つれづれに

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  今日のYoutube

 今朝も、三日続けてポタリングを中止。
来週いっぱいは、ほぼ雨天で無理ですか。

 今日は都議会選挙。自民党の惨敗の予測は誰の目にも明らか。
衆院選挙で自民党議席を与え過ぎが、慢心を政府に与えてしまった。





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・・・・・・

3750, 自分の居場所のみつけかた ー?
2011年07月02日(土)
            「自分の居場所のみつけかた」ー斉藤学
 人生はままならぬもの。特に少年・青年期は傷つきやすい時期。ところが
中年期、そして晩年期に入ると、過去の出来事のガスが心の底の沼に溜まり、
いつの間にか泥沼になって猛毒が湧き出てくる。 それに老化が重ねると、
その毒で脳がやられ下手をすると、重症の鬱病分裂病になる。それを防ぐ
には孤独に徹し、先人の知恵などを借りて洗浄をしないと老醜を曝すことになる。
憎しみが重度になると、主語(相手)を選ばなくなり、憎しみの連鎖が始まる。
以下は怒りと憎しみの意味が分かりやすく書かれている。
【 ● 怒りに羨望が絡むと「憎しみ」に変わる  ーP・118
「怒り」と「憎しみ」の間には少し差があります。怒りは、相手に欲しいものを
おねだりしてももらえないというときの感情です。まだ相手の愛を求めています。
赤ちゃんが「オギャー」と泣いて、お母さんのおっぱいの必要を示す。
これを「怒り(アンガー」と言います。そこに「羨望」が入ってきます。
これは相手が持っているものを、本来自身が持つべき、とその人から取り
上げたくなる感情。「エンヴィー」という言葉の由来は、「横目で睨む」です。
つまり、人の持ち物を睨む。それを取り上げたいという感情。怒りに羨望が
絡んでくると「憎しみ」になります。「嫉妬」というのは男女の関係で、
自分の持っている人をとられるのでないかという焦燥、怒り、不安の複合した
感情です。 取られることを恐る感情、取ろうとするのも憎む感情です。
ここにも「憎しみ」があるわけですが、男女関係が絡まないエンヴィーとは
区別されます。 嫉妬は人聞関係を破壊しません。むしろ人間関係を破壊される
ことを恐れる感情ですが、憎しみ、憎悪は人間関係の破壊に結びつきます。
もう一度、赤ちゃんとお母さんの関係で考えてみると「おっばいが欲しいのに
もらえない」というときに発生する感情はアンガー。お母さんはいいもの
(おっぱい)を持っていて、弟だの妹だのがどんどん出てくるお母さんが持って
いるものをみんな自分のものにしたいと思ったら、これはエンヴィーになります。
 ですから、愛情というのは考えてみるとかなり厄介なもので、一つ間違えると
怒りに、もっと間違えると憎悪に転換します。そういう「関係」に身を置くのが
厄介だと思うと、逃亡心が生まれてくる。こんな面倒な関係からは離れたくなる
こともあるでしょう。昔の東洋人の思想の中には、そういう面倒な関係が嫌だ
というものがありますね。 いろいろな欲望や感情が渦まいた俗世から離れて、
仙人のように淡々と生きる生き方に憧れるというものです。それをやるとなると、
どこかで線を引いて、人間関係からリタイアすることを考えなければなりません。
あれこれ面倒なことがあるうちは、山の中で仙人のように暮らすことに憧れる
かもしれませんが、いざ本当に離れたところで一人暮らすとなったら、
今度は記憶の中の人間関係にわずらわされることになる。 
人間は人の中でしか生きるしかないのです。】
▼ 大人数の兄姉の中で、私が両親の住んでいた実家に住みついて家屋敷
 などを引き継いだため多くの葛藤があったのが世の倣い。「怒り」×「羨望」
=「憎しみ」は肌で嫌というほど感じ取ってきた。私も家内も愛情を限りなく
受けてきたが、逆の与え方は上手くない。「自分」というものは、自分一人の
閉鎖系で成り立っているより、人との「関係」として成り立っていると著者は強調。
 「愛」というのは、そういう関係性を言っている。 だから、年齢を重ねるほど
人間関係は丁寧に扱わなければ。「ピーク、エンドの法則」がある。 
記憶は、ピーク時と、終わりが引き立ってくる。その数パーセントで、8割
以上の記憶を決まる。ドロドロの経験が少ない人は、その辺の構えが甘くなる。 
心の奥の沼に大切な人生経験をマイナーにして落とし込んでしまう。


・・・・・・・
3385, 911・考えない・日本人  ー3
2010年07月02日(金)
           「911・考えない・日本人 」林 秀彦 (著)
 ー以下の箇所は、欧米の一神教無宗教の日本の差でもあるー
 * 生存に必要な要素、それは悪 (P・62)
≪ 男のいない日本に、「男らしさ、勇気」があるわけがない。 白人の根本的な善悪の
問題は道徳科目ではない。哲学科目だ。当然、日本にあるわけがない。 日本の悪は改心と
謝罪の対象である。 白人の悪は復讐の対象である。 根本的に異質だ。 人間の生存に
不可欠な、最も重要な要素は何か。 悪である。 悪を身につけない限り、生きられない。 
人間を悪から解放するものは、より強力な悪しかない。 悪がないことは善か? ノー。 
それは無知であり、バカだ。 生きる条件、つまり《人間の条件》を持たないということだ。
 そしてここに911の問題が拡大される。あの出来事の真の意味を理解できない限り、今後の
人間の条件はない。「神は死んだ」というニーチェの言葉を、もっと深く理解しなくては。
だが、悪がわからなければ、神もわからない。 悪のない日本には、死ぬ前から神は存在して
いなかった。存在しない神は死ぬこともできない。 つまり「意味」がない。  
意味――、 神と悪は鶏と卵だ。 ねえ、ちょっと、ほんとに・・・・
冗談じゃなく、日本史をよく勉強してごらん。そして、その後で世界史を勉強してごらん。
そうすれば、いまなぜ日本が。これほどに惨憺たる状況にあるのか、実にハッキリ、
完全に分かるんだ。
 ~~
「人間の生存に不可欠な、最も重要な要素は何か。悪である。悪を身につけない限り、生き
られない。人間を悪から解放するものは、より強力な悪しかない。悪がないことは善か?ノー。」
 これは、ユダヤ教などの一神教の考えかただが、島国の日本人には考えられない思考法。アラブ・
欧州には悪が身近に常にあるから、考えるしかない。 現在の惨憺たる状況は、過去の歴史を
みれば分かること。僅か30年前に隣国中国では、呆けた老人・毛沢東の方針で、2千万とか
3千万人が虐殺されたのである。 あれが悪か善かは歴史が証明するが、あの世界では、
善人は悪党の片棒を担がされるか、殺される。現在、日本はアメリカに60年以上かけて隷属的
人間に変えられた。思考が出来ない哀れな人間にである。
   =偶然、以下の「垂直の言葉」に思考について書いてあった。面白い偶然である。=
 ・・・・・・・・・
3010,垂直な言葉
2009年07月02日(木)
「魂とは何か」池田晶子著    ー読書日記
 池田晶子の「魂とは何か」という本に、「垂直な言葉」というがあった。
横に流れる時間に対して、垂直の時間=永遠の時間、という言葉がある。
「今という瞬間の中にこそ、永遠がある」を宗教的、哲学的に考えていくと、感動、感激の瞬間に
感じた垂直の時間の意味の一端を理解することができた。ところが、今度は「垂直の言葉」である。
 池田晶子は判りやすい。 いや、判ったような気にさせる、と言うほうが本当である。
 ーまずは、その部分である。  P-217 
* 考える不思議、「常識」の不思議 【対談】石川好×池田晶子
池田  当たり前のことを言われても、何を言いたいのか読み手がわからない、
と受け止められているのではと。
石川  それは、あなたの言葉が垂直だからですよ。
池田  以前に、おまえは右か左かと訊かれたので、私は垂直だ、と答えたことがあったけど。
石川  そうそう、その意味。日本人の中で、言葉を横でなく縦に、垂直に降りていくものと
自覚的 に使っている人は、めずらしいと思うんです。 なぜかというと、日本の風土
の中に、 垂直に考える習慣がないからね。横の社会なんですよ。歴史的にも、現在で
起こっていることをみても、横のつながり、比較の中でしか,誰もものを言ってないでしょう。
互いの巻尺を当てて、それで対象を測っているという仕方でね。
池田  横軸でものを語るっていうのは、事実でなく、価値を語っているのです。
    たとえば、ある主義をかざす人は自分の主義を正義だという。ほかの主義をかざす人は、
    ほかの正義を主張する。 だけど、「正義」という言葉の意味自体を考えようとしない。
    彼らが語っているのは、事実ではなく、どこまでも自分の価値観なんです。
石川  あなたの動詞の使い方で面白いのは、「在る」という言葉だよね。「居る」ならばまだ
比較対象となる、横軸が出てくる余地があるけれど「在る」になると それが綺麗に
払拭されてしまう。
池田  「存在」を語っているのですよ。 たとえ人について語る場合でも、性格とか生活とかは
捨象されてますから。今度の本にしても、人物批評のカタチをとっているですが、取り
上げた方たちの私の意見は全くないのです。
池田  私は、自分が何ものでもないと思っているのです。何者でもないから、座標原点に
なれるのだと。あとはひたすら考える。その宇宙的な座標原点からは、結構色いろなものが
見えてくる。価値を語っている人たちとは立つ位置が違うので、論争が起こることもないし、
私の周りは台風の目みたいにいつも静かです。
石川  池田さんの文章は、徹底したリアリズムで貫かれている。日本人は、リアルとは生活の
ことだと思っているので、その辺のことは理解しにくいのではないかと。
  ー以上だが、
「垂直な言葉」とは、言いえて妙である。「横軸でものを語るってのは事実でなく価値を語っている」
とは、思い当たる節が多くある。考え抜かれてない言葉の中で生きている我われは横軸の社会的な
価値を話しているに過ぎない。宇宙からの視点で、地球上に住む人間の知恵、そして価値を見直す
時期に来ているが、宇宙からの視点の言葉も垂直である。 
・・・・・・・
2006年07月02日(日)
1916, スペイン画家・堀越千秋ー7      才八∋ウ_〆(∀`●)
 スペイン七千夜一夜  集英社文庫  ー読書日記
スペインといえば、やはり闘牛である。何回か闘牛について書いてきたが、堀越氏の闘牛の見方が
独特の視点である。「俺と一緒にするな!」という著者の声が聞こえそうだが!一回目は衝撃的
だったが二回目に見たときは、観衆と一緒に興奮して、面白いと思えるようになった。早くいえば、
寄ってたかって一頭の牛を殺すのを楽しむショーである。が、慣れてくると、それが恐ろしいことに、
面白くなるのだ。現在は、闘牛士と戦う前に、槍で刺して弱らせる。そうしないと殺される確率が
高くなるからだ。初め観たときに誰もが思う「卑怯ではないか!」と。しかし、ここはスペイン!
それが現地の文化?の一つなら一緒に楽しむこと、と決め込み、何度か自分の良心に言い聞かせて・・  
まずは、その一部を抜粋してみた。
 ー
スペイン名物、闘牛とは、そもそもそんな主客転倒の様式化といってよい。牛は、平和な原野の
牧場からある日突然連れさられる。暗闇に閉じ込められて、いきなりドアが開くとまぶしい闘牛場だ。
怒ってやみ雲にも角を振り回しているうちに、あちこち槍だの銛だのに突き刺されて、最後に長剣を
刺されて死ぬ。 何が何だかわからない。 一方、客の方は、やれあの牛は闘士がない、いや勇敢だ、
角を左に回す癖があってよくない。いや口を結んだままで強い、右足がゆわい、いやダメな牛だ、
いや素晴らしい牛だ、これこそ牛の中の牛だ、等々、勝手なことを言う。 そして、血の泡吹いて息
絶えた牛が、4頭のラバに引かれて退場をするところを、拍手をしたり、口笛をふいて避難したりする。
人間どもの勝手もいいところだ。牛の都合など一切、考えない。人間の都合と審美観のみを一方的に
牛に押し付ける。元々人間対動物の関係は、そういった一方的なものだが。牛の都合は、実は、無視
されているのではない。スペインの人間によって、主客転倒や主客合一の甘露をかけられて、つまり
人間にとって良い牛は、恐ろしい野生の黒牛でもないし、敵でもない。美しい、雄雄しい、勇気ある、
気高い「自分」なのである。強い牛は自分の美点の反映なのである。勿論こっちの自分は、牛が
いくら刺されても痛くもかゆくもない。牛の中に一瞬、自分の美しい反映を認めただけなのだから、
牛がばたりと死んでしまえば、あーあと葉巻をくわえて背伸びするだけだ。
こういう便利で自分勝手で、自由にあっちへ行ったりこっちへ来たり、一瞬のうちに都合の良いほうへ
乗り移る「自分」というものを、日常的に心の中に飼っておかないと、闘牛という、不思議な審美観に
よって支えられる「芸術」を理解したり、まして愛したりなど、到底できない。
    ーーー
 スペイン人と日本人は違うのです!!  
ー以前の闘牛について書いた文章ですー
2002/09/07 パンプローナ牛追い祭り
 今朝9時半より、衛星TVで今年のサン・フェルミン祭を放映していた。もし神様が一日だけ
もう一度同じ日を与えてくれるといったら、4年前のこの祭りの最終日を間違いなく選ぶだろう。
今年は例年になく多くの負傷者が出た。今日の番組は毎朝の牛追いに絞った8日間の内容の為、
毎年放映される中でも特に迫力があった。初めから最後まで手に汗を握る内容であった。
この祭りはヘミングウエーの「日はまた昇る」で舞台になり世界に一躍知られるようになった。
この期間ー7月上旬の8日間、町中の人が白い服に赤の腰巻の布を巻き、
 (字数の関係でカット弐千八年七月弐日)  
・・・・・・・・
2005年07月02日(土)
1551, わたしの酒中日記 ー 番外

わたしの酒中日記を書き出して驚くほど昔の記憶が戻ってきている。居酒屋やスナックのこと
から記憶と背景をたどっていくと、芋づる式に記憶が次から次へと出てくる。その記憶をたどると、
その時々に精一杯生きていた姿に驚かされる。真面目?に不器用に生きていた当時の自分の姿が、
輝いて思えてくる。今まで後ろを振り返らないことをモットーにしてきたせいか、最近になって
振り返ると、その瞬間瞬間の記憶が生々しく新鮮に感じる。その時々の心のひだがドンドン思い
出されてくる。しかし書けないことは幾らでもある。 その辺がプロと素人の書き手の違いである。
本当のことは作家以外、そうは書けるものではない。読み返してみると、若さ特有の自意識過剰が
そのまま見てとれる。それが若さなのであろうが。昔のことを書くのは気持ちが重いが、好きな
酒を飲んだ思い出なら気楽に書ける。その切り口からのTPOSの背景を書き出すのも面白い。
誰もがフラッシュ的な記憶の断片が脳裏に浮かぶ。しかし、それを書き出すということはなかなか
出来ない。そのフラッシュのように戻った一瞬の記億を酒場にからめて書けばよい。
酒中日記を書いて、「人生は多くの何げない日常の断片から構成されている」ことに気づいた。
決して大きな塊ではないし、光り輝いた結婚式や旅行などだけにあるのではない。何げない日常
の中にこそ、深い人生の意味が詰まっている。酒席のことを書いていたら、いくらでも昔のことが
思い出される。それが果たして良いのか、良くないのかまだ判断できない。このレベルなら、
いくら思い出せるものだ。人生は、日常の根っ子の地中の中にこそ、味わいと真髄があるようだ。
・・・・・・・・・
2004年07月02日(金)
1186, 異境・秘境ツアーレッスンー5
 ー感動は蓄積される
何故、異境・秘境に行くのかというと、想像を絶する素晴らしい世界がそこにあるからである。
そして大自然や遺跡の異質の世界に、直接触れて感動するからだ。実際体験して解ったことは、
歓喜と激しい感動は、ほぼ同じではないかということだ。旅行のたびに期待していた数倍の感動と
歓喜?がそこに待っていた。とくに大自然の中の壮大な美しさや神秘性から受ける感動は何にも
変えがたい。その感動を得る為に、いそいそと飽きずに家内と一緒に出かけていく。感動の蓄積
が磁力になり、更により大きな感動を引き寄せる。そして感動は確実に自分の中にドンドン蓄積
されて醸造される。れて、その時の蓄積された感動の波動が開放される。毎日晩酌で、ほぼその
ブロックが開放されハイに瞬間なってしまう。幼児期から青年期にかけて可能な限り、親は子供に
芸術(音楽会や一流の絵)や自然を見せて感動のシャワーを浴びせてあげなさいという。
その量×質が、その人の人生を決めるという。感謝・感激・感動は、その人の潜在能力のベース
になるからだ。今からでも遅くはないから、可能な限り一流なものを見て、触れて感激・感動を
意識的にしていかなくては!今さら遅い?豊かな人生とは、感謝・感激・感動の豊かな人生をいう。
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2003年07月02日(水)
 819, 恵まれていた時代に生きて
50歳の時に、「自分の人生を振り返って実感をいってみろ!」と自問自答した。直感的の出た言葉が
「恵まれていた!」「面白かった」「悔いはない」である。特に思ったのは「恵まれていた」である。
第二次世界大戦直後の1946年の一月に日本に生まれたことが全てといってよい。
 ー冷戦下における日本という環境において、アメリカが中国・ソ連北朝鮮など共産圏に
 対する前線基地と位置づけて、 日本に最優遇待遇を与えてくれていた。
新潟県という全国でも最も豊かな自然を背景にした環境も良かった。
・両親も含めて家庭にも恵まれていた。 多くの兄姉にも恵まれていた。
・ちょうど青春時代が高度成長期にあたり、時代の波に乗ることができた。国に若さと希望があった。
歴史的にみても、20世紀は(特に後半)は、日本にとって黄金の時代といわれるだろ。
この時代を背景として事業チャンスもいくらでもあった。 また時代の変化も激しいのが特徴であった。
とにかく面白い事が多かった。時代が上向きだからこそ変化が面白かったのだ。あと10年、恵まれて
いた時代に稼いだ資産の食い潰しをしていくだろう。そしてその後は亡国に近い状態になることは
明らかである。今の日本は、それしか選択ができないだろう。魚は頭と尻尾から腐るというが、
今の日本の姿がそうである。いま1968年の時代の日記を随想日記に書き写しているが、時代背景
の違いが全く違うことに驚く。やはり経済があってこその国であり、個人がある。 そして特に
「国が豊かで恵まれていた」ことが大前提であった。話が変わるが、昨日12の宮のことを書いたが、
その宮一つ一つとっても全て恵まれていた。宮の意味はどういうことかと考えてみたら、ありがとう
という感謝をする祠ということだ。12番目の異性の替わりに国をあげたほうがよい。その一つ一つ
にできたら100回、計1200回あげるのが理想だろう。とりあえず50回「ありがとう」をいって
みよう。これを一年続けたら運命が変わるのも至極当然である。「ありがとう」を一万回以上続けて
「マイナス思考の毒が激減した」と実感を先日この随想日記で書いた。
「幸せの宇宙構造」というの中に、『3つの帝国』という項目に正にその理由が書いてあった。
人の心には『好帝国ー肯定国』と『悲帝国ー否定国』と『ありがてい国』の3つがあり、それぞれの
国民が住んでいる。一番良いのは「ありが帝国」であるのは当然で「ありがとう」と言っているうち
に無意識の中の否定国の住民が少なくなった為だ。 単純だが、しかし真理をずばり突いている。
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2002年07月02日(火)
455,地球をサッカーボールに喩え
 今回のワールドサッカーを新聞はどう捉えているか、毎日新聞の社説がダントツよかった
「・19世紀のナショナリズム、 ・20世紀の資本主義、 ・21世紀のグローバリズム化。この3つが
今の世界を動かす理念だとすれば、地球がサッカーボールに凝縮して私たちの前に現れた。私達は
本物のサッカーの興奮を始めて知った。欧州と南米で4年ごとに繰りかえされる祭りに加わった。
スポーツが野球などアメリカの影響下にあった日本、アメリカの影響から逃れたい無意識の願望に
後押しされて、アメリカが作らなかった国際標準を初めて選んだ」 この鋭い分析に納得した。
「サッカーボールを地球に喩える」とは、書くプロはさすがに違うと感心した。
・延べ500億の人が見たと予測されているという。大きいビジネスでもある。
・「90分ナショナリズム」という言葉も新鮮だった。
朝日新聞に出ていた川柳もよい「球ひとつ生命あるようなゴール決め」
・選手の過半数が何処かの国のプロサッカー  多国籍の選手ーグローバルの時代
  印象的キーワードを並べてみる
・地球最大の運動会 ・国家の威信をかけた模試ー代理戦争 ・壮大な民族展示会
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2001年07月02日(月)
[71] 夢についてー3
夢は犬や猿など他の動物も見るという。子供の時母や姉が実際幽霊を見たとかの体験談をきいて、
いい年をしていいかげんな事と、気持ちの中で全く受け付けなかた。ところが経験を積むにした
がって何か常識で考えられない何かが存在している事を確信してきた。特に‘夢’とか‘遇然の一致’
そして‘死’‘自然現象’に何か人知を超えた存在を感ずるようになった。  
 ー以前の文のコピーをまたしておきますー  
   H05 11 記   妙な夢
 秋葉原ワシントンホテルに泊まった時の事、夜半何かのケハイに横を見ると女の顔が浮いている。
夢だろうと腕をつねったが痛い、これは面白いと、メガネをかけじっくりとみた。 全体が白光色の
黒髪の27~28才位の、のっぺらした美人であった。別に恐ろしいという事もなかったが顔は
はっきりと憶えている。ところが何年か後に会社のある人にその話をしたところ、‘それって皆同じ
顔しているんだよね’言われた時た時、はじめてゾーッとした。またこんな夢もある。
夜半目がさめて寝むれないので、般若心経をとなえてウトウトした頃、急に別空間にひきずりこまれ
そうな感覚になり、まずいと中断した。 あの別空間は“別宇宙”“ブラックホール”的イメージ。
その前後の夜半に夢で宇宙船みたいなものが近くおり、乗れという、これも乗ったら危険と直観し
去けた夢である。あれに乗ったらどんな景色がみえたのだろうか?単なる夢とかたずけられない
妙な内容であった。