つれづれに

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 昨日は歯医者に歯周病の治療。
4~5週間、各週の治療が必要のようだ。
「この年齢では完治は無理で、これ以上悪化しなように
治療します」という。 70歳を過ぎると、こんなものか。




・・・・・・
5533,若者よ、外に出よ! ー⑫ 19世紀の芸術に触れろ~A
2016年05月09日(月)
               『人生の教科書』なかにし礼
    * 19世紀の芸術に触れろ!~A
 長年の読書の対象がノンフェクションが中心のため、古典小説は、あまり
読んでなかった。特に欧州の古典的名著は数少ない。数年前から読もうと思って
はいたが、これを機会に19世紀に書かれた名著を中心に読むことにした。
 改めて19世紀の芸術をみると、音楽、小説、画家などに卓越した芸術家が
そろっている。近代から現代への節目のためだろう。19世紀の切口で、芸術群
をみる視点を今になって知るとは、恥ずかしい限り。日本では明治維新があり、
多くの維新の獅子が現れていた。 <死ぬまで勉強>とは、こういうこと。
あまりに固い馬鹿の壁に取囲まれていた。それでも、学生時代に基礎教養の
絶対的値が少ないことに気づき、半世紀以上、学び続けて、このあり様。   
 ~その辺りを抜粋~              
≪ ★ 『カラマーゾフの兄弟』を読め
ドストエフスキーの傑作『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがあるか?
 未読の人には声を大にして言いたい。「とにかく今すぐに読み始めろ!」
「そうすれば人生が開けるから」と。・・・(略)
 言わずと知れた世界文学史上に燦然と輝く大作家、ドストエフスキー
彼は帝政ロシア時代の革新派で、逮捕されて死刑宣告を受けたあと、シベリアへ
流刑となった。結局獄中で殺されることはなかったが、銃殺刑寸前まで追いつめ
られたこともあるという。そんな彼の処刑を前にした心の動きというのはもの
凄いものがあって、思想を、神を、人生の矛盾を、愛を、世界のことを考え
抜いた大作家の知見がつまった本を2週間かけて読むと、ドストエフスキー
一生かけて学んだ膨大な知識と、喜怒哀楽など、彼の人生の追体験ができること
になる。そうすれば、今自分が悩んでいることがいかに小さいか、人生とは
なんと深いものかということが理解できる。
ドストエフスキーに限らず、本を読むなら19世紀の作品をおすすめする。
なぜ19世紀の本を読むべきかというと、現代の本はそのどれもが真の価値が
定まっていないからだ。どんなにベストセラーになっていても、それはつい
最近書かれたものであり、真の価値はわからない。人々がただそのブームの
中にいるだけにすぎない。しかし、19世紀の芸術には100年経ってもなお人類の
宝として珍重されている作品、時の試練を乗り越えた名作がある。
・読書はまさに人生の勉強であり、作家という人間の勉強でもある。
一人で自己鍛錬をするには読書しか方法がない映画を見てもダメ。
映画は「観るものであり」放っておいても勝手に終わる、いわば受動的なもの。
逆に読書は能動的なものである。自分から積極的に本の中に入っていく努力が
強いられるため、大変な意思力がいる。映画や音楽や絵画も人生を豊かにして
くれるものではあるが、それよりもまず読書である。
 いろいろなことが読書することからスタートする。
ちょっと噛み付いても歯が立たないような、咀囎しても胃にもたれるような、
消化しきれないようなものに挑戦し、乗り越えたという経験が成長するための
起爆剤になる。それをせずに花開くということはあり得ない。大作を読むことは
人生の通過儀礼なのだ。
 物を読んで何かを理解する、そういった根本的なものが育っていないまま、
人生をスタートさせてはならない。そして読み終わって本を閉じたときの快感。
これは悦惚だから味わったほうがいい。≫
▼ 10年位前に読もうと一度、思いたったが読まずしまい。残された人生の
 課題は、19世紀芸術に触れて人生を見直すことなのか。図書館から借りて
読むのではなく、自前で買って読む習慣のなさの甘さの結果が、こうさせた?
米国の統計だが、社会に出てから読書を続ける人の比率が10%という。
思いの外、少ないのは生活におわれて読書習慣が持てないため。で、リタイア後
の有余る時間に読書をしようとしても、受動的生活の習性が、それを許さない。
 仕方がないので、昔の名作映画シリーズをDVDで観ることで良しとしようと
するが、受動の映画鑑賞と、能動の読書の差は、あまりに大きい。で、以下に続く。
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5168,人生相談という気晴らし! ~①
2015年05月09日(土)
             『人生、しょせん気晴らし』中島義道
   * 哲学者への人生相談 
 以前、週刊プレーボーイの人生相談の特集本を読んだが、中でも、今東光
解答が面白かったが、これに勝るとも劣らない面白い内容。哲学者の中島義道が、
ここで、「人生相談を持ちかける人は、たぶん常識の範囲を超えないかぎりで、
つまりあまり苦労なく実行できる範囲で、何らかのポジティヴな回答を、
あるいはちょっと考え方を変えれば楽になる、そんな妙薬を求めている」と、
人生相談の「質問の甘さ」を一刀両断。いや、甘いから、相談するのか?
  ー世間人の末路ー
≪ Qー まず、定年後、何をしたらよいのか?
 今年退職した62歳の男です。経済面でゆとりがあるので、家にいます。
妻から『趣味を持て』『友だちはいないのか』など言われるが今さら、趣味も、
友だちもありません、もう何を考え、したらよいかよいか分かりません。
 まず何を考え、何をすべきなのでしょうか?
Aー こういう相談を受けるといらいらします。あなたは多分これまでの人生
 で「安全」を後生大事に守ってこられたのでしょう。とにかく無難にとにかく
失敗のないように、生きてこられたような気がしてなりません。結婚もした、
子供も独立した、仕事も定年で区切りがついた…と、ふとわれに返ってみれば、
あとは「無事」死ぬだけというわけ。その虚しさは腹の底まで知っているのに、
どうしていいかわからない。「私はまず、何を考え、何をすべきなのでしょう」
という問いかけは、失礼ながら、いささか滑稽です。しかし(見方を変えると)、
あなたがいま、こうしてぐだぐだ悩んでいるのは、とてもいい機会と思います。
もっともっと徹底的に悩めばいいと思います。あなたは、趣味を見つけても、
友人を見つけても、散歩をしても、社会に興味を持っても、満足しないでしょう。
もしあなたが、いままで通り自分をごまかし続け、そのつど「気晴らし」を
見つけ、そして「これでいいんだ」と呟いて死んでいくのでない限り。といって、
私は何か人のために有益なことをせよとか、何か情熱をかけることを見つけよ、
と言うつもりは毛頭ない。そんなことをしたって、どうせ、じきに死んで
しまうんですから。むしろ、あとわずかな人生(統計的にはたった15年)
をかけて、ほんとうに自分がしたいこと(したかったこと)を見つけることです。
どんなに反社会的なことでもかまわないから、一度は洗いざらい自分を点検して
みること。そのためには、これまで営々と築き上げてきた「うそ」で固めた城を
崩さねばなりません。恐ろしいから自分の中に見出しても握りつぶしてきたこと、
排除されるのが怖いから、いやいや皆に合わせてきたことを徹底的に崩さねば
ならない。そして、徐々に「自由」になることです。これって、老後の生き方
としてはうってつけですよ。あなたは、会社から定年と、つまり「役立たず」
と公認されたのですから、そしてもうじき死んでしまい、二度と生きることは
ないのですから、最後の最後くらい「自由に」生きてもいいのではないで
しょうか? その自由の中身は、あなた自身が見つけるほかありません。・・≫
▼ 機会あるごとに、心の中で呟いている「いい人」の末路そのままが、
 この20の質問。いずれも少し切り口が変わっているだけ。噂話、世間話を、
そのまま信じ、その枠の中で何も考えずに、他人の揚足をとってきた群れの
人たち(世間人)の末路である。でも、気づいただけ充分マシ。気づかないで
御めでたく、そのまま逝くのが大部分。こういうのが集まったのが「烏合の衆」。
・・・・・・
4803,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー1
2014年05月09日(金)
        「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * 自分も人生も、記憶がつくりあげる
 この本の感想文を書いていた昨日、9年前〈2005年05月08日(日)
1496, いま・現在について-4 〉に、記憶について書いたことに気づいた。 
よくある偶然の一致だが、ーまずは、その内容からー
《「記憶のない男」ーDVDレンタル 
レンタルDVD ノ「記憶のない男」が、「いま」と「私」を考える上で面白い。
ー知らない街に仕事を捜しに来て、暴漢に襲われて記憶を失った中年男の物語ー
 それぞれの人の「いま」は、それぞれの過去を背景を持っている。
過去が記憶喪失で失われた場合、その人の「いま」は無いに等しい。
ストーリーでは、そこまでは表現しつくしてはいなかったが。しかし、
その空白を「いま・現在」という現実の中で、必死になって埋めようとする
主人公の心を、静かに淡々と映し出していた。過去の想起がなければ、[私]は
存在しないに等しい。動物に[私]はない。それは想起ができないため。
もし自分が過去の記憶を無くしたら、「いま」という感覚は希薄になる。 
青年時代の日記を偶然倉庫で発見。それを悪趣味的に、この随想日記で
露わにした。その過去の「いま」を、思い出すほど、現在の「いま」との
重なりが見えてくる。そして現在の「いま」がより濃く深くなっていく。
それは現在が過去より成立しているためである。過去や、未来より、「いま」
が全てだと考えがちだが、過去も未来も重要であることを教えてくれた映画。
 {「いま」を人間の手とすると、過去と未来は人間の身体}と例えると解り
やすい。手は手としては存在し得ない。手はあくまで身体の一部でしかない。
記憶喪失とは、「手そのものしか自分を感じ得ない」ということ。
身体全体が失われた感覚は想像しただけで恐ろしい。そこ(いま)には、
「私」は無いに等しい。[いま]に集中するということは、過去と未来に対して
「楔」を打つことである。楔を打つことは最も重要な行為である。しかし
全体の構造を考えて打たなくてはならないのである。今上の人生、来世の
ことは考えない方がよいのか? それとも、来世のために今生を生きるか?
「いま」に全てを傾けるべきである!?「どうせ死んでしまう」のだから。》
▼ 人の記憶は、そのまま、その人の過去になる。その記憶がスッポリと
 無くなれば、その箇所の過去が消えたのと同じ。リタイア後は、過去と
向き合う時間が多くなる。それは自分と向き合うことである。問題は、
その過去の解釈、受け止め方になる。それを、ここで延々と書いているが、
その受け止め方は、過去の蓄積の上の知識と経験のベースで決まる。
その記憶との付き合い方を、この書が変えようというのだから、
面白くないはずがない。  ーつづく
・・・・・・
4436, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか -6
2013年05月09日(木)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート5: 自己とは定義の結果だと理解する道(自他不分離の道)
≪ ー自己という概念を取り去ってみるとー 意識は身体をコントロールする
 主体ではなく、世界を観測し世界と相互作用する身体Aという媒介の動作を
モニターする装置に過ぎない。僕たちの心は、そもそも、どの身体に宿っても
いいのではない。一つの身体に、一つの「こころという幻想」がセットになって
いるだけ。ただそれだけのことだ。どんな人間にも、心は一つ。あなたの心は、
よくSFにあるようにコンピューターに乗り移ったり、オカルトのように身体を
抜け出したりできるものではなく、脳の計算によって作られた単なる擬似体験
劇場に過ぎないのだ。そう考えれば、特に身体Aを「自分の身体」と捉える必要
はない。 ・・ 本書を読んでいる「クオリアA」は「あなたの心」ではない。
何かを感じているだけの存在だ。たまたま、これまでは「あなたの身体」と
呼んでいた「身体A」と接続されていて、「身体A」が世界と相互作用した結果を
観劇しているだけだ。つまりクオリアAから見ると、身体Aもそれ以外の世界も
同じくクオリアAの観劇対象なのであって、所有物ではない。もはや身体と外界、
自己と他者、主体と客体、という分け方は意味を持たない。意味としてつながり
合って相互作用しているのみ。クオリアAが観劇できる範囲は、身体Aの五感が
情報取得する範囲まで。つまり、身体Aは移動式観測装置だ。これまでの世界で、
あなたと他人の同意とか共感とか呼んでいたものは、身体Aを介した他者の
自己化だ。いや、自己の他者化と言うべきか。自己という概念はないので、
主客合一、自他非分離と言うべきである。≫
≪ ー私とは、仮構された「自己」というシステムでしかないー 
 もちろん、この楽しく生き生きした世界を観劇できなくなることはとても
残念だが、それだけ。「私の死」ではなく「一つの観劇システムの終了」だ。
つまり、仮構された「自己」という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」
という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という
幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。比喩的に言えば、身体Aとは
窓だ。一つの窓を通して世界を見る装置だ。世界は、いろいろな身体を通して
見られていた。また、世界では、それらの身体によるインタラクションも行われ
ていた。これからも今までと同じように、行われていく。おびただしい数の
身体たちによつて。違いは、おびただしい数の身体の中のたった一つである
ところの身体Aが機能を停止した、ということだけだ。それに伴い、役目を
終えた、身体Aを介した世界観測者であるクオリアAもまた役目を終えた。
ただそれだけ。  もう「つ、強調しておくと、身体Aと世界は一体だ。
身体Aは、世界とつながっている。世界は、身体Aとつながっている。つまり、
元来「自分」と呼んでいたものは世界である、世界は「自分」だ。
本来、自己と他者の境界はない。境界を定義するからあるように見えるだけだ。
したがって身体Aの喪失は、世界の一部の喪失に過ぎず、世界から見ると
髪の毛や爪を切るようなものだ。≫
▼ 自己は定義の結果とすると、精一杯生きてきたこと自体が何だった
のだろう?そこで立ち現れた世界が自分になる。ご隠居の身になった現在、
私など死のうが生きていようが、どうでもよいこと。今まで「自分」と呼んで
いたのが実は世界だったということ。入江の洞窟と外海が繋がっていて、洞窟
の周辺を自分と思っていたが、外界を含めた世界が自分と考えると納得する。
己の行蔵を振り返ってみれば、そのことがよく分かる。今の自分も世界という
ことも。そうこう考えると、何?この俺は! になる。ただ気楽に死ねば
よいだけ、プシュと。 ボチボチ気楽にいけばよい。
・・・・・・
4062, 本当は怖い抗うつ剤 ー1
2012年05月09日(水)
 数ヶ月前に抗うつ剤(ハッピードラッグ)の恐ろしさについて書いたが、
ある雑誌に浜松医科大元教授の抗うつ剤からの脱却のレポートがあった。
親戚・縁者にも鬱病に苦しんでいる人を多くいる。青年期に何度か挫折体験を
したが、宗教系や精神論の本で、独りで克服してきた。去年の挫折?は、
早朝のミニサイクリングとスポーツジム通いで運動量を増やし、毒が溜まらない
ようして乗り越えた。iPadにエネルギーを集中したことと、シネマ通いも
効果があった。 また身近な縁者の倒産劇を手助けしたことで、情報を得ていた
こともある。節目は可能な限り綺麗に?を、心がけたことも毒を最小にした。 
私の知人に気楽に精神科の通院を勧めたが、大丈夫だろうか。 抗うつ剤
多く使われ出した頃から、自殺者が激増し始めた統計がある。要はドラッグ
患者に仕立てられているのでは? という疑問が出ていた矢先の、医学者の
実体験の内容である。 恐ろしい限りである。
  ー 大まかにまとめると ー   {浜松医科大名誉教授 高田明和}
≪ 厚生労省は2013年から、今まで4大疾病として扱われてきた、脳卒中
 急性心筋梗塞、がん、糖尿病に精神疾患を加えることを決定した。厚労省
08年に実施した調査によると、精神疾患の患者は323万人と糖尿病の患者数
237万人を上回っている。 自殺者の数は13年運続で3万人を越えている。 
私たち家族は米国における9年の生活を切り上げて、1975年に浜松に帰ってきた。
子どもたちは日本語を話せず、家族ともども激しいカルチャーショックを経験。
それは強度のうつ状態を引き起こした。 その時の体験は、『本当に「うつ」
が治ったマニュアル』に書いた。薬は便わなかったが1年後に、私が言霊療法と
呼んでいる言葉を使い考えを変える方法と、坐禅で劇的にうつから脱却できた。
その後30年くらい何の問題もなかったが、70歳のころ、何度か海外出張後に
時差ボケが治らず、医師に相談すると、睡眠薬抗うつ剤を処方された。 
最初は眠れたが次第に寝付が悪くなり、これは睡眠薬の依存かと思って中断
したところ、ひどい不安と不眠を体験した。パキシルで不安が解消されたので、
自分がうつ病になり、パキシルが効いたのかなと不安になった。しばらくして
パキシルを中断すると、再度不安と不眠に襲われた。そのころ、欧米でパキシル
離脱症状(車酔いのような気持ち悪さ、顔の発汗、血の気を引いたような症状)
が問題になっていたので、抗うつ剤から逃れようと、二週間薬なしで済ませた。
自分は病気でないと繰り返して、何とか頑張った。 抗鬱剤は効果より
副作用の方が大きいのではないかと、疑問が生じたのである。 実際には
抗うつ剤の効果はブラシポ効果(暗示)が多いこと、抗うつ剤を一度服用して
しまったら、止めるのが至難である。・・≫ 
▼ 抗うつ剤の恐ろしさは、それは麻薬そのものであること。一度、依存を
 してしまうと、切れると禁断症状が起こることだ。そして服用をしている
うちに段々、強い抗うつ剤でないと効果がなくなる麻薬の禁断症状と同じである。 
初めは、気楽に医者の処方薬を飲んでいるうちに麻薬中毒になってしまうことだ。 
薬のため、精神のバランスを崩した男をみたことがある。狂ったような怒り方は、
狂人そのもの。長年積み重なった鬱憤が麻薬で爆発するから、知らない人は、
呆然となる!  ーつづく