つれづれに

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昨夜は、中学校の同期会。
新潟からの2人を含めて合計17人が出席。
まあ、皆様、元気がよい。 男女比は、およそ半々。
 老いの鬱憤のはらしどころか。
17時に開始というので、「一時間、早いのでは」と思ったが、
17時からだと、飲み物が、規制なく飲み放題が、その時間だと、
オッケーという。なら、冷の「越の寒梅」を頼んだら、そのとおりに
運ばれてきた。 それよりも、広い店がお客で一杯なのに驚いた。
 で、19時早々に真っ直ぐ家に帰ってきた。

・・・・・・
2570, 些細なものほど、光を放つ! と、振り返ると解る
2008年04月17日(木)

 日常のチョッとした瞬間、60年にわたる過去の些細な記憶がフラッシュ
のように出る。これが還暦を前後して特に多くなってきた。
人生は些細なことほど大きな意味が含まれているようである。コマーシャル
ではないが、「人生は、その人の選択で出来上がっている」と実感する。
一日、数万のことがフラッシュのように脳に発生するというが。様々の経験から、
自分の心の芯にとって、いやな後味になることはしないようにしてきた。
それでも、次から次へとフラッシュが発生する。自分の過去を冷静にみれる年月
が経ったためだ。多くの人を虐殺した政治家の内面は如何なるものだったのか。
死者が纏わりついているのだろう。彼のそれは、些細なものではないからだ。
 次の文章が‘些細なものほど、光を放つ’ことを理路整然と表現している。
 ~~
「哲学の教科書」中島義道
  *些細なものほど、光を放つ
                  P-232
哲学者の目とは、人生の「外側」から、すなわちあたかも死者、
あるいは他の天体からの飛来者のように、人間たちの営みを見る目です。
こうした目で見続けますと、そこに面白い変化が生じてきます。
人生の大事と思われているものは取るるに足らぬように見え、
逆に取るに足らぬと思われていることが輝いて見えてくる。「死」を背景に
すると、天下国家の大事ではなく 些細なものこそ光を放ってくる。
フランクル強制収容所という「向う側」にいる人間の心持ちを
次のように語っております。

彼の想像はいつも繰り返し過去の体験に想いを馳せて、それに耽っているのであった。
しかしそれは過去の重大な体験ではなくて、以前の生活のごく日常的な出来事や
ささやかかな事象のまわりを彼の考えはめぐっているのであった。
……市電に乗って家に向う、入口の扉を開ける、電話が鳴る、受話器を持ち上げる、
部屋の電灯のスイッチを入れるー囚人がその思い出の中でいわば撫で回して
慈しむものは、こんな一見笑うべきささやかなことあった。そして、
その悩ましい思い出に感動して 彼らは涙を流すことあったのである。

強制収容所に入っていない私たちが、今この状況を腹の底から実感するのは
難しいでしょうが、例えば奈良時代の官吏の一日を文字通り再現してくれれば、
どうでもよいことがわれわれには本当におもしろいことでしょう。
もし私が一時間だけ千二百五十年前の奈良の都に戻してくれるなら、東大寺
興福寺には行かずに、人がごった返す市場に行くでしょう。内裏の「閣議」は
見物せず、一般の家庭の夕餉を見物するでしょう。・・(中略)女房が派手で
困るとか、給料が上がらないとか、子供がぐれて困っているとか、毎日の生活が
しみじみと面白みを帯びてきます。

 ~~
学生時代の日記を、ここで公開したが、私にとって、その面白みは当時の
日常の風景が具体的に書いてあったことである。実際に読み返してみると、
当時のことが昨日のように思い出される。何で、その後、思ったままのことを
具体的に書いてなかったか後悔する。誰かに見られたら嫌だというのが、
それなのだろうが。些細なことの中に光が宿っているのである。
それは、「今日、今、ここ」しかないから。ここに永遠が存在しているから。


・・・・・・・・・・
2007年04月17日(火)
2205, 反時代的毒虫 -2
  才八∋ウ_〆(∀`●)
             ー読書日記ー
「反時代的毒虫」の中の
白洲正子との対談『人の悲しみと言葉の命』ーから

     車谷が『四十八瀧心中未遂』で直木賞をとったあとの「文学界」
白洲正子との対談である。
 白洲をして、恐ろしい、こわい、と言わしめるのだから、驚きである!
--
白洲 「私、十何年も前に見っけたんだからね」
車谷 「白洲先生からいただいたその手紙をここに持ってまいりました。
 『新潮』に発表した『吃りの父が歌った軍歌』を先生が読んで、手紙を下さった。」
白洲 「いや、恥ずかしい。そんなもの、持っていらっしゃらなくてよいのに。」
車谷 「私が板前ををやめてセゾンに勤めていたころです。
  消印を見ると昭和62年12月です。」・・・(中略)

車谷 「20年間、文章を書いてきてファンレターなるものをいただいたのは、
  一度だけです。それが白洲先生からだから、びっくり仰天です。」
白洲 「冗談じゃないわよ。なにしろあなたの文章じゃ、
  誰も手紙なんか出せないわよ。私は思い切ってだしたけど」
車谷 「お手紙の中で、『車谷さんの文章は生きている』と書いてありました。
 『生きている』というところに傍線を引いて、何回も読みました。
  のちに先生にお目にかかったとき、『おそろしい』と言っていただいたことを
  覚えています。『こわい』とかね。
白洲 「ほんとうにこわい。今だってこわい。」・・・・(中略)

車谷 「私が25歳のときに小説を読むきっかけは、永井龍男の『青梅雨』と
 いう短編を読んだ時でした。ぼくは名文だなと思った、よけいな言葉が一つも
 なくて。それで、一生に一度でよいからこういう名文を書きたいとおもったのが、
 ぼくが小説を書く動機だったので、、文章がダメな人は、文学者としてダメだと
 思うんですよね。」、
白洲 「あたりまえじゃないの」。 ・・・・
 
車谷 「若いときから西行に憧れて出家したいと思ってたんです。
 とにかく一生の間に一冊作品集を出して、それで出家しようと。
 47歳のとき「しお壷の匙」という作品集が出まして、これでもう出家しよう
 としたら、高橋順子というのがあらわれて、結婚するはめになって。」
     ・・・・(中略)
白洲 「あなた、お辞儀ばっかりしているようなときがあるわね」・・・(中略)
車谷 「白洲先生は鬼になって書いていらっしゃる」
白洲 「私は般若です」
    
ーーー
解)遜った車谷の態度が気になるが、白洲の前ではこんなものか。
文学の世界では、白洲正子のブランドは絶大なのだろうが。
最後の車谷が白洲に対して、鬼になって書いてる!に対して、私は般若です!
というところがよい。般若の面は差別に対する、究極の怒りと嫉妬の表情というが。 
それと知恵もあるが・・・
 
 また、次の部分も良い。
車谷「20年間、文章を書いてきてファンレターなるものをいただいたのは、
 一度だけです。それが白洲先生からだから、びっくり仰天です。」
白洲「冗談じゃないわよ。なにしろあなたの文章じゃ、
 誰も手紙なんか出せないわよ。私は思い切ってだしたけど」 
 白洲をして、そこまで言わしめるのだから、
車谷の「しお壷の匙」を読むことにした。   ホンジャ、バアアイ
                        ♪♪((((*`・´))ノ
・・・・・・・・
2006年04月17日(月)
1840, ジャンケン
       オハ (´・ω・`)(ω・`)!(´・ω・`)! ヨ~ 

「ジャンケン」について書いてある資料は殆んどない。HPを調べても勝ち方の
極意が書いてあるだけだ。その中で、それぞれのだす確率があった。
580回のうち、グウが190 、チョキが203、パアが 187 回とあった。
確率からみたらグウを出すのがよいことになるが、ほぼ同じである。
もっと偏りがあると思っていたが。
       Pa(・ω・ ) σ(д・`★)グウ Y(・c_,・●)チョキ
 図書館で何気なく立ち読みした
「大切なことは60字でかける」-高橋昭男著の中にジャンケンについて書いてあった。
それによると、
・ジャンケンは、江戸時代に中国から長崎に伝来
 大阪を経由して江戸に伝えられた。
・江戸時代のジャンケンには色いろな方式があり、子供の遊びではなく、
     お座敷遊びの一種であった。
・中国では、日本と同じ方式で行っている。
 世界の40ヶ国で盛んに行われている。
 ーマレーシア、パキスタンサウジアラビア、イギリス、
 フランス、ドイツ、 デンマーク、エジプト、アメリカ、チリなど・・
 アメリカのジャンケンは日本のかけ声を英訳したもの。

この本を読むまでは、日本特有の遊びと思っていた。
お座敷遊びで、野球拳とかがある。子供の頃は何かあるとジャンケンで決めていた。
そういえば、ジャンケンで勝ってハワイに行ったことがあった。
(実家の会社にいたとき、社員旅行で兄とどちらか社員旅行で
ハワイに責任者として行くかで)まあ、よき時代であった。     
                    ゚+.(*・ω・)ノ*. バイ!      
ーーーーーーーー
2005年04月17日(日)
1475, 汚れつちまつた悲しみに-2

「汚れつちまつた悲しみに」の「汚れ」を「倒れ(挫折)」にして、
「倒れてしまった悲しみに」 という詩を書いてみた。
 
 昔の何度かの挫折を思い出しながら。
    -作成時、2005年4月16日 20時20分

ー倒れてしまった悲しみにー

倒れてしまった悲しみに
今日も涙の雨が降りかかる

倒れてしまった悲しみに
今日も嵐が吹き荒れる

倒れたしまった悲しみは
たとえば樹氷のように突き刺さる

倒れてしまった悲しみは
たとえば黒い血海のよう

倒れてしまった悲しみは
たとえば虚空の空飛ぶ蜻蛉よ

倒れてしまった悲しみは
あなたの愛に気づくとき

倒れてしまった悲しみは
夢みた昔を懐かしみ

倒れたしまった悲しみは
倒した人を思いだす

倒れてしまった悲しみは
光りの日々が走馬灯

倒れてしまった悲しみは
独りの自分に出会うとき

倒れてしまった悲しみは
悲しい悲しい悲しみよ 
悲しい悲しい悲しみよ

倒れてしまった悲しみは
倒れてしまった悲しみは
倒れてしまった悲しみは

・・・・・・・・・・
2004年04月17日(土)
1110, 「ライフ・レッスン」ー読書日記 -3
  第二章 愛のレッスン
 
・ことばで説明するのがきわめてむずかしい愛こそが、人生という
経験のなかでただ一つの真実である。永続をするただひとつのものである。
愛は恐れと対極にあるもの、つながりの本質、想像の核心、力の美しい部分、
自己が自己である為のもっとも微妙な部分である。

・自分を愛する事は、いつも周囲にある愛を受け入れる事である。
それはあらゆる障害をとりのぞくことである。
自分がつくってしまった障害に気がつくのは容易なことではないが、
実はこころの中にいくつもの障害があり、それが人間関係影をなげかけている。
神に会うことができたら、神は「おのれに愛をあたえたか、人に愛を
あたえたか?人からの、おのれからの愛をうけたか?」と問うだろう。
自分自身を愛する力は、人の愛を受け入れ、人を愛することによって身に
付いていく。神はわれわれに、愛し、愛される無限の機会をあたえてくれる。

・わたしたちのほとんどは、じつは愛を経験をしたことが無い。経験をしてきた
ことは愛ではなく報酬である。 子供の頃、わたしたちはお行儀よくしていれば、
いい成績をとれば、オバアチャンにやさしくしてあげれば、手をよく洗えば、
「愛してもらえる」ことを学んできた。

愛されようと努力はしたが、それが条件つけの愛であり、
にせものの愛であったことに気がつかなかった。
いちいち他人から是認を必要とするような愛を本当の愛とよべるだろうか?
自分自身への慈しみの心を持つことが、本当の愛の第一歩である。
 
 あなたはたましいによい栄養をあたえていただろうか?
自分を愛している人は、何をするにも顔にほほえみを浮かべている。
それをすることがうれしくて、たましいが歌をうたっているのだ。

そうすべきだと教えられきたような行為ではなく、そうしたいからしている
行為である。たましいに栄養をあたえる行為とは、もしかして、休日でも
早起きをしてなにか「有益な」ことをするのではなく、ただのんびりと寝て
いることかもしれない。

・「愛にツいてないのです」と彼は答えた。「何人かの女性を愛そうと
しました。相手を幸福にしようと努力をしました。ほんとうです。
相手を幸福にしよう努力もしました。」わたしはかれに質問をしました。
かれにとっては、意外な質問だったらしいのです。

「もし愛が、相手の女性を幸福にするものでなかったとしたら?
そんなこととは無関係に、ただ傍にいるだけが愛だとしたら?
相手を幸福にするという思い込みすてて、ただ傍にいることが、
長い目でみたら、相手を幸福にすることになると考えてみたら?」

人生には浮き沈みがある。愛する人がかかえる問題をすべて解決して
あげることはできないが、そばにいることなら、できなくはない。
長い目でみればいちばんの愛のしるしではないだろうか。 

・・・・・
2003年04月17日(木)
743,『金持ち父さんの子供はみんな天才』-2
             読書日記
ー抜粋ー6

父は話をつづけた。
「天才とは、自分の中にいるランプの精を見つた人のことだ。
ちょうど『千夜一夜物語』のアラジンが、ランプの中に押し込められた
精霊を見つけたように、私たちもみんな自分の中にランプの精を見つける
ことが出来る。天才とは自分の内側にランプの精を見つけた人、
与えられた才能を見つけた出した人のことなんだ」
「ランプの精が見つかると、精がおまえらにこう聞く。
『一つ目の願いは自分の才能を自分に与えること、
 二つ目は自分の才能を愛するものや親しい者たちだけに与えること、
 三つ目は自分の才能をみんなに与えることー さあどれを選ぶ?』
「この世界に天才はあふれるほどいる。私たちはみな天才さ。問題は、
たいていの人がその才能をランプの中に閉じ込めたままにしていることだ。
才能を自分のためだけや愛する人だけに使おうとする人が多すぎる。
ランプの精は三つ目の願いを選んだ時だけランプの中から出てくる。
つまりランプの精の魔力は、自分の才能をみんなに与えようとした時にだけ
効果を発揮するんだ」
  (以下、字数の関係でカット2,008年4月17日)

・・・・・・・
2002年04月17日(水)
379,外国人犯罪

一昨日、新潟の万代の金券ショップで老夫婦の殺害があった。
たまたま昨日の飲み会の1人が隣家であった。NHKの全国放送で
インタビューに出たそうだ。取材攻勢で家にはいられないという。
外国人の犯罪らしい。ヒット&ウエーで恐らく捕まらないのでは
ないかと思われる。発覚前に飛行機に乗って逃げてしまうらしい。

ベトナム旅行に商店を休んできている夫妻がいた。休業の張り紙は
出せないらしい。外国人がトラックで全て持ち出すという。
10年前の外国旅行で聞いた犯罪が、日本でも当たり前になりつつある。
犯罪もグローバル化になってきた。平気で殺すから恐ろしい。

同席していた1人はセコムに近じか入るという。
自分も真剣に考えなくてはならない時期にきている。
8000円が少し高いが 。