つれづれに

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2921,不況景色 ー10
2009年04月04日(土)
 * 上野動物園が入園300万人を切る
一昨日のニュースで、上野動物園の入園者が60年ぶりに300万人を割った
と報じていた。前年より妬く60万人減というから20パーセント減になる。
パンダが死んで居なくなったことと、この不況が直撃という。9月半ばから
4~5割減ということになる。家計面で節約対象になったようだ。また、
オーケストラが個人や一般企業の寄付の激減で大赤字に転じていると報じた。
恐慌状況の中、なかなかオーケストラを聴こうという気になれないのも分かる。
 * 金融サミットで
金融サミット「20G」が開催され、首脳宣言が採択されたが、
何か首を傾げた。公式とは違う決定もなされたのだろうが・・・
  (字数制限の関係でカット2012年04月4日)
 * 4月に入って、更に悪化
去年の11月後半から、金融危機の影響が経済の現場に深刻に現われてきた。
今回の経済危機の第二波である。そして第三波が、4月に入って襲い始めてきた。 
予測はしてが、やはり現象として直面すると凍りつく。ただし政府が、三月決算
を乗り切るため思い切った緊急融資を上から押し込んだために、とにもかく平穏
を保っている。しかし、決算の結果が表面化する5月になると
一挙に現象に現れてくることになる。
・・・・・・・・・
2557, 印度放浪 ー2
2008年04月04日(金)
 この本に著者・藤原新也の《語録》というコーナーがあるが、深い言葉が次々
出てくる。40年前の25歳の言葉だから恐れ入る。印度という国が、彼の精神
を育てたのか、元々持っていた素養なのか。読んでいるうちに、いつの間にか
自分と比べている。そして、小さな世界の中で小さな習慣に甘んじている自分が
浮かび上がってくる。比べること自体がおかしい。その一部を抜粋してみる。
  ーインドへの準備はどういうものだったんですかーー
二つある。捨てること。それに準備しないこと。僕の場合はね。学校。アパート。
家具。本。捨てて支障のないものは全部捨てたり、売り払ったりしたんだけど、
そうしてみると、案外ほとんど自分の身の回りのものに切実に必要なものは、
歯ブラシぐらいのものってことがわかる。さっぱりしたよ。準備しないって
のはね。情報を一切入れなかったことだね。旅の目的地に関する。
(字数制限の関係でカット2009年04月4日)


2192, 人生とナメクジの線

2007年04月04日(水)

              オッ(*^○^*)ハ~ヨウ!

   「キャリア」の語源は、ナメクジが這った後に残る線という。
    思わず噴出してしまったが、人生もナメクジの這った跡の線と思えば、
    何も深刻ぶることはない。
    
    這っていく前には線は見えないが、後ろにはまるで道のように跡が残り、
    その跡が進むべき方向を示しているようでもある。
    我われが、明日を考える時に、やはりナメクジの跡の線と同じように
    歩んできた自分だけの線を振り返る必要がある。

ナメクジの優劣や跡の線など、それが如何したとみれば、悩みの殆どは消える。
そういう喩えをみると、さらに展開をしたくなる。
そこで思いつくのが、家付きのナメクジ?、そうカタツムリである。
家が無いカタツムリをナメクジとみれば、我われの持ち家など持つことはない。
これでは話が面白くないので、
「塩という世間を這いまわり自分の身体を溶かしながら生きるのが人生」
と考えると尤もらしい言葉になる。

 ひろ さちや著のー「狂い」のすすめーの中にあった一節を思い出した。
 *そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」
私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。
殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。そうした気持ちの旅こそ、最高の旅である。
たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだとみるカタツムリでなく、
貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、
素晴らしい旅になるはずです。
 インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、
「裸足のどこが悪いんだ、上等の靴を履かされて、重い鞄を持って塾通いと、
裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福なんだ・・・?」とね。
    --
    土手を歩いていると、よくカタツムリが道を横断している。
    しっかりと、その跡がついているのだが、彼らとて大変である。
    雀とカラスの丁度良い餌になったり歩行者に踏むつぶされ、
    線が横断途中で途切れているのを見かける。

 お悩みの諸君!
悩んでいる自分をナメクジと鳥瞰した喩えで笑えるなら、
もう半分は悩みは解決しています。
                  (⌒▽⌒)/"”さいなら!
・・・・・・・・・
2006年04月04日(火)
1827, 日本一短い手紙「私へ」  才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
                 -読書日記 
                 
「私へ」の手紙}といえば哲学的にいえば、
{即自から対自への手紙}ということになる。
だから万人に共通する言葉であり、一言一言が響いてくる!

あの歳の、あの場所で、あのケースで、呟いていた自問自答の言葉がある。
これほど奇麗事の言葉ではなかった。
ふて寝をしながら、涙を溢しながら、時間の過ぎるのを待つしかなかった。
こんな言葉が心の奥から聞こえてきたら、あれだけ傷はつかなかっただろう。

    この本の中で「私にしかできないことがある。きっとある。今は分からない。」
    という言葉がある。 
    この言葉には、希望と明るさがある。
    絶望の海に溺れてしまった息苦しさの上の言葉には聞こえない。
    「私へ」という自分が、そこにある! それだけで、明るさがある!
    それでよいが。私の自分への言葉を、いま思いついたまま書いてみる。
 --
 まあ、いいじゃないか!
 それで、いいじゃないか!
 これしか、なかったじゃないか!
 それも、これも、 どうでも、いいじゃないか!
 
 ほんとうに、これでよかったのか?
 ほんとうに、あれでよかったというのか?
 
 まあ、いいじゃないか!
 これで!
 他に、しかたなかったじゃないか!
 ー
    歳を重ねると、こういう自問自答が多くなるのだろう。
    それが老いるということである。
    気持ちは青年のままでいたいものだ!
    せめて年寄り臭い奴の傍には近寄らないことである。
    そのためには常に感動、感激を求めることだ。
               
           お茶どうぞ 且_(゚◇゚ )ノ゙
ーー
日本一短い手紙「私へ」
 一筆啓上賞

おいおい そんなに落ち込むなって
人生少しわかりかけてきたじゃないか。    浅原昭子 青森県黒石市 40歳

お前の大きな財産の一つは、
いじめの痛みを知ってることだ。       荒平翔太 熊本県菊池郡合志町 17歳

コノセカイニ アタシハヒトリダケ
ソレハアタシヲ ツヨクスル         海道志寿佳 福井県坂井郡丸岡町 18歳

ずっと“いい子”の私。
やめたいのに本当の私を忘れてしまった。
私は何がしたいの?             金島道子 広島県庄原市 17歳

私にしかできないことがある。きっとある。
今は分からない。
でもある。きっとある。           黒木かつよ 宮崎県児湯郡都農町 19歳

あなたの心の悲鳴。聞きとれるのは私だけ。
私とあなたの寂しい関係。          竹田飛鳥 東京都江東区 15歳

お願い、黙って、私が努力している綺麗な夢の孵化を、手伝って…                                      陳許玉蘭 台湾 72歳 主婦

一人で来たブラジルだけど、今は五人。
俺が我家のル-ツとはくすぐったくなるな。  堤剛太 ブラジル 52歳 会社員

アホでいるこっちゃ。オサキにやるこっちゃ。
エライこといわんこっちゃ。         根市政志 青森県三戸郡福地村 65歳 無職

過去の僕よ、犬を飼わないほうがいい、別れる時が、辛いから。          
                      野村朋史 神奈川県藤沢市 14歳 中学3年生
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他にも、多くの印象的な言葉があった!
その一つが以下の言葉である。
自分に壁を作るのはやめよう。
見えるものも見えなくなるから。
自分の可能性は限りないから。

ー自分の現在の壁に気がついているのだろうか?
タダ、その気持ちはだいじだが。
次は、これ以外の響いた幾つかを抜粋してみる。
    ε(´',_c')зβyё☆βyёε('c_,'`)з゛
        
・・・・・・・・・
2005年04月04日(月)
1462, 永遠に生きるように学べ

学生時代に、「永遠に生きるように学べ、そして明日死ぬかのように生きろ」
という言葉に出あった。最近、再びある本で出会ったが、年齢を重ねたためか、
この言葉の重さ・深さを改めて実感する。
母親が向学心が強い人で、その後姿を見ていたので死ぬまで勉強の必要性は感じていた。
その都度、自分も社会も変化していくのだから、
基盤も変えていかなくてはならないのは至極当然のことである。

年齢を重ねるほど、経験の裏づけが多くあるので吸収度が高くなる。
せっかく地球に生まれてきて、80年の時間を貰ったのだから、
地球のこと、宇宙のこと、そして人間が長年かけて積み上げてきた知識・文化を
可能な限り見て・知って・経験するのが、人間の生きる最大の目的になる。

自分で意識をしてこの言葉を自問していないと、虚脱感の強い・虚無的な人になってしまう。
「もう歳だから何で勉強をする必要があろうか」
「まあ世間様と同じように何事なく生きていれば良い」と何もしない生き方になってしまう。
それならまだしも、真っ当に生きている人に対して批判をするのが
趣味になってしまうから、自分に対して更に害を及ぼすのを自覚できない。
90?以上?が、私の見る限りそうである。 いや、もっと多いか。

その辺で老人同士が、いい歳をして人の悪口を言っているのをみると、
思わず顔をそむけてしまう。
それまで生きてきたようにしか歳をとれないのはわかるが。

「永遠に生きるように学べ」は「死ぬまで勉強」と、同義語であるが、
響きが明るいのが良い。「明日死ぬかのように生きろ」は人生のコツである。
明日死ぬかもしれないのが人生である。
だから「いま、ここ」を大事に生きなくてはならない。
一期一会である。
いま、ここの一瞬は永遠である。
生きているとつくづく、このことを実感する。

この随想日記も、そう思って気持ちを集中している。
何十年後に子供が読んでも、この今の一瞬の集中の閃きは、
そのまま言葉の中に永遠に篭っているはずである。

若き老人達よ,この言葉を自分の手帳に書いて、繰り返し読むことを勧める。
最低千回は口ばんでみるべし。「15歳で自分の人生を投げ出してしまった貴方のこと!」

「自分のこと!?」 「そう!」
 
・・・・・・・
2004年04月04日(日) 1097, 落し物

 散歩をしていたら熱くなってきたので、ベストジャケットを脱いだ。
持っていた折りたたみ傘をそのジャケットに入れたところ、いつの間にか
無くなっていた。傘はどういうわけか愛着がある。
散歩道で15分前にジャケットを脱いだのでその時落としたのだろうと、
その道を取って返した。

ほとんど誰も歩いてなかったので、そのまま落ちているだろうと下を向いて
道を探したが見当たらない。いま時、傘を拾う人もいないだろうにと思い
拾った人は(私なら)如何するだろうかと考えた。
「おそらく目立つところに置くのでは?」と思い浮かんだ。橋の欄干ではないか。
今度は下でなく、目立つところ見て歩いたら、やはり橋の欄干に置いてあった。
拾った人が分かるようにそうしたのだろう。
いまの日本人にはそういうところが残っている。

 傘は平均2年に一度は無くすが、後味の悪さがどうしても残る。
新幹線通勤で降りた瞬間、気がついて何度か引き返したことがある。
15年前、生の現金を封筒に入れたまま、数万円を落としたことがある。
泥酔をしての事だ。長岡駅の交番にいったところ、うけあってもらえなかった。
「奥さんに言えない金を使ってしまって、狂言ではないか」と言われた。
怒りさえでなかった。「なるほど、そういう見方もあるんだ!」と驚いてしまった。
じつをいうと、数万入った財布をいま一度落としたことがある。
この時も出てこなかった。

学生時代に5000円の入った財布を落としたことがあった。
それは警察に届いていた。
500円のお菓子を持ってお礼に行ったことがあった。
明日は、拾い物について書いてみる。
拾い物は以外と少ないものだ。
落し物は数知れずだが、記憶に残るものはこんなものだろう。
 
・・・・・・・
2003年04月04日(金)