つれづれに

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  今日のYoutube
 
 昨日のシネマは、「一日サービス」で、込み合うため、
今日に順延した。何をみるかは、まだ迷っている。
毎回、結構、刺激的で、物語に入りこむに30分は要する。

 早朝のポタリング、かなり肌寒い。何とか半袖で大橋二つを
一周してきたが。ランニングの人は、殆どが半袖である。
 
 一昨日、百均で「ハロウィン」のカボチャの面を買ってきて、
2Fの玄関わきに括り付けておいたが、以来、カラスは近寄ってこない。
いつまで効果があるか。家のインコに、見せたところ、「ピーッ」と、
枝から転げ落ちた。その後、怯えて奥に隠れたまま。効果があるようだ。


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5649,不幸な国の幸福論 ~④
2016年09月02日(金)

          <不幸な国の幸福論  2009/12/16 加賀乙彦 (著)>
   * 自殺の原因が多い「ウツ病」が急増
≪1996年には43.3万人であったウツ病の総患者は1999年には44.1万人と横ばい
であったが、その後、2002年には71.1万人、2005年には92.4万人、2008年には
104万人と9年間で2.4倍に増加している≫
▼ この6年後の2014年に111万というから、6%増。青年期は、多かれ少なかれ、
精神が肉体の変化について行かず、躁鬱気味の状態にある。精神も肉体と同じ、
健康管理が必要である。人の周囲は「世間」という何も考えない人たちがとり
囲んでいる。そして、その毒は、注意しないと、精神がやられる毒。それは、
無意識に刷り込まれた「考えない」という習性。その集団が世間という蓄群。
その重症が、ウツ病。そして自殺に至ることもある。 それから逃れるために、
独り遊びの世界、趣味を持つこと。趣味を木に例えると、木を囲んだ門で囲み、
「閑」静の状態になれる世界が必要である。自殺こそ「閑静」の世界?
閑静の向こうの暗黒の世界が、生まれる以前ということか。
   * 刷り込まれた考えないという習性
 人生は、18歳までに刷りこまれた先入観を一生かけて壊していく過程である。
その逆に、その先入観を強固にして小さな世界を更に狭めるのが世間人。
別名、ゾンビ。これに、やられ「ウツ症」「ウツ病」、そして「自殺願望」、
「自殺」と、あい及んでいく。近所を見渡しただけでも・・ その本質は、
窒息死である。それは、独りになって、考えないことが起因している。
  ~その辺りから~
≪ 徳川の治世、幕藩体制が固まるまでには島原の乱をはじめ幾つもの一揆
起りましたが、それらが厳しく弾圧されると、人々は唯々諾々とお上に従う道を
選びました。人間というのは、どうせ無理長いものには巻かれろといった気持ち
が強まると、それについて考えること自体をやめてしまう傾向があるものです。
 江戸庶民も、お上のすることには口をはさめないのだから考えてもしょうが
ない、考えれば考えるほど不満が募りつらくなるだけ… と、自分の半径数十m
内のことだけを考えて生きるようになったのでしょう。
 そもそも、人とうまくやっていくことを第一に考える日本のような社会では、
考える力自体が育ちにくい。一人ひとりが私はこう思うと自分の意見を主張し、
対等な立場で論じ合ってこそ、互いの考えを深めていくことができるのですから。
そういう日本人の性向は、二百六十五年に及ぶ世界に例を見ない江戸の平和の
なかでさらに強まり、考えるという知性が少しずつ骨抜きにされていったような
気がします。江戸が明治に変わっても、富国強兵を第一とする政府によって、
庶民は政治や社会について考えないこと、勤勉で命じられたとおりに行動する
兵士や労働者であることを強いられた。大正時代、人々のあいだに自由と権利
を求める気風が高まったけれど、その大正デモクラシーも20年と続かなかい。≫
▼ 自分の半径十m内の事象が現実世界と信じて疑わない人たちが、「畜群」。
 ネット世界が、国境の垣根を壊しつつあるが、逆に、「畜群」の世界にとって、
有効に働く作用にもなる。考える前に、他人の考えに従うことが、当人には
手っとり早いからだ。ボウフラの群れ化である。ボウフラはボウフラの住む
水溜りしか世界を知らない。そのボウフラに元々考えなど必要としない。
必要なことは、他の虫の餌食にならないこと。自分からみて、無知は罪と思う。

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5284,閑話小題 ~高齢者運転の講習と適性検査
2015年09月02日(水)
   * 高齢者運転講習と適性検査
 一昨日、70歳の免許証の書換えを前にした、法定の『高齢者運転講習と
適性検査』を受けてきた。参加者が10名(その中に、田中真紀子もいた)、
時間は14~17時までの三時間。講義、ビデオ、目の検査、適性検査、実際
の運転検査など、かなり真剣な内容。 どうも目が不適正で、このままだと
不合格になりそうである。書換えまで5ヶ月あるので、近々に病院で検査に行く
しかないが、最悪は免許返済もありうる?
 10数年前から、長いトンネルや、夕方の薄暮や暗くなると、視界が悪く
なってはいたが、どうだろう? 講師曰く、『人によるが、歳と共に、年々、
極端に運転の適正が落ちていく』と。これも、「悲しい老い」の一現象。
気持ちは若いが、肉体は、年齢そのままに老いている。 講習の中で、
《地元で去年の交通事故の死者が、加害者・被害者を含め8人だったが、
そのいずれも65歳以上の高齢者。 以前は圧倒的に若者が多かったが、
都会を中心に若者の車離れの傾向が強いため。 都会では、地下鉄網が
キメ細かく張巡らされていて、何処にも歩いていけるし、買物はコンビニや、
スーパーがあり、ネット販売がある。 スーパーや大型店での大きな物は、
宅配便で、送ってもらえるし、スーパーがネットによる宅配まで開始をした。
そこに都会では駐車場などの経費がかかるため、若者は、当初から関心がない。
それもあって、運転教習所は深刻な経営難で、市内に二つあった教習所の
一つが数年前に廃校になった。》と。 若者の正規雇用が減り、収入から
みて、都会では親がかりでない限り、車を持つのは不可能に近いのが現実。
 ところで、来年早々の、免許の書換え、視力の具合からみて、返済も
真剣に考えてみなければ。タクシーを頻繁に使っても、維持費からしても
格安になるが・・ これが、老いの現実か。まずは、医者にいってから!
 マイナスに考えすぎないで、出たとこ勝負になるが。そういう年齢だ!
そして、偶然だが、以下に丁度よくつながる。

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2006年09月02日(土)
1978, クルマが売れない!  
              Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning   
ある新聞の経済欄で「クルマが売れない!という記事が出ていた。
景気回復に比例して車が売れ出すという業界常識が崩れてしまった。
車そのものの魅力が低下、車が日用品化してきたからだ。これまでの車は
30年から40年前までの時計みたいなもの。ロンジンとか、ローレックスとか、
持っているだけで偉そうな錯覚をさせるイメージを加えて売っていた。
ステータスシンボルの要素が大きかった。ところが現在は、どんなよい車に
乗っていても何の価値も感じなくなった。むしろ頭の軽さが目立つだけだ。
この情報化でモノ、コトへの価値が見え始めてきたのだ。7月の新車販売
台数が(軽自動車を除いて)13ヶ月連続で前年実績を下回ったという。
軽自動車を除くと、13ヶ月も前年を下回ったのは1968年以来という。
 (軽自動車を含めると4ヶ月連続の下落)
あれだけ騒がれて登場したトヨタセルシオの国内販売が、当初予定して
いた計画を遥かに下回ったという。この背景には日用品化した以外に、
消費の多様化がある。車に振り向けられた消費者のお金が、デジタル
携帯音楽プレーヤーや、薄型TVなどの家電製品や、携帯電話の通話料に
向けられているためだ。確実に消費者の欲しいものの中の、順位が
下がっている。かって本田宗一郎が「ライバルは同業者だけではない!」
といって言葉が、さらにシビアに聞こえてくる。車購入の中心だった団塊
世代の、車への興味も確実に下がってきている。
年功序列の賃金制度がホボ崩壊し、「いつかはクラウン」という購入パターン
は過去のものになったこともある上に、その年代が実質定年を迎えつつある。
「クルマが売れない」というキーワードで検索をかけたら、日産と三菱自動車
の販売不振の内容が出てきた。かなり深刻のようだ。日産のゴーンの戦略も
尽きてきたようだし、鼻持ちのならない「三菱のブランド」が大衆に嫌悪感を
持たれてしまった。フルラインのトヨタ、若者・スポーツ感のあるホンダと、
軽自動車のメーカーと、それぞれの特化が顕著になってきている。 
ところで私自身14年近くトヨタソアラに乗っている。前の型のソアラ
4年半乗った後、新中古のソアラに乗り換えた。 現在もエンジンもしっかり
しているし、車自体14年以上乗った車という古さを全く感じない。  
まだ8万キロしか乗ってないが・・・ また十年前より、高速自動車の長い
トンネルに入ると、閉所恐怖症みたいな感覚になってから遠乗りをしなくなった。
そのため「近くの移動の手段であれば何でもよい!」という気分になった。
おまけに前の型のソアラがあまり出回ってないので、古車を乗っている感じがない。
60歳になったら最後の車を買おうと思ったが、そんな気分にもなれない。
それなら海外旅行に、もっと行ったほうがよい。その気持ちは、一般の団塊
世代と同じなのだろう。売れない理由は、流行語でいうと、社会の比重が
中流社会から下流社会へと変化していることもある。 それが一番の理由。
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4919,一度、死んでみましたが -2
2014年09月02日(火)
              『一度、死んでみましたが』神足 裕司著
  * 死の淵からのルポの凄み ~①    
 介護度5の筆者の、たどたどしい文から、その日常と心情が直に伝わる。
それでも生きなければならない、そして、書き残さなければ直ぐに忘れてしまう
恐ろしさ、そして、ベッドで、のたうちまわる日常を淡々と、たどたどしく、
生々しく書いている。 倒産の葛藤の日々に似てないこともない?が、
状況のレベルが違う。 ーその辺りからー
≪ ● 死の入り口 ーp21
忘れていたが、思い出したことがあった。また忘れるので、書いておく。
 たぶん、意識がなかったときのことだと思う。 ボクはのんびりとした毎日を
過ごしていた。あたたかい、やわらかい空間で、取材をしたり、原稿を書いたり
していた。「そうだ、家に帰らないといけない」「心配しているかもしれない」 
そう思っていると、遠くから息子や娘の声が聞こえてくる。「そろそろ帰ろう」 
そう思っていたが、何度も原稿の締め切りがあって、たくさん原稿を書いていた。
そして、もう一回書かないと、とゆっくり書いていた。死の入り口の人間は
痛みもない、あのあたたかい、やわらかい空間にいるのだと思う。
死の入り口は、痛くも怖くもないのだ。”
  ● 忘れていた ーp25
 思い出したことがあった。眠っているとき、白い服を着た白い鳥のような
ものがボクの頭の上あたりをぐるぐる回って飛んでいる。僕は仕事で忙しかった
ので、その白いものを見て見ぬふりをして、仕事を続けていた。忙しい、
忙しいと、締め切りに間に合いそうもないと、原稿を一生懸命書いている。
気分は良好。そこで娘の叫び声がする。「パパ!」僕は娘のところ行かなくては
とふと顔を上げると、白いそれは消えてなくなった。喉が渇いていた。そうだ
これは喉が乾き過ぎたからだ。だが僕は何を知らせたいのか、わからなかった。
「パパ、お茶飲む?」そう娘に聞かれて、喉が渇いたのをはじめて思い出した。
本当に喉はからからで、お茶をごくごく飲んだ。もっと、もっと、飲みたい…。
だが、僕は喉が乾いていたのを、忘れていた。 ≫
 ▼ 何気ない文章だが、死の淵の意識は、こういうものだろう。
  なまあたたかい、やわらかい空間にいて、痛くも怖くもないようだ。 
 それぞれの章ごとに、介護度5の筆者の写真があるが、その虚ろな表情が、
そのまま、その状況を伝えている。 介護度5の重症患者の自分を、そのまま
ルポをしているのだから、これ以上のルポはない。 誰もが、訪れる『死』の
前での凄惨な日々は避けられない。「死んでしまえば、それまでよ」だが、
その直前の凄惨な格闘、その時は、その時に受け入れ闘うしかないが!

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4552, 2050年の世界 ー3
2013年09月02日(月)
  「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 
                  英『エコノミスト』編集部 (著) 
 * 米国の衰退の予感と、勝ち組になる国の姿は?  
 日米欧のうちG7の中で残るのは米国だけと予測。人口衰退の国に明日は
ないことになる。その中で、日本の影は一層、薄くなるのは、現在の日本を
見ていても分る。米国の実質支配下の隷属国家、親が転ければ子も転ける。
    ~まずは、その辺りから抜粋~
《 米国民は、つねに競争、解雇、収奪、殺害のリスクにさらされている故に
 脆弱感を持ち続けている、だから宗教にすがる、と分析する。 
次に・高齢化に伴う医療費・年金の財政圧迫であり、投票率も高く献金も多い
高齢者の仕様の老害政治である。高齢者に有利な財政・優遇策ではなく、
若者の勤労意欲を引き出し、結果として高齢者をよりよく支えさせる賢明な
政治に切り替えよ、と主張する。エコノミスト誌の予測を読んで、私なりに
導いた結論は、次の点である。これからの「国々の興亡」は、中産階級を育て、
維持し、大いに嫁がぜる中産階級大国と、若年層の勤労意故、社会・政治参加、
高齢者を支えるコミットメントを上手に引き出すスマート・カントリーが
勝ち組になる。それはグローバル化を活用しながら、可能にしなければならない。
グローバル化の波頭でサーフィンするのではなく、海面からは見えない潮流を
とらえ帆を張ること。それには黒潮をつかまえることだ。そのひとつは、
シュンペーター起業家精神。  ローレンス・サマーズは「21Cは、
シューペンターがもっとも重要なエコノミストになるだろう」と看破したが、
グローバル化により創造的破壊がグローバルに解き放たれている。
その怒涛に渦から湧き上げるプランクトンを貧ること。
もう一つはグローバル・リテラシーである。いま、それは英語である
  * 二〇五〇年の日本の影は一層、薄い。
 2010年に1億2600万人を打った人口は減少し続ける。人口減少は毎年1%GDP
押し下げる。GDPは世界全体の1.9%、(2010年は5・8%)。人口一人あたりの
GDPも、米国を100とすると、韓国の105に比べて日本は58へと沈んでいく。
しかし、日本の真の問題は人口とGDPではない。 日本の科学関係のノーベル賞
受賞者は15人しかいない、オーストリアは日本の人口の7%に過ざないが、
受賞者は14人と日本より一人少ないだけだ。なぜなのか。エコノミスト誌は、
権威に挑戦することを目己規制するからだ、と見る。「欧米に追いつき追い越せ」
の後に何を生み出すのか、それが見えない点では日本も中国も同じである、
というのである。向こう40年間、日本にとっての最大の挑戦は、シュンペーター
と英語ということかもしれない。
{ *参考 20世紀の経済学者ヨーゼフ・シュンペーター(1883~1950年)は、
 イノベーションと改善を求める起業家の意欲が、いかに大きな変動と変革を
もたらすか注目し、起業家精神を「創造的破壊」をもたらす力と考えた。
彼によれば、起業家は「新結合」を遂行し、古い産業の衰退を促す。
確立されたビジネス手法が、より優れた新たな手法により破壊される。}》
▼ 現在の日本がシューペンター的起業家精神を持って創造的破壊が可能
 だろうか?といえば、疑問である。それより国家の概念が、情報端末とネット
の進化で破壊される可能性が高い。ますます個人化が進み、個人が国家や、
地域社会の垣根を超えて行き来する。10年前、誰がPCが、タブレット
スマートフォンの大きさになると想像した?
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4177, 哲学で自分をつくる ー6 (デカルトー②)
2012年09月02日(日)            
 第二章 まだ自分をさがしているのか?(ーデカルト―②)
               「哲学で自分をつくる」瀧本往人 (著)  
   * まずは、「感覚」「現実」「数学」を疑うことから
 確かに間違いなくある五感と、現実。デカルトは、まず、それを疑った。
現実と思っているのが実は夢でないかと。確かに感覚で捉えても、錯覚という
こともある。 まず、感覚と現実をデカルトは疑った。なる程、デカルト
近代哲学の祖。ここから、まず疑うのが知性、理性の出発点。膨大の情報化の
真っただ中で、このへんの事を、よく分かってないと、その洪水に流される。
いわゆるB層の人々になってしまう。割り切ってしまえば、それも良いが。
哲学で自分をつくろうとしているのだから、現実も、感覚も、まず疑うこと
から出発しないと・・ あの人たち?のようになる。ーその辺を抜粋ー
≪ ◎ 最初に疑ったのは、「感覚」である。一般的には、自分が見たもの
感じとったものは絶対に正しいと考えたくなるが、デカルトはこれに依存して
はならないとした。なぜなら、見えているもの、感じているものは、しばしば
「錯覚」を起こすからである。 ・・・要するに自分からの確信は世界を正確に
とらえているとはかぎらない、ということである。逆に、この錯覚にさえ気を
つければ自分の感覚もあてになる、とも言えるが、デカルトは、どんな場合も
間違いなく依拠できるもの、条件なしのものを追求しているので、感覚には
依拠できないとする。
 ◎ 次に疑いにかけたのは「現実」である。実は第一の疑いである「感覚」と
この「現実」とは重複した部分がある。実際に見ているものは、「感覚」でも
あり、「現実」でもあるからだ。だが、自分が今、経験していること、つまり
感覚も含めて把握していることが「リアル」だ、というイメージならば「現実」
を疑うデカルトの意図は少し明確になる。この「現実」に対してデカルトは、
もしかすると、今現実と自分が思っているものも夢ではないか、と疑ってみた。 
夢なのか現実なのか、その見定めができない、ということである。こでもやはり、
自分が夢を見ていないということが証明されれば問題はなくなるのだが、むしろ
デカルトは、その根拠を必要としているので、確かなことではないとみなした。
 ◎ そして第三に、デカルトは数学を疑う。彼は最も擁護したいものを一度
懐疑にさらしたことになる。数学的な真理は確かに、その体系においては真理が
成立しているかのように見えるが、新たな真理が発見されてしまうと、今まで
信じてきたものもあっけなく崩れることがある。デカルトはここで、数学を
特権視せず世の中に多々ある約束事と同様のものとして、不確かなものとみなす。
このようにしてデカルトは、用心く、私たちが最も依拠するであろう「感覚」
「現実」「数学」にそれぞれ落し穴があると強調する。つまり、特に確からし
と思われているものさえ不確かなのだから、「すべてのものごとは不確かなもの
なのだ」ど判断するのだ。≫
▼ 般若心経の「色即是空」の、色が現象であり、受想行織が感覚になる。
 それらの全てが、即、空であり、あてにならないとデカルトは看破した。
まず常識を疑うことが第一歩だが、それを疑っている自分の感覚を疑って
かかることこそ必要である。緑の原野からサバンナに出てみて、
「あの原野での出来事は何だったのだろう?」と、振り返ると、何も疑問を
持たないで同じ行動パターンを繰り返していた自分が見えてくる。
そして、現在も同じようなことをしている。根こそぎ、否定出来ない。
 それをするには常に死を意識しなくてはならない。
しかし、目を背けている弱い自分が、ここにいる。