つれづれなるままに

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今日のYoutube
 
 早朝の、ポタリング信濃川の土手の寒さは格別だ。
で、昨日、近くの「ユニクロ」に、手袋と、耳あてを買いにいくと、
値段が三分の一以下のものがあった。3~4千円はするだろと
思っていたのが、千円以下ですんだ。 まあ、安いと実感。

 

・・・・・・
2760, 閑話小題 
2008年10月25日(土)

*毎日が薄氷の上
9月の半ばから、恐慌前夜の重い雰囲気である。日経平均も、三ヶ月で40%以上も暴落、
何と7600円まで下がってしまった。ドルが95円、ユーロが120円。 世界はパニック
寸前か、パニックに入っているのだろう。 この結果どうなるのか? 倒産の続出と、失業者
の増加、そしてハイパーインフレと、食品の高騰である。それで済めばよいが、数年以内に
大小の半分以上の事業所が倒産、廃業だろう。何か考えただけでゾッとする。それにしても、
津波、世界中を押し流しそうな勢いである。ー以下は、一年前と現在の比較である。
これからみると、まだまだ経済破壊は序盤ということが分かる。
 (2008年 10月22日現在)      
      2007年10月24日       2008年10月22日
ドル円         114.10             97.70
ユーロドル       1.42              1.27
ユーロ円       162.80            124.70
NYダウ       13,675            8,519
米国債(10年もの)  4.3%              3.5%
原油         87.10             67.48
金          757ドル            724ドル
日経         16000            8500
 ーーー

  *アクアラインが1000円に

私のゼミの一年後輩の松下さんが、《道路経済学》とかいう本を出版。その中で川崎市
木更津市を結ぶ、アクアラインの通過費を1000円とか、2000円に値下げをする運動
を起こしていた。ところが、数日前の新聞で自民党が景気喚起のため、1000円に値下げ
を決めたと報じていた。三年ほど前に、彼から電話があり、「新潟市を活性するには如何
したらよいか?」と相談して、新幹線を日本海の海辺にある飛行場まで延長させて云々から、
大和総研と共に会を開いた人である。私が、案までで、それ以上深入りを拒否して、
そのままになっていたが・・・ 三ヶ月ほど前に彼から電話があり、民主党から参院の調査会
に呼ばれ、意見を述べてきたと、嬉しそうな声で話をしていたが、でも彼も良かっただろう。
 ---

*台風の来ない年は珍しい

今年は、ほぼ日本の本土には台風が来なかった。 私が知る限り、あまりないことだ。
その代わり、金融崩壊と、それによる大津波が来つつあるのは皮肉だが。
これまで一度もなかった猪が近所に出没したり、この夏は庭でセミの声を聞かなかった。
(知人の庭では例年通り鳴いていたというが・・・・)

・・・・・・・・・・
2007年10月25日(木)
 2396, 白い壁とドア
                オハヨォ…
「生」と「死」のイメージを詩的に書いてみた。
  --
私の生のイメージ、それは白い四角の立方体の壁に囲まれている空間。
十数年前に一度、そのイメージをリアルに持ったことがあった。
おそらくは、この白い箱の中の壁の何処かに見えないドアがあって、ある刹那に、
その外に放り出されるのである。白い立方体は生に囲まれた日常である。
その意識下の見えない死へのドアがあって、一度出てしまったら、二度と箱の中には
戻ることは出来ない。白い箱の外は、無。 大きな黒い無限の中で、小さな箱はチリ
のような存在。いつか、その白い壁が開いて、その虚無の真っ只中に放り出される。
それがスグ明日かも知れない、それとも20年、30年先かもしれない。その一瞬、
白い壁と黒い虚無の狭間で永遠を見るのだろうか? それは歓喜だろうか、それとも
ただ寝入る瞬間のようだろうか? そういえば寝入る瞬間を感じ取ったことがある。
「アッ!」という間の一瞬であった。それを言葉でいうと、数千秒の一のプツン
という刹那のよう。
ーー
以上だが、このイメージにピッタリの詩を見つけた。
死の際にたった魂の叫びが詩の奥から聞こえてくる。
ドアの前に立つと、こんな声が聞こえてくるのだろか!
それとも「おらは死んじまった」の歌声か。
中島義道ではないが、いずれ誰もが直ぐにドアの前に立たされる。

ーー

暗やみの中で一人枕をぬらす夜は
息をひそめて
私をよぶ無数の声に耳をすまそう
地の果てから空の彼方から
遠い過去からほのかな未来から
夜の闇にこだまする無言のさけび
あれはみんなお前の仲間達
暗やみを一人さまよう者達の声
沈黙に一人耐える者達の声
声も出さずに涙する者達の声              
ー ブッシュ 孝子 (30年前に28歳で逝った女性の詩である。)
          o(*・ー・)〇"ぐっ♪o(*・▽・)ノ"ばーい♪
・・・・・・・・・
2006年10月25日(水)
2031, 「私」のための現代思想  -15
       (+>∀<+)ノ おぁはは~ようさん!
 前・評)
人間は「生きること自体が『緩慢なる自殺』である」と言ってしまえば、
それまでだが、戦争もある意味では集団自殺ともいえる。 いや集団殺戮
の方が正しいか?
《私》にとっての「超越確実言明」を守るために死ぬことも、
時にとって必要なのかも知れない。人間の最後に残された自由へのジ
ャンプとしての自殺もある。

自殺にも正しい自殺と、正しくない自殺があるという。自分であるために
死ぬ、それもイスラエルマサダの砦の集団自殺のように、自殺厳禁の
ユダヤ教徒の自殺なのだから意味も深い。
この場合の自殺を正しくないとは言い切れるだろうか。

誰の目にも明らかな自殺に「子供の道づれ心中」がある。 子供を自分
の所有物と思いこんでいるから、暴挙にでるのだ。自殺をするには、
それなりの理由があるが、やはり「自殺は決して許されるものではない!」
のは、道理である。 それが永遠の自由のためにといっても!

ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 -�
 *正しくない自殺*

正しい、正しくない自殺というのも変なものだが、それでも「正しくない自殺」
は、誰の目にもハッキリしている。それを象徴するのがインターネットで知ら
ないもの同士を募り、複数の者達が一度に命を絶つ「集団自殺」である。
彼らは「死ねば楽になる」という「誤論理」で揺らいでいるので、その揺れを
止め、自殺を遂行するために、<他者>による引き受けを必要としている。

この場合、普通の他者の共振を受けることもできるが、
集団自殺志願者はその人たちの《私》を嫌います。
その人たちの《私》は自らの「超越確実言明」を守る方向に走るからです。
そのような呼びかけに答えてくるのは、同じく「死ねば楽になる」と感じ、
死を決意している人たちということになる。それはお互いの《私》の
「非存在=存在の否定」を引き受けあうのだから。

「《私》の存在を引き受けてもらう」はずの行為が、「《私》の存在を
否定すること」を通して行われるからです。存在の引き受けは、「存在し
つづけることを引き受ける」ことであるはず。しかし集団自殺は、
「ともに存在しなくなること」を引き受けあうになってしまうからです。

{解}死に際まで独りでは不安なので一緒に行こうという弱者の論理もなる
ほどと思わないでもないが・・・「死にたいやつは死なせておけばよい」
と同じ意味で彼らは「死にたいのだから勝手に死なせて」というレベル。
壊れたラジオは自分地震で自らを直すことが出来ない・・この本を読むまで、
自殺について考えたことがなかった。しかし考えれば考えるほど、自殺を
否定できなくなった。 自殺を否定したのは、「支配階級が最下層の働き手
のロスを最小にするためにつくり上げた価値観でしかない」という論もある。
    ーー
*正しい自殺*

正しい自殺とは、一回性の人生で、闘いぬき、他の物語を時間の許す限り試し、
その結果としてギリギリの判断において、
「死ぬことによってしか、<私>が<私>でありつづけることができない」
と考えるとき、それは「正しい自殺」となるということです。
これは「名誉のための死」とか、「誰かのための死」を称揚するのではなく、
あくまでも「<私>でありつづけるために死ぬ」ということである。

  ーーー
後評) 正しい自殺かどうか判断できないが、
イスラエルで初めて知った「マサダの砦の集団自殺」である。
マサダ砦は、死海の西南にある要塞。ヘロデ王の建てた離宮だったが、
70年のローマに対する反乱時、過激派のユダヤ教徒が最後の砦として篭城したが、
ローマ軍によって落とされ、その後2000年間、ユダヤ人は流浪の民となった縁の地。
ケーブルカーで頂上まで上がるとヘロデ王の宮殿、サウナなどが残っている。
一世紀、ここを要塞にして戦ったユダヤ教徒約1000人は2年の篭城の後、ローマ軍
に侵入される直前に集団自殺を遂げた。下を見下ろすとローマ軍の陣地となった場所が
くっきりと見え、攻撃のため砦に向かって積み上げられた人工の山が残っている。
その完成の前日、女子子供数人を残して集団自殺を決行した。
「奴隷になるよりも死んで自由を」という言葉が、有名である現在イスラエル
新兵の入隊式はここで行われるという。この集団自殺が正しいかどうかは、歴史が
判断するのだろうが、意味の無い集団自殺ではない。肉体的な苦痛から逃れる自殺も、
ある意味で容認されてよい。肉体の死によって、肉体の耐えられない苦痛からの避難になる。
現在の社会は、その死を認めていないのは明らかに誤りである。苦痛の緩和の体制が
できていて、その