つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=r2Hlaf6cEQU

 今日は、午後からエアコンの工事が入るので、私はシネマへ。

ふと思い立って、40年前に、初めて建てた千葉の千城台の現地をグーグルアースで
訪ねてみた。ビルは、そのままだが、養老の滝は、空き室。テイクオフの焼きたてのパン屋は、
京葉銀行の小さな分店。スナックと、喫茶店が入っていた。全てが入れ替わっていた。
前の大きな空き地には高校が出来て、はす向かいの大きな空地には、
中型のショッピングモールが出来ていた。 100m先の千葉からのモノレールの最終駅に
なっていて、これが大きく街の発展の要素になっているようだ。
 
 隣の日用雑貨の「いわき」は、40年前のまま。逆の隣の四つ角のミニスーパー
貸ビルに変わっていて、千葉興業銀行が入店していた。
それにしても、グーグルアース、自転車で、その辺りを散策している気分になる!



・・・・・・
2319, 5次元世界が存在する?
2007年08月09日(木)   ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
        
何かSF的な話か、新興宗教の本に出てくる異次元の話が、
たまたま見ていたNHK・TVで放送していた。
「エッ、何?」と注目してみた。
あと数年もしないうちに「『5次元の世界』が発見される可能性がある」という。
来日中の理論物理学者のリサ・ランドールがNHKのアナウンサーと、
朝から異次元を語っていれば、私でなくても誰でも驚くであろう。

彼女は、いま全米が注目する物理学会のニューヒロインで、5次元世界の提唱者。
加速器を使った粒子の衝突の実験で、消えてなくなる素粒子が存在することから、
その理由を探しているうちに5番目の次元に移動するのでは?と、思い至ったという。
5次元の世界は私達が触ったり、感じたりはできないが、物理的には必ず存在するという。

3次元空間の中にスライスされた2次元の平面(膜)が無数にあって、
その膜のひとつに私達や銀河が張り付いているようなイメージという。
これは「超弦理論」の「M理論」に非常に似ている。 M理論とは、
「プレーンとプレーンの間は唯一重力が伝播されていて、あるときプレーンとプレーンが
何かの要因で接触すると莫大なエネルギーが解放されてビッグバンが起こり、
新たな宇宙(プレーン)が発生するメカニズムを理論化したもの」
M理論は11次元の超重力理論であり、ランドール博士の5次元宇宙と何処が違うか
私の知識内では理解できない・・

ランドールは子供向けに数式を使わずに「ワープトパッセージ」という本を書いていて、
全米の科学分野でベストセラーになっているという。

20年位前に、NHKがシリーズで壮大な「宇宙」についての番組を放送していた。
その中で、「ブラック・ホールが周囲の星など何もかも吸い込んでしまうが、
その宇宙の歪みからできた穴の行き先は、この宇宙とは違う宇宙に通じている。」
という説を紹介していたが、それにも通じるのかも知れない。
その時、その別宇宙への目に見えない管が我々周辺にも満ちている、と。

それにしても、数年以内に5次元世界の存在が証明される?
現実的には信じがたいことである。
発見されれば、科学にとって、いや人類にとって衝撃的ニュースになる!
別宇宙の空間が我々の周辺に満ちている?そんなバカな!
                          (≧∇≦)ノ~~~マタネー
・・・・・・・・・
2006年08月09日(水)
1954, ある首斬り役人の日記 -1   
                     -読書日記
 ある首切り役人の日記
       フランツ・シュミット/ 訳・藤代幸一  白水社
  -そろそろ、お盆!少し背筋が凍りつく内容もよいだろう!ー

 何気なく図書館で借りてきた本。
少し気味悪いが、人間の極限における生々しい姿が書かれている・・・
初めは事務的に時系列の処刑の記述が、時間が経つにつれて具体的にリアルに
なっていくのがわかる。しかし汚職とか、政治闘争の結果の死刑は見当たらない。
 16世紀に実在した、死刑執行人の日記で、自分の仕事内容を記録したもの。
16世紀末から17世紀初頭にかけて、ドイツで刑の執行を行った親の代からの
首切り役人フランツ親方の日記で、剣と綱で生涯に361人の処刑をした。
他にも鞭打ち・指切りなど死刑以外に、彼の手にかかった処刑者は345名である。
 彼は日記を書くにあたり、極力個人的感情を入れないようにしている。
だから真に迫ってくる。1~298まで、それぞれの犯罪と死刑の方法を書いている。
そして年末に、その年に処刑した合計数が書いてある。日記と言うよりは記録の書。
・犯罪の種類として、追い剥ぎ、泥棒、殺人、嬰児殺人、同性愛、
 近親相姦、詐欺、教会からの窃盗(罪が重い)・・・ 。
・刑は、
 打ち首、絞首刑、車刑、火刑から、追放刑、むち打ち、腕の切断、
 指の切断、耳の切断等々、現代からみれば残酷のものが多い。
 当時はこれは当たり前の処刑であった。
 権力者の見せしめの意味が大きかったのだろう。  
 死刑の中で、首切りは苦しまないで瞬時に絶命するので一番望ましいものだった。
 お慈悲により首切りの刑に処したと、ところどころにある。
 犯罪も、どこの町や村に住む人が、いったん暗転をしたとき、
 こうなるに違いないドラマを、そこにみることが出来る。
この原書は、首切り役人・フランツ親方の日記である。
散逸してしまったものを掘り出して公にしたのが、
同じニュルンベルクに生まれた法学者のフリードリヒ・フォン・エンターである。
かれは1764年生まれ、1789年に法学博士となり、弁護士を開業している。
この書により、当時の社会の庶民の姿が垣間見れる。
グリム兄弟などの当時の作家が、この本を見て幾つかの作品のヒントにしている。
話は変わるが、吉田松陰の処刑の逸話がある。それまで悟り済ましていた松陰が、
いざ首切りの時に、恐怖で転げまわったりして抵抗したあげく押さえつけられ、
やっとのこと首を落とされたという。人間的でよいが・・・
 ーー        
‘何故、わざわざ気味の悪い本を読むのか?’ですかって。400年前の、ドイツの生々しい
人間の叫びと、庶民の哀しみの姿が垣間見ることが出来るからだ。
またフランツ親分の首切り人生を通して、一人の男の背後に控える膨大な闇が見えてくる。   
次回は、その日記の幾つかを抜粋してみる。      
                     ーつづく      
・・・・・・・・・
2005年08月09日(火)
1589,自民郵政解散の攻防-3

ついに郵政解散が決まった。戦後60年の最後の総決算の選挙になる。
亀井派と元橋本派の一部が、自民党から出て新党を創りざるを得なくなった。
まあ、良いことである。今度の選挙は、自民党が前の数字に近い当選で勝利するだろう。
その勝利の勢いで郵政の法案を通すのが望ましいが、予測不能である。
歴史に残る選挙になる。民主党も、現状維持が精一杯だろう。
新党を結成した旧守派の多くは世論の攻撃で消滅していくだろう。
その意味で、今回の結果はむしろ小泉にプラスになる。もともと、消滅しているはずの自民党が、
小泉の「改革というお題目」で存在していただけである。その本丸の郵政改革を潰してしまえば、
自民は消滅するのが当然である。但し、反対派を民主党と旧守派を敵対にすれば存続しえるはずだ。

それに、道路公団などの談合などが大きな追い風になる。
情報化は、根本から世の中を変えてしまったのだ。
予想以上の自民党大勝か、民主党への政権移行か?
民主党は、郵便局の労働組合に縛られて正論がはけないのが致命傷だ。
あの党首、首相の器?

・・・・・・・・
2004年08月09日(月)
1224, 広松渉ー哲学について -26

広松渉の「新哲学入門」を私が理解したレベルで書いてみるが、内容はかなり難しい。
しかし、これを理解しないかぎり現代の哲学を語ることができない。
簡単に加工可能なデジタル社会の現在、存在・認識・実践そのものを
根底から考えなければならない時代になっている。荘子の[胡蝶の夢]で蝶になった
夢から醒めた男が「醒めた自分こそ蝶が夢をみているのではないか」。
「蝶が人間になった夢が現実」とすると、見えている事実は脳内の作用でしかない?
TVドラマの世界に入り込んでしまい、現実をむしろ虚構と思い込んでしまう可能も
ある時代である。
この書は、認識、存在、実践の近代的世界観を根底から批判しているが、
最後の章の
「実践するとはどういうことか」から、感想と印象的な文章を書きだしてみる。
  --------
 第三章 実践するとはどういうことか
   第一節 行為の存立構造
 行為の存立構造の、糸口として、演劇(芝居)を喩えのモデルとしてすると
構図が見えやすくなる。社会学では、役割行為論がスポーツ・モデルが展開
するケースが多く見られるが、演劇モデルを取り上げる。
                           *ー私の感想である
 ー人生劇場の舞台
人生劇には、舞台的場所や道具的与件があり、総じて幕場的状況がまずある。
--神といった超越的「劇作家」の存在を考える立場もありますが、
これは暫く括弧に収め、[即興劇]ということにしましょう。
人生劇では[舞台]が大変に広く、観客席や楽屋までが舞台であり、
観衆や裏方も俳優に導入される。
舞台的場面は、自然的環境と社会・文化的環境とに二分して考えるのがふつうである。
*人生を徹底的に、舞台劇場として自分を醒めた目で書き出してみると、
全く違った見方ができるだろう。長期的将来の計画をたてるのは「劇作家」の
存在の視点であろうし、現在は過去の自分という劇作家の結果ともいえる。
何も考えず惰性に流されて生きている人もいるが。
ー行為の共演性と役割存在
行為という時、一個人だけで自己完結的であるように扱われるのが常套です。
いわゆる集団の行為といえども、個々人的行動の代数和のように扱われがちです。
確かに単独行為があるが、舞台的・道具的条件なるものからして、他人たちの
介在によって初めて成り立ちます。・・・・・・・・・
今、例えば、農夫が孤独に畑を耕しているとします。
畑は彼自身が拓いたものではなく、農具も彼自身が作ったものでなく、
農耕動作も彼自身が案出したものでありません。いずれ他人が作ったものです。
行為は、本質的には、協演的存立構造にあるものと看じます。
行為の協演性とは、行為が役割分担ということです。
・・たとえば、[ハムレット]という劇は、先王役、新王役、ハムレット役、といった
まさに「役・割」によって成り立っています。・・・
人々は幕場的情況に相応しい仕方で、余程の場合以外は、期待された行動以外は
ナチュラル」に遂行する態勢を形成しており、共演者どうしはおたがいに相手を
「当方の期待する所作を当然体現する筈のもの」と覚識する。
*劇である限り、何らかの形で行為の協演性がある。行為が役割分担になっている。
それはそれぞれのお互いに期待された役を演じるということだ。
しかし、その中でも、それぞれの個性ー主体がある。
ー役割行動と「内自的主体」
・あれこれの[役柄]衣裳を脱・着する本体的主体とは、いかなる存在でしょうか。
さしあたり、[役割]を身にひきうけて所定の様式行動を演じる[俳優]本人です。
しかし、、芝居の俳優には舞台外の生活があるが、人生劇場の「俳優」
には[舞台外生活]はない。全てが[舞台生活]ですから話が厄介になる。
裸の当の固体は、単なる肉体的・物質的固体ではなく、‘魂’を内在せしめている
いる個体と認めるべきかもしれません。が、しかし、‘魂'とやらを認めても、
直接的な外部観察では当人の‘魂’の個性的な特徴は見えません。
他の諸固体と区別をする特質を‘魂’とやらに求めるわけにはいきません。
役割的行動とは、図式化していえば、おのおの内自的特質を具えた人格的主体が、
幕場的情況の場において、終局情景的目標を設定して手段的行動様態をつくりつつ
[決意的起動]を遂行するが、当の目標行為は、ただ単なる対自的な
[目的合理的行動]ではなく、[共演者たち]によって期待されている行動
[対他的「役割行動」]でもあるのが現実です。
そもそも[内自的に個性的な人格]とは何であるか、その人格性とは何であるか。
*要するに、期待に対する役割行動の中には演じる俳優が存在しているが、
人生の場合はそれが同一の自分である。それ故に、多くの問題が提示される。
俳優個人を‘魂’とやら、いうのか?
といって、その俳優を‘魂’とみれば、その個性ー固体を区別ができなくなる。
  ー以上が、行為の存立構造の概略である。
人生を、人生舞台に例えて、そこで演じる自分の役割と舞台における幕場(シーン)で
人間の実践における行為を解りやすく、説明をしている。
女の人生をみても、幼女、少女、若い女、妻、中年、老女と、その時々変わっていく。
そして役割(学生、ギャル、妻、母、祖母)も、その都度、変化をしていく。
そして、同時に共演者も変化をしていく。 それが人生である。
この[新哲学入門]を読んでいると、覚せい剤を飲んだような?
意識が覚醒してくるような気分になる。
 次は、[実践と価値評価]についてである。

・・・・・・・
2003年08月09日(土)
857, 閑吟集-チロリチロリチンチロリ
 よのなかはちろりに過ぐる ちろりちろり (49)
 何ともなやのう 何ともなやのう うき世は風波の一葉よ (50)
 何ともなやのう 何ともなやのう 人生七十古来稀なり(51)
 ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あじきなき世や(52)
 夢幻や 南無三宝 (53)
 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して (54)
 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ (55)
 ー 大意ー
世の中は、ちらっと、瞬く間に過ぎる ちろり、ちろりと。
浮き世は「風波の一葉」でいいじゃないか。古希まで生きられる人間が「古来まれ」
でもかまわない。「水の泡」「露の間」のようなはかない「夢幻」の世。
「夢の夢の夢の」ような世間だからこそ、すべてを肯定して「狂へ」ばいい。

ー数年前にこの「閑吟集」の一節を読んで、この歌の中に流れている諦念と
反面、強烈なエネルギーにショックを受けた。
その翌年の年賀葉書に書いて出したりもした。
またコピーをして、知人に配ったり、手帳にはさんで、この一節を暗記をした。、
そして数ヶ月間近くいつも口ずさんでいた。
たまたまモロッコ旅行の飛行機やバス移動の中で一人口ずさんでいた。
その時の自分の気持ちをそのまま歌にまとめてあるようだった。
 一種の無常観を歌っているし、「ちろりちろり」には茶化したユーモラスな
感じが漂っているのがよい。「ちろりちろり」と人生はあっという間に過ぎて
いくものよと、諦念混じりに笑っているのが心の琴線に触れてくる。
 反面、強烈な現世肯定の歌にもとれた。
「狂う」とは常軌をいっした行動ととれるし、、ある物事に集中する意味にもとれる。
びくびくと、したり顔をしてつまらない一生を送るより、ただひたすらに「狂う」
ように集中して生きろと。この世の儚さをそのままに受け止め、一期の夢と見切る
覚悟があればこそ、人は「狂う」ことが出来るのだ。
読み人知らずの作者が5百年近くの時間を越えて語りかけているようだ。
「世間」を「男女の仲」の意味もあり、そう解釈するとまた意味が違って来る。
「ちろり」は、昔、酒を暖めるのに使った、「銚釐(ちろり)」という道具を
連想すると、男女の交わりを暗示していることになる。

=あるホームページの感想文をコーピーした=
ー宇羅道彦の「春風録」
断言命題/現代状況構造分析*「閑吟集」より

 なにしょうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え  「閑吟集」より             
詩を書いていた若い頃、万葉集から芭蕉までの歌を新潮社の
日本古典文学大系を買い込んで一気に読んだことがあった。          
以来、閑吟集の上記の歌が心に残り、時として口ずさむ。      
最近の世情を見るにつけても、古人のこの歌の心が思われる。    

これを刹那主義と見ては誤るだろう。               
文学者にも、時代背景からして明日をも知れぬ大衆の退廃的刹那主義とする見方もあるが、
くすんだ学者らしい愚かで浅はかな見解である。 
退廃的刹那主義を生きるものに「一期は夢よ」という自覚があろうはずがない。                            
厳しい社会状況において人が見ることを強いられるのは、
平時には日常性の中に隠されている人の生の本質である。            
ここに歌われているのは、苛酷な人生に正面から立ち向かう大衆の心情である。                           
ニーチェはその永劫回帰の思想を「これが人生か、さればもう一度!」
と語ることであらゆる苦悩を含めた人の生の全体を肯定してみせた。 
この歌もまたニヒリズムの地平を突き抜けたところで歌われている。 
「ただ狂え」という言葉はそこにおいて初めて発せられるものだ。  

過ぎた日々や失ったものに執着しこだわるとき人はくすむ。     
ぬかるみを生きる湿った感性である。だ狂うためには振り返らず、
今だけを見つめて生きるあくまで乾いた感性が求められよう。      
ニーチェはこの精神をツァラツストラのなかで<軽みの霊>といった。

・・・・・・・・・
2002年08月09日(金)
482, 毎日が刺激的

下の息子に一昨日、電話をしたら自分の会社が買収されてIBMになるという。
Pwc-プライスウオーターハウスという、世界最大のコンサルタント会社で、
ナンバー2を2倍以上引き離している優良会社。
まさかと思って知人に聞いたら、日経新聞に8月1日に出ていたそうだ。

アメリカ最大の倒産のエンロンに関連して、あのアンダーセンが消滅寸前。
会計部門とコンサルテング部門の二つの部門を持ってることが、
今回のエンロンの事件を引き起こした。
その轍を踏まないように、コンサルテング部門をIBMに売却するという。

全世界に12万人の従業員を抱え、IBMより上と見ていたのに。
二分割して吸収される。入社2年目で本人には全く影響はないだろうが。
外資系は劇的なことを平気でする。初めからIBMに入社したと思えばよい。
しかしあくまで吸収先という事実は変えることはできない。

しかしまたゼロから再教育は最低必要条件である。
本人は長い目でみたら、よい勉強になる。
外資を短期間で二つも経験できるのだから、最大の教育だ。
考え方一つだ!直接本社か、子会社か、関連会社か。
今回IBMのホームページを見て、初めて知ったが
100?出資が子会社で、関連会社は出資比率で書いてあった。

・・・・・・・・・
2001年08月09日(木)
[103] センチュリーベーカリー
-昭和50年3月~8月31日ー
ほとんど他人に話した事がないが、焼きたてのベーカリを立ち上げた事がある。
千葉千城台のビルと養老の滝1122号店を立上げ一年、空きビルを埋めるべく
何がいいかみた時、当時団地では全くなっかった‘焼きたてのベーカリー’
に目をつけた。冷凍生地を主体とした焼き立てパン屋である。
商社の東レの子会社の蝶理という会社が、このフランチャイズをやると
いう新聞記事をみて早速やることにした。

東十条にある関連のパン屋に朝4時に起きて、二カ月オープン!
何時ものように、パニックそしてーーー。
素人は初めは良いがある時期がくると、応用が利かない弱点が出てくる。

その時期、長岡の実家で問題が生じ帰ることになった。
三者の経営委託に切り換え急遽長岡へ。
恐らくあのままやっていたら3~4年で行き詰まったのではないかと思われる。
しかし若さか今考えてみると良くやったと思う。
苦し紛れで‘開発型委託経営ビル’を造った事になった。

考えてみれば、ジャスコ、いとはん(北陸ジャスコ)、
ビル開発(飲食フランチャイズ+ベーカリー立上げ)、
実家の衣料デスカウント・ハウスと12年近く、
全く未経験の体験の自己配転していたことになる 。