つれづれに

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  今日のYoutube

 はや三月になる。 金曜日に、シネマで『アメリカン・スパイナー』と、
川崎中一殺人事件の生々しい、映像と画像を見たため、不快感が
いまだに抜けてない。 18歳の在日、韓国系朝鮮人の不良グループの
ボスが一番下っ端の13歳の中一の少年を斬首の処刑をしようと
したが・・ 結果は、どうだったか分からないが、ネット社会の映像、
画像は、子供たちにも大きな影響を与える。恐ろしいことだ。

 TVドラマも、内外の刑事ものが多く、有り得ないような猟奇殺人の
物語が多い。最近は北欧の刑事ものが、シリアスで面白いが、
恐ろしいストーリーになっている。 

 

・・・・・・
2158, 幸福に驚く力 -4 
2007年03月01日(木)

           (~Q~;)  おはよう~~ キョウハ スゴク サム~ 
 ーまずは、要点の抜粋から
 
 *日常の幸福に驚く力*

何かを買ってもらった喜びと、何処かに連れて行ってもらった喜びを除いた、
子供時代の一番幸福な思い出は何だろうかと考えると、チョッとしたことの中に
喜んだことを多く発見することができる。
つまり日常にあるそういう幸せをしっかり受け取る力が子どもにはあるのです。
しかし、それを放っておくと、イベントや買い物の方にいってしまう。
そういうものに邪魔をされて見えなくなってしまう。
そして、「凡庸で退屈なことは悪だ」という情報社会の空気の中で、
自分たちの日常なんてつまらないものと思い込まされていく。
そういう力が今、私たちに色いろなカタチでのしかかってきている。
そんな中で子どもの文学は、日常の中にある幸福に驚く力を培ってくれるのです。

問題は、そういう物語を手繰りよせる力が弱まっていることですね。
とにかく、いつの時代でも、読み書きはちゃんとしておいて欲しいですね。
読む力が衰えてきますと、先人の残した素敵な日常の物語、幸福物語が、
手元に手繰り寄せることができなくなります。
数々のそういう物語がすぐ傍らで手が伸ばされるのを待っているのに。
そうなると、一人一人がただ孤立していきます。

   解)
    昔の日記を読んだり思い出など過去を振り返る時、
   「そこにある日常に、むしろ面白い深い人生の意味が含まれている。」
    という視点で見直すと、過去が違って見えてくるから不思議である。
    その時の淡々とした日々のちょっとしたことの積み重ねが人生なのである。
    そのことに気がつけば、現在の日常のチョッとしたことや、何でもないことの
    中にある幸せに気づくことになる。 何故そのことに気づかないのだろう?
    それは「自分が物語の中で生きていることに気づいていない」からである。
    もし本人が不幸と思っているある日のことでも、
    冷静に振り返れば幸福が背後にあったことに気づくはずである。

 ---
 *凡庸や退屈が悪と思わせられる社会*

「これから入っていく情報化社会は、価値観が相対化され、思い軽いがない、
みんなのッぺらして凸凹のない社会になる」
「この社会は、物珍しく刺激的なことが善とされ、凡庸な退屈なことは悪とされる」
西垣通がいっていた。
 
    解)『「凡庸や退屈が悪と思わされる社会」が悪い!』というのも、
      『いや二度とない人生、凡庸は「悪い!」』というのも、
     所詮はそれぞれの人の判断で、相対的なことでしかない。
     でも、内省してみると、凡庸を悪と思ってきた傾向があったようだ。
    「二度とない無い人生!悔いの無いように生きるべし」が人生と信じるなら、
     凡庸と退屈な日々を否定する人生になる。
       それも相対の世界観でしかないが。

 *週に一時間幸せがあれば生きられる*

毎日毎日、円満で幸せな家庭など何処にあるのでしょう。
誰もが「うまくいかないのは私のところだけでないか」そう言うんです。
でも、子どもって、いや大人って、一週間に一時間幸せな時間があったら、
後の6日と何時間は生きられると私は思っています。
一ヶ月に一度「あ~あ生きていてよかったな」と思える日が一日あったら、
残りの日が二十何日間あってもチャンと生きられます。
 ---
   解)この辺になると、著者の生き様を感じる。
    「週に一時間の幸せがあれば生きられる」
    「月に一度、生きていて良かっただと思えれば」
    私など毎日、毎日、心の底から実感している。
     そんなもの、心の持ち方一つである。
    生き方、心の持ち方を知らない人が、あまりに多い。
    特に若い人は! 一日一日を垂直に生きる!と心がければよい。
    好きなTV番組でも音楽でも聴いて、ドップリその世界に入りこむのが
    垂直に生きる時間ということ!
   
   その合間に酒飲んで、カミサンの顔を見て、幸せだな~!!
   と自己暗示をかければよいだけ! この自己暗示は難しい、本当に。 
    ジョークではない、やれば出来る。 いや、やらねばならぬ!
      これも一度出来てしまえば、あとは簡単!
    金はかからないし、家庭円満、これが日常の幸せ!ということ。   
       日常の幸せに驚くのも、訓練を要する。
       過去の世界にジックリ浸るとそれが見えてくる。
       それを内省というのだろう。
    
         ホンジャ、バアアイ ♪♪((((*`・´))ノ ♪♪
・・・・・・・・
2006年03月01日(水)
1793, 心に効くクラシック
   ォ'`ォ'` 。+゚ヽ(。・c_,・。)ノ゙。+゚ォ'`ォ'`  ー読書日記
 ー深夜のクラシックー

昨年の3月に高性能のコンポを買ってから毎晩、
約一時間CDを聴きながら就寝している。
    十年前にクラシックのセットものや、
    最近では100曲3000円のセットを幾つか買ったものがある。
    それほどの愛好家でもないのに、もう千数百曲以上になる。
    レコードなら、大きなスペースが必要だろう。
    少しボリュームをあげて聴いているが、大体CDが終わる直前で寝てしまう。
Φ( ̄▽ ̄Φ)♪(Φ ̄▽ ̄)Φ"~♪ (*ゝ,●・*)ノ^【☆sweet dream!!☆】
    ところで、先日買って読んだ
    「心に効くクラシック」という本が良い。
    音楽が心に及ぼす効果や、クラシックの心の効用を探り、
    それぞれの作曲家の特質と曲を解り易く説明している。
    バッハ、モーツアルト、ベートーベンや、ショパンなどを
    紹介して、それぞれの代表作を紹介している。
絵画もそうだが、それぞれの時代背景と作曲家の音楽に込めた魂の意味と深さを知ると、
対象の音楽が全く違ったものに聞こえてくる。
    やはり意味を知ってこそ、音楽の醍醐味を味わえる。
    極度のスランプに陥った時に、慰めてくれるのは音楽と先人の格言である。
                       
この本の紹介文をコピーしておきます。 
 ーーー
「心に効くクラシック」
  生活人新書   富田 隆/山本一太

悲しい気分のときに、
ある曲を無性に聴きたくなるということはありませんか。
それが浜崎あゆみであったり、中島みゆきであったり、
ビートルズであったり、はたまたモーツァルトであったりと、
きっと百人いれば百曲の好みが出てくることと思います。

すべての人を同じ気分にさせるような音楽というものはありえません。
しかし、比較的多数の人々にある一定の心理的効果をもたらす曲の存在が
さまざまな実験を通してわかってきました。
この書では、クラシックの名曲がなぜ心に効くのかを探るとともに、
あなたの心が欲しているとっておきの一曲を紹介しています。
ぜひ一度心の状態に合わせて「処方」した一曲を聴いてみてください。

・心の疲れを自覚したときに
   ペルト「フラトレス」
・派手に気分転換したいときに
   レスピーギ「ローマの松」
・心焦がす想いをもう一度味わいたいときに
   シューマン「詩人の恋」
・自然の息吹に触れたいときに
   ヤナーチェク「青春」

「心を癒す60の処方箋」の中のほんの一部です。
このほかにも多種多彩な名曲がずらりと並んでいます。
誰でも知っているような曲もありますが、
それはむしろ例外といえるかもしれません。

 心と体をリフレッシュさせながら
「クラシック通」にさせてしまおうというのが、
この本のもうひとつの(隠された?)テーマなのです。
ーー
以上だが次回から、この本からポイントを抜粋してみる。
          Byeヾ(。´・ェ・`。)Bye
・・・・・・・
2005年03月01日(火)
1428, ワインの話-1
 思索紀行ーぼくはこんな旅をしてきた  ー読書日記

飛行機の中や、ホテルで国ごとのワインを飲んできたが、
ー美味い、不味い。辛口、甘口。酸味の濃厚さ。
口当たりが良い、悪い。香りの良し、悪し。
白・赤・ローゼー位の語彙しかなかった。

勿論、一万円を一本飲むより、1千円を10本飲んだほうが良い。
サエゼリアのグラスの一杯80円のハウスワインで良しと思っている
ようでは、何おか言わんやだ。
ハウスワインとして割り切っていれば、それで充分だが。
この本を読んで、一本数万、いや数百万のワインを飲む意味が少しは
解ったような気がした。

ワインに対する知識は、昨年ウィーンに行って少し聞きかじった位だ。
「良いワインを飲む回数が重ねた分だけ、少しは味がわかってきた」と思っていた。
しかし立花隆のこの章を読んで「何も解ってないということが解った」。

映画で、金持ちが地下にワイン貯蔵庫を持っていて、
それを一人密かに飲むのを楽しみにしている場面を見たことが何回かある。
欧米の大金持ちの道楽の一つになっている。

欧州の紹介番組みで、ワインの酒蔵の醸造オーナーが、
数十年前の取って置きのワインをレポーターの飲ませる場面を見た。
レポーターは涙を溜めてその美味しさを話していたが。
この本で知ったことだが、世界のワインの有名産地に殆ど行っていたのだ。
南アフリカ、スペイン、ドイツ、チリ、イタリア、フランス、オーストリアなどなど。

この知識があったら、その楽しみも増えたのにと残念至極である。
「人生は知らないということを知るプロセス」だが。
知らないということは、多くの経験の機会を損失をしていることになる。
それも一生を終える時に、つくづく実感をするのだろう。

これから書く内容は、
この本の第三章「『ガルガンチュア風』暴飲暴食の旅」
のワインについての記載をまとめたものである。
20年前に書かれていた、この文章に解りやすくワインの話が書かれていた。
その内容を、知識として貯蔵するために簡略してまとめた。
ーーーー
ワインには、AOCワイン(原産地表示ワイン)と、ハウスワインに分けられる。
欧州の一般の人は、殆んど普段は安いハウスワインを飲む。
フランス国内では、前者は一本千円単位、後者は百円単位である。
といって、日本で売られている不味いワインとは全く違う。
毎日千円単位で飲めるほどフランスは豊かではない。

欧州では、ワインはがぶ飲みをしてはいけない。
特に高級ワインほど、深く味わねばならないとか。
・単に味覚で味あうだけでなく、
・目で見て色を味わい、
・香りを味わえという。
・更に、プロや通になると言葉で味わいを表現しなくてはならない。
 その表現法も様式化していて、そのための用語集もあるという。

まずワイングラスに注いで、それを光にかざしてみる。
色を見る。色の表現だけで、数十種類もの表現がある。                 
                 ーつづく
・・・・・・・
2004年03月01日(月)
1062, 「まず街灯の下を探せ」

野口悠紀雄の「超」整理日記「デフレとラブストーリーの原則」の
「まず街灯の下を探せ」が面白!

-暗い夜道を歩いていて、鍵を落としたことに気づいたとする。
どこを探せばよいか ?
物理学者のアドバイスは、「まず街灯の下を探せ」ということだ。

数学の試験問題を解くには、この「街灯の下原則」に頼るしか方法はない。
「当面している問題は、過去に解いたどの問題と同じタイプか」と考え、
それに当てはめて解くのである。最初の発見者は十分な時間をかけたはずだ。
それと同じことを、限られた試験時間内にやるというのは、無理なのである。
つまり、「学校の数学は暗記」ということだ。
必要なのは、問題のパターンを覚えることだけである。
「自分で考えて解かなければならない。しかし、私にはできない。
だから、私には数学的な能力がない」
と思い込んで数学から離れていく人がなんと多いことだろう。
暗記した問題のパターンに当てはめれば解けると確信すれば試験の成績はよくなる。
事例問題を暗記しておくのがよい。
 「街灯が事例問題」の例である。

ー以上であるが、

まずは知らない街に行ったとする。
そうすると、何かの本かのTVか雑誌で聞いたことがある店に行く。
知らない店に行くより外れの確立は少ないだろからだ。 
経営でも考えられる。
何かを新規にしようとしたらベストの事例(灯り)を見つけ、
その灯を頼りに鍵を探すことだ。

街灯を知識・情報以外に、考えられないだろうか。
意志だろうか、それとも愛だろうか、知恵だろうか、それとも?
情報化社会ほど、情報と知識と、それを活用する知恵が必要とされる時代である。
まずは光り(情報・知識・意志・愛・?)が一番重要になる。
この街灯が情報社会の到来で、世界中に灯ったのだ。
その為には、まずは目指す街灯を探さなくてはくては!

・・・・・・
2003年03月01日(土)
696, ルーツ -1

ー我家の家系
自分のルーツを探って行けば、ビッグバンにいきあたる。そして宇宙の創造、
地球の起源、生物の起源、動物の起源、人間の起源、日本人の起源、そして家系、
自分になる。  家系といえば最近「家」の崩壊が始まっている。

数年前に佐藤愛子の「家系」が数年前にベストセラーになった。
10数年前にアメリカでも、ある黒人のルーツ探しのTV映画
が放映されて、ルーツ探しがブームになった。

私の家の家系の話をしてみる。
30数年前に父のところに遠い親戚の変わった?おじいさんが訪ねてきた。
「自分ー堀井のルーツを調べたいのだが、小千谷に郷土研究家から詳しい事を調べたい。
そのためにはまとまったお金が必要だ。資金援助をしてくれ」
とのことだった。
その場で断ったが、父は「自分が調べて解ったら教える」と約束した。
そしてその小千谷の郷土研究家のところに行って調べてもらった。
そのコピーを子供たちや親戚に配った。勿論私も貰って手元に今もある。

実家の店の屋号が「池津屋」で、道具屋を戦前までしていた。
父は「山本五十六」や「ツガミ社長の津上退助」や「野本互尊」との付き合いがあった。
戦前戦後と長岡ではこの「屋号」は老舗として一目置かれていた。
母が実家に嫁いだ時の資産が八萬円だったというから、地方ではミニ資産家
だったようだ。

小千谷の近郊に「池津」の村があり今でも30代続いている「大本の本家」がある。
その時に両親が訪ねて行ったと聞いた。
幕末にある先祖が長岡に出てきて古道具屋を開いた。
その孫娘が婿をとって、分家の道具屋を開いたのが2代前の祖父祖母である。

本家筋はもう商売を7~80年前にやめた。
両親は戦争中に道具屋から仏壇屋に転進、戦死が多く大繁盛したという。
                          ー続く
・・・・・・・
2002年03月01日(金)
346, 20歳の頃ーある教授との出会いー3
  武澤信一教授  人事管理ゼミ

私の人生で最大の師は大学の恩師武澤先生である。
もう亡くなられて7年になる。
イメージはキザな気取り屋で、底知れぬ教養人です。
話しているだけでコンプレックスの塊になる。
特に人事管理の世界的権威のレベルと聞いていた。

先生との出会いがなければ、30数年間一日平均2~3時間の読書を
続けられなかったと思う。
知的コンプレックスを脳の中心に叩き込まれたためだ。

非常に印象は冷たく、傍にいるだけで居たたまれなくなる人だったと思います。
親分肌の正反対のタイプだ。
あだ名は「絹布団」自分でも気にっていたとか。
初めは冷たく感じるが、長く付き合ってもらえれば温みが感じられる。
目上の人で筆不精の私が何回も、手紙や葉書をやり取りしたのは先生が
初めてであった。
                - 遺稿文を載せてみるー

さようなら武澤先生ー  
       ー武澤先生ご遺稿・追悼文集ー「はげみ」より
       
武澤信一先生、そして懐かしい武澤ゼミ、八王子ゼミナール、はげみの会、
最終のゼミナールとその晩のコンパ。
そして先生の退職時のはげみの会(最後のゼミナールと称して参加者の全員の
自己紹介と経緯の説明)等々、様々なことが思い出されます。
私の学生時代、いや50年の人生で恩師武澤先生をのぞいて考えられない位、
大きい存在でした。‘ご遺稿・追悼文集’発行の手紙をいただいた時
「よかった」と思わず言葉が出てしまいました。
先生に対する追悼の思いを表現する場が、もやもやした中途半端な気持ちに
あったからです。
立大3年の終わり頃、親友だった石川譲冶さんより「今入っている武澤ゼミ、
素晴らしいから、面接に来ないか」と誘われまま、気楽に試験に行ったのが
武澤ゼミとの出会いでした。
そして入ってまもなく大学3年間の、いや人生の22年間の不勉強に、
呆然としてしまいました。
そして2学期から卒論を書くにあたって、知的コンプレックスは極限に達して
ノイローゼの一歩手前の状態になってしまいました。進路もこのまま果たして
このまま進んでいいものか?直接その迷いを先生にぶつけてしまいました。
その時の武澤先生の一言が「迷いを数字で表現してみなさい!」でした。
その時の自分の答えが忘れることができません。
「51対49」でした。すかさず先生は「それなら、51の方を選ぶべきです!」
しかしその後、最終的に選んだのは49の就職の方でした。
「それなら初めから相談に行く必要がなかったのではないか」という矛盾でした。
その後就職をしたのですが、その後そこを辞め大学に編入しなおし、再び就職後
事業を起こしました。そして現在に至っています。
そのプロセスの中でいつも先生の影が、自分を追い立てていたようです。
また「51対49」が私の人生観の一つになりました。
何事も「51対49」と考えると、迷いも冷静に対処できるのです。
好き嫌い「51対49」差し引き2。
正しい、間違い「51対49」差し引き2・・・・。

1989年の夏、先生が新潟大学で第19回の労務学会全国大会で議長をされました。
その時、私のホテル(シングルイン新潟)に泊まっていただきました。
そして「卒業後の30年のつもる話」を、させていただいた事を忘れる事ができません。
そして新潟の夜をハシゴをして飲み歩いた事も。

ところで武澤先生と最後にお会いしたのは、1993年の「はげみの会」でした。
二次会で先生が異様に元気がないのが、気になっていました。
そして、その会の帰りがけにエレベーターの前で、私の手を握って
「堀井君、遠くから有難う!身体にくれぐれも気をつけて、元気で!」
と上下に激しくふった時、「もしかしたらこれが最後のお別れになるかも?」
と思ってしまいました。
しかしまさか、こんなに早く現実になろうとは・・・。
天国の武澤先生、本当に本当に有難うございました。ご冥福をいのります。
             1996年7月13日発行