つれづれに

イメージ 1

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

今日のYoutube
 
  * つれづれなるままに
 70歳過ぎて、4ヶ月になるが、やはり70歳は、これまでとは、ちと違う。 
何か自分でも、この年齢の老いを、そのまま認めてしまうようになっている。
先日、参列した法事でも、かつて少年だった従兄弟たちが、胡散臭い?
老人の姿に変身しているし、当然、その老人の一人が自分でもある。
 今まで、早朝一時間の、ミニサイクリングでも、いい年寄りが、朝から
クロス自転車で、自転車を乗り回していていいのだろうか?と、考えてしまう。
殆ど、人が居ないので、あまり気にする必要もないが、やはり、ここまで、
年齢がきたのか! と思っている。要するに、年齢に気持ちがついていかない、
ということ。 気にすることもないが。 成るほど、老いれば老いるほど、
天上天下、唯我独尊」の気持ちを持つしかないか。
 問題は、生きてきた人生に充実した手ごたえがあるかどうか。

 

・・・・・・
4068, 疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ!
2012年05月15日(火)
  * 挫折について   ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著より 
≪「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事
があります、と言い切れる自覚ではないか」(太宰治・〈走れメロス〉)という
科白もある。これなぞは負の体験こそ人間に正当な自負心を与えうる唯一の立脚点
ではないかと、負をプラスに転化している。・・たえず自分の弱さや、醜さや、
愚かさを思い知らされているというが、それがしかし、自分というものを知る
第一歩なんだ。そして自分の悩みを知ることを通じて以外にどうして他人を知る
ことが出来るのだろう。その点からいえば君の悩みは、まだ浅すぎるかもしれない。
自分はもっともっと悩むべきだ、と考えてみる必要があるかもしれない。
「ひょっとして、人間が愛するのは、太平無事だけではないかもしれないでは
ないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、ありうるわけだ。いや、
人間がときとして、恐ろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることも、間違い
なく事実である。」(ドフトエフスキー「地下室の手記」より) 
 ・・世に文豪と呼ばれるほどの人びとの書いたものを読めば納得できよう。
彼らが作品に描いてみせた人間的苦悩の深さは、とても凡人には耐え難いほどだが、
そういう深い苦しみ苦悩を通じてこそ彼らは、その反対に光り輝く美や愛や幸福を、
あれだけ深く生き生きと感じることができたのだった。・・「疲れたら憩がよい、
彼等もまた、遠くにはゆくまえ!」(尾崎一雄「痩せた雄鶏」)
 おそらく挫折して世に出れなかった日々、尾崎さん自身、この言葉を自分に
言い聞かせ、じっと耐えていたのだろうと思う。 ≫
▼「死ぬほど苦しんだと言い切れる自覚がプライドの立脚点」には考えさせ
られる。負の体験を現在しているが、これをプラスに転化にするには、結果から、
原因を徹底的に見つめなければならない。まだ悩みが足りないのは分かっている。
 しかし、盛んだった日々の光りがあれば闇もあって当然と思ってしまう。
幸せも、不幸も解釈次第。死んでしまえば、全てチャラ!だから人生は面白い。
負の節目が挫折になるが、プラスの節目もある。しかしマイナスの節目ほど
次のステップには効果的である。
・・・・・・
3702, 自己を見つめる -21
2011年05月15日(日)
  * 死について ー?      「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)  
【 元気旺盛のただなかで、突如、不治の病を宣告された人は、初めは死を、
 不条理な運命として呪誼し、憎悪し、拒否するが、次第にやがて、その苛酷な
宿命を受容し、死を覚悟し、承認するようになるという心理学的研究も存在する。
人間が死と立ち向かう心理的状況は、種々様々である。死を迎え入れ、その定め
を覚悟し、その準備を整える用意は、憂き世の終末に向けて身辺を整理すること
を含む。そこには、種々雑多な俗世間的な事柄が絡みつくが、それらはみな、
老境の責務だとも言える。 ありうべき介護や臨終、葬儀やさまざまな後始末、
それらをすべて、何らかの仕方で見越しながら、誰もが、終末に身構えざるを
えないのが、死にまといつく憂き世のしがらみである。
 たいていの日本人なら、死んだら、草場の蔭から子孫を見守り、お盆には
憂き世に帰り、生者と交わることを望み、しかしやがて年月が経てぱ、往時茫々、
すべては諸行無常のなかに消え去ってゆくのがこの世の定めだとして、それを、
詮方ないことと心得る諦念を、心中密かに保持しているであろう。あるいは、
永遠の生命の流れとしての浄土に、自己が繋がり、久遠の仏性に救い上げられる
という強い信仰をもつ人もあるかもしれない。 さらにはまた、西洋からの
宗教思想の影響のもとで、死に際して、神の恩寵と審判が下され、裁きが
行われるという終末観を抱き、神に救済されることを祈って、日夜、信仰と精進
に励んで生きる、敬謙な人々も存在するであろう。 死という終わりに直面する
私たちが抱くさまざまな不安や、懐疑や、憂悶や、希望や、希求や、欣求には、
果てしがない。それらの種々の想念と気遣いのすべては、いかに人間が、死の影
のもとに、蜉蝣のような自己の身の上を、儚いながらも、充実した有意義なもの
として構築して生きようとするかという、胸痛む事実を、告知している。
人間は、徹頭徹尾、死の影のもとに生きる存在者なのである。
この憂悶にみちた現実が、人間の生存の真実である。】
▼ 結局は、大部分の人にとって壮絶な死に際が待ち構えているが、敢えて
 知らないふりをし、日々の細事に気を紛らわせるしかない。それも、物心とも
準備を怠ってきた人は、ただ動転し、目先を辛うじて生きるしかない。
その結果、事故や、争いに巻き込まれ、老醜を曝す結果となりがちでなる。
それは、家系とか、持っている体質にも関係してくる。やはり人の死は大方
悲惨と覚悟をすべき。問題は、当の本人が、それに独り直面し、ギリギリの
極みの中で、苦痛の中で最期を向かえ、意識が消えていくことである。
・・・・・
3337, サイバーとは超格差社会
2010年05月15日(土)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著)  ー8
 * サイバーとは超格差社会
  ー まずは、その部分を抜粋してみる ー  P-236
 私は過去のコラムで「サイバーとは超格差社会」と書いたが、一方で
これは持たざる者、立場の弱い者に大きな恩恵をもたらすものだとも考えている。 
その格差といえば情報と知恵の差である。仮に判らないことがあっても質問できる
双方向性。実はこれこそがサイバーの最大の特徴でもある。そこから自然に
コミュニティが生まれ、互いのノウハウを交換しあうことによって更に自らを
高めることができる。電子町内会の誕生である。こうしたことも、かってなかった
スタイルの「恩恵」であろう。サイバー社会の格差を埋めるのもまたサイバー。
 この事実に我々はもっと注目すべきだ。なのに現状、インターネット上の最大
の産業がポルノ、またはポルノまがいのコンテンツになっているのは情けない話。
「あらゆる技術は軍事目的で開発され、ポルノ目的で広まる」ともいうから
(写真もビデオも、もちろんインターネットもそう)、ある程度は仕方がない
ことなのかなとも思う。 しかしインターネットが我々の身近なものに降りてきて
10年あまり、そろそろ次の段階にステップアップすべきなのではないか。
「次の段階」、それは前述したように人々が学び、情報武装し賢明な市民となり、
甘言を弄する政府の嘘を見抜き、健康で文化的な生活を生涯に渡って維持する
ことである。 そして、そのためにこそサイバーを有効活用することだ。
サイバー社会が人に恩恵をもたらすものである限り、私はそこを自らの
事業ドメインとして関わり続けていこうと考えている。
▼ 現在、サイバーに対してマイナーの視点で論じる傾向があるが、負け犬の
 遠吠えでしかない。弱い立場の者に大きな恩恵をもたらすが問題は知恵である。 
知恵と才覚があれば、その中で格差を埋めることが可能である。そのためには
哲学の基礎も必要になる。哲学をもってネットを使えるかどうかで、その差は
大きく左右。考えないでネットにハマッタら、底なしのバカ?になる。 
HP・ブログに10年前に気持ちを集中してなかったら、良し悪しは別にして
現在の世界観とは全く違っていたはず。これからiPadと簡易ブログのツイッター
が爆発的に普及した時に、この蓄積は何ものにも変えがたくなる。 
知らないうちにサイバーに移動していたことになる。ますます情報=通貨の
度合いが強くなる。恐慌も含めて、こんな時代が見れるとは思ってみなかった!

・・・・・・
2962,若者たちは今 -2
2009年05月15日(金)
 -若者が危ない!ー
いつの時代にも「今時の若者は」と言われてきたが、少し前の経済週刊誌に
「現在の20歳代が危ない」という特集があった。 その特徴として、
・上昇志向なし        ・10歳代で「失われた10年」を経験
・二年で3割離職       ・20歳代前半の43パーセントが非正規社員
・親との同居率6割      ・職場に不満は過半数
・海外志向のない若者が半数  ・あまりモノを買いたがらない 等々である。
 今さらだが、彼らには弱肉強食の意識が欠落、若いときに辛い体験をして、
それをバネにして上を目指そうという気持ちが欠落している。韓国、中国などの
若者に比べて、全く人生に対する姿勢が劣っているようだ。
例の「ゆとり教育の犠牲者」なのである。こういうマイナスの回転に引きこまれた
世代は、何処までもマイナスがついて回るのだから、気の毒といえば気の毒。
我われの世代が逆にプラスの回転だったから、それが鮮明に見えるのである。
  (以下、字数の関係でカット11年05月15日)
・・・・・
2598, 中国の地震について
 2008年05月15日(木)
中国の地震は、死者行方不明は十万人以上の可能性も出てきた。
産経新聞が行方不明9万人と報道していたが、まだ真偽は解らない。
中越中越沖地震がマグネチュードが6・8、今回の中国の地震が、7・8。 
震度が一違うと32倍というから、いかに大きな地震だったか!が推測できる。
32年前の文革真っ只中に24万人の死者の地震があったというから、日本の最近の
地震とは規模が違う。この地震もも、マグネチュードが7・8だったという。
最近は誰もがデジカメか携帯電話のカメラや、ビデを撮ってしまうから
情報管制は難しい。連日、生々しい写真が出始めいる。スマトラ沖地震と、
ミャンマーのサイクロン、そして、この地震と大規模の災害が続いている。
それも中国にとって華やかなオリンピックの聖火リレーの最中に。
  (以下、字数の関係でカット09年05月15日)
・・・・・・
2233, しお壷の匙  -2
2007年05月15日(火)

         (´∀`σ)σ オハYO!
 
    この中の「銭金について」の上司の言葉と、本人の動揺が面白い!
   「学生気分が抜けない頭でっかち」を注意された時のカルチャーショック。
    誰もが一度通らなければならない精神的脱皮の時である。
    働くとは何か?  金を稼ぐことである。 生きるためである。
    そして、その中に生甲斐を見出していくことである。
    一度、徹底的に自分を破壊して、金を稼ぐプロとして再生しなければならない。
    これが三年目にくるか、十年目にくるか、それぞれ違うだろうが。

ーまずは、その部分を抜粋してみる。
 ーー
「・・ある日、私は上司に呼ばれ、きみはまだ学生気分が抜けていないんじゃないか、
お世辞、お愛想の言い方がへただ、と注意された。突然のことに当惑していると、
上司は自分の机の抽出しから一冊の本を取り出し、いきない「これは何だッ。」
と呶鳴った。見れば、それは私の本だった。
当時、新潮文庫の一冊として上板された、プラトーン・田中美知太郎訳
「ソークラテースの弁明」であった。私は己れを慰めるためにそれを書店で求め、
通勤の往き帰りに電車のなかで読んでいた。
上司はそれを私の机の中から取り出し、咎めているのだった。

「俺はお前が週刊誌を読んでいる姿、見たことねえぞ。これは何だ。
こんなもの読みやがって。こんなもの読んでて、金に頭を下げられると思ってんのか。
人間の心は捨てろ。そうすれば、どんなことだって平気で出来る。
人におべんちゃらを言うことだって、人を騙すことだって平気で出来る。
俺たちは人に頭を下げることによって、飯を喰ってんじゃねえぞ。
金に頭を下げることによって、喰ってるんだ。いいか。
お前はその屈辱にもよう堪えん男じゃないか。
金に頭を下げることのありがたさを知ったら、どんなことだって出来る。
屈辱に堪えること、それがお前の喰う飯の味だ。
お前だって、金なしには飯が喰えん男じゃねえか。
その金は誰からもらうっているんだ。
おう、どんな別嬪も便所へ行ったら、パンツを脱いでしゃがむんだ。
人間の心を捨てろ。いいか。」 ・・・  

私にあっては、この小事件は大きな意味・価値を持っていた。
私はプラトーンを読みながら、併しまた同じくプラトーンを読む他人で、
これを読むことに屈辱を覚えない人には、も早何も共感を覚えなくなっていた。
世の中にはプラトーンを読む人は多く、寧ろこれを読むことを己れの「誇り」
にしている人の方が多い。
私にはその自慢がましい精神態度が、頓珍漢な思い上がりにしか見えなくなった。
・・・併し私はそれでもプラトーンを求めないではいられなかった。
この屈折は、私に苦痛を強いた。
プラトーンを読むことに「誇り」を味わっていた男が、
「苦痛」の中でプラトーンを読みはじめた。難儀なことであった。
ーー
  解)
    私が金沢の某会社に勤めていときの上司に似たようなことを言われたことがある。
    もっと次元の低い内容であったが、まだハッキリ憶えている。
    その時は「自分の見える限界でしか、人は見えないということか?」
    と頭の中で呟いていたことを覚えている。
    上司や仲間を同列の相手として見ていない自分が、そこにあった。
    甘さを背中に抱えながら、見て見ないようにしていた自分が当時の自分であった。
    
    この文章を読みながら、なるほど金を稼ぐということの難しさを改めて思い知った。
    生存と、成長と、ライバルとの競争と、何の手がかりのない空虚のあせりの中で・・・
    当時は、目の前に置かれた一冊の宗教書「大本教の出口王三郎」の言葉であった。
    その歪みの心の中で、木に登って=「プラトンを読んで」現実からの自己逃避を
    していた著者と、現実という熊の吐く息が、その上司である。

    今の若者、いやこれは何時の時代にも通じることだが、本も重要だが、
    シッカリと地に足をつけた割り切りも重要である。
    現在の私の年齢の厳しさは、過去の自分の足取りがそのまま、
    自分に突きつけられるためである。
    心が締め付けられる思いを毎日のようにしている。
    
    ただ金銭感覚は、両親から徹底的に教え込まれたが、
    一日、二時間の読書は必ず、していたが、
    それでも後悔すること然りである。
                   (*・ω)ノβψε★βψε
・・・・・・・・
2006年05月15日(月)
1868, ブログは社会革命ー 2
 おはよ~!(*^ワ^*)i
    いま一つ劇的なポイントがあった。
    それはブログに書かれた記事は、
    検索エンジンにとっても検索されやすいということだった。
    わかりやすく言えば、
    ブログの記事や日記は一本一本が独立したHPのような形式になっている。
    検索エンジンはこうした構造のHPを好むから、
    結果的に検索エンジンはブログに書かれた内容であっても、
    企業のHPと同じように検索エンジンに取り扱われるようになったのだ。
    
ウェブ進化論」の第四章ブログと総表現社会 の中に解りやすく書いてある。

ーひとつはブログの仕組みは、記事をコンテンツの単位として設計されている
ということだ。つまり、ここの記事に固有のアドレス(URL)がつけられた。
技術的に難しいことではないが、これが当たり前になったのが非常に大きかった。

それぞれのブログの記事に固有のアドレスがつけば、
「○○さんのブログ」というたくさんの情報が混在する塊を指し示すのではなく、
「○○さんのブログのこの記事」とピンポイントで紹介できる。
そのウェブサイト全体の内容が次々と更新されても、
書かれたその記事のアドレスは変化せず、リンクは永続する。
ウェブサイトという単位よりも、もうひとつ小さなくくりである記事が、
ブログで取り扱う標準単位になった。
                      (*^ー^)/C□~~ コーヒー
    第二の技術的変化は、
    RSSという古い技術がブログという新しい仕組みに取り込まれ、
    全く新しい可能性を拓いたことである。
    RSSとはウェブサイトの更新情報を要約してネット向けて
    配信するための文章フォーマットのことだ。

もともとウェブサイトとは実に受動的なメディアで、サイト上で何か更新を行っても、
誰かがそのサイトを見に来てくれない限り、その更新は人の目に触れないという
代物であった。しかし「更新情報を要約して配信」できるということは、
そのウェブサイトをの更新を能動的にネットに向けて知らしめることができる
ということを意味する。

    記事をコンテンツの単位として考えたブログの仕組みと、サイト内の記事を
    配信するというRSSフォーマットの構造がうまくマッチしていたため、
    ブログを書くためのツールの殆んどが、最初からRSS配信機能を組み込んだ。

つまりブログツールは、記事がかかれてサイトが更新される度に、
RSSフォーマットの情報を、ネットに向けて自動的に配信するようになったのである。
むろんブログの書き手のほとんどはそんなことを知らない。
しかし、インターネット上は、ブログを書いた人たちの記事の数だけ吐き出された
RSSフィードで溢れるようになった。

    フォーマットが標準化されていたから、ネット上の誰もが、
    それらを拾って蓄積したり、加工したり、サービスを開発できるようになった。
    情報の自己増強・伝播メカニズムの芽が、ブログとRSSの組み合わせによって
    生まれたのである。
    
            (o´・ェ・`o)ノ♪ バイバイ!
・・・・・・・・
2005年05月15日(日)
1503, 平等について-1
ー不平等が人間の基本ー

フランス革命の旗印は
「自由・平等・博愛」である。
その自由に重心を置いたのが、自由主義であり、
平等に重心を置いたのが、社会主義である。
博愛に重心を置いたのが宗教というところか。

「自由」については何回か書いたが、
今度は「平等」について考えてみよう。
『日常生活に哲学は必要だ』ー三浦朱門と鷲田小弥太の対談集ー
の中の「平等について」の一節に明快に書いてあった。
これから考察してみる。

ーまずは抜粋してみるが、「平等」に対して、
これだけ解りやすく納得させてくれるのも珍しい。

ー「不平等が人間の基本」ー
・三浦
 社会主義の基盤は平等です。
さっき、人間は共産主義者が好きなのではないという話がでましたが、
それは実は平等が好きだということなんです。

実際、遠見に見ると、人間なんてどれもこれも同じなんです。
たとえば学校を見ると、卒業式とかなんかで、クラスの記念写真を撮りますね。
これが制服など着たりしているとなおさら、みんなと同じである。
だが、少し近づいてみると、男の子がいたり、女の子がいたりする。
偏差値も違うし、歌の上手い子もいる。ハンサムな子、美人な子、逆にブスな子もいる。
これだけの要素を順列組み合わせしてみても、千差万別といってよいほど違う。
まして人間の要素というのはこれだけではない。
本当に一人ひとり違う。

 だから、社会を構成上で大切なのは、平等の適用範囲なのでしょうね。
平等の心地よさは大事です。それは社会を安定させる重要な要素です。
人間を遠距離で見るか、中距離で見るか、近距離で見るか。
市民的平等、遺伝子的平等、文化的平等などさまざまな局面を考えてみると、
やはり平等は社会保障や法律の局面に限るべきだと思います。
その部分の平等が保障されていれば、その社会はまずはよしとしなくてはなりません。
ところが平等とはなんでも同じでなければならないととらえられている。

・鷲田
まず人間は基本的に不平等であると心得なくてはなりません。 
その基本的に不平等である人間が社会的生活を営む上で、なるべく円滑にいくように
考えだされてのが平等という概念であることを知らなくてはなりません。
そのためには、法律に定められた平等以外に不平等であるのが人間の姿なのです。
それを心得させるものは哲学であるということなのです。

「平等と権利の主張」

・三浦
平等は社会生活を営む上で便宜的な概念であって、
人間の本質でないということことですね。
だが、その平等の概念がしばしば混乱するのは、ほかでもない、
権利意識と平等が混同されるからではないでしょうか。

・鷲田
権利を主張するのに平等を楯にする。
しかしね、平等を楯にした権利の主張は利己主義に過ぎないよ。
その証拠に、こちらに何かを寄越せ!という権利の主張なら大いに平等を
口にしますが、平等にするためにこちらの何かを削らなくてはならないような
場面では、平等のビョの字も出なくなる。

・鷲田
いまの政治家や役人の二代目なんてのは世襲化しているが、これを如何考えるか。

・三浦
何代目であろうが、一応外交官試験を通ったり、選挙に当選しているのだから、
やはり平等と見なくてはなりません。

・鷲田
平等は聞こえがよいし、居心地がいいかもしれない。
また、社会生活を円滑に回転させるための円滑油としての効果もある。
だが、それはあくまでも法律的な枠組みに限られたことだとわきまえなくてはならない。
良識などという言葉は私にはもっとも似合わないが、
やはりそういう良識を持ち合わせてないと、品位のない社会になってしまいますね。
その良識を確立するためにも哲学を持たなくてはなりません。

ーーーーーーー
以上、書き写すのに時間がかかったが、
私にとって、それをするだけの価値は充分あった。

まずは、「平等が基本」という前提が突き崩された。
しかしよく考えてみれば、
子供の時から社会を見ていても「不平等が基本」にあった。
裕福な家庭の友達と、貧困の家庭の友達は厳然とあった。
学歴の差も、美人とブスの差もあった。
成績の良い子もいれば、劣等性もいた。
弱い子は虐めの対象になっていた。

色いろな人がいるのが社会である。
そして、弱肉強食が実態である。
平等は何処にも存在をしてないのが実社会である。
しかし、心のどこかに平等意識が働いているから、歪みが出てしまうのだ。
同じ兄弟なのに!
同級生なのに!
市民なのに!
国民なのに! 等々。

しかし、そこに落とし穴がある。
「人間の基本は不平等」と割り切っていれば、
「人生の敗北者」の考え方にならないですむ。
「敗北者」の甘さに、心のどこかに平等意識があるからだ。
「世間様」に棲む「子狐的人間」が、
この不平等と平等意識の狭間の中で右往左往する。

中国旅行の時の現地添乗員が、日本に留学に来ていた時に日本の豊かさを観て
「何で同じアジアに住む人間として、ここまでの差がなくてはならないのか?
戦勝国の中国の方が貧しいのか?非常に疑問を持ってしまった!」と言っていた。
国内だけの貧しさの平等なら解るだろうが、敗戦国なのに100倍近くの収入の
差を見せつけられれば疑問を感じて当然だろう。
「国家体制のシステムそのものに問題がある」
ことに鄧小平が気がついたからよかったが。
                       ーつづく
・・・・・・・・・
2004年05月15日(土)
1138, つれづれなるままにー駅の風景

・一昨日(5月14日)のことだが、帰路の長岡駅の出来事。
60過ぎの背広を着た男と、人相のよくない二人連れがもめていた。
立ち止まらないで通りすがりに見ただけだったが、目がおぼろの男が仕込みの
刀を持っていて、二人の男が、それを取り上げようとしていた。
中年の男が「何するんだ!」と刀にしがみついていた。
二人連れは「お前こそ、こんなものを何でもっているのだ!」と言っていた。
すぐに気がついたのが。二人連れが私服の刑事で、男は何かの事情で刀を
持ち歩いていたのだろう。

・以前、新潟駅で作業服風の上下を着て帽子をかぶってマスクをした4人の男が、
歩いているオバサンの周辺を囲みながら一人が近づいて威圧をかけ、それを
バックでおばさんが追い返すと、次の男が近づいていく異様な光景を見た。
オバサンがたまらず大声で「あんた達の正体ぐらい分かっているいるのよ!」と、
叫んでいた。カルト集団同士の嫌がらせ?という感じがした。

長岡駅の出来事であるが、階段を下りていた中年の男性が階段を踏み外して
顔から落ちてメガネがとび、血が見えた。
その瞬間、歩いている数十人が数秒すくんだ様に立ち止まった。
時間が止まるとは、あの瞬間をいうのだろう。
次の瞬間、誰も考えることは一緒である。
「係りあいになりたくない!」である。
全員が躊躇するのが、手に取るように分かった。
一番近くの人が、仕方がないという感じで、近寄り。
階段の一番改札口に近くの人が、駅員のところに駈けていった。

新潟駅の新幹線の改札を出て、しばらく歩いたところに大きめな野鳥が
竦んで蹲っていた。迷い込んで恐怖で動けなくなっているのだ。
立ち止まって見ていたが、どうすることもできないのでそのまま見過ごしたが。
多くの人が、まったく興味を示さず歩いていったのが印象的であった。
  ーーー
駅はいろいろの人がそれぞれの目的を持って集まり散っていくところである。
見ていると色いろなミニ事件を目撃をする事が多い。
ハッキリしている事は服装は、当然の事だが、それぞれの目的に合わせて着ている。
服装を見れば大よそ、その人の目的、もっといえば、その人の人生が分かる。
そういう自分もそうだ。 服装はやはり気をつかわなくてはならないことだ。
キンキラも考えものだが。

・・・・・・・・・・
2003年05月15日(木)
771、ゆっくり急げ!

この相反する言葉をひとつにしているのが面白い。
方向を間違わないで一歩ずつ確実に歩めという意味である。
童話の「亀とウサギのかけっこ競争」や「急ぐ文はユックリ書け」
に似ている。
私の性格が気短で、せっかちで解っていても急いでしまう。
人生の達人といわれる人にゆっくり急いでいるタイプが多い。
何にもしていないようでいて、ポイントを外さない人だ。
モノゴトのABC分析がキッチリできているのだろう。

早速インターネットで「ゆっくり急げ」と検索してみた。
上記の私の半端な解釈より、ずっと深い内容であった。

ーその結果はー
ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの言葉として知られている。
「完璧な将軍にとって、軽挙妄動や猪突猛進ほど不似合いなものはないと
 考えていた。そこで常日頃から好んで次のような文句を口にしていた。
『ゆっくりと急げ』
『大胆な将軍より慎重な将軍の方がましだ』
『なんでも申し分なく立派にやりとげたら、申し分なく早くしたことになるのだ』」

・ローマ時代の銀貨に錨(いかり)にイルカが巻きついた図柄の銀貨がある。
 錨はゆっくりを、イルカは速さを表している。
「ゆっくり急げ」を描いた銀貨だ。
『急ぐべき時には急げ、ゆっくりすべき時にはゆっくりしろ』
と言うことだそうで、要は判断とバランスの問題だと言う。

・何をすべきかを考えることが大切
《急ぎは浪費のもと》「急いては事を仕損ずる」
「短気は損気」
《急ぐと自分の踵・つまずく》
ー以上であるが、じっくり考える事と判断と、それを踏まえて
 の行動の早さが大事だということだ。
 目的と手段・戦略と戦術を冷静に見据えた果敢な行動の必要性をいっている。

・・・・・・・・・
2002年05月15日(水)
407,ホームページを開いて一年

以前「テーマ随想日記を書いて一年」を書いたが。
このテーマはホームページである。
「ホームページつくりを通して、パソコンをわがものにする」
と目標を立て、実行して一年半経つ。やはり人生が根本的に変わろうとしている。
情報化を実感している。

たどたどしく、やってきたというのが実感だ。
一つの目安が、現在のこの時期と考えている。
ここで一回ホームページの解体の時期かもしれない。
実施は夏以降か?

現在の自分の現状に似ている。
今までのビジネスや人間関係や慣例の解体のプロセスの時期だ。
ゼロベースからの見直しである。
ホームページづくりと、旅行の積み重ねと、去年の9・11で、
世界と世界観が全く変わってしまったからだ。

やはり情報は最も大事である。

どこまで一人になりきれるか、とりあえず一人に。
とくに「--会」といっている集まり。 当分は「空」への過程だ。

そしてある時期がきたら、新しい「色」を求める。
ポイントは「電脳、グローバル、21世紀へ、前向き、楽しさ、興味」
である。濡れ落ち葉にはなりたくない。

ここで他者のホームページが見えはじめてきた。
素晴らしいホームページにいきあたる。
それと自分のホームページとのリンクがポイントである。

特にリンクの分類がポイントになってくる。
それとやはり絞込みが重要だ。
そうしないと、みさかえなく情報が入ってくる。

現在、電脳というキーワードがある。
その時代に入ったことが実感できるかできないかが分岐点だ。

ポイントはホームページだ。
自分のリンク集でもいい。

・・・・・・・
2001年05月15日(火)
赤面―自嘲―入力ミス

日記の文章で、文面に2日に一度は入力ミスがある。
1度見直せばこんなに多くないのはずなのだが。

2~3日前より一度パソコン内のメモ帳上に書いた上で、コピーして
載せるように切りかえた。
ブラインドタッチの訓練をかねている為、余裕が無かったとことと、
日記帳という気楽さという言い訳は公開した以上成り立たない。
書き直す方法は明後日にパソコンの先生の授業課題なので土日に直すつもりだ。
毎日は書かなかった日記を公開すると同時に欠かさず書き始めるのも自身が可笑しい。