つれづれに

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 さて、今日からスポーツジム!
今度は、毎日、ヨガがある。週三回から四回?
 早朝は、さすがに寒いが、気持ちはよい。



・・・・・・
2103, ウェブ人間論 -3
2007年01月05日(金)

          o_ _)oパタ (o- -)oムクッ (o°▽°)oニパッ
          (o_△_)oゴロン(o_ _)o.。o○グー   オハヨ~
    
    このHPを開設して、あと4ヶ月で六年になる。
    開設した日の前と後というほど、大きなインパクトを持つことになった。
   「誰かに見られている」という意識が文章の手抜きを最小にしてくれる。
   「手抜きができない」が一番の自己コントロールになっている。

    平均2時間の準備と、寝る前に30分、起きて30~45分の添削をしている。
    それでも会社にいって読み返すと誤字や筋が通ってないことが多い。
    誰に頼まれたわけでもないのに、毎日書き続けて2100項目になったが、
    確かにこの六年近く書き続けたことで、何かが変わった。

    文章化の能力と、その蓄積と分類、
    そしてそのオープンソース化は、
    人間の脳を根こそぎ変えてしまう不思議な何かがある。
    ーーーーー

第一章 ウェブ世界で生きる  -?

*ブログで人は成長できる*
 ーーーーーーーーーーー
  
   平野:梅田さんは新書や文庫という旧来型の紙という媒体で本を出される一方で、
    ウェブ上ではブログを書かれていますが、両方を経験して、どういう印象ですか。

梅田:まずブログというのは、まとまったものを読むのには不向きです。
書くほうも読むほうも、一日でせいぜい原稿用紙で5~10枚ですから。
だから読むほうも、ジックリ読むのではなく、情報をパッパと見て、
リング先に飛んで戻ってという情報ハンティングですよね。断片を消費するに近い。

   平野:朝、新聞をざっと読むような感じで、ということですか。

梅田:ブログは文章の推敲が足りなくても、少々誤字があっても、
リアルタイムが必要だということです。
それに対し、本にしたのは、思考を構造化したかったということです。
考えをひとつの構造にまとめるのに適したメディアはやはり本しかない。

梅田:むしろブログの本当の意味は、何を語る、何かを伝える、ということ以上に、
もう一つあるのではないか。ブログを書くことで、知の創出がなされて以上に、
自分が人間として成長できたという実感があるのです。
ブログを書き始めたとき、最初は自分の中にどこかに、
シリコンバレーでずっとITの未来について考えてきたプロ中のプロの僕が、
無料で毎日書くんだから、読者はありがたいと思って読むに違いない」
という意識があったんです。
毎日二時間ぐらい勉強した成果を、一時間かけて書くわけですから。
メディアやクライアントに送れば有料の内容のものを毎日毎日、
無料で公開しているのですから。

    平野:その感覚があるから、既存のメディアが書いている多くの作家の多くは、
     ネットで無料で書くことに躊躇しているのでしょう。作家は表現そのものが、
     仕事のわけですから。

梅田:ところが、ブログを始めて数ヶ月たった時に、オープンソースのことを
書いていたんですね。オープンソースで世界的に活躍している日本人が実は何人も
いるのです。そういう人の一人から「この部分は浅い」という内容の批判的な
トラックバックをされたんです。さいしょは驚いたり反発する気持ちもあった。
でもその後、何回かやり取りしているうちに、会ったこともない彼との信頼関係が
生まれたのです。

梅田:例えばジョブスの話を書く。僕自身はいくらシリコンバレーに十何年いても、
ジョブスの友達ではないし、彼とも会ったことが無いが、
それでも解ったように書いているが、ところが、ネットの向こうには、
ジョブスと仕事をしたことのある人がいるのです。
ネットの向こうにとんでもない広がりがあるということに心の底から気づいたのです。
それからは、モノを書き始めた頃の謙虚さを取り戻したのです。
何こともジックリ考えるようになった。またそういうことが、読み手の側にも伝わって、
「ああ、こいつは成長しているな」と思ってもらえるというプロセスも、
全部見える形で公開されているんですよ。

    平野:なるほど。情報を一方的に提供するという古いメディアのイメージから
     抜け出して、情報の双方向性というインターネットの特徴を、
     実感を持って理解したと。特に、自分の未成熟な部分で、
     そのありがたみが分かるのでしょうね。

梅田:自分の成長のきっかけになるんですね。もちろん漠然と情報を集めて
ブログを読む人にはそのプロセスは分からない。成長のきっかけになるような
トラックバックをしてくれた人とは、どこかであったら直ぐに友達になれるだろう、
という気持になります。

    平野:それはかっては、一部の作家とか、研究仲間だとか、
     カフェにたむろしている芸術家だとか、そのいう人たちの間だけ
     おこっていたことなんでしょうね。

梅田:そういう意味で言うと、
ブログの世界はまだ1?も始まってない状況だと思います。
           
                 -つづく
    ーーーーーー
    良い悪いは別として、
   「携帯電話を自分の身体の一部として使っているかどうか」
    が、だいたいネット社会に適応しているかどうかの目安だという。
    私は電話機能しか使ってないので、非適応人間になってしまう。
    携帯をキーボード機能としてみれば、それを使いこなせれば、
    あとは端末に接続しさえすればよいからだ。
    私のようにパソコンのボードしか馴染めないのは、
    中途半端なのかもしれない。   
                 ¥(*^_^*)\
                  バイバイ
 ・・・・・・・・
2006年01月06日(金) 1739, 人生の自己採点

           ま! (。・・)_且~~ お茶どうぞ
            オットッ! 且_(゚◇゚;)ノ゙ アチッ!      私の何気なくする質問が時々キツイことをいう。
 その中でも特に顔色を変える質問がある

 「これまで生きてきて、自分の点数をつけるとしたら何点?」
                   )))))))(゚o゚;)/ギク!
   思わない質問に、自己評価をどうしてよいのか一瞬たじろぐ。
    おそらく、その後かなり悩むのではないだろうか。
     それも次の言葉を加えるから厳しい。

「一応、あなたが考える第三者の評価も含めて勘でよいから
  感覚的な数字をあげてみて」 と、一瞬の間を置く。
                   (;゜0゜) ハッ
   大体、70点以上の人は直ぐに答えるが、
    それ以下の数字を頭に描いた人は黙ってしまう。
     
   この答えをはぐらかすには、
 「合格点が60なら、その辺かな?いや努力をしたので70点あたりか。
 しかし他人は50点以下と評価するだろうな!」

  知、力、愛の三分類をして、それぞれの点数を自己評価して、
   その平均値を出してみると解りやすい。

 「そんなことなど、お前の一番嫌う世間体の視点でしかないだろう!
     馬鹿なことを言うな!」 
      という心の奥の声が響いてくるが!

 私の義兄の弟(長岡高校の同期)に数年前に遇ったとき聞いたら
  「93点!」と答えた。   ヽ(・_・;)ノ ドッヒャー!
   松下電器でかなり出世をしたという。
   そのとき私の答えは
    「83点」であった。   ノ(*≧∀≦*)ヘ
     少し無理をしたか?     モジ(((*´ε` *)(* ´З`*)))モジ
        …(o´I`)ノ …バイ!
 ・・・・・・・・
 2005年01月05日(水)
1373, キュープラー・ロス

去年の8月24日に『死ぬ瞬間』などの著者
 キュープラー・ロスがなくなった。
  その彼女の最期をリアルに映し出したドキュメントを、
   年末の教育TVで放送をしていた。
    その録画を一昨日じっくり見た。

    彼女の最後の日々のインタビューを見ながら
    柳田邦夫と山崎章郎とNHKの女性アナの対談形式で進められていた。

    彼女の本を数冊読んで何度か息を呑んだ経験を持っていた。
    そのためか、彼女の一言一言が心につき刺さってきた。

    「私は聖女ではありません!ふつうの人間です。
     聖女など大嫌いです。そんな言われ方などとんでもありません」

     自分が死を迎えるに当たって、一番大事なことに気がついたといえば、
     愛を与えることと、愛を受け取ることです」

    「来世が死ぬ人にとってのニーズなら、それを認め与えてやらなくは」
             (*´・ω・`)(*´-ω-`)(*´・ω・`)(*´-ω-`)ウンウン♪
    「死を覚悟して、自分がとるべき態度は悟り済ました姿ではない。
     死を看取ってきた患者の気持ちになって、恐れ慄く姿こそ私のとるべき態度です。
    その彼等の立場に自分がなって、その経験をすることこそ、
    残された最期のレッスンです。」 等々、言っている内容が深い。                   フム(*゚Д゚)φ))ナルホド!!
 医者や看護婦や医学生を集めて、死にいく人とのインタビューの
 録画があった。
  もう数十年前の白黒画像で、末期肺がんの老人であった。
   死に直面した老人の心奥の恐れや悩みを引き出していた。

   また白血病の10歳位の子供のインタビューもあった。
   その子供の内面を、ロスが引き出していく様子が涙を誘う。
   「死ぬことは違う世界に移り変わるだけ、そこには多くの人が僕を待っていてくれる」
    「この病気になって気がついたことは、生きるということは辛いことだ。」

     私がロスの著書で一番好きなくだりがある。
     ロスの最高の師が「黒人清掃作業員」だったということだ。
    ー重体の患者を元気づける不思議な能力のある黒人作業員の秘密が知りたくて、
    博士は彼女をスパイのように追いかけ回す。彼女に接した患者が誰もが癒される。
    作業員は博士に、彼女は息子を肺炎で亡くした経験から死を怖れず、
   「心配しないで。死は怖いものではない」
   と死に行く患者に語っていただけだと言う。
  博士は清掃員を「人生の師」と呼び、自分の第一助手として採用する。
 ーこれが彼女のあらゆる本の中で一番彼女をそのまま表しているところだ。

 ーこのドキュメントと、彼女の概略を書いてみると
  以下のとおりだ。

・「ベストセラー『死ぬ瞬間』ー死の概念を変えた精神科医
  愛とたたかいの記録」の著者。
  ・スイス生まれの精神科医
   死の臨床、終末期医療の先駆者で、死の受容に至る5段階説を主張
    ・『人生は廻る輪のように』は最晩年に書かれた博士の自伝だ。

     博士はわずか900グラムの三つ子の一人として生まれ、
      子供時代から
      「自分らしさがはっきりしない三つ子の一人として生まれたのはなぜか?」
      と疑問に思ってきたという。
      その疑問はやがて「自分は誰か?」
      「自分らしさを発揮する生き方は何か?」という問いに変わって行き、
      若くして父親の反対を押し切って医師の道を選ぶ。
      結婚を機にアメリカに渡ってから、
      末期ガンなど終末医療での患者の心のケアの必要性に目覚め、
      患者だけでなく、医療従事者も対象に「死を迎えるため」
     のワークショップを始めたりする過程を淡々とドキュメント風に進めている。

    「人生に偶然はない」
   「起こったことは、起こるべくして起こったのだ」
   と言う博士は、降りかかる様々な困難を
  「学ぶための試練」だと受け止めた。
  自分の道を最後まで勇気を持ってエネルギッシュに生き続け、
 死の臨床に打ち込む様子は
「医者」というより、ほとんど「聖職者」だ。
「選ばれた人」と思いたくなるが、彼女はそういわれることを一番嫌う。

  去年8月に78歳で亡くなったばかりだが、
  彼女が「死の看取りに全てを奪われた為」、夫は彼女に離婚をつきつける。。
  そして、子供三人を置いて離婚。
  1995年に発作におそわれた後、麻痺が残り、
  十年近い不自由な療養生活を送って後亡くなった。

・・・・・・
2004年01月05日(月)
1006, 「この俗物が!」-2

一回で終わるつもりであった、
 あまりにも内容が面白いので続編を書くことにした。

  福田ガ存(このガの漢字がない)の
   「俗物論」というエッセイがベースにある。
    早くいえばタネ本である。

     この本でまずとりあげているのが「地域俗物」である。
     これには田舎を軽蔑する都会者と、名門旧家を誇ったりする田舎者がいる。
      この田舎者の中に、知事・役人などの「実力俗物」と、官公立大学の先生
      などの「文化俗物」がいる。それに「ボス型俗物」や「取巻き俗物」、
      床の間に座りたがる「床の間俗物」や、常に下座に座りながら、
      上座の人の顔色をうかがっている「下座俗物」がいる。
      等々、辛辣に書いてある。

      更に、「自尊と謙譲」が俗物のキーワードとしている。
      注目(尊敬)をされたいが、その気持ちを知られたくない。
      けれども、知ってほめてもらいたい。という複雑な気持ちの具合によって、
      狡猾な俗物か露骨な俗物にわかれる。
     「首尾一貫俗物」「陽型俗物」に「陰型俗物」、性交人数や性能力を
    自慢したがる「性的俗物」「肉体的俗物」「精神的俗物」「知的俗物」
   などなどある。
   読んでいて、一つ一つが思いあたるから面白い。

  最近は「情報俗物」が出てきている。
 「交際俗物」もナカナカ面白い。
  こういう人を知っているとか、付き合っていることを自慢する輩である。
   その辺にいる「子狐」である。
    「交際を絶っても何ともないと自己の強大さを誇示する「孤高俗物」がいる。
    私はこの傾向が強い。反対に「誰も自分を理解してくれないことを
    かこつ女性型形態」としての「孤独俗物」がいる。
    福田は更に「一流俗物」に「個性俗物」「趣味俗物」などを挙げている。
     福田自身も俗物を分類分析定義する自分をも「反俗物的俗物」としている。
     この傾向も私にはある。

     ここまでずべての人間を俗物と指摘されるとウンザリする反面、
     ここまで割り切って斜めの視点で観ることも意味があると思うようになる。

     福田のいう俗物根性とは、
    「世間にたいする自己の関係に不安を感じ、その不安を解消するため、
    劣弱な自己を拡大修飾して現実の自己以上に見せかけようとする心理」
    と定義している。
   彼によれば「人間は、誰もかれもが、自己拡大欲に駆られている」という。
  その根っこに「自尊」感情がある。
 中心価値がなくなり、さまざまな価値が自らの価値を主張始めた。
 人もそれを認めた。伝統的な権威も揺らいだ。
 ようするにしゃかいの中から絶対性がなくなり、全てが相対化したのだ。
 俗物は、いいかえれば偽者のことだ。二人はお互いに自分が本物で相手が
  偽者と怒鳴りあっている。

   ーこの本は、このような文章がウンザリするほど延々と続くのだ。
    何か自分が惨めになってくると同時に、癒されてもくるから不思議だ。
     といって俗物中の俗物のような男は大嫌いだ。

・・・・・・・・・・
2003年01月05日(日)
632, 自由化\(~o~)/

日本が大きな曲がり角にきている最大の原因は自由化のウエーブである。
 特に厳しい業界は規制により守られてきたところだ。
  酒屋、米屋、ガソリンスタンド、スーパー、ホームセンター、
  金融ー銀行・保険、農家など殆ど全てといってよい。

   自民党と結託した利権団体を隠れ蓑にした社会主義共産党員社会である。
   その意味で今のこの混乱はソビエトが崩壊した
    十数年前のロシア共産社会の混乱に酷似をしている。

    今の自民党はロシアの共産党以下のレベルを演じている。
    それを支持しているこの国の民度の低さがますます露呈されている。
    その意味でこの3年間は更に激しい破壊の年になる。

   システムや能力は激しい競争社会の中でしか進化をしない。
  それを否定し理想社会を夢見たのが共産主義社会主義である。
 チャンス平等でなく、結果平等を求めた。
 資本主義社会の矛盾の破壊の役割として有効に機能を一時果たした。
 現在は、その役割を果たした日本的社会主義の終了過程にある。

 自由化とは何か??いや自由とは何??
 それぞれが自己責任を背負う事??
  それを国家単位で放棄してきたツケがこの数年で一挙に清算過程に入った。

   ところでこのホテル業界は規制が全くない。
   結果的にこれが非常に良かった。競争対策を常に求められた。
   一見大変そうだが、競争対策がシステムに組みざるを得なかった。
   従って現在大混乱にある甘さがよく見える。規制ー寄生の甘さである。

   例をあげてみると
   スーパーが大店法に守られ競争対策が全くなされてない。
   「存在意義が大店法の存在だけ」という事が露呈してきた。
  地方豪族化の漫画的存在が周辺でも見られた。
 あと5~7年後にアメリカのウォールマートに制圧されるかどうかの
 瀬戸際にたたされている。その前に自滅もあろうが。
 ホームセンターやスーパーの1ロットが最低5000億の世界という。
  地方では500億で大企業だ。
  その行方が??

・・・・・・・・・
2002年01月05日(土)
291、一人遊び

孤独に強い人は、これができるかどうかである。
 一人で楽しみを見つけ・・・、書いていて気がついた、
  それって「お宅」でないか。似ているがやはり違う。

   それは一人遊びのできない人が表面を見て、いっているのではないか?
   結局中途半端のそれをいうのではないか?
   字のとおり、部屋に引きこもって自分の殻にこもった状態をいう。
   山登りや釣りはやらないが、これなど一人遊びの典型である。
   別にそれをお宅といわない。
   読書好きの人もお宅といわない。

   自分の強みは孤独に強いことだ。人に何かを求めないこと、求めても
  そこに何もないことを、経験上知っているためだ。
 結局人間最後は一人だ。そこでボールを一人でバウンドさせていくしかない。
そうしていれば、人が面白そうと自然に寄ってくるものだ。

「禅」とは、その修行によって、字のとおり単(一人)ということを示すことだ「示単」。
 これはある有名な禅僧から直接聞いたことだ。
 そこで自分の好きのことを見つけ、それを楽しむことから始めなくてはならない。
  その積み重ねが個性を作る。
   ノイローゼになる人をみていると、これができない人だ。
   常に人に何かを求めているか、頼っているからだ。

・・・・・・・・
1月5日  1969年

8時半に起床。
 店に11時前にいく。
  長岡の街には人があまり出ていない。
  14時に兄三郎さんの婚約者の「木村恵美子」さんと初対面。
    可愛い人というのが感想だ。
    17時に店を手伝い、家に帰る。
    正子さんに頼まれたものを間違えてしまった。
    いい加減な自分に嫌になる。

   ー今日の本にダイエー中内功の言葉が印象に残った。
  「われ進むところ常に道なし,荒野の中独り道をつくる」