つれづれに

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 昨日は、長岡駅裏の居酒屋で、二人の息子と家内の
4人の新年会。 アラフォーで、仕事が大変のようだ。
私に似ていて人間関係が不器用?
 腰痛のため、駅裏まで歩いて、帰ってくるのが、一苦労。




・・・・・・
4674, 閑話小題 ー何だろう、この現象は
2014年01月02日(木)

 * 我ながら気持ちの悪い不思議な現象と城下町小唄 
ー正月にインパクトの強い話を一つ!ー
 隣の新築工事の本体が済んで、家周りの庭と駐車場の土間工事に入っているが、
何故か長野県の業者が2~3人で作業をしている。夜はビジネスホテルにでも
泊まっているのだろう。ところが書斎に居ると、親方か上司が部下を怒っているのが
まる聞こえ。それが口を極めた罵声で、聞えている私も変になりそう。
冬空の雨と霙の中で、あの罵声を浴びせつけられながらの仕事は極限だろう! 
様々な際どい場面の経験をしてきたが、冬場での、これは酷いを超え残酷に思えた。 
 2ヶ月前に、近くのSCの上新電機でデジカメを買った時のこと、これも上司が
切れて、部下に口を極めた罵声の嵐。店内のため、声を抑えている分、言葉が鋭くなる。
近くの数人の客も驚いて聞き耳を立てていた。これでは言われた方は恨み骨髄で、
殺傷沙汰があって当然と思えるほど。  
ーとこで、最近、思わず奇妙なことに気づいた?ー
  ーその前に、私のブログ「バードウォッチ」に書いた一節のコピーから
【 最近、フト気づいたことがある。人生の節目を振返ると、心の底から怒りを
感じた相手が高い確率で、交通事故、人身事故、大病になっていること。
30~40年前の節目でも気づいたが、ある人が真剣な顔で、同じことを言って
いるのを聞いて「バカくさ!」と思い、その気づきを打ち消した。 再び、
この視線で改めて考えると「何か危ない」 私は?怒りを抑えると逆に、
相手に何かが起こる? オカルトめいたが、そう考えると、次々と、色いろな
現象が思い当たる。その思い込みが、その要素を浮かび上がらせるとしても・・ 】
▼一昨年の10月になるが、旅行に出発しようと自宅を出たところ、痴呆らしき?
80過ぎの爺さんに4~5Mの背後につかれ、罵声を200mの間、浴びせつけられた。
しかし振返ると目をそむける。で、川端で人けが無くなると、恐ろしいのか、
間隔を広げ、更に大声を張り上げているが、何を言っているか意味不明? 
数日前に旅行ケースを宅配に出すのを隣の地銀勤めの奥さんに見られ? 
その噂話を爺さんとしているタイミングに、私が玄関を出たようだ。
その地銀の借金はないが、銀行員なら蟄居の立場?で旅行など悪行そのもの?
(銀行員でなくても同じ?)しかしニャロメと続けるのがライフワーク! 
何の迷いも、引け目もないし、過去の旅行は全て同じような条件下。
それでも行くから価値がある。その後、痴呆老人が、パンクの修理先の
自転車屋の主?と思い当たった。とすると以前から狙われていた?
リピーター客を狙うとは言語道断。当人は落人狩り地侍の心持ち?
私が両手に鞄を持って大丈夫と思ってか、自分の激怒に酔っている風。
パンク修理の間の世間ネタの材料の仕入れ?の世間様レベル現象が全世界の人? 
色分けで戦中派の「C」さん で、旅行の見送り?として盛大な旗振り役? 
旅行先から帰って交番に届けたが「罵声では犯罪にならない」という。
その半年後の昨年春先、パンク修理のため、本人確認も含めて店に行った
ところ、本人は動転。「雪道で転んで腕を骨折して修理は無理!」という。
 おあとは、次回のお楽しみ・・ それにしても、こういう手合いの話題
なら山ほどある私は何? ハ? (σ・Д・)お前バカ!
                  暇暇 娑婆娑婆 ーつづく
・・・・・・
4309, 読書界の創造とネット世界
2013年01月02日(水)
   * 活字人間の形成  「グーテンベルクの銀河系」マクルハーン著
  -この著書を、レビューの書き込みなどをベースにして要約してみるー
≪ 現在、現実世界とは別にネット社会が形成されている。ネットの普及と
スマートフォンの出現が、これを更に推し進めている。ところで、中世の
三大発明(印刷、羅針盤、火薬)の一つの活字を用いた印刷が、それまで
思いもよらない新環境をもたらした。「声から文字へ」は人間の意識に
とって大きな革命である。ルター、カルヴァンによる宗教改革
彼らが掲げたプロテスタントの教義「聖書のみ sola scriptura」を下支え
するのが活版印刷。 堕落した権威の手から聖書を、あるいはイエスを解放
するこの運動とて、マインツ発の偉大なる技術革命なくしては、そもそも
成り立ちえなかった。グーテンベルクが刷り上げた最初のテキストは聖書。
それから一般の知識を伝えるメディアとして「読書界」を創造されていった。 
マクルーハンによれば、アルファベットの発明と印刷技術の発明によって、
西欧社会は「視覚」だけを異常に強調する文化をつくり出した。
固定された視点が捉える均質的な視覚情報─つまり印刷されたアルファベット─ 
のなかにあらゆる対象を写し取ることで、西欧人はある意味で非常に歪曲された
世界像、宇宙像を手に入れた。これをマクルーハンは「グーテンベルクの銀河系
と呼ぶ。 西欧社会に現れた「グーテンベルクの銀河系」は、世界についての
認識を単一の感覚に還元してしまい、単純な記号の直線的配列によって
すべてを表現しようとする。また、印刷されたアルファベットはそれ自体が
意味を持つのではなく、あくまでも「意味されるもの」の代理(=表象)
でしかない。無文字社会の口語文化にあっては、言葉はそれ自体が豊かな
「意味」をまとったものとして人々の心に響いていたのだが、文字社会に
おいては「意味」は形而上学的な世界へと追いやられてしまうことに
なったのである。 この「グーテンベルクの銀河系」は、西欧社会の
「知」に推論の厳密さを保証する一方で、分析的理性に偏重した視野の
狭さをももたらした。印刷技術の誕生は、単純な進歩ではなかったのである。
「どれかひとつの感覚が切り離されると他の感覚どうしの比率が必然的に
狂って自己感覚が失われてしまう」のであり、「五感どうしを切り離して
しまう新技術には当然催眠効果があった」のである。
 それに対し、現代のラジオやテレビといった電波メディアは、
「聴覚」を復活させ、「視覚の極端な優位」から「五感の調和」へと
人々を連れ戻す。 調和のとれた五感による世界認識のほうが、カトリック
マクルーハンにとっては、神が創造した世界をリアルに捉えられると
いうことのようだ。そのかわり、この五感調和的で総合的なリアリティは、
単線的な論理の筋道によって表現できるものではない。世界は「場」の
ようなイメージで捉えられるべきであって、マクルーハンはその「場」
らしきものを、本書の活字空間のなかに描出してみせたのである。
「メディアはメッセージである」という有名なテーゼに代表されるように、
メディアの「形式」が人々の精神文化にいかに強い影響を及ぼすか、と
いうのがマクルーハン理論の最大の要点だとされている。だが、訳者も
いうように、五感の調和によるリアルな世界認識を復興させよ!
というのが本書の核心的なメッセージではないか。≫
▼ 口語文化から、活字文化へ。そして今は「映像文化」へ、移り、
今度はネット文化が出来つつある。口授から、書物へ。そして現在は、
電子映像、電子書籍文化に移動しようとしている。それが現在、ネットで
世界中を行き交う情報革命として、我われの存在意義を変えようとしている。 
この数年来、手の平にのるスマートフォンタブレットPCが急速に
普及している。文字に映像や写真が添付された情報が直接、ネットで
個々の間に行き交う文化が生じてきた。これが時代を根こそぎ変えている。
また電子書籍たるものが、読書界を大きく変えている。グーテンベルク
銀河系が、ジョブスの銀河系に移行始めた。 その行き着くところは、
未だ誰も知らない。
・・・・・・・
3934, 新年にあたり ー2
2012年01月02日(月)
 * つれづれに
 スーパーイヤーになる今年、どうしても暗くなりがちになる。
2008年9月のリーマン・ショック以来、一年ごとに世界は大きく
変化をしてきた。去年も想像を絶する大事件が相次いだが、今年は、
それを遥かに上回る可能性がある。可能性として考えられるのが、
・欧州発の世界恐慌 ー世界的株式と国債の暴落、食料品の暴騰・・・
・イランによるホルムス海峡の閉鎖と、閉鎖した海軍と軍事基地
への英米軍の攻撃、イスラエル軍のイランの核施設攻撃等
・中国による支那海など周辺諸国に対する侵略
北朝鮮の政治的混迷・・
・日本の株式と国債の暴落と、円安など、多くのマイナス要素が山積である。
中国、ロシア、フランス、韓国などのトップの選挙がある。そのため
現体制は人気とりの戦争をやりたがるのは、世のならい。その意味でも
今年は非常に危ない年。恐慌と戦争は、相互に影響をするため二重の
危険性がある。 一兆円の70倍が7京。その不良債権が世界各国に
眠っている。それらを何時までもほうっておく訳にいかない。 
日本国民の生活も、今後10年で厳しい状況に追いやられる。
それでも日本人は、それに適応するしぶとさがあると信じる。 
アメリカに依存してきた日本が、どこまで独立できるかだが、見通しは
よくない。スーパーイヤーの断面をジックリと見ることになる。
ところで次の大地震、どこの国で発生するのだろうか? 
 ・・・・・・
2011年01月02日(日)
「語りえぬものからの問いかけ」ー東大駒場〔哲学・宗教・芸術〕連続講座ー
《「言い表せないもの」の詩学-チュッチェフ『沈黙』の逆説ー沼野充義》の沈黙」
  * 究極の逆説
 ー まずは、沈黙せよと言いながら、沈黙を破り、この文章を書いている
  矛盾そのものが、以下に書かれている ー
【 ーそもそも「沈黙」をめぐる詩が存在するということ自体、なんだか妙な
 ことではないか、ということなのです。「何を言っても他人には理解されない、
 何かを口に出したら嘘になるのだから、沈黙せよ!」と主張している詩人が
 みずからその主張に従ったら、詩は書かれなかったはずではないか。
 そもそも「沈黙せよ」という主張を言葉によって行なおうとすることのうちに、
 矛盾がひそんでいます。厳密に論理的に考えると、これは「クレタ人はうそ
 つきである、とあるクレタ人が言った」という、あの有名なエピメニデスの
 パラドックスにも似た状況でしょう。もっとも、私は哲学にも論理学にも
 まったく疎いのですが、言語芸術を多少なりとも扱う立場からあえて理屈を
 つけると、その「矛盾」とはこんなふうに説明できるのではないでしょうか。 
 つまり、
  ;言語とはそもそも「何かを言い表す」ために人間が獲得した道具である、
  ;しかし、その言語をもってしても「言い表すことができないもの」が
   この世界には存在する……。いや、ここまでならば、特に妙ではありません。 
  どんな道具にも、どんな技術にも限界がある、それだけのこと。しかし、
  その先に、もう一つ、
  ;その「言い表すことができないもの」について、それでもわれわれは
  何かを言い表している、なぜなら少なくともそれが「言い表せない」
  ということをわれわれは言っているのだから、という段階が付け加わると、
  やはりこれはなんだか妙な事態、ここにはどうも解きほどきがたい厄介な
  問題が含まれているのかも知れない、という気になってきます。
  無意味な屁理屈のように聞こえるかも知れませんが、ある意味ではこの
  厄介さこそが言語による表現の本質ではないでしょうか。
  言語によって何かを表現しようとするものは必ず、その表現の限界に
  行き当たります。「言いたいことが自由に言えるから、
  それがそのまま作品になった」とのんきに言っていられる文学者は、
  じつはまだその限界に突き当たっていないだけでしょう。
  真の創造のプロセスは、むしろその先にあります。「言い表せない」
  ものに向き合ったとき、それでもなおかつそれをどうやって言い表す
  ことができるのか、この観点からすれば、文学的表現だけでなく日常
  言語でも常に使われる直喩や隠喩、換喩といった比喩的表現の数々も、
  「言い表せないもの」をなんとかして言い表そうとする人類の古くから
  の努力の結晶ではないか、とさえ思えてきます。本来、比喩とはあるものを、
  それ本来の名前で呼ばずに別のものの名前を持ってくる、という手法です。
  どうしてものや現象をそれ本来の名前で呼ぶことができないのか、それは
  究極的に、言語が不完全なものだからです。 ー 】
  ==
  沈黙するしかない弱者にとって、「語りえない」はありがたいことなのか、
  それとも、この言葉に反発を持つのか?どうであろう。言い尽くせなくとも、
  限界の範囲の言葉で残しておく必要性はある。 チュッチェフの詩
  「沈黙」は素晴らしい!
・・・・・・・
3194, 句読点とは妖精のようなもの! ー1
 2010年01月02日(土)
毎日、文章を書き続けていると、文章作法で色いろの問題にぶつかる。
といって、誰も教えてくれない。小説(の書き方)などには、作法の習得は、
多くの本を読んでの我流という。「文章の書き方」とか、「小説の書き方」とか
いう講座もあり、経験則を教えているようだが、突きつめると独学しかないようだ。 
とにかく量をこなすしかない。まずはテーマと構想をたて、とにかく書いていく。
そして起承転結の体裁を整えて、その後に、添削するしかない。 
そのプロセスで更に考えるのである。そこで一番の問題は、「 、」と「。」
である。 後者は、とにかく三段論法で「。」で締めればよい。
しかし、「、」となると、難しい。 何かの本で、「ね」と入れて、
ゴロが合えばよいとあった。「片耳の話」秋山駿著、の中に【句読点とは
妖精のようなもの】という小項目があった。
ここで「泰西の画家が、裸婦のオヘソを、しかるべき位置に遅疑なく描く
には、30年かかったというが、句読点の置き方にも、それに比される
ところがある。」と、あった。句読点の打ち方に何か法則があるか調べたが、
それは、本人の息のつき方と同じで、決まりないという。 それが読むもの
にとって、奇異であれば問題である、等で、エイヤッと、これまで書いてきた。 
量をこなしているうちに、自然と収まるようになってきた。 裸婦のヘソの
位置と同じで「量を書くしかない」ということ。 この文章でも、句読点の
位置には違和感がないはず?。この随想日記を書き始める前の文章の句読点
は、ところどころ変なところで、うってある。秋山駿は、そこで「句読点は、
文章の流れの裡に内在し、言葉の連続の間に出没する、何か妖精のようなものだ。
自分勝手にならないし、私の要請を聞かない。あちらが戯れに出現したり
消えたりするーその音調に耳を澄ますしかない。」いうが、なるほど納得する。 
句読点とは、そういうものか。毎日、句読点と闘っているからこそ、
その辺は納得できるのである。    -つづく