つれづれに

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昨日のシネマは<ギフテッド>をみる。評価は高めで、90点。
明日のテーマ日記になるが… なかなか考えさせられる内容。




 
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5458,遊びをせんと ~遊びを哲学する ー①
2016年02月24日(水)
           ~『世界の哲学・思想』小須田健著 より
   * 遊びを哲学する
 楽しむといえば、「遊び」である。「遊び」に関しては、内なる評価は90点。
進学、進級するにつれ、遊びが一そう面白くなっていた。 実社会でも歳を
重ねるたびに、質量は上がっていた。その背後には、ストレスの解消もあった。
仕事も面白かったが、遊びも、数限りない蓄積がある。
『よく働き、よく学び、よく遊ぶ』 は、人としての目指す行動指標。
 充実の実感は、学びも、働きも、80点。その手ごたえが有難い。
仕事の面白かった経験より、辛い中での、遊びへのトリップの経験こそ、人生の
価値にとってプラスのことは、今さら言うまでもない。 ~その辺りから~
≪ ・理性と感性による二つの衝動が人間にはある、ということです。
 この二つの、一方は不変へ、一方は変化へ動こうとする人間の中でいかに
調和させるか? そこで、シラーが気づいたのは「遊戯」と「遊び」でした。
彼は、人類の大いなる遊びを歴史に求めます。ギリシャオリンピアの競技、
ローマの闘技、マドリッドの闘牛、パリの見世物、ヴェニスのゴンドラ競漕、
ウイーンの狩猟等々。そして、血を流さずに、人体の美をも競いあい、鑑賞
させるギリシャオリンピアの競技の遊びこそ最上と思いました。それは美を
求める遊びなのですから。シラーは、そこで「美しいものは単なる生命でも、
単なる形態でもない。人間に対し、絶対的な形式性と絶対的実在性の二重の
ものを授けてくれる生き生きした形態、それが美である。しかも、動物が
巣をつくる遊びは、その美を得させてくれる」としている。・・・
ホイジンガーは、目を人類全体の歴史に向けて『ホモ.ルーデンス』年刊を
 まとめました。・・・ そこで、
ホモ・ルーデンス」とは、ラテン語の学名になぞらえた人間の性格付けで、
「ホモ.サピエンス」(知性人)や、「ホモ・ファーベル」(作る人間、工作人)に
対比させた言葉で、意味は「遊ぶ人間」です。すなわち、人間を遊びを知るもの、
遊びと切り離せないものとして定義付けようとしたのです。彼はそこで、
人間の遊びの歴史は、「ホモ.ファーファル」の歴史より古いことを実証し、
「人間は遊ぶ存在である」と定義したほどでした。遊びの歴史を探ることこそ、
人類の歴史、文化の歴史を探る直接の素材であり、その手掛かりでもあるのです。
また、ホイジンガーの言葉で言いますと、「遊びの面白さは、どん名分析も、
どんな解釈も受け付けない」ものでした。いったん遊びだしたら、面白くて
もうやめられない、その遊び心を歴史的に記述したのが、ホイジンガーの
ホモ・ルーデンス」でした。ホイジンガーは、カナダのインディアンなど
各国の諸民族に伝わる儀式を伴う遊びを検証し、古代ギリシャアゴ
(競技や、子供の遊びなども含めて考証しながら、改めて「遊び」をキーワード
に、数々のその特性を発見しました。
「遊びは文化より古い」
「遊びは本気なものではない、と言ってはならない」
「遊びは、われわれのまだ知らない秩序を創っている」
「遊びは、人やものを結びつけ、また解き放つ共同性をもつ」
「遊びは、人間がさまざまな廓象の中に認めて言い表わすことのできる
 性質のうち、最も高貴な二つの性質によって充たされている。
 リズムとハーモニーがそれである」
「遊びは、本気でそうしているのではないもの、日常生活の外にあると感じ
 られるものだが、それにもかかわらず、遊んでいる者を心の底まですっかり
 とらえてし塞うことも01麓な、一つの自由な活動である」
「遊びは本気で何ものかを求めての競争であるか、あるいは何かを表す表現
 であるかのうである」  ≫
▼ 晩年の両親の後姿から、遊びは、その時点時点で計画的に消化しなければ
 ならないと、学んでいた。あれだけ楽しめば、悔いも、何も残らないだろう。
仕事の合間に遊ぶより、遊びの合間に働く位で丁度良いのかもしれない。
もっと遊んでおけば良かったと思っても、もっと事業拡大をしておけばなど、
終盤にさしかかった現在、全く思わない。仕事を趣味にし、楽しんだ実感が
あって満足できれば、それも遊び。思え返せば、仕事も、遊びも、面白かった!
 TVの番組に「YOUは何しに日本へ. Why did you come 」(東京放送
があるが、これを「YOUは何しに、地球へ」と、問われ、『働いて金儲けする
ためやってきた』とは、答えない。 ・・これは、長くなるので次回へ!

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3622, お姥捨てるか裏山へ
2011年02月24日(木)

            「日本の名著名言事典」より ー1
* お姥捨てるか裏山へ
 「楢山節考」 深沢七郎
ーまずウィキペディアの「あらすじ」から
 山に囲まれた信州のある村。今年も楢山の歌が歌いだされる季節になった。村の年寄りは七十になると
   楢山まいりに行くのが習わし。六十九のおりんはそれを待っていた。息子の後妻も無事見つかって安心
   したし、山へ行く時の支度はととのえてある。
 済ませることはあともう一つ …。
 -塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る-
 自分が行く時もきっと雪が降る…おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、お供で一緒に行くのだが、
  気が進まず元気がない。しかし家計を考えて年明けも近い冬の夜、誰にも見られてはいけないという決まりで
  背中に母を背負って楢山まいりへと出かけていく。辛くてもそれが貧しい村の掟なのであった。
 ー以下の部分が凍りつくようである            ―「日本の名著名言事典」紀田順一郎著より
「 お姥捨てるか裏山へ  裏じゃ蟹でも這って来る  這って来たとて戸で入れぬ 蟹は夜泣くとりじゃない」
 山深い村で昔、年寄りを裏山に捨てた因習がある。或る時、老婆を捨てたところが這って帰ってきてしまった
  ので、家の者たちは「這って来た、這って来た、蟹のようだ」と騒いで戸をぴったりと締めて中へ入れなかった。
家の中では小さい子が蟹が本当に這つて来たのだと思い込んでしまった。 老婆は一晩中、戸の外で泣いていた。
その泣き声を聞いて子供が「蟹が泣いている」と云ったのである。家の者が「蟹じゃないよ。蟹は夜泣いたり
  しないなよ、あれはとりが哺いているのだ」と子供などに話してもわけがわからないので、そう云ってごまか
  してしまったのである。 この村では、白米は年に一度の楢山祭の時や、重病人でなければ食べられない。 
  早くに嫁を貰うことは愚かなことで、それは少ない食料が減るからである。「曾孫が生まれる」のは多産や
  早熟の者が続いているということで、嘲笑の対象。老いても丈夫な歯を持っているのも恥ずべきで、食い意地が
  張っていて、浅ましいと見做される。この村は七十になった老人は、裏の山へ捨てられる。 息子が背板に
  老いた親を乗せ楢山に登っていく時に一言も喋らず、後ろを振り返らないが山の掟である。
  ―
 それほど遠くない時代に日本の山間部には、こういう風習があったようだ。現在の日本は不況不況と騒い
  でいるが、実際に、こういう時代が来ないとはいえないことを知らない。隣国の北朝鮮が、これに近い惨状
  といっても、現実としては考えられない。それにしても、リアルである。都会などの餓死などの孤独死
  あるが、楢山考と何処が違うのだろう。
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3257, 閑話小題
2010年02月24日(水)
 * つれづれに
  半年に一度ぐらい、この随想日記、書くネタも何も尽きて呆然とすることがある。
  この数日が、それだろう。 そういう直後に多くのネタが湧き出てくることも経験的に知っている。
  書き続けることの効果を実感しているから維持できているが、書く気力が萎えるのは如何しようもない。
 * 消費税のアップ
  今年度の国家の税収が、予算より2割のダウン。 90兆の支出に対して37兆の収入しかないという異常事態。 
  こうなれば、消費税のアップしかない。 ということで、緊急に「来月から議論に入る」という。それしか
    目先の増収の手立てはない。それにしても、あれだけの綺麗ごとで支出をしておいて、何おかいわんである。
  パーセントのアップは、我われの収入が5パーセントダウンと同じことである。これでは、ますます消費
    意欲が減る。消費税分を値上げはできないところが大部分だろうから、恐慌にますます拍車をかけることに。
  5年先は、いや3年先の景気を考えると背筋が寒くなる思いである。
 *政界の再編成が動き出した
  民主、国民新党自民党切り崩しで、二人が移動し、参院過半数を確保した。これで社民党の連立からの
  離反が時間の問題になってきた。次の仕掛けは、公明党との連立か、自民党の若手をゴッソリと狙うかである。
 *保険業界の現状
  昨日、取引先の保険会社の社長が来社、少し早いが長岡まで車でおくってもらう。保険業も3~4社の大手の
    寡占化が始り、弱肉強食が鮮明になりつつあり、保険のオバサンや、中小の保険会社の淘汰が激しくなると。
  5年で200万人が40万人に激減し、保険屋難民が彼方此方で溢れるとか。 何処も同じである。 
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2009年02月24日(火)
 納棺師ーおくりびと
米ロサンゼルスで行われていた「第81回米アカデミー賞」の外国語映画賞部門にノミネートされた「おくりびと
  が外国部門賞に決定した。 この映画の概要といえば、ひょんなことから遺体を棺に納める“納棺師”となった男が、
仕事を通して触れた人間模様や上司の影響を受けながら成長していく姿を描いた作品である。
 10年ほど前に長岡市内の叔母が亡くなった。分家でもあるので葬式の主催者として準備を手伝うことになった。 
たまたま喪主の弟の知り合いが葬儀場の担当者で納棺師であった。 納棺師という職業に興味をもって、
色いろたずねたところ、転職の経緯から、納棺師からみた色いろの人生模様を詳しく聞くことができた。 
以前に火葬場の火夫の手記を読んだことがあるが、納棺師の話は初めてである。
 印象に残ったまま書いてみると
・小さな子どもが亡くなった葬儀は、正視できないほどの哀しみが満ちている。
・葬式は、人生模様の凝縮された姿が垣間見られるところ。
・親族が故人を嫌って誰も葬儀をしようとしないケース。門前で「あんな奴は父でも何でもない!」
   と怒鳴られた。「親子で何があったかわからないが、何か深い怨念があったのだろう」と
 ・・・葬儀代は、本人の通帳から貰っていたので、丁寧に葬儀社を出した。
・職業として割り切っているので、慣れてしまえば傍で見るほど大変ではない。
ーところで納棺師とは、どんな仕事なのか「検索」で調べてみた。
 実際には納棺師になるための特別な資格はない。そして意外や20代の女性が多い。
  故人への主な仕事は
(1)シリコーン注射などによるやすらかな死に顔づくり(2)消臭効果のある薬品を口の中に入れる防臭処置
(3)口、鼻、お尻の穴に綿花を入れる詰め物     (4)白装束などを着せる着衣
(5)納棺      (6)遺体の髪や体を洗う湯灌  湯灌を行わない場合、納棺師1人で切り盛りしてる。
以上だが、「おくりびと」がアカデミー賞を貰ったことで、この仕事に多くの人が目を向けることになるが・・・
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2008年02月24日(日)
 2517, カキクケコの精神
 何気なく本棚に塩月弥栄子の「冠婚葬祭入門」を手に取ったら
「カキクケコの精神」があったが、それが面白い。  「カ」は 感謝することに照れない。
  「キ」は 緊張感を楽しむ。          「ク」は くつろぐ。
  「ケ」は 決断力。              「コ」は 好奇心を持ち続けること。
  美空ひばりも、この言葉気にいっていたというが、他にもカキクケコの精神として
 「カ」感動、感激。神の心 。           「キ」聞く、気配り、協力。
 「ク」クエスチョン(疑問をもつ)。クリエーティブ 「ケ」健康。ケセラセラ(なるようになる)
 「コ」行動。向上心。
  が考えられるが、どうだろうか?「あいうえお」でも「かきくけこ」でも辞書を片手にこねれば何でも
    つくれるということ。「あ=愛情を大切に。い=命をいとおしみ。う=運動を。え=笑顔で。お=お互い様。」
  というと、年寄りの養生か?  「さしすせそ」というと、止めとこう!最近、30~40年前に読んだ本を
    読み返しているが、また違った読み方ができ、また読んだ当時の自分に出会っているようで面白い。 
    読んだ言葉は何らかの形で残っているのに驚いてしまう。本は精神の滋養になっているのである。
  この年齢になると、その蓄積こそ己の足元を照らす灯りになってくれていることに気づかされる。 
  老醜の狂乱こそ、みっもない。それを避けるために本を読むか、趣味を追求するしかないが?? 
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2007年02月24日(土)
2153, 幸福に驚く力 -2
     オッ(*^○^*)ハ~ヨウ!         ー 読書日記
幸福に驚く力とは、日常の中にある見落としている幸せに気づくことです。
それは大自然の中で己の小ささを自覚すること、その小さな自分の中の、小さな幸せに気づくことが第一歩である。
まずは、その抜粋から ー自分の小ささを知るということー
 *世界の広さと深さを感じとる
子どもって小学校も高学年になれば、大人たちを冷徹な目でみますよね。
卑しいなとか、えげつないとか・・・・。でも本の中にはもっと卑しい、えげつない人がいっぱい登場してきますし、
周りに素敵な人だなと思う人がいても、物語の中にはもっと素敵な大人がいっぱい出てくる。イメージできる
人間の幅がぐっと広がってくるわけです。これは今にして思えば本当によかった思います。何故そう思えるかというと、
今の学生は人間を殆ど知らないと思うからです。生の人間に会っていないのではないかと思う位です。
すべてあるのに、何もないって感じ。学生たちは「どうせ大人なんて」とか「どうせ社会なんて」とよく言うんですね。
「そんなことはない。大人の中には凄い人はいる。人間ってそう簡単にタカをくくれるものではないぞ」と知らせたい
  のです。人間の素晴らしさを知り、世界の広さを知ることで、自分が限りなく小さい存在だということがわかってくる。
でも、小ささを知ることが、喜びにもなる。そういう体験を、無意識だったかも知れないが、私は子どもの頃より
ずいぶんしてきたような気がします。学生たちに、「自分がうんと小さいことが、喜びになるような体験をしたいね」
というと、「そんなことをしたら、生きられなくなる」と言いますが、それは、言いかえると、人間というものは
こんなに素敵なんだ、世界はこんなに奥行きあって広いんだと知っていくことなんですね。
苦しみや悲しみは生きているかぎりあって当たり前。それらと闘うことは、その時は苦しいが、でも面白い体験なんだ
ということを、本を読めば徐々に知ってくることができる。自分と周りのわずかな世界しか知らないと分らないんですね。
学生たちは情報が大切というが、でもいくら情報を集めても生きたことにはならない。
しかし物語は読み方によっては疑似体験ができるし、体験を積み重ねることができる。
解)ライフワークの秘境旅行に惹かれる理由の一つは大自然との一体感の感動の中で「自分の小ささを思い知らされる」
ことである。その実感が歓喜に変わる瞬間、この一ポイントが永遠への窓である。
求めなければ何度でも永遠を感じとることが可能なのが、人生の面白いところである。
  人間はアナザー・ワンであると同時に、オンリー・ワンであることを知らされるということです。
 *「傷つく権利」と「怪我する自由」
若い人たちは、愛することを知らないで、愛されることばかり願っている。悩む力、悲しむ力、あるいは苦しむ力が最近
  非常に弱っているように感じられます。現実的に難しいなら、せめて文学を読んでこういう力を少しでも養わなければ。
人には傷つく権利もあるのです。「傷つく」という言葉と「権利」という言葉を結びつけることもできるのです。
いま、学校は子どもたちの安全を考えるあまり、過剰な管理をしています。でも、事故が起こるたびに
「あってはならないことが起こりました」と学校が謝るのを見ていると、事故はあってはならないのだろうか、
と思ったりもする。人間が本当に自由を求めて生きようとしたら、死をつねに想定しておかなければ、
無理じゃないかと。常に死を含めて考えない限り自由には生きられないのです。
 (字数制限のためカット 2011年2月24日
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2006年02月24日(金)
1788, 愛のアフォリズム-3     ≪( \(・ω・)/ )≫オハヨゥ☆  -読書日記
ー情熱
情熱はさめると氷より冷たくなります。  (ジャ・シャガール
情熱を癒すことができるのは分別ではない。 別の情熱だけである。(ルートヴィッヒ・ベルネ)
私たちが情熱から解放されるのは、その情熱をとことん味わいつくした場合だけである。(マルセル・ブルースト)
                    ーそりゃそうだ!でも、そうでもない場合もあるが!
火が欲しかったら、煙ぐらい我慢しなくては。 (ドイツの格言)-その煙がむせぶからね~? (〃 ̄ω ̄〃ゞ                    
カップルが幸せになるケースはごく少ない。情熱が荒々しい炎が燃えつきる前に、愛着というおだやかな火を
なんとか焚きつけることが出来た場合だけだ。(ジェローム・ジェローム) -そうか・・  性格もあるけど!
愛は生理的欲求であり、不可避の身体機能である。 (エルベシェス)  ― 一升瓶?
愛とは、心に感じられるものとなった空間・時間だ。 (マルセル・ブルスト)
      -牢獄にもなり、宇宙空間にもなるということ?(●ゝω・)ノ【 love = 時・ 空間 ☆】
頭は真理によって輝き、心は愛情によって輝く。    (ロシアの格言)
愛情によってのみ、人間は自分自身から解放される。(フィリードリヒ・ベッヘル) ー相手からも解放される
恋人を棄てるのは、空想力が衰えたことを証明する。(ホーフマンスタール) ーその反対もあるからね~たくもう~!
       (*・ω・)(・ω・*)ずっと一緒にいようね!な~んてのは一年まで!ー
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 2005年02月24日(木)
1423, 名画200選 -読書日記
購入して数ヶ月、時々読んでいるが味わい深く飽きない。その半分は観たことがあった。思ったより多く観ていた
  のには自分でも驚いた。そのうちTVで観たのが、半分だろうか。この本を読んで初めて「成る程!」と、今に
  なって感心をしているものが多い。
  (字数制限のためカット 2011年2月24日
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2004年02月24日(火)
1056, 千回の力
「何事も千回続けると、何かが見てくるか、何かを感じるようになる」という。散歩時に「ありがとう」を
言い続けて、千回を越えたあたりから何かが変わる。心から「ありがとう」の言葉が出てくるのだ。
そういえば、この随想日記も千回を去年の暮れに達成をした。千回を達成した安堵感の為か、その後何も考えた
ことがなかった。そこで改めて「何か変わった事や感じることがあっただろうか」を内省をしてみることにする。
・ものを見る眼が全く変わった。 ー記者の目、書き手の目で現象を見る習慣がついた。
・テーマ探しを無意識にするようになった。     ・そして、そのテーマに対し内省をするようになった。
・脳内サテライトの面白さを実感できるようになった。・自分が知らない読者や、子孫を意識をして書くように
   なった「何かが見えたか」と問われれば、別に何も見えないし、「何か感じたか」と問われても、何も感じない。
しかし、書き始めた以前と、それ以降という感がする。脳内を公開することが想像する以上のインパクトを
自分に与えていることになっている。書いている内容に対してコンプレックスも自信も、全くない。 ただ考え、
  感じた全てを、書き込んでいるだけだ。その集積が、基地としてのネット上にあることは異様な感じである。
「石の上にも三年」も大よそ千日である。一つの言葉を気持ちを込めて千回いえば、大よそのことが達成可能
  になるという。「駄目だ駄目だ!」と自然に流されれば、繰りかえしてしまうものだ。言葉は、意識して
  使わなくてはならないと解っているが・・
 ・・・・・・・・  
2003年02月24日(月)
691, 「わたしを認めよ!」  -2「読書日記」        
 ー 気になったところを書きうつしてしてみた。
「ふつう」の意味とは・・ 普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない。当然である。
 だれも知らないからだ。 わたしが考えるふつうとはこういうものである(普通」と区別する)。
 奴隷みたいな退屈な生き方が上と下の中間(中流)に落ち込んだ普通だとするなら、目指される
   べきふつうとは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。 普通が惰性なら、ふつうは意思である。
(字数制限のためカット 2010年2月24日)
・・・・・・・・
 2002年02月24日(日)
 341,遊びについて-1
  人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。まずその達人を
  事例で考えてみる。 一番身近では母がそのプロ?であった。戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が
  生きていく中で、父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の不幸な死で今の重症のノイローゼー
  になった。心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。亡くなった時、 医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の
  4分の1が壊死していた。それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。約40年近く
  遊びきって亡くなった日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。
子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。遊びの重要さもそのため学んだ。重点としてだが父は「働く人」
  母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。「遊び」を
  儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、罪悪と教えられてなかったか。子供のころ誰もが、毎日目を
  光らせて遊んでいた。ただただ無心に遊んでいた。 あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。
  人間は生きていかなくてはならない。その為に働かなくてはならない。競争に打ち勝たなくてはならない。
  その為に勉強もしなくてはならない。しかしそれだけでは、それだけの人生だ。 それがクロなら、その対象の
  白が必要になる。どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。それを特に母の生き様から学んだ。一般的
  にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、「馬鹿な?生き物」。
遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。そうすると、仕事も遊びになりうる。天才はその典型。
あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。何でも遊びの対象にした「遊び心」を。純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」と暗示を
  かけられてないか? 私の趣味の一つにウオーキングある。初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びに
  なっている。純真に楽しいーのである。その中に純真な遊び心が躍動を始める。何々のためにといった場合は、
  遊びでなくなる。それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。パソコンもそうだ、
  このホームページもそうだ。そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。これから散歩だ!