つれづれに

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 今日のYoutube

 昨日はシネマの日で、『キングスマン』をみてきた。
前評判が良いので、迷わずみたが、そこそこで85点。
私の合格点は、邦画以外は90点だから、少し物足りない。
でも、面白かったことは確か。 
http://kingsman-movie.jp/
http://movies.yahoo.co.jp/movie/キングスマン/353152/story/

 東北を中心にした大雨の最中、今度は東京で震度5弱の地震
9月か10月に大地震の可能性が高いといわれていた中に
起こったが、これが大地震の余震でなければよいが。
 中越地震刈羽地震も5弱の前余震が、あった後に発生した。
東北大地震から、何かが変わった。
《 あれが、前兆でしかなかった?》という恐ろしい結末にならなければ
 良いが。 若い人には、その付けが回ってくる。 



・・・・・・
4929,パワレルな知性 ー7
2014年09月12日(金)
 * 多文化共生社会の礎を築く力、とは      
             『パワレルな知性』鷲田清一
 討議をし、物ごとの両義性をわきまえた対話(ダイアローグ)の中から、
考えを変えていくことこそ、多文化共生社会に必要となる。そのためには、
「聴く力」と、人の気づきを「待つ力」が必要という。
自分の殻を自覚し、それを壊しつづけるため対話を続けること! 
ただし真当の対象と! ーその辺りからー
≪ 「多文化共生」とは、外国人との共生にかぎったことではない。
 たとえば、現代においては、さまざまな専門家の知見はきわめて先進化し、
細分化されているため、専門家と一般市民の間には「異文化」といってよい
ほどの間隔がある。医療、地域環境、食の安全の問題など、どれをとっても、
最先端の専門家の知見は、素人が聞きかじっただけではわからないほど
高度化している。 だからこそ、専門家と非専門家のコミュニケも、じつは
「多文化共生」の課題の一つなのである。そのために不可欠なのは対話である。
ただし、それは「ディベート」ではなく「ダイアローグ」としての対話。
ディベートとダイアローグの違いについて、平田オリザが、次のように
わかりやすく教えてくださった。< ディベート(討論)においては、
対話の前と後でじぶんの考えが変わったら負けだ。逆にダイアローグでは、
対話の前と後でじぶんの考え方・感じ方が少しも変わっていなかったら、
対話をした意味がない> と。すべてを白と黒で割りきり、正しいことと
間違ったことを峻別しなければ気が済まない思考スタイルの持ち主は、異なる
文化や思想をもつ相手とディベートはできても、ダイアローグはできないだろう。
 ただし、ここでいう「ダイアローグを通じて考えを変える」とは、無節操に
自説を曲げることではない。じぷんの考えを絶対視せず、別の視点、他者の
視点からも考える複眼的な柔軟さをもつこと、ひいては、物ごとの「両義性」
をわきまえ、一つの単純な見方に凝り固まらないことである。
 そして、これからの多文化共生社会を生きてゆくうえで、ダイアローグ
としての対話をする能力は必須のカになってゆくだろう。その能力をそなえた
人こそ、唯一これからの時代の「熟成した市民」なのである。では、真の
対話力を鍛えるために何をすればよいか。抽象的な言い方になるが、
「聴くカ」と「待つカ」を鍛えることから始めるべきだとわたしは考えている。
いまの社会の評価制度においては、人の話を聴くこと、人の気づきを待つ
ことは、能力として評価されない。しかし本来、「聴く」ことも「待つ」
ことも、広義のホスピタリティ(人をもてなす)の中核をなす大切な営みで
あるはず。それは一言でいえぱ(他者に)「時間をあげる」ということ。》
▼ ゼミの教授がそうだった。まず、自分で考えること、人の意見を聞くこと、
 気づきを待つこと。真なる知恵は、内側から涌き出るまで、それに気づく
まで、考えて考えて、悶絶をした後でこそ出るもの。決断の前にしなければ
ならないことと同じ。「聴く力」は、人だけでなく、読書を通して著者の
いわんとする意を聴く力もある。更に心の奥底の声を聴く力も、それにあたる。
知恵は、パワレルの知性の礎から生まれ出る。

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4187, 呪いの時代 ー5
2012年09月12日(水)
  *「ほんとうの私」と「仮象の私」   ー「呪いの時代」内田樹
「ほんとうの私」と「仮象の私」には大きな隔たりがある。哲学で人生を舞台と
見立てて、生きる意味と役割を考える手立てがある。観客から見られているのが
仮象の私で、実際に演じている自分が「ほんとうの私」としての見方。
その演じている私も俳優という役割を演じているに過ぎない。
男はつらいよ』のフーテンの寅、それを演じている渥美清、そして
本名・田所康雄の役割の重層がある。政治家は、票の確保のための代表に
相応しい人間を「仮象」として演じている典型である。政治家は、選挙民に
政治を託された公人。そこでは「ほんとうの私」を表立ててはならない。
最近の政治家は、その辺りが甘い。ー以下は最近の政治家について箇所であるー
≪ 政治家の言葉が軽いのは、彼らがどんどん「ほんとうの私」に人格の軸足を
 置くようになったからと僕は思っています。他人が見ている私とは違うところに
「ほんとうの私」がいる。それこそが「真正の私」であり、世間の人間が見ている
のは仮象にすぎない、と。だから、「世間の人間が見ている私」の言動について、
「ほんとうの私」は責任を取る必要を感じない。例えば、政治家が不祥事を起こす、
彼は決して不祥事そのものについては詫びません。「私はそんなに悪いことをして
いるとは思わない」と言い募る。けれども、「党のみなさん、支援者の方々には
ご迷惑をかけた」ので職を辞す、と。「党の同志や支援者のみなさん」とは
「ほんとうの私」でつながっている。だから、彼らには真率を示す。
しかし、野党やメディアが叩いているのは「他人から見た私」という仮象である
ので、叩かれても痛くも痒くもないし、そのような仮象の言動について
「ほんとうの私」が責任を取るいわれはない。政治家たちはそういうふうに
考えているようです。「自分探しの旅」というのはもともと中教審が言い出した
ことで、政治主導のイデオロギーですけれど、政治家自身が自分で唱導してきた
イデオロギーの虜囚となってしまった。「ほんとうの私」こそ私の本態であり、
みんなが見ているのは「仮象の私」であって、そんなものについてオレには責任を
取る気はない、と。だから、政治家の言葉が軽くなった。「言葉の重み」というのは、
その言葉が流通していく過程でさまざまな解釈が施され、さまざまな意味が賦与
され、不測の事態を惹き起こすことを見越して、発語者がその全体の責任を取る
ということです。・・・≫
▼ 政治家は、自分を捨てて、政=まつりごとを遂行することを業とする。
 それならば、既に政治家を目指したら、「ほんとうの私」は、捨ててかから
 なければならない。「世間の人間が見ている私」に軸足を置いて、俳優のごとく
 自分を演じるのが本筋。だから、「ほんとうの私」ごと責任を取らなければならない。
 その点で、政治家が軽くなったという説には納得をする。しかし、人生そのものは
 真正の私が生きる人生とは別物。その辺りを間違うと、とんでもないことになる。
 「世間がみている私」に責任などない。流動の少ない地方で、その辺を勘違いすると、
 人生そのものが狂ってしまう。自覚の無い狂人に、自覚ある狂人、その差は大きい
 筈だが・・・ 「ほんとうの私」も、実は「仮象の私」でしかないのだが。
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3822, 言語はゲームか?
2011年09月12日(月)
 毎日、一日一文を10年間も書き続けていると、書き上げること自体をゲーム
にやらないと続かない。まずテーマさがし、次に文章を構成するキーワードと
情報源さがし、そして起承転結の前段階の小文を書き、それを組み合わせ、
その後、何度か読み直しながら校正する。そこに自ずからルール化した習慣が
出来てくる。それを一日も休まないで実行する。手抜きをすると毎年の同月同日に、
それを読むことになる。現に毎日読んでいる。そのプレッシャーが、嫌が上にも
エネルギーになる。「書くことは、ただ印象に残った日常や、本を写し取るので
なく、行為し、働きかけること」というウィトゲンシュタインの言説は体験上、
非常に納得する。 その辺のことが、以下に分かりやすく書いてある。 
  * 言語ゲームについて    ー「やさしい哲学」坂井昭宏著ー
【 「世界があり、事物や出来事があり、それぞれに対応する言葉がある・・」
 というこれまでの考え方に、ウィトゲンシュタインは疑いを持つようになる。
「言語は、それ自体の機能を持つ独立の体系であって、対象の方が言語によって
意味づけられているのではないか・・ そして、言語の使い手たちは知らない間に、
特定のルールに従って言語を使いこなしているのではないか」と考えるようになった。
これが「言語ゲーム」理論の始まり。「あなたはバカ?」と言われたとき、
「言った本人と比べてバカ?」というのか、「真からバカ!」か、
「世の中の大部分がバカだが、そのうちの一人?だろう」か、
「自分がバカと自覚しているのか」とか、色いろ考えられる。
その状況により、その意味が変わってくるが、コミニケは、二人が同じ
「言葉のルール」を共有してこそ成り立つのである。このルールの共有の上で
使用される言葉の使用を「言語ゲーム」とウィトゲンシュタインは名づけた。
「言葉の意味を知る」ということは、「言語の使用ルールを知ること」という
ことになる。言語は対象を写し取り、指示するものではなく、行為し、
働きかけを行うもの、つまり日常生活の基盤をなすものである。
ウィトゲンシュタインは、学問も「真理の証明」は無理と考えた。
「語りえないもの」はもちろん、「語れること」にも絶対真理はない、とした。】
▼ 大方は、こんなものだが、言語ゲームを意識的にしていると、底知れないゲーム
の奥行きを直感する。人間は、言葉を冷静に見つめないと、マスコミから怒涛の
ように流れてくる言葉に人生まで狂わされることになる。言葉は頭も心も支配する。
 所詮、配列でしかない言葉に、溺れ、窒息死をしてしまう危険がある。 
「今日は、これまで最高の日、私は幸せ!」たったこれだけの言葉の後に、
次のキーワードを組みたてる訓練さえすれば、その通りになるのに、
逆の言語構成をしている日々。
 ・・・・・・・
3457、秘・異郷ツアー、よもやま話 ー8
2010年09月12日(日)
 * アフリカに魅せられて ー2
 以前にも書いたが、ケニアのマサイマラにあるマラ川のヌー河渡りが圧巻だった。
「ヌーの河渡りツアー」に参加したのだが、10人のツアー仲間とサファリのプロの
日本人がつく。サファリカー二台に分譲して、マラ川近くでヌーとシマウマの群れ
の集結を待つ。そして、遥か彼方に集結するのを発見すると、気づかれないように
近づき渡る瞬間を待つ。30分、一時間は待たされる。 次の瞬間、地響きをあげて
川に飛び込む。それを隠れ潜んでいるワニが力強いあごでヌーやシマウマに襲いかかり、
水の中に引きずり込む。そこは生と死のドラマが繰り広げられる。それが緊張に満ちて
おり、感動的である。それまでTVで何度か死闘を見たことがあるが、生(なま)
の現場でみると迫力が全く違う。 河渡りの途中に襲われ、一度水中に引っ張り
込まれたシマウマが最後に、ワニを振り切って生還する場面が圧巻であった。 
また、渡りきった後に、水辺から上に登ろうとするが、力尽きて河に流されていく
ヌーと、力を振り絞って何とか登りきるヌー。それを近くの藪の中から見るのである。 
正に生と死のドラマの真っ只中で見る。アフリカのサファリに魅せられるのは、
生と死の狭間で動物が大自然の中で生きているエネルギーが直に感じることが
出来るからである。動物園内のライオンやシマウマと、野生のそれとは全く違う
のである。最近、Youtubeで、ライオンなどの狩りの撮影が投稿されて
いるのを見るが、これも迫力がある。 私が参加したチームの6割がリピーターで、
ヌー・クラブをつくって東京で会合を開いているという。都会生活に疲れ、癒しを
求めているという。 「オンリー・ユー」をかけて「オンリー・ヌー・クラブ」とか。
ここで驚いた場面に出くわした。現地のジープのドライバーが60歳近いシングル
の女性に、自分を買わないか?と、人が居ないところで言っていたのである。 
本人は断っていたが。更に金持ちそうな人にドライバーが家を買ってくれと提案された。
一軒が30万で買えるので、年に一度来たときは、家賃とサファリを差っ引きに出来るし、
別荘をケニアに持つことが出来るからと、真剣に考えていた。マサイマラに30万の別荘
といえば、面白いといえば面白いが、トラブルの元になるのは火を見るより明らかだが。
ヌーの川渡りも一度で充分、それでも強烈なサファリである。
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3082,対話とは何か
2009年09月12日(土)
 以前から新入社員教育でST訓練を取り入れていた。 
会話しか経験のない20歳前後の新人に、基本としての対話を教えるもの。
この元となる書を四十年近く探していたが、先日、偶然ネットで見つけたのである。
「ダイアローグ 対立から共生へー議論から対話へ 」デヴィッド・ボーム (著),
金井真弓 (訳) ーである。さっそく注文をしたが、前の会社を含めると30回前後
の訓練をしてきた。これは訓練をされる方より、指導するほうが勉強になる。 
驚くのは若い人が、この訓練をすると見ちがえるほど変化する。
相手が何を言わんとしているかを把握して、今度は自分の考えを言葉にして相手に
伝える基本中の基本である。学生時代に武澤ゼミで一年間、15人位のグループで
みっちり鍛えられ、更に金沢の新人教育で罵声の中で鍛えられた経験から、
見よう見まねで指導してきた。そして30年近く、自分が一番得るところがあった。 
相手の話の筋道を聞き取るのは当たり前と思うが、私の知るところ3割もいない?
一度、自分の脳の中に言葉としてインプットして、こんどは相手に向けてアウト
プットするのは、厳しい訓練か、ハードな上司に鍛えられないと出来ないのだろうか?  
哲学者の池田晶子が、その著書で「対話とは、普遍の理性によって、個別の事柄
について、その理非曲直を論じ合うことである。それは相手が誰とかは関係なく、
原則に貫かれるべきことである。」と述べている。
 -そこでネット検索で「対話」を入れて調べてみるとー
対話(ダイアローグ)とは、「ダイア」(通る・流れる)と「ロゴス」
(意味・言葉)を語源とするギリシャ語からきている。 そのため対話の基本
姿勢としてつぎのようなことが大事となる。
・徹底して言語化する。 言葉にして初めて存在する
・知識と経験を共有する。 言語化された意見・知識・経験は共有される
(ただし、それ を持っているから優位な立場になるわけではない。
 言葉を個人から切り離すことが重要)
・「目的を持たずに話す」「一切の前提を排除する」など実践的なガイドを
 織り交ぜながら、チームや組織、家庭や国家など、あらゆる共同体を協調に導く、
 奥深いコミュニケーションの技法。
ー以上だが、地頭が良いということは、自分の地言葉?(私の造語)を持って、
 真剣に現象と対話することである。現象の背後にある構造を読み取ることである。
 これは難しいことだが、最後の最後は、これしかない。それを対話の中から
 互いに引き出すのが目的である。 神との対話、本を通した著者との対話、
 販売データーを通した顧客との対話、コンサルタントとの対話、知人との対話、
 等々、色いろある。対話が出来ないじゃなくて、対話段差の違い?ということか? 
 人の話を聞こうとしない人、知ろうとも思わない人が多いが、それは「程度」
 ということ? この随想日記も、考えようによっては、対話をしているのだろう。 
 自分と、読んでくれている人と!