つれづれに

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 今日のYoutube
 
先日、鳥の餌がなくなったので、ホームセンターに買いにいった
ところ、「まる5歳以上の老鳥用に」のうたい文句の餌を買うことにした。
それより、5年で老鳥になるのに驚いた。インコの寿命は、7~8年と
聞いていたが。 現在のインコは、5年少しになるが、逃げるか死ぬかで、
平均すると3年ぐらい。 かなりオットリした性格だが、食欲旺盛。




・・・・・・・・
3288, 人みな骨になるならば ー6
2010年03月27日(土)
  * 意味の意味
 ーまずは、意味深長?の部分を抜粋してみるー
 いろいろと思索した挙げ句、いにしえの賢人たちは「人生に意味があるかどうか
という問題に対しては客観的な解答があるのではなく、各人が自らの人生に意味を
付与するかどうかにかかっている」といった暫定的結論に達したもようである。
これは、ずいぶん心もとない結論である。こちらの理解の仕方によっては、
「みなそれぞれ勝手に意味を見出しなさい」といっているだけ。 
だれも、われわれ一人一人の人生に意味・意義・価値などを保証してくれては
いない。われわれの一生は無意味かもしれないし、意味のあるものかもしれない。
それを決めるのは、われわれ一人一人の思い込みにすぎない、と言わんばかり
 である。 そして、やはり「思い込みにすぎない」のである。自分の人生には
意味があるとするあつかましい人物と、宇宙規模で考えれば無意味だとする
謙虚な人物との、いずれが正しいかを判断する根拠などない。思いたい
放題であり、思った者勝ちのようなところがある。なぜこのような次第になる
のだろうか。おそらく「意味」とか「意義」とかの言葉の起源に問題がある
ように思われる。 それらは「目的」などと同様に、古代人の日常生活の中から
生まれてきた概念である (全ての言葉がそうなのだが)。大昔、まだ人類が
人生やら宇宙やらをそれほど真剣に考えておらず、毎日の生存や空腹のことで
頭がいっぱいであった頃、なんらかの対象や行為が役に立つものかどうかが
最大の関心事であった。そして、自分や身内にとって大切なことが、すなわち
「意味」をもち「意義」のあるものであった。「目的」もまた本来は、欲求の
向かうゴールであり、その達成のために努力という投資と、さまざまな「手段」
を講じなければ到達点にすぎなかった。・・たぶん人生や宇宙には「意味」も
「目的」もないはずである。それらもまた木登りや航海と同様、一つのプロセス
には違いないから、「結果」はあるであろう。あらゆるプロセスは、特定の時点
をとれば「結果」を伴うからである。その結果を意味や目的と読み替えることは
できるだろうが、それなら宇宙や人生の意味と目的は消滅すること、ないし永遠
に溶け込んでいくこと、あるいは繰り返されることに他ならない。 
単なる繰り返し(永劫回帰)には意味がないであろう。存在するものはいずれ
消滅するのだから、存在の最終的な結果は消滅ということになる。しかし、
こんな結末は意味や目的と言えるだろうか。もしそうなら、われわれの誕生の
目的はわれわれの死亡ということになる。それゆえ結果があるからといって
「意味」や「目的」があるとは言えない。「意味」や「目的」というのは
単なる結果ではなく、目指すべきものであり、さらに、あくまでも
「自分(われわれ)にとって」という但し書きがついていなければならない。
宇宙や人生に、自分(われわれ)にとっての意味や目的があるとしても、
それは人間だけの話である。
▼ 人生の意味など、後づけの自己正当化でしかないのは自明のこと。 
 独りブツブツ呟くように支離滅裂のことを書いている? この随想日記
のようなもの? 「意味とは、価値に非常に近い言葉」と信じていた。だから、
意味・意味と生半可に語る人に、「それを価値・価値と置き換えれば、
自分エゴの意味づけに気づくのに!」と、何時も内語で呟いていた。
 意味など自分の都合のよい筋書きの為のエゴというと、少し歪んでくる?
エゴは決して悪くはない、但し他人の犠牲を・・

 ・・・・・・・・
2913,ホテル&旅館 大淘汰
2009年03月27日(金)
新聞広告に、週刊ダイヤモンドの特集記事が載っていた。 
「ホテル&旅館 大淘汰」である。さっそく書店で買って読んだが、
大体予測したとおり直撃の惨状。 内容は東京圏内の外資系高級ホテルと、
日本の御三家、リゾートホテル・旅館の不振を取り上げたもの。ホテルマ
45年歴の日本ホテル協会会長が「初体験」というほどの急激な売り上げダウン
に見舞われて激しい値引き競争で収益が激減しているというもの。
ー概要を大きくマトメルと
外資系ホテルが壊滅状態で、安売りのジレンマに陥っていて、
 開発ラッシュが一転して 全国で開発の中止、延期が続出
・日本の「御三家」ーオオクラ、帝国、ニューオータニーが沈没  
 特にオオクラは内部崩壊に瀕している
能登のホテル百万石も破綻、身売りが多発していて、変化に対応
 できない事態沖縄も観光ブームに沸いていたが一転、閑古鳥が鳴いている
  以上が、この特集の骨子になる。
▼ 全てにわたり、11月以降は二桁のマイナスが続いている。
 ホテルは在庫の蓄積は効かないので日ごと売って何ぼの商売、この世界恐慌
は、新規に出店した外資系のホテルにとって、根底から揺らぐのも肯ける。
ハッキリいえば、何処も「稼働率激減、市場は壊滅状態」というのが、
ビジネス、都市型ホテル、リゾートホテル、大型旅館など全ての業態でいえる
緊急事態。最近開業したホテルの多くは、実需ベースというより、
「再開発の最大化」のための誘致の傾向が強かった。それに行き場のない
外資の資金が後押しをしたことも重なってバブル現象。大阪、名古屋のホテル
も総崩れで20パーセントのダウン、大阪や中国、韓国などのアジア圏の売上げ激
減。名古屋は自動車業界の惨状が直撃、悲惨な事態である。地元の新潟でも、
外資系のビジネスホテルが数軒オープンしたが、バブルの様相の感がしていた。
その上に11月下旬より、極端な稼働率の下落が顕著になっており、深刻という面
では同じ。特に4月からの年度変わりからの予約の状況が非常に悪いのが気がかり。
「1~2年なら何とか凌げるが、後は誰も分からない」というのが大部分の実感
だろう。3年先に、まず一棟が新潟駅再開発の道路拡張の買収予定に入っている
目安があるのが救い。しかし大津波が覆いかぶさってきている事実は厳然ある。 
<一日、一生>の思いで生きるに丁度よいか?


・・・・・・
2549, 一神教vs多神教 ー3
2008年03月27日(木)
                    ヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよ~♪
  *近代天皇制は一神教か?
まずは、この本にある、「近代天皇制は一神教か」という部分を抜粋してみる。
 ~~
近代天皇制は一種の一神教、擬似一神教ではなかったかと、ぼくは考えています。
近代日本は一神教の欧米の脅威にさらされて、わが国も一神教で対抗するしかない
と思い、京都にすっこんでいた天皇を引っ張りだしてきて神聖不可侵の神の
ような存在にし、国民、特に兵士に天皇への絶対服従を強いたのですが、
日本人も追いつめられると同じようなことをしたわけです。
ウェーバーユダヤ教の神、ヤハウェは戦争神だと言ったということはさっきも
話題になりましたが、近代日本も、その前の徳川時代には二百数十年、国内的にも
対外的にも戦争をしなかったのに、明治になってから戦争ばかりやっていました。
これも、天皇一神教の神のコピーのようなものにしたことと関係があると思います。
多神教徒だって、追いつめられると、一神教的になり、原理主義に走るんですよ。
ガンジーを暗殺したのは、彼がヒンドゥ教とイスラム教との融和を唱えたことに
反対したヒンドゥ原理主義者でしたね。暴力が暴力を誘発するように、
一神教一神教を誘発するのです。とにかく、一神教原理主義は危険です。・・
 ~~
モーセユダヤ人に伝えたイクオトンの太陽崇拝は、太陽が唯一神であると
いうにしても、まだ一神教の前段階じゃないでしょうか。近代天皇制も、天皇
という具体的な人間存在が崇拝の対象である以上は純粋な一神教ではありません。
ましてや国民は天皇陛下の赤子だなんて言っているんですから、イスラム教の
ように偶像崇拝を完全に排除した一神教の場合は人間と隔絶しています。
隔絶しているというのは血のつながりがないということです、神と信者との
あいだにはまだ血のつながりがあるわけです。そのように厳密に一神教
考えると、天照大神がいくら神々の中心であるからといっても、神道
一神教ではないですね。

ーー
以上だが、封建的、閉鎖的で、国家といえない国を国家へと変えようとする
とき、擬似一神教として「神」の存在を創りあげる必要があったのである。
それが、明治天皇、そして昭和天皇だったのである。その意味で、あの時期に
近代天皇制を創りあげた政治家達は、やはり卓越していたといえる。現在の日本
は米国に属国化しているが、米国はキリスト教という一神教を背景に持った国。
日本は多神教の国であるから、それが一神教に支配されているということになる。
   
・・・・・・・・・・・
2007年03月27日(火)
2184, 聖地と台所
      オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン!
                       ー 読書日記
「ファンタジーの魔法空間」 -2
           著者・井辻朱美  岩波書店

 前回、「いい場所」とは、台所と屋根裏部屋]という部分を抜粋して考えてみた。
今回は台所と聖地を同定しながら、聖地とは何かを台所とは何か考えてみよう。
まずは、その部分を抜粋してみる。
ー P-41
ある場所に置かれる神像はその[場所]の指標なのである。
どこに置いてあって良いというのではない。
日本なら吉の方向が定められており、マルタの台所では「一日じゅうそれが見える」
場所がそれである。神像が置かれる場所が[いい場所]ではなく、[いい場所]に
神像を置くことが正しい。

神像的[いい場所]をさらにグローバル的にいったのが聖地であろう。
植島啓司氏は『聖地の想像力』の中で、その9つの条件をあげている。
01:聖地は一?たりとも移動しない。。
02:聖地は極めてシンプルな石組みをメルクマールとする。
03:聖地は「この世に存在しない場所」である。
04:聖地は光の記憶をたどる場所である。
05:聖地は「もう一つのネットワーク」を形成する。
06:聖地は世界軸で貫通しており、一種のメモリーバンク(記憶装置)である。
07:聖地は母胎回帰願望と結びつく。
08:聖地とは夢見の場所である。
09:聖地では感覚の再編成が行われる。

 例えば、エルサレムは01・02の条件によって、3つの聖地になっている。
トルコのイスタンブールにあるアヤソフィア回教徒寺院はかっての
キリスト教会を転用したものである。
逆にスペインのゴルドバは回教徒寺院をキリスト教会に転用したものである。
それをパワースポットと呼ぶにせよ何にせよ、古代人はそこが聖地であることが
わかっていた。 この聖地の条件は、台所という空間の中での、マルタでいう
「いい場所」にあてはまる。

台所は大地の炎の力に結びつき(04)、
ウクライナでは、そこでは大家族が一同に会し、「座ったり、料理をしたり、
食べたり、洗濯をしたり、寝たり、何でもする」(06,07)
ウクライナの台所とはそれ自体が聖地であるという以上に、家そのものであり、
家族にとっての全世界であった。ウクライナにとって、そこはさらに、
「いい場所」という中心点が必要になる。

マルタの「いい場所」もまた、それはこの世ならぬ世界の道しるべであり、
みあかしに照らされた光の記憶は夢見の衝動を誘い(08)、
聖母子像は母胎回帰の夢想と他の信者とのネットワークを示し(05)、
そこに家族の思い出を結びつけるメモリーバンク(06)でもある。
それがなければ台所は「からっぽ」なのである。

--
私の聖地は、何処だったのだろうか?自分が生まれ育った町が聖地(生地)
ということか。それにしても、エレサレムは素晴らしい聖地であった。 
生生しいが!
                (o ・д・)ツ  バイ!
・・・・・・・・
2006年03月27日(月)
1819, あちら側の世界 -2  
    才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
ウェブ進化論 」-2  ウェブ社会の現状は?
  
ー「あちら側」のウェブ社会と「こちら側」のリアル社会は、
あまり融合しないのではないかー 若い人が当たり前だと思っていることでも、
リアル社会の大人たちは何にも知らない。ネットの「あちら側」の興奮は
リアルの「こちら側」には全然伝わらない。
 
ウェブ社会とリアル社会の本質的融合はイメージできない。
ウェブ社会では特殊で不思議なことが起き、影響力が大きくなっても、
普通に暮らしているリアル社会の人には全然見えない。

家庭で言えば、お父さんとお母さんはリアルの社会で暮らしている一方、
15歳と13歳の子どもはアフィリエイトとグーグルのアドセ