つれづれに

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今日のYoutube

 昨日は、駅前の長岡グランドホテルで、同期会の反省会。
まあ、何時も盛上る。選挙の前日は、何処も人出がないため、
ホテルとしては有難いだろう。次は、12月1日という。
出れば出たで、面白いが… 

 そろそろ、投票に行く予定だが… 
時が時だけに、選挙結果がどうなるのか? 
自民党有利というが、どうだろう? 250ぐらいで、
希望の党」を入れて過半数がバランスからし
丁度よいのでは? 



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4602, 閑話小題 ーまず千円だけ持って買い物に!
2013年10月22日(火)
 * 年金暮らしの知恵 ーまず千円を持って買い物に行きなさい!
エッセストの岸本葉子の『ちょっと早めの老い支度』の中で、対談相手の
ファイナンシャル・プランナーの一言が印象的。「セミナーで、まず言う
ことは、年金内で暮らすためには食品から始めること。スーパーに千円だけを
持っていき、買い物を一週間続けることを勧めています。それが出来ないなら
カゴを持たないで買物をしてください。カゴを持たないと沢山、持てないから、
どうしも買わなければならないものから買う。そうすると本当に必要なものが
わかってきます。習慣を変えるに、買い方を変えるしかないです。」 
シビアな話だが、体で憶る第一歩。 私は週一回、酒とツマミの買出しをする。
大たいカート一杯で4千円前後。これと週二回のランチと、週一のシネマと、
月1~2度の飲み会に金を使うが、この持ち出しの金は、家内からの小遣い。 
元はといえば、出処は40年与えてきた給与の一部? で今や発言権は三分一。
 この二年の身の回りの買物は、ジャケット三枚、ジーンズ二本、電動アシスト
自転車、iPad、7千円のカシオのデジカメ。これだけ買えば十分?こんなもの?
その都度、小言をいわれるが、さほど欲しい物がないのは年齢のせい? 
欲しいものは殆ど手に入れてきたため? 財布には必ず?万以上は入れている。
使わなくても心が豊か?にするため。これで心豊かというから、安いもの。
年金暮らしの貧しい内容になってきたが・・ そこで昨日、車に財布を置いて、
千円だけ持ってスーパーで買物をしたが、気持ちは千円分の視線で、心はプアー。
財産を使い切り、まず楽しみ、貧乏を楽しむのも面白いのかも。他人事でない、
自分のことか!それでも心はリッチ? 楽しんだ実感と行蔵があるのは強い。
日々、是、好日、いや口実か。年金暮しも、楽むしかない。

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4969,生まれたことをどう考えるか
2014年10月22日(水)
           「生まれたことをどう考えるか 」船木 英哲 (著)
  *「生まれたことをどう考えるか」は、人生の根本的問いかけ
 学生時代から、この根本問題を考えてきたが、そう簡単ではない。しかし、
「何を馬鹿な!猿が生まれてきたことに意味があるかを考えるのと同じ。
意味など後付の理屈」と決め付けることもできる。この問いかけは、
「人生を如何に生きるか」に通じる。フランクルの「人は良く遊び、良く働き、
良く学ぶため生まれてきた」を一番気に入っているが、これに「良く休む」を
加えると、ベストに思えるが。実際、生まれてきた理由などないはず。
  まずは、ーアマゾンの内容説明よりー 
《 生まれるとはどういうことか、(生まれ、生きる主体である)心とは何か
 の問題を追うことで、人間や世界の存在を考察し洗い直し、生まれたことに
意味はあるのかどうか、意味があるとすればそれは何か、どういうものが
考えられるのかの問いに迫ったものである。・・(本文より)》 
 ーその一部を抜粋してみるが、最初から最後まで似たような内容が続くー
≪ ◇ほんのわずかな時間、意図的に呼吸をしないことはできるが、わたしの
 心臓や肺が動き、わたしが呼吸するということは、わたしが意識的に作り
出していることではない。わたしが眠っている、わたしの意識のない間も、
心臓はわたしの体の中で規則正しく動きつづける。わたしの意識の状態に
関わりなく、呼吸、さらに体温調節、消化、酵素の分泌など生命維持に
必要な営みは行われている。生きているということは、生きている各人の
意識とは別なところで成り立っている。自分が生きているということは、
根本的に自分が作り出しているようなことではない。
 ◇ わたしは生きるか死ぬかを選択し、その通りに実行することができる。
もちろん自ら死ぬという選択、実行には、多大な困難が伴うであろうが、
場合によっては、意を決し行うこともできる。わたしは現在生きる選択をし、
骨を折りながらそれを実行しているが、だからといって、わたしは自分の力で
自分の生からすべて作り出しているのではない。何かによってわたしが生き
られるような状況があるから、わたしは生きてゆけるのであり、生きるか
死ぬかの選択ができるような状況にもあるのである。
◇ わたしが他の場所に生まれず、わたしの生まれた地に生まれたこと、
100年前や500年前ではなく、わたしの生まれたときに生まれたこと、
他の人間を親とせず、わたしの両親のもとに生まれたこと、さらには、
わたしが男であり、日本人として生まれたこと、他の生き物としてではなく
人間であったこと、また、他ならぬこのわたし、この自分であり、わたし
固有のDNAをもっていること、死すべきものであることなどは、わたしの作り
出したことではなく、わたしに与えられたものとしてわたしにあることである。
わたしは今挙げたような制約の中、抗えない何かで生きることを決定付け
られている。生まれること、そして、どういうものとして生まれるかは、
生まれる者の自由にはならない。そして、わたしはいずれ死ぬように
決定付けられている。・・≫
▼ 生まれたことが偶然か、必然かの存在論の問題もある。この論は、唯心論
の人生感を面白半分に読むに丁度良い内容か。偶然生まれ、必然的に死んでいく、
ただそれだけと割切れないのが人生である。自分の人生は自分しか生きること
が出来ない。その自分の世界こそ、全てと考えれば著者の言わんとすることが
理解できるが。「ただ、生まれ、子づくりを楽しみ、死んでいくだけ」で、
充分と思えば充分だが。それでも、求めただけ、生まれ生きたことに意味が
出ることも確か。ところで、『なぜ、自分は生まれ、生かされたのだろう?』

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4227,雑談ネタ、酒の肴ネタ ー2
2012年10月22日(月)

* 饅頭は諸葛孔明のトッサの機転から生まれた  ー「ルーツ大全」インフォペディア編 より
≪ 饅頭の起源はなんと中国の三国志の時代にまで遡る。蜀の軍師であった諸葛亮孔明は、ある地域で
人の頭を人身御供として捧げ、川の神を鎮めるという風習を目にした。これをみかねた諸葛亮は、機転
を利かして、小麦粉の皮に豚や羊の肉を入れたものを人頭に見立てて神に捧げ、いけにえの代わりとした。
これが饅頭のルーツである。それ以来、饅頭は料理として中国人の食卓にも浸透し、主食の一つとして
食べられるようになった。まんじゅうの「じゅう」の字を「頭」と書くのはここからきている。
当初は蛮人の頭の意味から「蛮頭」が用いられたが、のちに「饅」の字を使うようになり「饅頭」に
なったといわれている。諸葛亮が機転を利かせて誕生した饅頭が、日本に伝わったのは一四世紀。
1341年に宋から渡来した林浄因(のちに塩瀬姓を名乗る)が作った「奈良饅頭」が、日本で最初の饅頭と
されている。中国の饅頭は中に肉や野菜を入れるのが普通だったが、浄因は肉食が許されない僧侶の
ために、小豆を煮詰め、甘葛の甘味を加えた館を入れた饅頭を考案した。≫
 ▼ まさか饅頭に、こんな起源が隠されているとは思っていなかった。
  * 海軍大将・東郷平八郎の注文で"誕生した肉じゃが  ー「ルーツ大全」インフォペディア編より
≪東郷は、イギリスに七年間留学していたことがあり、日本に帰国してからも、かの地で食したビーフ
シチュウの味が忘れられなかった。日本でもあの味を味わいたいと部下に調理を命じたが、明治時代の日本
では、ビーフシチュウに欠かせないバターやワインがなかなか手に入らない。そこで部下は、砂糖、醤油、
ごま油を使い、牛肉とじゃがいも、玉ねぎを煮込んでみた。こうしてでき上がったのが、今でいう「肉じゃが」
だったのだ。ビーフシチューとは似ても似つかないが、これが意外と美味であった。しかも、当時の海軍の
船員たちは長い航海のうちにビタミンが不足に陥り、脚気壊血病になる者が多かったが、じゃがいもや
玉ねぎはビタミンが豊富なので、その予防にもなる。当時は肉じゃがではなく、「甘煮」と呼ばれたこの
料理は、まず海軍で人気の献立となった。一般家庭に普及したのはずっとあとで、昭和五〇年代に入って
からのことだった。肉じゃがのル!ツは東郷風のピーフシチウだったのである。≫  
 ▼ 肉ジャガが和風シチューのつもりで作ったものとは、居酒屋ネタとして丁度よい。
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3862, 嘘みたいな本当の話
2011年10月22日(土)
 図書館で見つけた「嘘みたいな本当の話」の本の題名、ここのテーマで取り上げたような気がして調べ
たら、「H0505 小説のような本当の話!」というテーマであった。 この本は多くの人の実体験の特集
で面白いが、それでは私というと、これらより面白いものが、幾らでも出てくる。とはいえ、それは自分
自身のことだから言えることだけで、第三者の見方は違うだろうし、150あまりのショートストーリー
は、それぞれの味がある。 人生には、誰もが多くの思いもよらない経験をするもの。考えてみたら、
自分が、いま、ここに存在していることが嘘みたいである。 両親の出会い、そして数億の精子と、卵子
が出合うことも、両親の両親、そして先祖の出会いの重なりの結果、はじめて現在の自分がある。 
そういう難しい話は、この本の本題ではない。何処にでもある、ちょっとした世間話的な信じられないような
経験の披瀝である。 この本の面白い嘘みたいな本当の話の紹介の前に、私の世間話的なそれを書いてみる。
   ー かなりショートにまとめてみた。
 * 7年ほど前になるが、オーストリアの、とある観光地の街中で何気なく空を眺めると、カラスの一群と
   鳩の一群が入り乱れて闘っていた。見ていたのは数分だったが、カラスと鳩の群れの闘いなど、滅多
   にみれるものでない。「外国には外国の鳥世界があるのか」と、何となく思ったことを覚えている。
 * その頃の話だが、早朝、土手を散歩していたところ、ある家に繋がれていた身体はデカイが、幼さの
   残っているゴールデンリトリバーと、偶然に目が合った。 思わず、ヨッと右手をあげ声をかけると、
   その犬も右手、いや右足をあげた。オテの、条件反射だったのだろうが、何か奇妙な気持ちになった。
 * 雀と燕の巣をめぐる争いに出会ったことがある。バイパス下のトンネルにある燕の巣に、越冬の留守
   に雀が住んでいた。そこに春先に燕が帰ってきて、その巣をめぐってツガイ同士が争っている場面に
   出くわした。 雀には、多くの仲間が遠くからピーピーとけたたましく騒いでいる。数分で、見届け
   ないで散歩を続けたが、翌日見ると、そこから雀が顔を出していた。 驚きは、嘘のような場面に
   出会った時に生じる心の状態である。とすると、初めての体験、経験は「嘘のような出会い」になる。
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3497, お金の教養 -3
2010年10月22日(金)
                    ーお金の教養ー「お金の仕組み」 泉正人著
  * 何が「浪費」で、何が「投資」か
 何もかもが節約ばかりでは人生は面白くない。それでは貯蓄が目的になっては、お金の本来の価値を楽しむ
ことはできない。価値あるものにはしっかり使い、価値のないものは、使わないというルールが必要である。
著者は日常使う小さなお金を、使い方によって、「投資」と「消費」と「浪費」の三種類に分けている。
・買ったものが、払った以上の価値がある=「投資」
・買ったものが、払った額と同じ価値がある=「消費」
・買ったものが、払った額以下の価値しかない=「浪費」
 これは分かりやすい。 私の場合、海外旅行は、払った5~10倍の価値は充分にあった心底思っている。
飲んでまわって三軒目以降は払った額の半分以下か零と思うことが多い。 これは浪費。
土曜日など家内といく居酒屋などの飲食店は払った同額の価値だから、消費。 そう具体的にみると、
それぞれの意味が実感できる。 時に浪費の方が有意義?のことがあるが、ただ酒に飲まれている方が多い。
テレビ、パソコンは投資。昼飯は消費。本は大部分は投資。週刊誌は消費で、月刊誌の文藝春秋は投資?消費?
これは実際に買って読んでから分かること。去年買った電気アシスト自転車と海老反り器械と腰叩きマシーンは
投資。成るほど!両親から捨て金を使うな!と教えられたのは、価値のあるなしを意識して金を使えということ。
関西人は概ねこれに徹している。 マイホームは思い切って良い家を買うが、普段の生活は質実剛健にする。
 金の使い方だけでなく、著者はこれを時間について当てはめている。 英会話の勉強に当てている時間や、
健康のためのスポーツは投資の時間。 休みの日に、何をやっていたか記憶のない時間が浪費。睡眠は、それが
人間が生きるため必要な時間で(必要経費として)投資になる。一年を振り返って、あれは良かったと思える
時間が投資である。 そういう視点で「金と時間」の使い方をチェックしてみると、面白い。長期的投資と
短期投資にも分けられる。 浪費が入った三つが混合するから面白いもの。 浪費と思っていただけのことが
実は投資だったり、投資と思っていたことが浪費だったりする。これは時間がたってみないと分からない。
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3122, 生きる幻想 死ぬ幻想  ー3
2009年10月22日(木)
 「生きる幻想 死ぬ幻想 」 岸田 秀 (著), 小滝 透 (著)     ー読書日記
 中世に西欧の国々が世界を拡大していく過程で、構造主義ではないが、決して南米や東洋より優れている
のではなく、逆に劣っているのを知ることになる。 勝っているのは人殺しの技術だけ。 そこで西欧人は
自分たちの方が優れていると、信じたと思ったのである。同じ神を信じると認めあった仲間内では、平等とか
隣人愛を言うが、そこから外れた者については、公然と差別をし、何をしてもよいことになる。人間扱いされ
なかった奴隷たちが救いの神として唯一絶対の神を信仰したが、その神は復讐の神だったからである。
現在、原理主義者が平気でテロを仕掛けるのも、この辺の事情による。
 ー以下の部分は、その辺のことを詳しく書いているー
 * 大航海のカルチャーショックと、ペスト発生の由来 (P-13)
Q: 西欧キリスト教文明が、十一世紀以来、イスラームと敵対していたというお話ですが、その後、大航海
 時代から帝国主義と、猛烈に世界に進出していきますね。そしてその際にきわめて大規模な虐殺が起こっている。
岸田: 大航海時代でアフリカ、アジア、アメリカ、インドなどに出ていったのですが、その結果、ヨーロッパ人
 はますます劣等感と敗北感が募ったと思います。 誰だって、ふるさとの地で何とか暮らしていけていれば、
 決してふるさとを捨てて遠い外国なんかへ行きたいとは思わないものですが、当時のヨーロッパ人はヨーロッパ
 に安住できないいろいろな事情がありました。人口の四分の一から三分の一が死んだと言われる十四世紀半ば
 のペストの大流行、打ち続く飢饅、宗教的迫害など。ヨーロッパ人自身は、進取の精神で広く世界へと進出した
 と思っているようですが、他の大陸へ出掛けていった連中は、客観的には、命からがら逃げ出した難民でした。 
 15世紀の終わり頃は、ヨーロッパよりインドや中国のほうがはるかに文化的にも経済的にも上で、豊かな
 生活をしていたのですね。 ヨーロッパの難民たちは、世界を知ることによって、ヨーロッパがいかに遅れていて
 劣っているかを発見したのです。 その劣等感というか敗北感をひっくり返すというのが、近代ヨーロッパ人の
 植民地主義を支えた情熱なんですよ。 われわれのほうが遅れている、劣っていると感じて、それ以後の
 ヨーロッパ人は、われわれのほうが上なんだ、優秀なんだということを証明しようと必死でした。それ以後、
 彼らが、何かにつけて、ヨーロッパのほうが進歩していると繰り返し繰り返ししつこく主張したがったのも、
 この必死の努力の表れでした。
小滝: ペストのことで一言注釈しておけば、あれもキリスト教に原因があるんです。当時は修道院があちこちに
 でき、実に多くの成人男子が修道院に入っていたそうです。その食糧をまかなうために、大規模な森林伐採をやった。
 さらに森林伐採には宗教的な意昧もあって、森を残しておくと、土着的な精霊信仰が生き残って、異端や異教が
 生れるので、キリスト教を広めるという意味でも森林を伐採した。そうしたらフクロウとか蛇とかがいなくなって
 野ネズミが大発生し、それにペスト菌を持ったノミやダニが寄生したもので、大流行を引きおこしていった。
 ~~
 現在、アメリカをはじめ西欧文明が基礎から揺らいでいるが、この辺の一神教が主導してきた文明の行き
詰まり。そして、これからは中国、インド、東南アジアの文明が必然的に世界をリードしていくしかない。
アメリカの属国として戦後の経済成長を続けてきた日本も、ここで大転換期をむかえたのである。
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2757, 今後のノーベル賞の有力候補は?
 2008年10月22日(水)
 一昨日の産経新聞 【正論】の ー ノーベル賞で「銀メダル」の日本 ーが、面白い! 
 その中で、今後の日本のノーベル賞の候補を何人か挙げていた。
 アメリカの国力を感じるが、日本も満更ではないことが窺える。
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 ●≪政府の50年目標も有望≫
 (以下、字数の関係でカット2009年10月22日)
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2007年10月22日(月)
2393, 恥はかかせろ、いじめはなくすな
 戸塚宏が、「新潮45」6月号に寄稿していた文章が考えさせられた。彼は自分の戸塚ヨットスクールで、
生徒を何人か死なせた責任で6年の実刑を終えて、再びヨットスクールで指導をしている。石原慎太郎
弁護者で彼を支持している。
 ーまず彼の論の概要をまとめてみるー
  *力は悪か、いや善である。
・6年経って出所して、子供たちは良くなったかといえば、ますますオカシクなっている。
 生気がなくなり、得体の知れない無力感を漂わせ、一方で些細なことで直ぐに自殺する子供が増えている。
・暴れる子供はまだよいが、無気力で何も行動を起こさない子供は直しにくいし、完全に直らない。登校拒否
 とか、引きこもりやニートといった、社会に反発する力のない子供たち。彼らは幸福を感じる能力もないし、
 幸福になろうと行動もしない。人類始まって以来の、最も奇妙な生きものが出来上がってしまった。
・明らかに戦後教育が間違っていた。戦後教育は「力は悪なり」と教え込んでいた。教育者も親も、その信者で
 子供を強くすることは悪だと思い込んでいた。 そして子供たちを弱く弱く育ててきた。しかし、力は善に
 決まっている。弱ければ役に立たない。海で溺れている子供を、腕におぼえのある人が助けて、子供は一命
 を取りとめることができる。力があればこそ助けられるのである。 強いからこそ、行動ができるのである。 
 それをどこで、どう間違ったのか、「悪」としてきたのが、戦後教育なのだ。
・子供を教育するに当たって、「褒めて育てる」ということがまかり通っている。「叱るより褒める方が正しい」
 と親も先生も思い込んでいる。だが「褒めるより叱る方が正しい」に決まっている。褒めて褒めて、みんな
 駄目にしてきたのである。 叱ることを、罰のひとつとしてみよう。 罰は世界中にある。
 だから人間の本能である。 本能は種族保存を目的としているから善、当然、罰は善である。
 駄目な奴、失敗した奴を罰しようというのは、善なる目的を持っている。それは、相手の進歩でもある。 
 罰は相手のためを思ってやることなのだ。叱ることも同様で、相手を考えて叱ってやるのだ。