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今日のYoutube
https://www.youtube.com/watch?v=CWLaNvXH2vI
昨日のシネマは、『マネーモンスター』を観てきた。
TVの投資番組に、大損をした男が銃と爆弾を持って・・・
アメリカのTVのバレエティーショーの世界を垣間見るようで、
面白かった。 評価は85点。
http://www.moneymonster.jp/splash/
内容
≪ 史上空前の犯罪事件の生放送。そこで真実が暴かれる!
全米高視聴率の財テク番組 “マネーモンスター” がジャックされ、不正な株の
情報操作が行われたと訴える犯人。司会者リー・ゲイツは人質から共犯へと
立場を逆転させる。ウォール街の闇に封じ込まれた情報操作を暴くため…≫
週に一度、シネマ館で、デジタル映画で、全く違う世界にたった千百円?で、
スリップ出来るのは本当に有難いことだ。その世界に入りきるのに30分は
必要だが、入ってしまえば、別世界である。
半年前に、寝室のTVに、WOWOWと、ブルーレイを入れて、面白そうな、
映画を、どんどん録画をして、30分でも、隙間時間があると、ベッドに滑り込んで、
TVドラマか、映画を観ている。 雑音が入らないので集中できて、その世界に、
直ぐに入ること事ができる。お宅もいいところだが、どの道、娑婆も、妄想の世界
みたいなもの。
・・・・・・
3729, 全米N0・1弁護士の勝ち抜きセオリー ~?
2011年06月11日(土)
『議論に絶対に負けない法』ーゲーリー・スペンス著
【 * 常に主導権を確保せよ -そのためにー
「スペンスさん、あなたは私たち陪審員を信用していなかったんですか」
「もちろん、信用していました。どうしてですか」。 私はあわてて答えた。
「あたは大変苦労して、私たちが人格の優劣によって、この評決を下すのでは
ないかと、心配している」とばかり話していたからです。私たちは事実に基づいて
評決を下したんです。 どちらが魅力ある弁護士か、で決めたのではありません」
突然、私は「自分」に魅力がないことを証明してしまったのだと気づいた。
手遅れだった。私は自分の言い分の正当性を陪審員に主張するよりも、相手の
弁護士を非難することに時間を使ってしまったのだ。 私が相手にあまりに
多くの力を与えたために、彼の主張は私自身の主張よりも正しいことになって
しまったのだ。私は自分の敵が誰なのか、まったくわかっていなかった。
私は自分が作り出した絶対に勝ち目のない巨人に立ち向かっていたのだ。
私は自滅したのである。私はこの巨人に、私を打ち負かすのに十分な力を
そっくり与えてしまったのだ。 あのころは、今私がここで教えたいと思って
いることをまだ学んでいなかった。それは学ぶのも覚えるのも大変な勉強だ。
私たちはしばしば、自分が得意としていない分野を得意とする相手に出会う。
ほとんどの相手は自分より聡明で、博識で、頭の回転が速く、外見もいい。
相手のカを心配することに時間とエネルギー、全ての力を浪費し、相手に自分
の力を与えてしまう。 どんな議論をどんなにうまくやってのけても、相手を
変えることはできない。自分の力で変えることができるのは、自分自身だけだ。
それ以来、相手に自分の力をこれっぽっちも渡すまいと私は思っている。
私は自分の力を自分の手元にしっかりと置いておく。そして自分の主張の準備
をするため、自分の主張に気を配るため、そして自分の依頼人の心配をするため
に使う。 私は自分に話しかけてくる、かすかな声に耳を傾けることを覚えた。
「大丈夫。君なら十分できる。もし自分自身を見つけ、ありのままの自分でいる
ことに力を使えば、もしできるだけ誠実に自分自身を表現すれば、もし子供
らしさの最後のかけらが残っているところ、つまり何の邪心もない心の奥底から
話をすれば、そこからすべての本当の力が生まれてくる。それで十分だ」。 】
▼ 相手に気を奪われ、自分の内なる知恵に耳を傾けなかった大失敗を通して、
主導権を取るとは如何いうことか学んだのである。相手に気を取られ、
それが自滅を誘ったのである。それより準備をし、自分の内なる声に従って
対峙して主導権を取る方が近道。その辺のことが分からないから自滅をする
ことになる。ようするに自分のペースで議論を運ぶこと。そのためにシナリオ
つくりの準備を充分にすることである。これは議論だけでない、人生も同じ。
人生のシナリオと、その準備を数十年かけ作ること。シナリオが狂った?
・・・・・・・
3364, 人みな骨になるならば ー14
2010年06月11日(金)
* どうということはない地位と財産 P-126
≪ 財産や地位などというものは、「あるに越したことはない」のである。
ただし、「あるからといって、あるいは、ないからといってどうということ
はない」という点を忘れるのは問題である。現実に財産や社会的地位のある
ものの殆んどは、「あるからといってどうということはない」点に気づきにくい。
また恵まれない者ほど、「あるからといってどうということがない」と信じた
がりすぎる。もし「あるからといってどうということはない」のなら
「ないからといってもどうということはない」のだ。古来の聖賢たちが、
財産や地位を警戒してきたのは、ひとつには、いったん得てしまうと今度は
それを失わないために汲々としてしまいがちなこと、あるいはさらなる欲望に
とらわれがちなるとによる。なぜ、これらが警戒しなければならないことか
というと、それによって人生が空費されてしまうからである。財や名声を
追い続けていると百年に満たない生涯はたちまち尽きてしまう。
・・ 財産や地位の空しさを論証するのはたやすい。「あの世まで持って
いけるものではない」からである。一生かかっても使い切れない資産というのは
食べきれない料理と同じである。歴史に残るほどの偉業をなしても人類の歴史
そのものが永遠ではない。世界一の金持ちもいずれ死んで財産はそのうち
四散する。世界の帝王になったとしても跡目は誰かに譲るか簒奪される。≫
▼ 以上だが、分かっていても囚われるのが人間。「死んで三日もすれば
三百年前に死んだと同じこと」とハッキリと自覚すれば、何も目先のことに
気持ちが大きく揺れることもないだろうに。生きていること自体が最も大事な
ことに気づく時は、死を自覚した時など切羽詰らないと、なかなか無い。
ここで、著者が最後に指摘しているように、「好きなことをして自然に転がり
込んでくるような名利でないかぎり、我が身や時間を切り売りしてまで欲しがる
べきではない。百億の資産、大臣の椅子といったところで、 所詮はサルが
食べきれないほどのエサを掻き集め、あるいは、ひとつのサル山での順位を
目一杯あげただけだ」ということ。われわれにはもっと他に大事なことが
あるはずだが。 無いよりも、有ったほうがと、言うのが本音になるが・・
・・・・・・・・
2989,歩く木
2009年06月11日(木)
歩く樹木があるという、その名は”ウォークパーム”。
アマゾンに生息しており、太陽の光を求めたり、成長するための空間を確保する
ために、根をタコ足のように伸ばして年に10数センチも移動する。アマゾンの中
でも樹木の争いがある。光の当たる方に根を伸ばし陰になったほうが腐っていく
のだそうだ。50年で5~6メートルも移動するのだから大変なものだ。
(字数制限のためカット 2012年6月11日)
・・・・・・
2625, いのち楽しみ給え -2
2008年06月11日(水)
『いのち楽しみ給え』吉川英明編 (講談社)
まずは、
第二章 人間の本質 から抜粋してみる
ーー
理想のない漂泊者、感謝のない孤独、それは乞食の生涯だ。
西行法師と乞食とのちがいは、心にそれがあるかないかの違いでしかない。
評)理想ある漂流者、感謝のある孤独か~詩は心だからである。
(『宮本武蔵』火の巻)
ー
今の足の向き方ひとつで生涯大きな違いが生じるのだ。 必然こうなるものだと
決定された人生などがあろうとは考えられない。偶然にまかせて歩くよりほか
仕方がない。 評)必然と偶然、哲学の話になる。(『宮本武蔵』火の蓋)
ー
一個の人生にしたところで、余り気まま暮しな人間や、物に困らないものが、却って、
幸福でない例を見ても、総括した民心というものにも、艱難する時代と、共栄謳歌
する時代と、こもごもの起伏があっていい。なければ却って民心は倦む。「新誉太閤記」
ー
生きようとすれば、あがきの爪が、何かをつかむ。 (『「本太平記」みなかみ帖)
評)最近の若者の大多数?は、あがきもしない。
ー
どんな大難も、一過を待てば、おのずから雲間に晴天を見せてくれる。
(『「本太平記」帝獄帖)
ー
「なべて眼のあたりのことは、うこかし難い、また、変るなき鉄則に見えますが、
どんな現実というものも、じつは間断なく変っています、変るなと願っても、推移
せずにはおりませぬ。人の境遇も、人お互いの心も」(麻鳥)(「新・平家物語』静の巻)
ー
人と人との応接は、要するに鏡のようなもの。驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。
人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒っているようなものといえよう。
(「三国志」 望蜀の巻)
評)人を恨めば穴二つ、ということか。
ー
はたらいた俺にはあるぞ夕涼み 「書簡・詩歌集」評)はたらかぬ俺にはあるぞ閑の味
老けて行く春を化粧の瓶の数 「書簡・詩歌集」評)老けていく春をサプリの殻の瓶
どん底の人に不思議な顔の光沢 「書簡・詩歌集」評)去年、癌で亡くなった人の顔
--------
評)は無かった方が良かったが、これを書かぬと味気ない。
後で読み返した時の(いま・ここ)の自分のマーキングである。
ーつづく
・・・・・・・・・
2007年06月11日(月)
2260, ミスター・ドーナツの原価?
(っ´Ι`)っ { おはよう
先日、新幹線で学生が二人話しているのが聞こえてきた。
「ミスター・ドーナツでバイトをしているが、原価が6~7円。
手間がかかる分、荒利が大きい。」との二人の話。
そうすると原材料費が大よそ20分の1ということになる。
まあ、空気を食べているようなものである。
要はお客を如何に呼び込める!かである。何でも同じだが。
ミスター・ドーナツの繁華街店の入れ替わりが多いと聞いているが、
新潟市と長岡市に関しては粘り強く生き残っている。
過去にフランチャイジー料が、ベラボウに高く問題になってことがある。
実際フランチャイジー店を経営していた人の話を二人から聞いたことがある。
「あれは儲からない!」と。 しかし長岡の「ミスタードーナツ」は、
順調のようである。
ちなみに、コーヒー専門店の売価と原価の割合に似ている。コーヒー豆
によるが砂糖、ミルクを入れた原価は30~50円で、似たようなものである。
ウドンもソバも似たような原価。うどん粉や蕎麦粉代など、10円もしない。
だから、あまりお客が入っていない店が何故か営業を続けていられる。
話が変わるが、家賃は飲食の場合、売り上げの10%。飲食店主の感覚は5%か、
三日間の売り上げが目安。ちなみに人件費は、荒利の35~40?である。
TVとかラジオなど製造の場合は、それぞれ違うだろうが、工場出しの
出荷の原価が30~35%。 ただ何ごとも例外があるが。
ヾ(´Д`、)マタ
・・・・・・・・
2006年06月11日(日)
1895, 閑話小題
おっ w(゚Д゚)w ハァョ~
ー長岡スーパー戦争が面白そう!ー
倒産したスーパーツチダの旧店舗を新潟市を本拠を置くウオロクが引き継ぐ
ことになったと、昨日の新聞に載っていた。ウオロクもあまり芳しくない話
を聞いていたが・・他に引き受けてが無かったのだろう。
関係者の話によると、「地元のスーパー原信と感情的になっているほど、
商売上の叩きあいが凄い」と聞いていた。これで長岡市内で両者の叩きあいが
始まるが結果として原信が勝つだろう。正攻法の原信と、我流が目に付く
ウオロクでは、最終的な結果は明らかである。
ウオロクに大手の資本?が云々と、考えてしまうが。 私の推測でしない。
原信も、来春のユニ系のアピタのオープンも控えていて、その対応もあり
安閑としていられない事態であろう。ウオロクが大手の支配化に入った時・・
他の心配するなら、自分の心配をしろ!という声が心の奥から聞こえてきた・・
ー最近、いやに本が面白い!ー
最近いやに本が面白いと感じるようになった。
どういうことか考えてみたが、「面白い本を見つけ出せるようになった」
ということである。今年になって「ウェブ進化論」「グーグルGoogle」
「ローマから日本が見える」「ずっとやりたかったことを、やりなさい」
「ジム・ロジャーズの世界を行く」「不良のための文章術」等々、とびっきり
面白い本に行き当たった。この殆どがグローバル化ならではの本でもある。
情報化時代のグローバルの見方が面白く書いてある本である。
「不良のための文章術」は、自分の思いではなく、他人が見て面白い文章の
書き方の本である。最近、本が面白くなってきたのは、物書きというプロの
書き手でなく色いろの分野の人が、それぞれの世界の潮流を、外の人に解り
やすく伝える時代になってきているからだろう。
ブログが世界を根底から変えようとしている。書店を定期周遊をしていると、
難しい内容を図解や漫画などで解りやすく書いてある本に出くわすことが
多くなってきた。難しい問題が解りやすく書いてあると面白く感じるものだ。
ヾ(^ω^*) ジャ、また!
・・・・・・
2005年06月11日(土)
1530, わたしの酒中日記-6
金沢ー4 ー1972年3月末日
大学時代の友人の島村君が訪ねてくる。年賀葉書に金沢にいると書いたためだ。
何か金沢というと、東京では憧れがあるようだ。会社の同期の桜井君が訪ねてきた。
寮には社外の宿泊禁止規定があるが,こっそりと泊める。
これだけうるさい会社で、二回も規定違反をするのだからスリルがある。
二人とも、寮に泊めてもらうつもりで来ているから。
夜に落ち合って香林坊で飲む。金沢の独特の雰囲気にのまれ、行く先々に興奮気味
だった。私の現状はこれ以下ない惨めさである!観光気分の立場とは全く違うのだ。
それにしても、大学を卒業して激しい環境にいたのを島村君と対比して実感する。
丸善石油の総務にいて、ほとんど苦労していないみたいだ。
それに引き替え私は、あまりにも惨めな気持ちである。
居酒屋にしてもスナックにしても、東京の世界とは全く違う。
ただただ目を白黒している。直感的に金沢の異質な世界がわかるようだ。
最後はホテルの最上階のスカイラウンジに連れて行く。金沢の街が一望に見える
バーカウンターで、学生時代を懐かしむ。しかし懐かしむほど、惨めな気分になる。
サラリーマンは気楽で良いものだ。「私は独立を目指してここにいる」という
気持ちが、現在の自分を支えているだけだ。
・・・・・・・
2004年06月11日(金)
1165, 哲学について-2
「私は何をすることができるか」の「形而上学」は事物の本質、
存在の根本原理を思惟や直観によって研究する学問であるが、
ーアリストテレスにおいては存在一般を考察する存在論、また超越的な
ものを探究する学問であった。
ーカントは純粋理性からの認識論をめざした。
ーヘーゲルは反弁証法的思考を形而上学的と呼んだ。
我々の住む世界の特徴は、空間(三次元)と時間(一次元)から成り立って
いるが、その「空間とは、時間とは、そもそも何ぞや」という疑問から、その
問いに対する答えを探そうとする。そこでは信仰にすりかえたり、権威に
すりかえることは許されない。
哲学といえば、さきほど述べた形而上学には二つの基本課題がある。
・「存在するものは何か」
・「もし何かを知ることができるとしたら、それはどのようにして可能か」である。
「存在論」と「認識論」である。
この何が存在し、何を知ることができるかという課題は哲学で
探求される問題の大前提である。
哲学を芸術と宗教と科学の違いから見てみると
ー宗教は理より信仰がまずあり、宗教心を育てることに重きを置く。
ー芸術は哲学とものごとの底流にある真実をもとめ、人間を理解しようとするが、
その手段が絵画や音楽などの作品を通して直接的な感にうったえる。
ー科学もしかりである。真実を追究するが、実験や観察によって答えが
出せる問題に限られる。 物質的な問題が主になる。
フォイエルバッハではないが、
「宗教にとっては、神聖なるもののみが真実である。哲学にとっては、真実なる
もののみが神聖である。」というが、芸術は、さしずめ作品そのものの感動が真実。
これらはけっして相反するものではなくどれも宇宙や社会や人間の存在という
不思議を深く理解しようとするものである。また、直感と批判をどれもが
必要としている。 ーつづく
・・・・・・
2003年06月11日(水)
798,「ありがとう」の言葉 -1
長年生きてきてつくづく感じるのが「幸せ系の人」と「不幸系の人」がはっきり
分かれていることである。家柄、結婚の相方との相性、本人の品性等いろいろの
要素がある。 多くの人を見てきて、不幸系の人に感謝の念が足りない人
ー特に両親に対する感謝が少ない人ー が多いことに気づいた。
両親に対する不信感ーが本人を不幸にしていることに気がついてないのが、
更に不幸を拡大している。その不信感が人間観になってしまうからである。
夫婦間のトラブルー権力争いーが子供を傷つけ、子供が恨みで感謝を忘れてしまう
ことも起因している。人間には感謝はしないが感謝される事を求める傾向がある。
昨日図書館で何げなく借りてきた本を読んでいたら、あるページに釘つけになった。
以下に書き写してみる。
ー不思議なことに、心を込めない「ありがとう」でよいから2万5千回ほど言うと、
涙が出てきます。呪文のように言っておくと、その累計が2万5千回を越えた
あたりで、突然涙がどっとあふれてくるということが、多くの人にあるようです。
その涙というのは、短い人で1時間、長い人で3時間、平均2時間ほどで、とにかく
止まらないのです。こんなに自分の体から涙が出てくるものと思うほど激しく流れ
続けます。この涙が出終わって、そこからまた続けて「ありがとう」と言おうと
すると、今度は心の底から感謝の念がわいてきて、体中が温かい思いに満たされ、
本当に有り難くて「ありがとう」という言葉が出てくるようです。
さらに、心を込めた「ありがとう」が湧いたところから、2万5千回ほど心を
込めて「ありがとう」を言い続けると、なぜか突然「私」にとって奇蹟と思える
ことが起こるようになります。この話をあちこちでしていて、「実際言ったが、
そんな涙出てこない!」という質問を受けました。私はその人達に同じ質問をしました。
「2万5千回に到達する前に、不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わなかった
ですね」と。その答えはすべて「言ってました」でした。「それを言った瞬間、
チ~ンという音がして、『ありがとう』の回数がゼロになったのだと思いますよ」
と答えています。・・・
ー続くー
・・・・・・・・
2002年06月11日(火)
434,創業の勧め??
過去に創業を何回か繰り返してきた。好きで自分で望んだ事だから、そう苦では
なかった。しかしそう甘くもなかった。その時は、のるか反るかの大勝負を賭け
ている。やはり脳は全開、見えない相手を考え尽くした上で一つづつ判断して
いかなくてはならない。ゼロからの出発である。表面には出してないが、
しかし色で出ているだろうが、キーワードは「発狂」である。
まったく存在してない自分の主張を、実際のカタチに創り上げていく工程を
踏んでいるのだから。
部外者の人は狂っているという。そうでなくては実際新しい創造は不可能だ。
基本に忠実にゼロから一人で、一日一日孤独の行為の積み重ねである。
その時、見えるのは人間の浅ましさと嫌らしさである。これは自分の事でもある、
人間の底である。
・人間はエゴであるー生命の発展はそれぞれのエゴイズムが原点である。
・それがどうしたというのかーその当然の行為を始めたのだ。
・その積み重ねが事業の出発点である。
・馬鹿二代目が冷笑している、結構である。むしろそれが正しい事を証明している。
・赤裸々な莚旗を立てた赤裸々な姿、それが創業である。
・事業に関していえば、まずは金そして金そして金・・・・
・・・・・金である。
それを命を賭けて投資するのである。なけなしの金と銀行から借りた資金を
合わせて、その「思い込みの対象」に対する命を賭けた博打である。
それが面白いといえば面白いが、それは結果がよければの話しである。
いま世の中の風潮で創業の勧めがあるが、そう甘いものではない。
コツがあるとすれば、時間をかけた準備、準備、準備、計画の練り上げしかない。
500%の成功確立の見通しになるまで練り上げるしかない。
それで実際のところ50%しかうまくいかないだろう。
実際のところ事業を始める時、自分の心に約束した「全て失っても後悔は
しないと。」 創業は勉強になる!!それでこの程度!
・・・・・・・
2001年06月11日(月)
「49」一期は夢 ただ狂え
世の中はチロルにすぐる チロリチロリ
何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波の一葉よ
何ともなやなう 何ともなやなう 人生70古代稀なリ
ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡
笹の葉に置く露の間に あじきなの世や 夢幻や南無三宝
燻む人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現がおして
何しょうぞ くずんで 一期は夢よ ただ狂へ
ー 閑吟抄ー
470~480年位前、富士山の近くに庵を開いていた名も知らぬ男が
古今集をまねてつくった歌の一つ。
‘人生など一瞬でしかない。なら狂ったようにしたいことをして生きたいものだ’
と言う内容である。今年の年賀状にこの一節を載せたほど、感じろところがあった
内容だ。500年前この無名の男の人生‐過去に何があったのだろうか?
今500年の時空を越えて、激しく共感するのはなぜか!
最近そうおもえるようになってきた。