つれづれに

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 今朝は雨のため早朝のポタリングはなし。
その分、ネットと読書にエネルギーを向けることが可能になる。
晴耕雨読」が、「晴チャリ雨読」というところ。
 
 明日からゴールデン・ウィークに入るが、SJのスケジュールが
少し変化する以外は関係ない。 近くのイタ飯の『サイゼリア』に行くくらいか。 

今日の二枚の写真、見ているだけで気が晴れる! 世界を探せば幾らでも
こういう景色に出会うことができる。 

・・・・・・・
2010年04月28日(水)
『カントはこう考えた 
ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』石川文康著 -2 
* 理性は絶対を求め、「理念」を生みだす  
 学生時代の問い「理念の意味は何か?そして、その理の意味は?」が、40年
以上経った現在、その答えを見つけたのである。 何か微妙な感覚である。 
理念が理性の「何故?何故?」を徹底した問いの極限というから、眼から鱗。
  ーまずは、その部分を抜粋して考えてみる   P-24
≪ 理性的とは、「なぜ?ーなぜならば」という仕方で物事に筋道をつける
 能力である。それも、どこまでも道筋をつける能力である。というのは、
「何故?ーなぜならば」の関係は原則的に一組でほ終わらないからである。
一つの「なぜ?.」にいったん「なぜならば」と答えても、その答えに対して再び
「なぜ?」と問いうるし、そのまた「なぜ?」へとさかのぼりうる。理由のそのまた
理由……、原因のそのまた原因……、という具合にである。そのようにして、
「どこまでも」ということは、「徹底的に」という意味になる。そして
「徹底的に」ということは、究極に迫るということ、すなわち、最後には「極限」
にいたるということである。それは、理性が推理の能力であるということと表裏
一体である。 ある物事(結果)の理由や原因には、そのまた理由や原因がある。 
すなわち、いったん「なぜ? なぜならば」の推理が開始されるや、その鎖は
原理的にどこまでもさかのぼる。ということは、理性は原因のそのまた原因、
そのまた原因のさらにそのまた原因、等々の果てに、必然的に究極原因を求め
ざるをえなくなる。要するに、理性は極限に迫らざるをえないのである。 
いわゆる「理を通す」とは、そういうことである。・・
・・(中略) 冷めた言い方をすれば、理念は理性固有の本性や関心から
理性自身によって生みだされ、現実社会に合理的な脈絡をつけるために、現実社会
のかなたに「投影」された像に他ならない。 それは現実社会を合理的に読みとく
ためには、はなはだ有効であり、それどころか不可欠でさえある。 ところが、
ひとたび投影され現実世界と融合した像は、いつしか現実世界の一部はおろか、
その全体として実在するかのように、うっかりと思われてしまう。ちょうど、熱心
な観客が映画のスクリーンの中に、あたかも実在の世界があるように思い込んで、
感動したり憤慨したりするように。このように、理念は「功」と「罪」の両面性
を持っている。この両刀論法、すなわちパラドックスの原因とオーバーラップする。
この理性の両面性事態がまさしくパラドックスである。 このパラドックスこそ、
アンチノミー(二律背反)に他ならない。その理性が意志をコントロールし、
決定をする。 ≫
 ー以上だが、我が社の理念とか、私の理念とかで、使うが、まずは理性から
考えていかなければならない。そうすると、やはり何故、自分は目指すのか、
そして、何を目指すのか、その根拠(理性=理由)を明確にし、それを突き詰めた
のが会社理念となっていく。 それが個人としての私の行動指標なら、その根拠
の明示が必要になる。
 ・・・・・・・・・
2945,タレント知事をどうみるか? ー1
2009年04月28日(火)
 最近、一時なりを潜めていたタレント知事がマスコミで注目を浴びている。
青島幸男横山ノックなどで選挙民は、その正体を見てあきれたはずだったが、
再び田中康夫、東国原、大阪の橋元知事、直近では森田健作が千葉県知事になった。
田中にしろ、橋元、東国原知事も、現在見るところ、最大限にタレントの経験を
生かしているようだ。産経新聞のオピニオンというコーナーで、その功罪を
野志郎と佐高信が論じていた。浅野は、タレント議員を肯定する立場で、佐高
は否定する立場である。まず浅野は「知名度で圧倒的有利なのは言うまでもない。
外に対する発言力に長けている。マスコミに面白がられて目立つことも悪くない。
また政治的未経験について、「ほとんどの知事は政治未経験者だ。これは決して
マイナスでなく、むしろメリット。僕は国家公務員を23年7カ月間務めたので、
知事になったとき行政についてはお手のものだったが、大きな改革や新しい発想
をする時はマイナスになる。『センス・オブ・ワンダー』、つまり驚きを感じる
心が必要だ。東国原知事橋下知事は県(府)庁に入って驚きの連続だったと思う。
 (字数制限のためカット2011年4月28日)
 
・・・・・・
2581, 連鎖する大暴落 -3

2008年04月28日(月)

                才ノヽ∋―_φ(゚▽゚*)♪
この本の「まえがき」に
アメリカがいよいよ暴落する。・・・少しだけアメリカから離れましょう。
自分の財産を守りたかったら、ここで『損切り』を敢行すべきである。
投資とは損切りができることである。・・・」という言葉が印象的であった。
 その通りで、損切りができるかどうかが、投資の分かれ目になる。
人生と同じで見切りが大事である。 私の場合、この経験を嫌というほど経験してきた。
損切りに躊躇、迷っているうちに大損をしてきた。 しかし損切りも何度もしてきた。
これだけは自分が経験しないとわからない。 これは決断の話になる。

現在のアメリカの状況は、日本の18年前とホボ同じというが、その通りである。
その時期に損切りが出来なくて大損をした経験から、現在のアメリカの状況が透けるように感じる。

数年前に、親しくしている知人がカナダドルとカナダ国債を勧めに来た。
その時に、「アメリカは磐石。その理由は *世界機軸のドルと、*世界最強の軍隊と、*世界の共通言語と、
*ネットを含めた情報革命の最先端を走っている。その上に資源のあるカナダは更に磐石である。」とのこと。 
投資の最低ロットが2000万円からという。しかし、如何いうわけか、少しも心が動かなかった。 

理由は、「ユダヤ系資本の人の受け売りでしかない」と思ったからである。
いや、金(キン)の実物ならいざしらず、紙切れに何で?というのが、当時の本音であったが。

~この本に面白そうなところを~~P59~
先物取引は株にしろ通貨(外資)にしろ、イカサマと断じている。
先物の値段はごく限られた特殊の人だけで勝手に『値決め』されているという。
ならば一般の市場も、これで振り回されるのだから当然一部の人の思惑で殆どが決まることになる。
ミルトン・フリードマンが『選択の自由』という本で『自由競争と市場原理の素晴らしさ』を説き、
規制撤廃」と「小さな政府」を提唱した世界的経済学者ということになっていたが、
しかし彼が影でこそこそしていたことは、その逆のおそるべき統制経済であり、
「私たち一番上の権力者が全ての値段を決める」という行動だったのである。
私たちはフリードマンに大きく騙されていたのである。その日本における今の代理人の一人が
竹中平蔵元金融大臣である。おかしな人である。今でもまだ「日本は自己改革(規制緩和)が不徹底だから、
景気が悪い」とのたまっている。まったく畏れ入る。
 ~~
先物投資が、株価や国債の値を先導するのだから、大筋の債権の投資とは、
ヤクザが胴元のインチキ博打のようなもの! 
儲かるのは、たまたま運が良いだけ!と割り切ったほうがよいと、この本はいうのも肯ける。
                   (゚Д゚*)ノ⌒【ホンジャ】
・・・・・・・・
2007年04月28日(土)
 2216, 中村うさぎ         才八∋ウ_〆(∀`●)
  「女殺し借金地獄」 ー読書日記

    書き写しながら、何でこんな文章を自分が?時間を潰していて、果たしてよいのだろうか?
    と自責の念にかられる内容である。男には、こういう文章はかけない?ものである。
    アル中の、買い物依存症の、バカ女が、それを売りに捨身で文章にして、生計をたてている
    だけの本でしかない。それもブランド買いの世にも哀れな気の毒な底の浅さを売りに!
    その哀れな女のサガが共感を得るのだろうが・・・。
    一番嫌いの、そのバカさの露悪が、逆に面白いから取り上げている。
    しかし、考えてみれば現象を変えてみれば自分の姿でもある。
    お水の世界には、こういう人は意外と少ない。虚飾を見抜いているからだろう?
    それとも、実は虚飾人間の吹き溜まりで、高い店に行かないだけか!?
    
ーとっておきの場面を抜粋してみるー
 ーー
P-177
その夜、私は、何人かの友人と、一気飲みのゲームをしていた。
何回か負けた後、「これはヤバイ」と気がついた。
これ以上飲むと、私ははいてしまう。これ以上飲めないと宣告すると、友人たちは、
苛酷な罰を私に課したのである。「飲めないのなら、代わりに、ケツの穴を見せてもらおう」
吐くより、ケツの穴を見せるのは、ただ一瞬の恥で済むのではないか。
痛くもなければ、体調をくづすわけもない。そうせ、こいつら酔っ払いだ。
私がケツの穴を見せた事など、一晩たてば、すっかり忘れるにちがいない。
よ~し、決めた!ケツの穴をみせてやるぜ!私は不適にも微笑み、ぺロリと尻をめくってやった。
まさか私が本当にケツの穴を見せようとは誰も予測してなかったらしい。
(字数の関係でカット2,008年04月28日)
                    ゲッ!!ε=(@.@;)
 ーー
   これ、書き写していて「バカじゃないかい! 書くほうも書くほうだが、
   書き写している私はもっとバカか!」と、不気味な気持ちであった。
   でも、これほど酷くないとしても、バカ騒ぎをしているのだろう、
   酔っ払いは。ヘ(゚◇み)ノ~  ところで、自分は如何だったのだろうか?
   まあ、忘れてしまった!    m(。^_^。)m
   都合の悪いことは、どういうわけか忘れてしまう。
                 (・_・) ノ ホンジャ~
・・・・・・・・
2006年04月28日(金)
1851, ローマから日本が見える-7
     才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪
                   ー読書日記
1千年以上にわたって広域の多民族を支配し続けたシステムの根幹とは、
驚くほどの合理的、かつシンプルで、それぞれの民族にとってもプラスでなければならない。
そこは突き詰めた組織の経験則の宝庫のはず。その秘密が、『組織のローマ』の中で解明されている。
時間をかけて写すだけの価値は充分にあった。過去より現在の方が果たして進歩しているのだろうか? 
宗教は人間にとってプラスだったのだろうか?それは神のみぞ知る?である。
著者はローマ帝国史を読んでいる時には、自分が皇帝になったつもりで読むと良いといっているが・・・  
しばし、皇帝になるのも良いものだ!
ーーー

第4章 『組織のローマ』、ここにあり

前章で述べた「リキニウス法」で、100年にわたる貴族と平民の対立は解消へと
向かう。この決断が、驚くべき決断であり、どの社会でも起こりえる階級対立は
『取りこみ方式』で解消しようとしたのはローマのみであった。
その選択が結果として正しかったのは、その後のローマ史が明らかにしています。
   
    僅か100年前にケルト人によって、あわや滅ぼされそうになった民族がイタリアの覇者になれたのは、
    貴族と平民の融和政策であった。平民の中から優れた人材を集めて、その人材を元老院を中心とした
    統治体制の中で活用していくやり方を、今日の表現に変えると、「組織力」という一語に集約される。

ー二つのネットワークー

歴史家リヴィウスをして『アレクサンダーをも退けたに違いない』
といわせたローマの組織力は何も、共和制度だけに負っていたわけではない。
リキニウス法以後のローマには、同時代の他の国の持ってない二つの大きな武器がありました。
・一つは、モノや人を動かす上でのネットワークとしての道路網。
・もう一つは、ローマを中心とする、国家間のネットワークとしての「ローマ連合」。
  この二つのネットワークの力で、ローマはイタリア半島の覇者になり、
  その後には地中海の覇者になるのです。実はこの二つが同じコインの裏と表になるのです。
 別の言い方をするならば、
 ・道路網がハードウェアなら、
 ・「ローマ連合」がソフトウェアであった。

歴史家プルタルコスは、ローマが他を圧して大きくなった理由として次の一言に要約しました。
「敗者さえも自分達に同化させる彼らのやり方ぐらい、ローマを強大化に寄与したことはない」
この美徳はロムルスの時代にすでにサビーニ族との同化において現われていたが、
それが王政から共和制に移行した後も変わることがなかった。
  
  ー次回は、その「ローマ連合」の内容である!
                       - つづく
            o(▽^*)ノ~~=バイ~バイ♪  皇帝諸君!
・・・・・・・・ 
2005年04月28日(木)
1486, 男と女

男と女を語らせるなら、「オカマ」が面白い。その話が面白くて一時オカマバーにかよったものだ。
あからさまな女の本音を聞かせてもらえたり、突如、男に変身?する身の変わり方が絶妙である。

最近になって書店で、特に目につのが美輪明宏である。なるほど読んでいて鋭いが、
あくまでも男女間の機微だけで、人間の本質に関しては深くはない。これもオカマの宿命で
仕方がないのだろうが。

近くの図書館から借りてきた本で、現在売れっ子の美輪明宏と斉藤隆の対談集の
「人生賛歌」ー大和書房ーがよい。

特に「第四章のセクシュアルに生きる」ー弱い女と強い男は見たことがないー
美輪明宏の言葉がなかなか男女の本質の差を言い当てている。

 ーその一部を抜粋してみるー
長い間、男女を見てきて思うのは、女はものの考え方がとても大人なんですよ、老獪なんです。
ところが視点が「浅いところ」をみている。男の考え方はとても幼稚で子供っぽい、稚拙なんです。
ところが実は「深いところ」を見ている場合があるんです。そこが女と男の本質的な違いがあります。

女は生まれながらにして、大年増、「オバタリアン」なんです。
小学校の6年生の男女を比べると、一年と六年生位の差があります。
はるか年上の先生を好きになったり、性的に迫ったり、悪知恵を働かせます。
最近私がよく言うのは「弱い女と強い男は見たことがない」ということです。
中小企業の社長で死ぬのは男だけ、女は絶対に死にません。
社会通念では「女がロマンチスト」で「男は現実的」と考えられているが、
これはあべこべなんです。ちょっとした叙情的な要素はあるが、女は現実そのもの。

私は男性がロマンチストで女が現実的というのは、それが必要だから、
神様がそのようにつくったのだと思います。
男が雄雄しく、女は繊細でつつましく、やさしくあれというのは、実は
そうでなかったからそう言われていたわけなんです。

女が現実的で、男はロマンチストだから、女に天才が少なくて男に天才が多いんです。
男は仕事のほうでは驚くくらい老獪でしたたか、抜け目がなくて油断ならないところを
もっている。しかし、私生活になったら、迷子になるぐらい方向音痴だったり、
世の中の常識を知らなかったり、ストンと大きなところが抜けています。
そのギャップが天才の資質なんです。・・・・・・・・
子供っぽさと深いところを見ている大人のところの落差が、天才の条件なんです。

 ーーー
姉が上に4人もいたことと、女性の職場にいたため、
この程度の男女の違いの内容は常識で初歩的でしかないのは解るが、しかしオカマが
言うから面白い。何で時間をかけて書き写したかといえば、ズバリ解りやすく表現しているからだ。

女は男よりシビアで現実的なのは生理があり、一つ間違えば妊娠してしまう立場にあるからだ。
雄犬と雌犬の差である。雄犬は本能に任せておけばよいが・・女性も見ているので、
この辺で止めておいたほうがよい。

ーーーー
2001/12/21
[215] オカマバーー2

前回書いた初めて連れて行ってもらった時の事、カウンターで若い女性が二人飲んでいた。
「へー、若い女がこういう処にのも来るのかなー」と見ていたところ、
一人の女性が「社長!こんな処に来るのですか!」と話かけてきた。
よく見るとうちの会社の社員。「お前こそ、なんでこんなところに!」
と逆にこちらがビックリした。それぞれ世界があるものだと感心した。

毎年行われている長岡高校の同級会を新潟でやってくれと、私の幹事の番に言われた。
そしてその日の3次会で残った4~5人でその店に行った時、0時を過ぎていた。
確か二人の女性が踊りながら、我々を見てホモの集団を見ているような目つきで見た。
その時「これが引き時かなー」と、それから行かなくなった。

丁度その頃、古町で(Zoo)という店がオープン、値段が7700円でかなりの話題に
なっていた。女装している店で、筋肉隆隆のコミックのうりの面白い女?か、
あれは切ったとか、いやに女っぽい女?を憶えている。別世界の驚きがあった。

二回行ったが、そのホステス(ホスト?)が中学の同級会に女装で
行った時、担任の先生の驚いた表情の話が、印象的であった。
その世界の素人?に、その世界を面白おかしく見せたり話すのが「彼らの売り」であったようだ。
「笑われて何ぼ」という世界のようだ。 ただエログロの面白さ一見の価値はあった?

学生の時、歌舞伎町で女装のオカマの店の前で、お客を見送っている姿を見た時のことを急に思い出した。
その時は如何いうことか全く解らなかったのだから、かなりオクテだったのだろう。

ーーーーーー
2001/12/21
[214] オカマバー  -1

14~5年ぶりに新潟駅前にある、オカマバーにいってきた。オカマバーの面白いのはその話術である。
変わった飲み屋がないかと言われて当時よく、知人を連れて行ったものだ。
始めは近くの大原簿記の理事長が近くにビルを創りたいが、
この辺の情報を知りたいとので一献と、奥さんと娘と行ったのがきっかけであった。

やはり初回は異様な感じで、カウンターに男同士の絡みの置物の像には驚いた。
しかし知人に話をすると殆どの人が連れていげという。喜ぶが二度と行こうとは誰も言わない。
奥にやはりもう一軒あるそうで、そこはその気のあるホモのタマリ場という。
男同士はあまり猥談は言わないが、かなり際どい下ネタをあっさり言う。

以前姉達が新潟に来た時つれていったが、その時私の手をとって人先指をふき始めた。
そして目をツブレと言うつぶった瞬間その指をシャブラレタ!ぞっとした。
もしホモの味を知ってしまったら、抜けられないとその時思ったが、それより気持ちが
悪いほうが先であった。

悲鳴をあげたが、1人の姉が私にもやってみてという。真面目を絵に書いたような人で、
皆凝視の中シャブラレタが「何ともないわ、それより真面目な顔でやってるのが面白いは!」
と言ったのに驚いた。私の知り合いが、子供を連れてサウナに行ったららそのママがいたと言う。
子供を盾に下半身を隠し方法のていで、出てきた時のシグサガの話が面白かった事を思い出した。

・・・・・・・・・・
2004年04月28日(水)
1121, 平均寿命100歳!

新聞を読んでいたら、「今世紀後半に平均寿命が100歳になると
なるかもしれない」とあった。
ーその概要を書いてみるとー

線虫をモデルに、老化にかかわっている遺伝子「クロック1」を傷をつけると
1・5倍に延びるという。同じような遺伝子は人間にも見つかっており、
「人も遺伝子の操作で最大1・5倍の延ばすことも不可能でないはず」という。
人間の寿命が120歳が定説になっているので、単純に当てはめれば180歳まで
延ばすことが可能でないかということになる。
「老化は体内の神経系、免疫系のバランスが崩れ、体全体の機能が低下すること」である。
この研究を進めることによって、老化そのものを遅らせることも
可能になる。脳が重いほど最大寿命量が長いともいう。その意味からみても
人間はより長生きができる可能性を持っているといえる。

ー以上であるが、
新聞の死亡欄を毎日見ているが、90歳を越えた人が多いのに驚かされる。
100歳の平均寿命の可能性は、一昔前までは考えられなかったことだ。
長生きは、元気であるかぎりしたいものだが、100歳まで生きたいとは思わない。
やはり80歳から85歳辺りが丁度よい。

もし神様が「100歳まで必ず生かしておくという契約を結ぶかどうか?」と契約書を出されたら、
拒否する方を選ぶだろう? 元気で頭がしっかりした状態だとしても躊躇するだろう。
 でも、長生きはしたいのが本音だが。

・・・・・・・
2003年04月28日(月)
754, サエゼリアで思うこと

 サエゼリアのことは、よく事例として書くが更に書く。先日の新聞でスパゲッテーを
何割か値下げを発表した。290円ラインのスパゲッテの新商品も新たに加えていた。
少し工夫すれば夕食を二人で千円で済むことになる。
ドリアにスパゲッテーにミニサラダにグラスワインで千円である。 さすがである。 
イタ飯は、一つのサラを2~3人で食べるのが中華料理と同じだ。前菜を入れて
三品を食べたことになる。

ー以下の文章は数ヶ月前に書いてそのままペンデングしておいた内容である。
 イタ飯レストランのサエゼリアのニュースが出ていた。
前年の9~12月の既存店の売り上げがマイナス14?という。
それでもこの三年間で450店の出店をして1000店に持っていくという。
豪州にその為の工場を作って完成したと日経新聞に書いてあった。

 この店には自宅の至近距離にあって、月に1~2度は行く。スーパーの弁当と同じか安いのには驚く。
そして行く度に値段が下がっている。 量も減らしているが、不味くはないのが良い。
1千店になった時に規模のメリットがさらに出てくるだろう。

 殆どの商品がセントラルキッチンから半製品になって店に送られてくる。
あれだけの席のホールをアルバイトと思しき若い子が1~2人でこなしている。
忙しくなると中の人が飛び出してきて、ホールを手伝うのも合理的だ。
品出しをした後、必ず食べ終わった食器を下げるのもこの店の特徴である。

 考えてしまうのは、このような勝ち組で業態がしっかりしている店が14?の売り上げ
ダウンという事だ。実勢として15~20?のダウンが今の日本の消費の実態ではないだろうか。
北海道出身の家具のニトリも定点観測で数ヶ月に一度は見に行くが、行く度に安い商品に
重点が移っている。応接セットのイスと机もばら売りに切り替えている。 
それだけ厳しくなっていると考えてよい。

ー以上が数ヶ月前の文章だが、それからやはり手を打って客単価を下げてきたのだ。
たまたま至近距離にあるので、定点観測をしやすいので注目しているが、
居酒屋も含めて飲食チェーンで一番お値打ちを感じる。
最近はチェーン店以外に入ると、いつも失望して店を出てくることが多い!

・・・・・・・
2002年04月28日(日)
390, 因縁と果報

因は直接原因、縁は間接原因。 果は直接結果、報は間接結果。
嫁を求めている男が、ある知人の家に遊びにいて、妹を見初め結婚をした。
因が嫁を求めていたである。縁がタマタマ遊びに行ったーこれが間接原因である。
果は妹と結婚したである。報は知人と嫁本人が納得して応じたである。よい果報を得る
為には、よい因と縁をなくてはならない。特に因が大事だ。その因に縁がついてくるからだ。

その中に感謝する気持ちがある。感謝をすれば、感謝をするような事がどんどん集まってくる。
これは意外と難しい事だ。 感謝は言葉を変えれば、ありがたいことに気づく事だ。
特に商売をしていると、お客様のありがたさを見落とす事が多い。
顧客第一主義といいながら、そのことを忘れてしまう。

準備は「因」づくりそのものである。準備は誰でもやれる魔法である。
解っていながら?それをおろそかにする。そして「果」のみを追う。事業でも、
旅でも、人生でも全てそうだ。

教養とは生きていくための基礎知識だ。永年かけて積み重ねていくものだ。
ところで基礎教養が自分にはあるのだろうか? 過去にその準備をしてきたのだろうか?
ただその問いかけは常にしてきたつもりだが。