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天空をキャンパスにしたオオロラを見たときの感激は今でも
ハッキリ憶えている。 これはネット詮索の写真だが、背景の天空が
見る者の心を不思議な世界に誘う。自然現象の中では、これに勝る
ものはない。 オオロラは、地球外からの光の自然現象という。
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3688, 自己を見つめる -11
2011年05月01日(日)
「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
愛の不在の人=肉親の愛情に恵まれなかった人を見抜くことは難しい。
両親の仲が悪い子供には往々に多いが。愛の不在の人は普段は分からないが、
節目時に、それが表面化する。 人への憎悪と呪いが、そこで爆発する。
これは誰々という訳でなく、全ての人の心の奥に巣くっている。 節目時は、
傷ついている場合が多い。そのマイナーのエネルギーをプラスに転換するには、
そのまま流される数倍のエネルギーを要する。しかし流される人は意志が弱い
ため、そのエネルギーが空回りをしてしまう。そして自爆になっていく。
以下の箇所も、充分、肯ける部分である。
ー愛の不在ー
【 小さいときから、肉親の愛情に恵まれず、誰からも優しい扱いを少しも
受けなかった人があったとすれば、多分その人は、心の奥底に深い傷を抱いて、
その後ずっと人生を恨みとおし、表面は穏かであっても、おそらく心の底では、
一生を通じてずっと、他者に対して暖かい心をもつことができず、絶対に他人を
許そうとはしないであろう。 小さい頃に親の愛情に恵まれなかった人、また、
周囲の人たちから嫌われ、いじめられ、除け者にされたと思っている人、さらに、
長じてからも憂き世の労苦と意地悪な世間にもみくちゃにされて、何の優しい
愛の絆をも構築することができなかった人、そうした人は、その原因が何であれ、
その隠された心のなかで、人生を憎悪し、呪うことになるであろう。そうした
人は、自虐や他虐のふるまい方をする以外に、人生への仕方をすることができ
なくなるであろう。 そのすさんだ心には、辛い人生に復讐する怨恨構の爆発
だけが、この世の慰めとなるであろう。 これは、ひとごとではない人生の
最重要問題である。 こういう否定的な感情は多れ少なかれ、誰のうちにも
巣くっている心の病だからである。なぜなら人間は、どこにおいても、厳しい
人間関係のなかに置かれ、大なり小なり、この世の荒波にもまれ傷つ経験を
免れがたいからである。】
▼ 無条件に親の愛をうけた人は、それが温もりとして性格を形成する。
逆の人は否定的感情に支配され、深く自分を傷つける。それは誰も持って
いるが人により強弱がある。 普通の流れでは、それは出てこないが、
節目時に暴風となる。それも家族全体が。
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3323, 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由
2010年05月01日(土)
『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』石川文康著-3
「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。
そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。自由は第一原因であることから、
当然の帰結である。 自分の真にしたいことを人生を通して貫き、創造性を
発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。
*「なぜ・なぜならば」の極限としての自由 ーP・205 から
≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」
「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、意外に思われるかも
しれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの
使用法からすれば、「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる
接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。
それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、
「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、そして「第一原因」と、
一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるを
えなかったのである。これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ
(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。
そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」
というライプニッツ以来の問いに対する、考えられうる「なぜならば」
の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、
ライプニッツによる十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが
自由はその成長の極致と言ってよい。われわれ独自の定式で言えば、
「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。
この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって
答える以外にない。究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに
「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。カント自身も、
「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」
(理由=理性)の極限であれば、理性にとってそれ以上の「なぜ」は
あるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権
を犯すことになり言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。
というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、理性の限界外には
「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、
しかしその中には何も実在していないように。非理性によって満足するものが
あるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション)であろうが、
それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。
・・(略)たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用
である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。カントも自由が
「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者と
しての人間は、その自由ゆえ自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者
ではない。≫
~「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する!
この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由?
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2948, 報道されないニュース
2009年05月01日(金)
ネットで「商業販売、過去最大24.0%減に」をみて驚いた。
大手の新聞記事を探したが見当たらない。報道管制をしているのである?
メーカーが40~50パーセント減、流通・サービスが30~40パー減、
と言われているが、あまり表面だった報道はされていない。ところが、共同
通信社のHPに、この記事があった。スーパー、百貨店などが24パー減とは、
マスコミは間違っても報道はしないが、実際は、そんなところか?
日本は、とんでもない領域にあるということだ。 時間の経過と共に
ツルベオトシになっている。これに豚インフルエンザときたら、5~6月は
大荒れになってしまう。即死の企業が多出するのは必然である。
*3月商業販売、過去最大24.0%減=卸の全業種マイナスに
4月28日11時1分 配信 時事通信
経済産業省が28日発表した3月の商業販売統計によると、卸売りと小売りを
合計した商業販売額は前年同月比24.0%減の45兆0650億円となり、4カ月
連続で過去最大の減少幅を記録した。自動車や半導体の輸出が不振で、卸売
業販売額が29.2%減の33兆3420億円と急減したことが響いた。
卸売りは全業種でマイナス。
*2月商業販売、過去最大21.5%減=卸、小売りの全業種がマイナス
(2009/03/27-10:20)
≪字数制限のためカット 2011年5月1日≫
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2584, ただ、生命だけが‘びくびく’と生きている
2008年05月01日(木)
ー「人生の答え」の出し方ー 柳田邦夫著 ー2
この本の「魂を揺さぶる言葉」という項目の中でー「いのちの初夜」北條民雄著ー
を取り上げていた。ハンセン病のために隔離され疎外され、23歳で夭折した小説家
・北条民雄の代表作「いのちの初夜」で、古株の患者が新入患者である主人公に
語る言葉の一部がある。 まず、その部分を書き写してみる。
ーー
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち そのものなんです。
僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。 あの人たちの『人間』はもう
死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけが‘びくびく’と生きているのです。
なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那(せつな)に、その人の人間
は亡びるのです。 死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。
そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。
けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、
全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです。
復活そう復活です。 びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。
新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。
死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それが
どこから来るか、考えてみてください。ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めて
いるからではないでしょうか」・・? 「いのちの初夜」より
ここからは、ー「人生の答えの出し方ーより??
(字数制限によりカット 2015年5月01日)