つれづれに

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   今日のYoutube

 今日は母親の命日。これから墓参りの予定。
今でも月に一度は夢に出てくる。
誰にとっても母親は忘れがたい存在。
末っ子でもあり、孫のような存在だったのだろう。

 今日の写真は、母親の母が、大事にしていた仏像。



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2017年㋅4日
閑話小題 ~母の話

   * 母親と供に
 宇宙船内の両親の席の母の隣に座り、一方的に話した内容とは。
≪ 父親も尊敬してましたが、貴女も人間として見上げる存在でした。
 亡くなった時、医師希望の解剖の結果、心臓の4分の1が壊死していたこと
を知り愕然としました。2人の息子を死なせ、母としての責任と後悔で重度の
ノイローゼに陥ってしまったことは知っていました。それでも、心臓が四分の一
も壊死していたとは。 中学校2年の時に、夜半、心臓発作のため、立川病院の
院長自らが駆けつけて、止まりかけた心臓のマッサージをしながら、大声で、
『堀井さん、自分で生きようとしなければ助かりません。苦しくても生きたいと、
思って自ら立ち上って下さい!」と絶叫していたのを覚えています。
言語に絶する苦しみが当時の私に伝わっていたと思ってましたが、殆ど分かって
なかったということですよね。 白髪が立上り、両手を上に突きあげ。私を見て、
「助けて!」と、絶叫していましたね。その急場を乗越えた後、少しずつ病状が
良くなっていく過程で、新興宗教に助けを求めたり、宗教書や倫理書を熟読する
ことで、苦しみの種を、一つずつ取除いて立上っていく姿を身近で見ることが
出来ました。貴女の生い立ちは、生れて直ぐに父親が亡くなり、男後家の義父に
苛め抜かれたと、ことあるごとに聞いてました。実母も義父に気遣い、表向き
幼女の貴女には冷たくしていたと。 親からの直の愛情を、子供に与えられた
経験のなさが、仕事の忙しさも手伝って、目先、ガムリャラに生きるしかなく、
息子の不幸を招いたと、聞いていました。これは子供の私たちにも影響をあった
ようです。 その反動が、私に集中し、孫のような特別待遇をして貰いました。
結果的に、それが良かったか、悪かったか。貴女は、子供でも分かるような、
宗教書や倫理の本を何気なく、茶の間において、自然に読ませてくれていたのが、
間接的教育だったのですね。
 10年近くの重度のノイローゼの中で気づいたことは、「過酷の環境下での、
『無教養』が、取返しのつかない不幸の原因だった」ということですよね。
私自身も、「知識の絶対的不足」に気づいたのは、地元を離れた学生時代。
オープンハウス的な寮生活で、全国の多くの人と、私生活を共有したためです。
「面白い共同体の寮があって、実に社会勉強になる」と、何処かから聞きつけ、
放り込まれましたが、その実態について、殆ど話した事はなかったですが…
これが絵に書いたような雑多の家庭事情を持った玉石混合の25室の寮。その部屋
には、その友人も多く出入りをしており、良いにつけ悪いにつけ、赤裸々な様々
な品位を垣間見ることが出来ました。これが、面白い別次元の空間。都会の寮や、
アパートなら、こんなものでしょうが… 
 そういう貴女と33年間も同居することが出来、あまりに多くを学ぶことが
出来たことが、この地球ツアーで、一番の成果だったようです。両親にならって
何が創業の人生を目指してきたか、である。『ご覧のとおり、そのまま結構!』
とは、あなた方を省みると、決して言えません。何はあれめぐり会えたことが、
一番の感謝すべき幸運だったと、黄昏の日々を過ごしています。≫

 
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2002/08/16
送り火ー母への追悼文

今日はお盆の送り火ーご先祖様があの世に帰っていく日だ。
6年前に亡くなった母の通夜の挨拶の下書き文が出てきた。
もうあと一ヶ月で7回忌だ。机の中から偶然出てきた文を書いておきます。
  -通夜挨拶ー         平成8年9月25日20時

本日は母の通夜にお忙しい中、遠方よりご列席いただき
有難うございました。母も心より喜んでいると思います。

この7月半ばまで浮腫で入院していましたが、昨日の9月24日の
12時51分に帰らぬ人となりました。

当初は三週間の入院予定で順調に回復しているように見えましたが、
まさかこれだけ早く亡くなろうとは・・・。
88歳6ヶ月の命でした。

母は生前、今夜飾られている写真を自分で用意して‘私の葬儀に
必ず飾るように!’との遺言でした。本人が一番気に入っていた写真です。
また通夜は明るく華やかに!とのことでした。

私自身29歳の時から21年間、母と同居、
母に手を取られて今日まできたというのが実感でした。
自分でいうのは何ですが、本当に偉大な母でした。
母の死で自分も初めて一人立ちができそうです。

七年前に脳梗塞がでて以来、大木がゆっくり倒れていくように・・・。
そして今日に至りました。その中で一人の人間の「生老病死
のすざましさを身近で見せてもらいました。
私も死ぬ時は母のように死にたいと思います。

母とは二年前より、早朝長岡ニュータウンの広場までドライブに行き、
誰もいない散歩コースを20~30分、車椅子で一周するのが日課となっていた。
そして途中のベンチで一本の缶ジュースを半分ずつ飲むのが・・・。
正に霊界を二人で宙遊しているようでした。 そして一回ごとに、
これが最後かと、これが至福の時かと実感していました。

今夜は通夜参列いただきありがとうございました。
明るい話をするつもりが涙が出てしまいました。
 重ねて、参列有難うございました。

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2001/12/21
[56] 母のアルバム
昨日母のアルバムを見ていたら、若かりしころの父とその兄弟達
の写真があった。

そこでパソコンのアルバムに取り入れようスキャンしたところ、
上部が細くなる写真に映し出された。

何回やってもそうなるので、ひっくり返してやってみてもおなじように
上部が細くなる。

怪奇現象化と薄気味悪くなりっていると、TVのBSデジタルラジオから
‘故郷’曲(ウサギ追いしかの川ーーー)が流れてきた。