ノルウェー  人生をテーマにした公園

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世の中には面白い公園があるもの。http://ameblo.jp/yutashiro/entry-10386475290.html
ノルウェーオスロの人生をテーマにしたヴィーゲラン公園が面白い!
芸術家ヴィーゲランが、人生をテーマにした像を庭の設計段階から配置などを考えて造ってある。
中央には円形に年齢ごとに縦に像が配置されている。 その前で、自分自身を投影して
考えることが出来る。 愛憎とかが、生々しい表情で見るものを惹きつける。
http://www.youtube.com/watch?v=A7nGUmq_cCM
http://www.youtube.com/watch?v=ZapgDDhZVMA

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2001/12/21
[82] 人生がモチーフの公園
  * ノルウエーのオスロの‘フログネル公園
なんとその公園のモチーフが人生! どういうわけか急にお腹が痛くなってきた。
広大な公園の中央に建つ塔に、時計の刻印のように12のそれぞれの複数の像。
赤ちゃん、幼児、少年期、青年期、・・老人期そして死と像がその時期を象徴して
表現してある。その中央に死体の山。人生をリアルにそのままずばり表現してある。
周辺にそれぞれの人生の哀歓の像が立ち並ぶ!
何故誰もが考えつかなかったのか、今まで見た公園で一番印象的と言ってよい。
さすが北欧と感心させられた。このような思いもよらない現物に、突然出会うのが旅行の醍醐味である。
――
2001/07/21
[80] 北欧ロシア旅行記
印象順に書いてみよ  
1・  レニングラードが良かった。
  ・特にやはりエルミタージュがよい。冬の宮殿と言われる建築物が予想以上だ。
   300万点もあると言う美術品がよい。
  ・ エルミタージュの小劇場でみたバレーが今回の旅行の
   ハイライトの一つだっだ。 
  ・ 川からみたレニングラードの街並みの光景が  
   今まで見た街の美しさでナンバーワンといってよい。街そのものが芸術と言える。
  ・夏の宮殿と呼ばれるカタリ‐ナ宮殿もすばらしい内容であった。
2・次はフィヨルド
   2時間の川下りふうな船よりの景色がすばらしい!
   最も長いそれは200キロ、深いところは1000メートルもあると言う。
3・登山列車からの景色もいい。最も印象的なのはトンネルの合間の空間に列車を止め、
  下車して見た見た滝がすばらしい。突如‘ジョニ‐は戦場に行った’に似た音楽が
  鳴り響き、滝の途中に突き出た岩の上に赤いドレスを着た女性が踊りだした。
  ‘水の精の踊り’をモチーフにしたのだろうが、幻想的で感動的であった。
4・ノルウエーのベルゲンの世界遺産ブリッゲン地区の街並みと魚仲買人の家も
  当時の生活が垣間見えた。
  北欧の国民性として家の部屋の中を飾り揃えて、お互い見せ合うのが楽しみだそうだ。
  家具が何処を見てもセンスがいい。バイキングは末っ子相続の変わった風習の国だ。
  海は日本は堀で外敵より守るものだが、バイキングは夢の実現のの所だそうだ。

5・ノルウエーのオスロのフログネル公園が印象的であった。
  モチーフが人生! 
  赤ちゃんから成人~老人そして死が像で立ち並ぶ公園である。
  なにかヒンヤリした、しかし超越した視点が空間に漂っていた。
 
今回の旅行は5ヶ国をまわるダイジェスト的な内容であった。
飛行機、遊覧船、登山列車、高速列車、一泊の豪華船、バスと毎日が移動の旅行であった。
何でもあり、変化の激しいしかも楽しい旅行であった。



・・・・・・
1471, 『冥途のお客』を読む
2005年04月13日(水)

佐藤愛子著の「霊の話」光文社ーが面白い。
月刊誌の「新潮45」で、数年前に霊体験を連載していた。
読んでいて、背筋が寒くなるほどリアルで中味の濃いものであった。
文春文庫から[あの世の話]という題名で出版されている。
私は27歳時の父親の死の直後、霊体質になった。
最近は、あまり妙なことは起きなくなったが、以前は信じられないような
色いろな現象に出くわした。そのことは随想日記にも何度か書いてきた。
佐藤愛子は30数年前、50歳で霊体質になったというから、
私の方が若くしてなった。ほぼ同時期になる。
霊体質になる以前は、こういう話は興味本位で聞いていただけで、
内心は全く信じてなかった。しかし、自分がなってみると違うのだ。
違う感覚器官が、身についたという感覚である。そのことを、佐藤愛子も書いている。
耳の聞こえない人に、音楽の話や、風の音の話をしても何も解るはずがない。
それと同じことである。
私の場合は、身近な人の葬式前後に何かが起こる場合が多い。
どこどこで、全く知らない霊と出会うことは少ない。
最近は本当に少なくなっている。
おそらく仏壇で毎日、亡くなった因縁のあった人の名前を挙げて、
[あの世で静かにお眠りください]と祈っているためだろう。
2年位前の、自社ホテルの因縁部屋(初の自殺者出た部屋)に泊まった時の話である。
夜半トイレに入ったところ、換気扇が人の鳴き声になっていた。
「今更、そこで亡くなった人が泣いているわけもあるまい」と、気を取り直して、
何回もスイッチを入れたところ人の鳴き声に聞こえる。
それも何回も聞きなおしてもである。この部屋で亡くなった、あの女性が出てくる
はずがないと思いながら、まんじりとしない一晩を過ごした。
翌日事務所に行って暫くすると、私の泊まった前の部屋で
「病死のようだが、人が死んでいた」という報告が入った。
あの泣き声は、故人が私に悲しみを伝えたかったのではと?

理屈から考えれば有り得ない話だが、実際信じられない現象が起こるのだ。
霊感の強い人は、普通の人が見えないものが見えるのだから大変である。
佐藤愛子の場合、私よりズット霊体質は強い。
自分に霊体質が無ければ、こんな内容の本には見向きもしない。
理屈に全く合わないのだから。

ー以下は検索で調べた、この本の大筋と感想を書いた内容である。
けっこう上手くまとめてある。
 ーーー

著者自らの霊体験を告白
 「夢か現(うつつ)か、現か夢か」とサブタイトルにあるように、
「冥途(めいど)の客」、すなち霊界や幽霊を扱ったエッセー集である。
といっても、これは最近のホラーブームや冗談で書いたものではなく、
霊などに取り憑(つ)かれる霊媒体質になってから三十年の体験を踏まえて、
作家としてのすべてを賭けて告白したものである。
 
「後書き」にも
「以上の話を真実と考えるか、妄想駄ボラと思うかは読者の自由です。
私はただ実直に、何の誇張も交えず私の経験、見聞を伝えました。(略)
死はすべての終わりではない。無ではない。肉体は滅びても魂は永遠に存在する。
そのことを『死ねば何もかも無に帰す』と思っている人たちにわかってもらいたい
という気持ちだけです」と書いている。

 霊媒体質の強い知人友人、作家・中山あい子色川武大の話などがあるほか、
好奇心旺盛な著者が幽霊が出て話題になった岐阜県富加(とみか)町の町営住宅へ
訪ねて行く話が載っている。

 そこでは、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之が同行し、
そのさまざまな現象を霊視すると、戦国時代の古戦場であり、その戦場で
浮かばれない霊の武士や兵が合戦を繰り返しているために起こる現象であると
している。

 しかし、江原でも、この戦場の霊たちの怨念(おんねん)が強いために、
完全に除霊できないという。
著者は、こうした事実を淡々と描いている。

 表題の冥途のお客で興味深いのは、作家の遠藤周作の話。
遠藤周作は生前、著者に死後の世界があるかと尋ね、あるならば互いに先に
死んだ方が幽霊になって「あった」ということを知らせようということになった。

 すると、ある日、霊能者の江原と電話で話していたとき、江原が遠藤周作
著者の家に訪ねて来ていると述べた。
江原が実況放送のように遠藤や開高健有吉佐和子などの言葉を伝えるわけだが、
遠藤はあの世で世直しをする仕事があるなどと述べているし、なかなか面白い
内容になっている。
 しかし、著者は霊能者の霊視を次のように述べている。
 「霊能者の霊視の範囲は人によってそれぞれに違う。
霊能者の眼にはあの世の様相すべてが見えるのではなく、時には断片であり、
人によって見える角度が違う。(略)
従って、A霊能者とB霊能者のいうことが違うからといって、
どちらを信じどちらを信じないと決めることは出来ないのである。
(略)綜合的に判断することが出来るのは、そして霊能者の優劣、
あるいは真贋(しんがん)を見抜くのは結局は自分なのである。
高い人格を感じる人物を私は信じる。それには自分も無心にならなければならない」
 霊界があるかどうか、幽霊が存在するかどうか、改めて考えたくなるほど、
リアリティーを感じさせるエッセー集である。

ーあとがきより
以上の話を真実と考えるか、妄想駄ボラと思うかは読者の自由です。
私はただ実直に、何の誇張も交えず私の経験、見聞を伝えました。
これらの体験を書いて人を怖がらせたり興味を惹きたいと考えたのではありません。
死はすべての終わりではない。無ではない。
肉体は滅びても魂は永遠に存在する。
そのことを「死ねば何もかも無に帰す」と思っている人たちにわかってもらいたい
という気持ちだけです。三十年にわたって私が苦しみつつ学んだことを申し述べたい。
ひとえにそれが人の不信や嘲笑を買うことになろうとも。
私にはそんな義務さえあるような気さえしているのです。
この世でわれわれは金銭の苦労や病苦、愛恋、別離、死の恐怖など、
生きつづけるための欲望や執着に苦しみます。
しかし、それに耐えてうち克つことがこの世に生まれてきた意味であること、
その修行が死後の安楽に繋がることを胸に刻めば、「こわいもの」はなくなっていく。
それがやっと八十歳になってわかったのです。
この記述によって好奇心を刺激された人、この私をバカにする人、
いろいろいるでしょう。でもたった一人でも、ここから何かのヒントを得る人が
いて下されば本望です。その一人の人を目ざして私はこの本を上梓します

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2004年04月13日(火)
1106, 大逆転-ヘビー級の醍醐味

昨夜、ヘビー級の世界タイトルマッチを見ていて驚いた。
圧倒的有利のウラジミール・クリチコフが、サウンドバックのように相手選手を
攻め立てていた。そして4回に相手選手がダウンをきっし、 ノックアウト寸前。
5回はいつダウンをするか一方的の試合になってしまった。
そしてラストの40秒前に、相手のパンチが当たって、最後0秒で
劇的大逆転でクリチコフが負けてしまった。
数年に一度見れるかどうかの面白い内容であった。
映画の「ロッキー」を見ているようであった。
ヘビー級はこれがあるから面白い!
当り前のことだが、見ていないと、その面白さがわかるわけがないが。
9回2アウトからの大逆転のようなものである。
最盛期のタイソンが日本でまさかの敗退や、レノックス・ルイスが数年前に
負けるわけのない選手に一発で負けた試合を思い出す。しかし今回みたいに、
サンドバックのように一方的に攻められていた選手の、劇的な大逆転も珍しい。
子供の頃の楽しみは、「巨人・大鵬・玉子焼き」ではないが、今から見れば
ごく限られたものであった。白井やファイティング原田や海老原などの
世界戦が思い出に残っている。
それと青年期にはカシアス・クレイ(アリ)とリストン戦や、
フォアマン戦が記憶に残っている。
ボクシングも最近以前のように熱心には見なくなってしまった。
しかし昨夜の対戦は記憶に残る面白い内容であった。

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2003年04月13日(日)
739, 睡眠時無呼吸症候群

一度だけだが、寝ていて息苦しいので目が覚めてた時に,息するのを
忘れていたことに気がついた。「エッ!」というのが、その時の印象だった。
「なんで呼吸を忘れるんだ?」という疑問であった。
「こういうことが実際にあるんだ!」と思った記憶がある。
5~6年前の事だった。
ところが最近になって無呼吸症候群が問題になって、初めてなるほどと感じた。
それで死んでしまう事ってあるのだろうか?
そういえば新幹線の停車ミスの運転手も無呼吸症候群だった!
そこでインターネットで、「睡眠時無呼吸症候群」を調べた。
その結果、私のその経験と違う?ので安心をした。
睡眠時無呼吸症候群の定義
一晩(7時間)の睡眠中に10秒以上の無呼吸が30回以上おこる。
または、睡眠1時間あたりの無呼吸数や低呼吸数が5回以上おこる。
実際に止めてみると辛いことがわかります。
 睡眠時無呼吸症候群SAS:Sleep Apnea Syndrome)は、睡眠中に呼吸が止まった状態
(無呼吸)が断続的に繰り返される病気です。
その結果十分に睡眠がとれず、日中の眠気、集中力、活力に欠ける、居眠りがちになる、
居眠り運転で事故や重大事故などを起こしやすくなります。
治療をせずに放置しておくと生命に危険が及ぶ場合もあります。
よって適正な症状分析と診断、治療、予防などの対策が必要になります。
眠っている間に呼吸が数十回、ときには数百回と止まるようであれば、体内の酸素不足が
深刻になってくるでしょう。酸素不足がおこれば「寝苦しい」「息苦しい」
などの症状が現れ、睡眠不足がおこります。
また酸素不足は循環機能に負担をかけ、不整脈、高血圧、心不全、糖尿病が現れ生存率が
低くなるなど無呼吸症候群には様々な問題がでてきます。
いびきのあとに呼吸が止まるようなときには無呼吸症を疑い、 早めの治療が必要です。
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もしこういう症状であったら本当につらいだろう!
睡眠はある意味で、天国の世界である。
それが楽々眠れないとしたら、これほどの不幸はない。信じられない病気が多い。
病気になった当人しか、その苦しみは解らないものである!

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2002年04月13日(土)
375, 「テーマ日記」を書き始めて一年
あと一ヶ月でホームページに「テーマ日記」を書き始めて一年になる。
旅行を除けば一日も欠かさないで書いた。 何処までやれるか自身との闘いで始めた。
あまり苦しい事はなかったが、しかし気をとられたことは事実である。
気がついたら、370以上の文章を書いた事になる。
よく書いたものだが、内容はこんなもの。
あと1~2年つづけたら殆ど内面を、いや底を尽くのではないか。
その後で底から真水が出てくるのではないか。
今現在もう底を突いているのではとは思えないでもないが。
テーマの種が尽き始めた事は事実だ。大した事を考えてない自分が顕わになった。
本気になって第三者を意識して書き出して、プロの文筆家の能力に
今更驚かされる。それで食べているのだから当然といえば当然だが。
書くということと、内面で考える事とあまり違いはない。
内面を赤裸々に顕してしまう。
毎日書き続け公開していることは、とんでもない事かもしれない。
しかし今更そういう生き方をしてきて(^^ゞ-(;一_一)(+_+)(-_-;)
ー恥ずかしいことはない。後どうしても過去の事考えたことに偏ってしまう。
人生の7割生きたのだから仕方ない。自分史そのものだ。
自分史の先取りだが、自分史は早いほどいいという。

・・・・・・・
<おわらい>
ー貧すれば鈍する
「隣の家 借金苦で夜逃げしたんだって!」
  「貧すればド(ろ)ンする」