い、高卒の資格をとってから地方公務員を目指していた。
自分も同様、夜間高校に通い、地方公務員試験の勉強をして合格、消防士
になって、無事、定年退職し現在に至っている。消防だけでなく、救急も経験、
多くの人生を垣間見ることが出来た・・ 』と言う。
 昭和30年代半ばは、クラスの二割位が中卒で就職をしていったが、
夜間高校から地方公務員になったケースを身近に聞いたのは初めて知った。
「夜間高校出の消防士の平凡な人生が、どうした?」といえば、そうだが。
 その人生から、恵まれた家庭環境に育った自分の境遇に気づかされた次第。 
中学の同級の訃報の半分は中卒の人たち。学歴が上がるにつれて訃報数が
減るのは何故か? その目線から見た私の人生は、大甘もいいところ。当時は
中卒で働かなければならない家庭境遇の生徒が、同級に多くいた。振返りみて、
恵まれていた人生だったと痛感する。 私の一生は、恵まれた列車で、少々、
汗をかいた人生でしかない。 それからして、最後の思いもしなかった挫折は、
私にとって幸運だったといえる? いや、誰にでも最期は死という挫折が待つ。
それぞれに、それぞれの因縁があり、それを如何に楽しむか、志を貫けるか。 
娑婆世界は、面白可笑しく、哀しく、甘塩っぱい味がする! せっかくだから、
もっともっと楽しんで、味わい尽くしてから生前に戻りたいもの! 
 幸せな人は、何があっても幸せであり、不幸の人は、何があっても不幸!
心の奥で、どう折り合いをつけるかどうかだ。 そういうこと!

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4806,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー3
2014年05月12日(月)
          「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * 自分も、人生も、記憶がつくりあげる
 記憶は、その痕跡として、自分でアレンジすることが出来るため、その蓄積
としての記憶は、その人自身が作り上げた要素が大きく加わっている。その時点
での、自己対話としての内的世界が重要になる。そして、その記憶もである。
時間の経過とともに、その記憶も修正されていく。
《 記憶は自己の同一性の基礎となっており、私たちの性格や生きかたに
 大きな影響を与えている。しかし、たとえそうだとしても大多数の人は、
記憶など自分の過去に起こったできごとの痕跡にすぎないと言うだろう。 
これから未来へ向かって生きていこうというのに、今さらどうしようもない
過去の痕跡にかかずらっている時間はない、と。しかし本当にそうだろうか。
 先ほどのTさんの話の中には、未来に向かって生きるためにもやはり、
記憶が重要なことを示唆する一幕がある。記憶喪失のために八年間の記憶を
すべて失ったTさんは、当初、何とかしてその記憶を取り戻そうと焦っていた。
母親はそんなTさんに、誰もが365日すべての記憶があるわけではないのだから、
過去にこだわるよりは、今から何かを始めればよいと言ったそうだ。しかし、
それに対してTさんは、「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、
前に進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」
と言ったという。 このことに関連して私が思い起こすのは、戦後40年目に
おこなわれた当時の西ドイッのヴァイツゼッカー大統領の演説だ。
ヴァイツゼッカー大統領はこの演説の中で、第二次世界大戦ナチスドイツに
よるユダヤ人虐殺について深く謝罪すると同時に、「過去は神でも変えられぬ」
という台詞で、過去を変えることができないことを強調した。しかし、だから
といって過去を封印しようというのではなく、彼は「過去に亡目になる者は
現在に目を閉じることになる」と続け、過去を知り、それを現在に生かすこと
の大切さを訴えかけたのだ。基本的には、私たちの記憶もこれと同じではない
だろうか。自分の記憶をみつめることで、それを現在に生かすことができ、
記憶は未来への航海へと漕ぎ出す原動力となるのではないだろうか。》
▼ 記憶といえば、日記に書かれていたかどうかで、大きく違ってくる。
 だから、ネットや、日記帳に、書き込んでいる。そして、毎年の同月同日分を
読み返しているが、なるほど、自分の加工が大きく入っている。それが「自分」
ということになる。ということは、それぞれが自分史を生きているのである。
今さら書く事もないが、より足取りを確かにするためには、書いておいた方が良い
のだろう。改めて、何気なく繰り返し思い出している記憶が、実は、自分が大きく
加工したものでしかないとすると、やはり共同幻想、幻覚の中で生きているだけ
ということが、少しは自覚できる。最近、ブログで過って行った先の写真を
ネットからコピーし、ブログに載せているが、これが、当時の記憶を彷彿させる。
 これも、当時の記憶の再生と、再体験になる。行ってなければ、注目もしない
だろうし、どんな写真より、当時の感動の方がはるかに良い。過去の再生と
体験と同時に、新たなる未来のためにも、常に、記憶の手入れが必要になる。


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3699, 自己を見つめる -20
2011年05月12日(木)

           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 * 死について ー①       ーP・283
 【 死の壁に突き当たって打ち砕かれ、この世での自己の赤裸々な実存の現実へと跳ね返されて、
そこで、みずからの過去を背負い、あるべき将来を目指し、現在の状況のなかに立って、熟慮し、行為し、
人生の道を切り開いていって、自己と他者と世界と存在のすべての意味ある本質充実を達成すべく格闘
して生きるよりほかにないが、それが人間が生きるということである。それはまた、人間が生きつつ
死ぬということであり、さらには、死につつ生きるということである。
 したがって、この世で生きる自己の存在の根底には、こうした死の存在論的概念が深く食い入って
いる。死を抜きにして、自己はなく、人生はなく、この世の生存はない。 無にさらされたものとしての
こうした人間的自己というその必然的運命の自覚の上に初めて、具体的な医学的現象としての死の諸相も、
位置づけられうる。 自分が、癌で死ぬのか、事故で死ぬのか成人病の悪化で死ぬのか、老衰によって
天寿を全うするのか、それは誰にも分からない。しかし、誰もが、この世に生まれてきた以上は、医学的
な具体化を伴って出現する死に、早晩さらされることを自覚し、自己の無化を心得つつ、終わりある自己
の人生を深く銘記し、心の奥底でその覚悟を整え、その孤独な最期を密かに見つめながら、いままさに
この世のさまざまな営為に携わって生存の努力を重ねているのである。
 こうした意味で、明るい現実の根底には、穴が穿たれ、虚無の風が吹き上げていると言ってよい。 
そこには、暗い無の深淵が、底なしの無気味さを湛えながら広がっている。自己の存在の根底には、無が
潜んでいる。考えてみれば、自己がこの世に存在する以前に、元来、自己は、どこにもなく、無であった。 
いま、自己は現世のなかの活動に浸って、一見確固たる実在感を覚えている。
しかし、無常のこの世は、うたかたのように過ぎてゆき、再び自己は、存在の無のなかに沈み込む。 
無としての存在の大海のなかに、ひととき浮かび上がって、浮き草のように漂い、必死にもがいて、
確固たる存在を築きえたかに思った自己存在は、やがてまた、無の大海に呑み込まれてゆく。ハイデッガー
が言ったように、死は、無の枢である。そこには、人間には窺い知れない存在の秘密が隠されているとも
言える。誰もその奥を覗き込んだ者はいない。 さりながら、かつて、エジプトのザイスの神殿に、帳で
隠された女神が祀られていたが、その帳を取り除けることに成功したある人物がそこに見たものは、
不思議なことに、当の自分自身だったという。へーゲルやノヴァーリスが語るこの意味深い言い伝えに
従えば、存在の深淵を覗き込んで見出されるものは、実は、当の自分自身である。…その意味でも、死を
含んだ、無としての存在が人間の真実であり、それ以外にどこにも存在の真理はないと言わねばならない。】
 ー
 最後の章は死である。死は、ドーナツの穴と類推すると、面白い。穴はあって、ない。ドーナツの形状
が穴を形づくっている。永六輔が「色即是空の色がドーナツで、真ん中の穴が、空」といみじくも言って
いたが、人間存在を色とすると、自己の存在の根底に潜みこんでいる死は、その穴のようなもの。
ドーナツを食べてしまえば、その穴も無くなってしまう。また、ハイデッガーの「死は、無の柩」も
考えさせられる。無など元もとないのに、それを敢えて柩という著者のセンスが面白い。
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3334, 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」
 2010年05月12日(水)
  ー「知の衰退」からいかに脱出するか?    ー 大前研一 (著) ー7
   * 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」
 ー まずは、その要点部分を抜粋し考えて見る ー (P 230)
≪ 今の若い世代から40代、50代の世代に至るまで、情報収集・管理・活用が下手になった。
これは「○×式教育」の弊害である。答えはあらかじめ用意されている、しかもそれは「○か」「×か」
という世界で育つと、そもそも答えを探すところからわからなくなっている。 手探りで失敗を繰り
返しながら答えを導き出すという習慣がない。そして、よしんば答えを得たとしても、それが正解で
あるか間違いであるか検証する方法もしらないのである。 だから、初めから「新聞やテレビの情報は
正しいものだ」という前提で、そこにある情報を収集し、それを覚え込もうとする。これが間違いである。 
こんなことをすると、昨日の夕食に何を食べたか思い出せないように、情報は体外にそのままストンと
流れ出て終わりである。 なぜ、体内に残らないのかと言えば、それは、本当に自分の血となり肉と
なる情報でないばかりか、せっかく取り入れた情報でも自分で加工しようとしないからだ。 情報と
いいうものは、加工しないことにはなんの価値も生み出さない。いくら収集しても放置してしまえば、
そこから何も生まれない。 従って、手に入れた一時情報の意味を考え、時に疑い、ストックした
情報と照らし合わせて、栄誉のある情報だけを吸収して自分の中に取り込み、あとは捨てる・・・
こういったプロセスを経ないと意味がないのだ。 加工のプロセスを有効に働かせるには、まず、
自分の頭の中に「棚」をつくることである。 ようするに、情報を整理しておく場所である。私の頭
の中には現在、50~60の棚がある。そして、新しい情報が入ってきたときに、棚に置いてあった
情報を引っ張り出してきて、合成し、最後に必ずこう自問自答する。「ようするに、これってどういう
ことなんだ?」 こうして初めて、「自分なりに加工した情報=新しい考え」が出てくるのだ。
しかも、「ようするにどういうことなんだ」と、いったん考えたことで、それが個別の「知識」と
してでなく、「文章」として頭の棚に入っていく。 こうすると情報は記憶され、よほどのことが
ない限り忘れなくなる。なぜなら文章はそれ自身で「意味」があるからだ。 これが、私(大前)の
情報整理術の基本である。
~~
 このブログを私の情報倉庫として活用しているが、上記の活用術と重なる部分が多い。それを
生業としているプロは、情報活用を前提としているので、棚を使いやすくしてある。それとキーワード、
「ようするにどういうことなんだ」と、一ひねりを最後に入れて意味にまで高めている。 私の場合
それが甘いと気づかされた。 ネットを利用さえすれば、いくらでも情報を得ることが可能である。 
そのためには、自分の頭の棚を作るべし、とは正にとうを得たりである。逆に情報活用だが、いま一つ
知恵まで到達して得ないことをズバリ指摘されたようである。 まだ、真剣度が足りない?。
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2959,閑話小題
2009年05月12日(火)
 * 金メダルを取れる人
「金メダルを取る人は、トップレベルの才能のある人は逆に取れない」という。
トップレベルの人を目標に背中を追っていた「三番手、四番手の人」の方が、努力をするからである。
一番手の才能の人は、そのこと自体の有難さが分からないから努力をしなくなり、こぼれていく。
その重なりの中で、結果として金メダルの道を歩くことになる。必死に努力した方は、その努力に
愛情を持っているから、心の芯になってしまう。ここに金メダルと、途中で挫折する才能のある人の
差が出る。何か亀とウサギの御伽話のようだが、人生の深い示唆があるような話である。 
二代目が大成しないのと同じか!
 * 物語をつくる
毎日、随想日記を書き続けて、あと40日ほどで3千回になる。随想日記も考てみれば「小さな物語」
である。物語とは、テーマの設定と筋書きつくり。文章作法の起承転結という筋書きの中で、味付け
をしなければならない。その上に魂を込めない限り読むものの魂に響いてはこない。そうそう毎日、
魂を込めるのも並大抵ではない。一年ごとに見つめる自分の目も怖い。しかし一度、物語にして
しまえば、記憶パッケージ化したことになり、魂の記憶として長期間残ることになる。
 * エーゲ海クルーズと吉田類の酒場放浪記
 ≪字数制限のためカット 2011年5月12日≫
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2595, 閑話小題
 2008年05月12日(月)
 * シティーバンクが41兆円の資産売却の意味すること
ニュースでシティーバンクが総資産の2割にあたる41兆円を売却すると報じていた。ということは、
サブプライムローンで同額位の損失をしたと考えてよいだろう。それが、世界全体の10~20%と
見ても200~400兆円の損失と考えても不思議ではない。シティだからこそ、それを売却して
支える力があるから良いが、殆どの金融機関が無理だろう。
  ≪字数制限のためカット 2010年5月12日≫
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2007年05月12日(土)
2230, 人生張っています 
                              ー読書日記
 それでは特に凄いウンコ話を抜粋してみた。オカマのマツコとの対談は、あまりにも凄いので
掲載はひかえる。「ニラを面倒なので、切らずに煮て食べた、そして・・・」 オカマでなければ
言えない話である。誰も長い人生で危機一髪か、近い経験をしているはず。 ただ言うか言わない
かだが、それを楽しんで話すところが異常? それを薄ら笑いを浮かべて読んでいるのも似た
ようなもの。ある明治維新の立役者が、電車の開通の式典の後に乗った時に便意をもよおしシルク
ハットの中に急遽・ の逸話がある。「あのバカ野郎!」は、アメリカでは「ファック、ユー!」
だが、日本は「クソたれ!」。それだけ日本人は、隠したがる恥になっている。
   *******
サイバラ:ウンコ漏らした?
 うさぎ:私がね。自分ちの玄関で。玄関までは、何とか我慢したんだけど。
サイバラ:ああ、そういう時は玄関なんか見ると、括約筋が開きますよね。
 うさぎ:開きますねェ~。全開してでしてねぇ。
サイバラ:全部出た?
 うさぎ:もぅ?、ボタボタと滝のように。しかも白のベルェサーチのワンピースを着てまして。
サイバラ:オオー、いい感じだ。
 うさぎ:夏物で、初めて着たんですが、捨てました。夫はビックリしたみたいで、
     猫と部屋に閉じこもっていました。 後始末は自分でしました。
サイバラ:私は片づけてあげたけどな。
 うさぎ:そうなんだ、鴨ちゃんがウンコもらしたんだ。
サイバラ:コンビニで買い物をしている時に、急に変な歩き方になって。
    満月の夜でさ。「フェー、かーちゃん、ウンコ漏らした」って泣きが入って。
   「真夜中のカウボーイ」みたいになって。スェットはいててその下から、ボトボトって。
   これがまたぶっといの。しょうがないから、コンビニの袋でウンコ拾ってあげて。泣いてる
   亭主の背中を撫ぜてやって、「何時までこの坂は続くのやら」と自分で自分に言って。
    ーーーー
  斉藤綾子:そうだ、知り合いの知り合いなんだけど、すごいウンコ話があるの。
うさぎ:(身を乗り出して)はい!
  綾子:首都高乗っていたら強烈な便意をもようして、どこかには入れるまで待てないって。
  窓開けてケツ出してやったって。
うさぎ:おおーっ!(拍手)
  綾子:すごいでしょ?歴代ウンコ話では一番と思って。
うさぎ:男ですか?
  綾子:女です。
うさぎ:ほほーう。
  綾子:何人か乗っていて、「悪いけど、ちょっとウンコするって」と言って。
うさぎ:外から見ると、窓から尻が出ているわけですね。風にちぎれて水平に流れていくウンコ。
  綾子:後ろの車のフロントにパンッとかね。事故が起きたかどうかわからないけど!
    ーーー
解)そういえば数年前TVで、マグロ釣りをしていた梅宮辰夫が、もようして船尾で尻を海に突き
  出して???、その直前まで写していたが・・・。先日のこと、ウォーキングの土手で便秘
  の犬が凄い格好で何をしていた。その若い女性の飼い主が、その姿に真っ赤な顔をしていた。
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 2006年05月12日(金)
1865, グーグル Google   (。・ω・)ノ☆゚+.オハヨゥゥゥ
            ー読書日記
この本の重要な要約部分がこの章に詰まっているので、さらに破壊戦略の意味を書き写してみる。
ーー
第一章 世界を震撼させた「破壊戦略」ー4
さらに、驚くべきものが「グーグルブックサーチ」で、2004年にそのサービスをスタートさせている。
これは書籍の全文が検索でき、世の中の全ての書籍がグーグルから検索できるようにすることを
目指している。
≪字数制限のためカット 2010年5月12日≫
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2005年05月12日(木)
 1500, 人生の敗北者とはどんな人か??2
私の周辺でも、「人生の敗北者」の要素の強い人が何人かいる。「自分は純粋無垢で、誠実で善良
な人間であるいっぽう、自分以外のほとんどの人間は、不誠実な悪人たちと信じて疑わない」と
いう考え方の人である。「『無知』を起因としている」と考えざるを得ないが、心のジャングル
の中の暗い小道で、「知識」という光を持たないためである。
(字数の関係でカット09年05月12日)
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2004年05月12日(水)
1135、「ライフ・レッスン」?13
 ー遊びのレッスン
 遊びは仕事とともにもっとも大事にしなくてはならないことである。何のために働くのか
問われれば、遊ぶために働いてますと真から答えることができ、何のために遊ぶのですかと
問われれば仕事をじゅうぶんできるために遊ぶのです、と答えることが理想といえる。 
遊びとはつかの間の気楽な時間ではなく、遊びのためだけに捧げられた、じっさいの時間である。
私にとって、この随想日記を書くことじたい遊びである。遊びでなくては絶対に千回も書くことは無理。 
散歩も私にとって、最大の遊びである。初めは腰痛対策であったが、いつの間にか遊びに昇華して
しまった。歩いて楽しいのだ。晩年になって過去を振り返ったときに、あの時は良かったという
記憶に残るのはやはり無心で遊んでいた時であろう。それぞれの年代において、それぞれの
遊びの中で我を忘れて楽しんでいた時である。
ー抜粋
・われわれは趣味や遊びが何であるか忘れている。家具つくりを趣味でしている人が、ある日突然
「これを仕事にしよう」と思い立つ。好きなことをして、それが仕事になれば、というかもしれない。
しかし趣味とは成果を気にしないで純粋に楽しむものである。 売るための家具をつくれば、もう
趣味といえなくなる。 それは仕事である。そのことに気づかずに、好きなことを、純粋に楽しめ
ないことに ゆがめていく人が少なくない。・面白くて、一日中でもやっていたい、本当に好きな
ことをやらずに、欲求を最大限おさえて生きていくなんて、何ておぞましい人生だろう。
遊びにかけているサファーを、われわれは並以下の人間に感じる。しかし、真剣に問われる
べきは、われわれの大半が遊びのない世界に住んでいるのは何故かということだ

・自分自身に上質な時間をあたえてほしい。愛する人とすごす上質な時間が必要だということを、
誰もが知っている。ところが、自分だけのための、ひとりですごす上質な時間もまた必要なのだ。 
ひとり取り残された時間でも、気がついたらひとりになっていたでもなく、純粋にひとりを楽しむ
時間が一番大事だということを知ってほしい。
 ー以前書いた文章ー 
ー遊びについてー
人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。
まずその達人を事例で考えてみる。一番身近では母がそのプロ?であった。戦前、戦中、戦後の
動乱期に10人の家族が生きていく中で、父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の
連続の不幸な死で今の重症のノイローゼーニ。心筋梗塞、死の一歩の手前までいった

亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。それを乗り越えた
後はそれまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。約40年近く遊びきって亡くなった。日本舞踊、
短歌、お花、旅行、茶道、写真。毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。子供ながらに、
そのエネルギーに感心をしていた。遊びの重要さもそのため学んだ。父は「働く人」、母は「遊ぶ人」
と役割分担がハッキリしていた。ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作「遊び」を儒教的影響の為か、
キリスト教的倫理観の為か、罪悪と教えられてなかったか。子供のころ誰もが、毎日目を光らせて
遊んでいた。 ただただ無心に遊んでいた。あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。
人間は生きていかなくてはならない。その為に働かなくてはならない。競争に打ち勝たなくては
ならない。その為に勉強もしなくてはならない。しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。 
それを特に母の生き様から学んだ。一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。どうして
だろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。そして厄介な不安という心理がある。
その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない「馬鹿な?生き物」である。遊びとは、
「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。そうすると、仕事も遊びになりうる?天才はその典型
であろう。あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。 何でも遊びの対象にした「遊び心」を。
純真の心を失っているからだ。 「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。
「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」と暗示をかけられてないか?
私の趣味の一つにウオーキングある。初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。
純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。
 ≪字数制限のためカット 2011年5月12日≫
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2003年05月12日(月)
 768, 規制緩和
 この国が狂っているのは誰もが解っている事である。たまたまホテル業界は全くの規制がない世界。
その事が今になってみれば自分をすくうことになっている。ホテルは完成した時がベストの状態で、
必ず右下がりになっていく装置産業といってよい性格がある。そこにもし規制があって、解除されたら
後発の装置に対応ができない。小売業をみてみると、過去に存在した大店法が流通業界そのものの
脆弱な体質をつくった。
 ≪字数制限のためカット 2011年5月12日≫
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2002年05月12日(日)
 404, 結婚と離婚ー3
 ー夫婦というもの-
人生の永遠のテーマの為か、過去に多くのエピソードが多くのこっている。まずはソクラテスの妻
は悪妻で知られている。「哲学者になりたかったら、悪妻を持て」というジョークがある。徳川家康
の築山御前は、愛人と謀反を企て殺された。あと息子も殺してしまった。夫婦の間には、永年の間に
底なしの泥沼になってしまう。 一時の熱で、一
生後悔の人生を過ごさなくてはならないのは、悲劇より喜劇といってよいのかもしれない。それが
解ってたら誰も結婚をしないから、「恋愛という高熱の麻痺」を神が創りあげたのだろう。誤解で
結婚をして理解で離婚するのが、夫婦のある一面かもしれない。といって一生の連れ添いは必要である。
やはり生きていくうえでなくてはならない存在である。特に離婚した人や死に別れをした人を見ていると、
そう感じる。やはり家庭ーそれも夫婦という基本形は大事にしなくてはならない。
しみじみ感じる年頃になってきたということか!「また生まれたらもらってね!」といって
知人の奥さんが亡くなった。いい言葉だ。