シネマ ーサクラサク

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サクラサク

 昨日は、痴呆症を患った家族を持った家庭の物語。
実際は、こんなものではないが、暗くないように気遣いすぎて、
経験者としては、物足りないところがあった。 
 重苦しく、絶望的な世界で、思い返したくないが、それでも
過去の自分を癒してくれると同時に、行く末の覚悟にもなる。
 老いるとは、そう生易しものではないことを再確認させてくれる。
20数年前の、自分が、その過程の主人公で、近い将来が、
痴呆症になったオジイサンに重なるから複雑な気持ちで見ていた。


・・・・・・
2014年04月12日
閑話小題 ー痴呆症を持った家族の物語

   * サクラサク ー昨日みたシネマ
 ストーリーは《 大手家電メーカーに勤める大崎俊介は、部下からの信頼も厚く、将来を嘱望される会社員だ。
重役への出世も目前で、生活は順風満帆なように思えた。しかし、気付けばその家庭は多くの問題を抱えていた。
妻・昭子との関係は冷え切り、息子の大介は大学受験に失敗してからはアルバイトを転々とし帰宅後も部屋に閉じこもる。
娘・咲子は高校生だが毎晩帰りが遅く、俊介の忠告も聞かず何を考えているかわからない。周りを見つめるきっかけは、
父・俊太郎が老人性認知症を患ったことだった。大雨の夜、俊太郎は徘徊しているところを警察に保護され、この日を境に
おかしな行動が増えていく。苦しむ俊太郎を見ても家族は見て見ぬふりで、一切助けようとはしなかった。薄情な家族に
俊介は大きく失望し、孤独な父を守ろうと奮闘する。しかし実は、息子が人知れず俊太郎を介護していたことを知り…》
 ▼ 40歳半ばから50歳までの5年半の間、母親の認知症と付き合った。映画は息子と娘、私の場合は、息子2人と、
  少し状況は違うが、家内も同じ年頃。 家庭内や、4人の実姉達との関係は崩壊寸前。他にも大きな問題を抱えていて、
 人生の大きは危機の時期であった。実の母親のシモの失敗の始末は、なかなか出来るものでないが、思わぬことが起きた。
 長男がみかねて、率先して面倒をみてくれるようになっていた。しかし次男は、素知らぬふり。ところが、その長男が
 進学で上京をしたと同時に、自分の順番とばかりに、負けないぐらいに世話をするようになった。それぞれの立場があった
 のである。それにしても一番だらしないのが自分。それでも毎日の早朝、車で20数分先にある、長岡ニュータウン
 散歩道で三十分の間、神秘的時間を過ごしていた。 この映画のストーリーはハッピーエンドだったが、実態は、
 そう甘くはない。経験者にとっては、物足りない感が残るのでは? 現在、非力な自分への後悔の念が残っている。 
 その時は無我夢中だったが、よくぞ家族で乗越えたものと改めて、家内と子供に感謝の念が湧いている。そして今度は
 自分の順番が、さほど長くない先に控えている! やはり死ぬべき時に死ぬが良い!それまで一日一日を味わい尽くす
 しかない。母親は下の失敗は最小で済んでいたが、呆けてもプライドが、そうさせていた。御陰で、この5年半の経験が
 バネになって、50歳代の10年間で20年~30年分の人生を燃焼することが出来たようだ!      映画評ー85点

2200, 反時代的毒虫 -1
2007年04月12日(木)

才八∋ウ_〆(∀`●)      
 ー読書日記      
     何げなく図書館で、この本を手にして、
    ーまえがきにかえてーの部分の中の一節に目が吸い寄せられた。

カフカに「皇帝の使者」という短編小説がある。ある男のところに
皇帝の使者が出発したというお告げがある。
ところが、その使者は何時になってもこない。使者はその男が死んだあと、
到着するのである。私は自分をその使者を待つ男と同じでいいと思うていた。
ところが47歳の時、新潮社から『シオ壷の匙』という本を上板していただくと、
突然、私は白洲正子さま、吉本隆明氏、江藤淳氏の絶賛を浴びて、世に認められた。
皇帝の使者がきたのである。驚いた。「駄目な男」であることになれきっていた
私には、青天の霹靂である。あれから12年経ったいまでもまだ「変な気分」である。
    ーー
    そして中には、江藤淳水上勉白洲正子との対談が載っていて、
    対等に対談しているのである。
    本屋で彼の名前は見たことがある程度だったが、
    借りてきて読んでみたが、なかなか面白い。
    文学の授業を受けているような気持ちにさせられる内容である。

        ー読書日記ー
『反時代的毒虫』 車谷長吉
        出版社 平凡社
ー表紙裏よりー
私小説における虚点とは何か。
命の通った言葉、通わない言葉とは何か。
いかに女を描くか。
創作と金をめぐる関係とは。
小説とは、虚実皮膜の間に漾う人が人である謎を書くことである。
異形の作家が私小説の真髄を語り尽くす。

    ー1998年から2004年までの間の車谷長吉が行った対談や、
     妻・高橋順子との句会が掲載されている。
     対談相手は、江藤淳白洲正子水上勉中村うさぎ
     河野多惠子奥本大三郎である。
     小説やエッセイの毒虫的な車谷からすれば、
     たやすく想像されることではあるが、人と語る車谷は誠実で、
     言葉を選んで、理性的で、少年のようである。

 ーまずは江藤淳との対談ー
  『私小説に骨を埋める』から

江藤淳との対談は、それぞれの言葉が相手の言葉を引き出す、
非常に内容の濃い対談になっている。
車谷の言葉が非常に豊かに引き出されてくるのがわかる。

ーP16
車谷「私には私小説というよりも、まず物語を書くという気持ちがありました。
 その物語の「物」とは「物狂い」「物の怪」「物心がつく」の「物」だ、
 という意識があります。
 物を語るというのではなくて、物が語る。
 書き手である私に「物」がくっついて、 私の口、あるいは手を借りて、
「物」がある物語を私に書かせる。
 初めて小説を書いた頃からずっとそう考えているんです。
江藤「物が書かせるということですね。

車谷「はい。人間は2,3歳になると物心がつきますね。
 その物心の『物』とは何だろうと、ずっと考えていたんです。
 …夜にアパートで一人でいると、何ともいえず生きていることが恐ろしくなって
 きましてね。・・この恐ろしさが『物心がつく』の『物』ではないかと
 気づいたんです。『夏目漱石』で江藤さんがお使いになる言葉でいえば、
 生への畏れ」だと思うのですが、私の場合は、漱石が英国留学で孤独な体験をした
 というような、具体的な原因はありませんでした。・・・」
江藤「『もの』というのは輪郭がはっきりせず、 正体のさだかでないものを
 いうらしいですね。」「しかしそれはただの気分かというと、そうではない。
 まさに『もの』なのであって…」

車谷「…その得体の知れない『物』への恐怖が私の中に立ち上がってきて、
 とにかく、自分の内側から澎湃(ほうはい)と沸き上がってくる不安を
 振り払いたい、と思っていました。…」
 --

P-24
江藤「戦後の日本文学は『物狂おしさ』を脇において書いている。
 私は、本来『もの』というのは、『横』と『縦』からできていると思うのです。
車谷「『横』と『縦』・・・・」

江藤「『横』と『縦』というと輪郭が定まるみたいですが、得体の知れない
 ボワ~ッとした物をよく見ていると、そこには『横』の筋がスッと一つ入っていて、
『縦』にも何か立ちのぼるものがある。立ちのぼるものとたなびくのと合わさって
『もの』になると思うんです。
車谷「はあ。」

江藤「戦後の日本人は、たなびくほうに、たなびくほうへ行くわけですよ。
 東京から太平洋をたなびいていくとニューヨークへ着く。
 そして、そこで商売をする。車谷さんとは逆の意味で、自分ではない他者になる。
 これもまた『横』にいくことでしょう。『横』にいくことによって、
 自分ではない他者になることができるのは、選ばれた人たちなんです。
 車谷さんは、会社を辞めて他者である自分になる前に、会社から、
 それとはまた別の他者である自分になる方式を提示されて、断ってしまった。
 その断った事が大事で、では断ったらどうなるかというと、
 『縦』に行くほかないわけです。
 
P-41
江藤「結局、『失楽園」も「横」にたなびいている小説なんです。
 男女の関係が『縦』だと分っていない。医者というものは分らないんじゃないかな。
 もちろん医者は尊敬しますが、医者の文学には基本的なものに欠落がある。
車谷「森鴎外もですか。」

江藤「ええ。まず、あの冷たさですね。漱石には、あの冷たさがない。
 渇望があり、祈りがあり、そして、七転八倒がある。
 (中略)
車谷「医者には物狂いがない。

江藤「そう。『もの』ではなくて『こと』なんです。医者にとっては『死』は
 『死』だけでなく『死体」なんです。すでに輪郭がハッキリしている。
 昔、ある文学賞の選考会で、小林秀雄さんの『これは医者の小説だ』の一言で、
 『楡家の人びと』が落選したことがありました。・・・やはり、文学には、
 輪郭のハッキリしない『もの』の要素を求めたい」

ーーー
私の親戚にも何人か数奇な人生を生きてきた人がいる。
差し支えがあるので書けないが、書いたら面白い小説になる!
どの世界にも「事実は小説より奇なり」の話は転がっている。
             
            (℃゛)/ また、明日!
ーーーーーーー
2006年04月12日(水)
1835, 善意について
      \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/

善意については、色いろ考えさせれることが多い。
最近になって、そのプラス面でなくマイナス面の指摘を目にする。
善意の善は、善悪の善である。 善悪なぞ、価値観の一側面でしかない。
ユダヤ教キリスト教イスラム教、一つとっても互いの善悪は全く違う。

   善をプラス、悪をマイナスみても、善も悪も何時までも持続はしない。
   環境が変化するからだ。環境が変化をすると、善はマイナスー悪になる。
   現在の自民党族議員、ゼネコン、官僚の構造的汚職など典型的なものである。

善意は、善意でよいが! 善意だから何も許されるという甘えがマイナスになる。
日本の裁判の特徴に、善意による脇の甘さが起因しているトラブルがあまりにも多いという。
「友人の困窮に家を貸したが、相手が権利を主張をしてトラブルになった」とか、
「連帯保証に、善意で判を押してしまった」という話だ。
その善意が狙われるのだ。

   善意を売りにしている人間で真っ当な人は多いが、
   何らかのペルソナ(仮面)の一部ぐらいに割り切っていたほうがよい。
   ただ、善意ではなく、できることならギブ&ギブを心がけていた方がよい。
   善意と優しさは、似て異なるものである。
   善意という動機にクールの視線を持て、ということだ。
  (ウオーム?ハートにはクールヘッドがコインの裏表のように必要である。)
   
 ー以前書いた、善意の小悪党に関する文章である。
これは、善意ー善人面を売りにして事例だから、すこしづれるが・・。

ーー
2004/02/06
1038, 「わたしは悪い不動産屋」-2

以下の内容は、この本の書評というより、仕事で不動産にかかわってきた
私の目から見た不動産業に対する批判と知識である。

この本を読む限り、不動産屋とかマンション屋は全て悪徳のように思えるが、
実際はそうではない。真面目な不動産屋が大部分である。
しかし、20??は悪徳に近い。80対20の法則がここでも当てはめることができる。
その20?が80?の悪さをする。しかし、それを素人は見抜けるわけがない。
80?の善良の不動産屋にも20?の悪徳要素が含まれていると考えた方がよい。
完全な物件は無い、それをよい部分だけを誇張していまうのだ。
(実際は5?が、95?の悪さをするのだろうが)

面白い善意の不動産屋がいる。自分は何も社会倫理に反する事をしていないが、
不動産屋の習性で、物件に対する瑕疵を見つけて冷静な判断をする。
それが彼の仕事である。

ところが無意識で親しい人間の瑕疵を見つけ、他人に瑕疵を営業代わりに、
内幕情報屋をしている。しかし、そのことを自分で自覚してない。
その瑕疵を純粋に相手を変えて言ってしまう。
悪意なしの無意識の世界の恐ろしさの深さがある。

不動産業の業というよりも、誰もが持っている人間の業であるが。
人間は誰も善意の悪党の要素を多く含んでいる。
人間論になってしまった。まあ他人事でない。
違うカタチで自分の生き方で、同じことをしていたのだろう。

生きるということは、こういうことなのだろう。 純粋性の恐ろしさがある。
不動産屋は、なるべく相場より安く値づけをして早く商売を成立させたい。
その為に対象のケチとあら捜しをするのが習性になっている。

不動産取引は、情報の売り買いである。
長期物件の売買で生きていく糧を長年かけて網を張っていく世界だ。
蜘蛛の巣に情報がかかってくるのを待つ商売である。
少しマイナスの視点で書いているが、それだけ深い世界ということだ。
そして無くてはならないビジネスである。

不動産屋をみていると、それぞれの個性がある。
野球のバッターに例えると
・バント専門
・ヒットバッター
・ホームランバッター
・代打専門と、それぞれの特性がある。

・バントは、アパートなどの仲介を中心に扱う
・ヒットは、マンションや住宅の売買を得意とする
・ホームランは億単位のビルの取引を狙う1発屋
・代打は、そういう情報を得て、長期物件に不得意の人に代わりに時間をかけて
 得点を得るために三割~半額をもらうことを裏契約をして共同作戦をする人
 等々、生臭い情報を探し求めて利益を探しだす世界である。
 自分を、その世界にサラシテ生きてきたからよく解るのだ。
 
 トンビという仕事もある。
事務所を持たないで、情報を売り買いしているハイエナ的な仕事である。
饅頭のアンコという言葉もある、情報のやり取りで利益を分け合うのだ。
         
           ー つづく   ΒΥΕ.._〆('Д'*⊂⌒`つ
・・・・・・・・・
2005年04月12日(火)
1470, 書く(一人、語る)ということ-2

このHPを開設をして一番の効果について何回か書いてきた。
今までは、知識を得ても自分の内面に落とし込んで、それでお終い。
殆んどが記憶の底から出ることなく埋没するだけであった。
知識・教養とはそれでもよいが、
やはり外部化をしておいたほうが良いに決まっている。
いつでもコピーをしたりできるし、分類や再考が可能になる。

反面、このHPに落とし込んだ場合に第三者にも曝すことになり、
自分のノートや備忘録に落とし込むのとはおのずから違ってくる。
まず第三者にも理解するように書かなくてはならない。
自分の気持を書き込む時には、自分の中の第三者の目ー理性ーで、
一度濾過をしなくてはならない。それが自分をコントロールをしてくれる。
1年、3年、10年経った時の自分や、子孫の目も意識しなくてはならない。
しかし、その加工は時間が経った時の自分にとってプラスに働くうえに、
三者の人とも共用が可能になる。
この共有感が、気持ちを安らげてくれることになる。

いま一つ良かったことは、何か感じたリ驚いたりした時に、
それを無意識に起承転結として文章化をするようになった。
いつの間にか、書くように頭の中でまとめている習慣がついてしまったことだ。

また他人と話している時なども、書くように話しているのだ。
これも結果として大きな収穫であった。
更に、他人の話を聞くときも、文章を読むように聞いてしまっている。
相手の起承転結を整理しながら聞いてしまっている。
インプットも、アウトプットも、無意識に整理しながら聞いたり
話したりする習慣(脈絡を掴むよう)になっていた。
                    つづく
・・・・・・・・
2004年04月12日(月)
1105, 「ありがとう」戦略ー2

・「幸せだから感謝をするのではない。感謝をするから幸せなのだ」
 感謝はー大勢の人々のお陰、宇宙の森羅万象のお陰という気づきは、
 チャンスのときよりピンチのときに生じることが多い。
 ー「ありがとう」と、心の底から周りに対して言える状態が
 幸福といえるのだろう。
 
・「お客様は来てくださらないもの」
 「取引先は商品を卸してくださらないもの」
 「金融機関はお金を貸してくれないもの」
 ヨーカ堂の伊藤名誉会長が母親から受けた教えだという。
 この「ないないづくし」を前提に考えれば、
 『有り難い』という言葉が自然とでてくるものである。
 ーこの気持ちを忘れてしまうのが人間である。他人のことは見えるがいざ
 自分のこととなると見えなくなる。
 
・言葉の原則がある。
 第一は「言葉はレストランのオーダーの如し」という原則がある。
 注文どおりの料理が運ばれてくるものだ。 言葉のとおりになっていくのだ。
 「疲れた」「(>_<)困った」「できない」と、消極的な言葉を発するとおり
 不幸な状態を発注をしているのだ。
 第二は「言葉はエネルギー」という原則である。」
 言葉の強力な言霊エネルギがピンチをチャンスに変えてくれる。
 第三は「言葉は表情」という原則である。
 言葉や表情を明るく変えるから人生も明るくなる。
 
・言葉には「明元素言葉」と「暗病反言葉」がある。
 ー「明元素言葉」は
「ありがとう」「簡単だ」「愉しい」「恵まれている」
「面白い」「美しい」「楽しい」「嬉しい」「素敵だ」
これらの言葉は、積極的で、肯定的で、状況を陽転していくエネルギーを
持っている。「現状打破言葉」とも言える。

 ー「暗病反言葉」は
「忙しい」「疲れた」「嫌だ」「困難だ」「やってられない」
「駄目だ」「不幸だ」「もう歳だ」「できない」「どうでもよい」
これらは「現状維持言葉」という。
この言葉を使っていると本当に「暗病反」になってしまう。
                          ーつづく
 ・・・・・・
2003年04月12日(土)
738, NTTの現状から時代の変化をみる

先日、NTTの人が光ファイバーの件できたので、IP 電話の内容を聞いた。 
NTTが現在、大きい分岐点にあるのは私でも解る。
一般回線からの収入は数年後には、減っているなか更に激減するという。
今後の収入源が光ファイバーと、ADSLの収入しかなくなるという。
それも他業種の参入で競争が厳しいという。
固定費が本来高いので競争に不利である。今の時代の象徴そのものだ。
あの電信柱と電話回線という数兆の資産が、たんなるゴミになってしまうのだ。

他人事ではない!観光白書によると一昨年だけで、
ビジネス客が一年間で6割も減っているのだ。
昨年は更に減少傾向にあったから、三分の一になっている。
ある日突然、ある価値が全くの無価値になるのが、今の時代である。
東京の中央部の中型・小型の貸しビルが、最近目立ち始めた超高層ビル
取って代っているという。NHKスペシャルでやっていたが、
出揃う4年後の2007年に大問題になるという。
立地がよいという理由だけでは存在価値が無くなるのだ。
 
この情報化革命という奴は、想像をはるかに超えて世界を根底から変えている!
   
・・・・・・・
2002年04月12日(金)
374, 主観と客観(喜劇と悲劇)

以前も書いた事があるが?
「滑って転んだとする、その人は骨を折ったか、悲しいぐらいのいたみである。
たまたま横にいた人にそれが非常に可笑しく見えた。
前者にとって悲劇、後者は喜劇である。」

後者は同じ出来事を傍観している。他人事として見ている、これが喜劇。
前者はその滑った本人の目で書いている、これが悲劇だ。
後者は客観で、前者は主観である。

あれだけ苦しんだ事も、あとで笑い飛ばした時に気持ちが癒される。
何事も笑い飛ばしてみれば、どうっとことはない。
「早く忘れたい嫌な事は、笑い飛ばしてしまえ!」というのが肯ける。

「喜劇と悲劇は紙一重」とは、視点を主観から客観に少し変えてしまう事だ。
「人を笑う前に自分を笑え」ともいえる。
特に日本人は「恥じの文化」ともいわれるように、他人に笑われる事を嫌う。
それだけ自立していないのと、多神教のせいもある。

逆に他人を笑っている自分は何だろう? 自嘲か軽蔑か、それとも同化か?
あまり他人を笑わないほうがいい!その他人に対する同化になってる状態だ。
考えてみたら、この二律背反だからこそ生きられるのだろう。

・・・・・・・・・
<おわらい>

以前 隣の男にお酒を一本ご馳走になった。
焼き鳥のツクネが一本残っていたので
「これツクネけでどお返し」とあげてしまった。