つれづれに

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 食材虚偽表示問題、よくまあ、一流どころが、毎日のように表立って、
侘び会見と謝罪をしているものだ。 そんなもの、いちいち新聞が騒ぎ出てることでもない。
この国のマスコミも、店サイドも、軽すぎる。 内部告発を恐れてのことだろうが・・・
全ての店が、何らかのカタチで、表示と違う商品を出すこともある。現場の仕入れまで、
一いち、チャックなど出来よう筈がない。 何でしょうか、この騒ぎは!
 明日か明後日の随想日記のネタに丁度良いか。


・・・・・・
2409, まわり道
2007年11月07日(水)            
 神谷八重子の「こころの旅」ー第六章の中に青年期の「まわり道」について書いてあった。
同じようなことが、立花隆の文章にもあった。
「青年期の10年は潜伏期間で何を蓄積するかで人生が決まってくる」と。
そういえば、私のカラオケの18番が「遠くへ行きたい」である。
「まわり道」の先で歌ってたせいか、心の歌になってしまった。
一番の究極の時こそ一番のプラスとマイナスの経験をする。人生には、色いろな道を通らねばならない。
「のぼり坂、くだり坂、そしてまさか」という道。迷い道、けもの道、なみだ道、散歩道、行き止まり道、
分かれ道?など、 多くの道を歩いた先にあるものは?  火葬場? 天国?
ーp.121
・・・しかし人生はまだ長い。これですべてが決定されてしまったわけではない。
「運命」と当面のしごとが要求することを忠実にはたしているうちに、
意外にもそこから本来の道へ行く糸口があらわれてくることもある。
あるいはまったく思いがけない人がみていて、本道へとつれ出してくれることもある。
けなげに目前の仕事に励んでいる者は長い間見捨てられているわけではない。
いずれにせよ、青年期にまわり道をすることは一生のこころの旅の内容にとって必ずしも損失ではなく、
たとえもし青年期を病の中ですごしたとしても、それが後半生で充分生かされることが少なくない。
人間は「ただではころばない」という芸当もできるのである。
落伍者のようにみえた青年の中から、のちにどれだけ個性豊かな人生を送る人がうまれたことであろう。
それは彼のこころの道中で、順調に行った人よりも多くの風景に接し、多くの思いに心が肥沃にされ、
深くたがやされたためであろう。そのためにやっと「わが道」にたどりついた時、すらすらと一直線で
そこに来た人よりも独特なふくらみを持った、人のこころにせまる仕事をすることができるだろう。・・・
ーー
人生60年余生きてきて、本当に無駄なことは無かったと実感する。
それも順境の時より、逆境の時の方が有益だったように思える。
「順境は枝を張れ、逆境は枝葉を切り取って根を張れ」という。
私が現在、文章を思ったままスラスラ書けるのは、三回の浪人期に、自分を支えるため本を読み、
文章を書いたため。その残存が、これである。外務省の佐藤優の文章が心を打つのは、決して
奇麗事を書いているからではない、留置所の中で考え、そして言葉を練りまわしていたからである。
 また、そこを「勉強の場」として、本を徹底的に読んだからである。
留置場こそ使い方によっては学びの部屋のようだが・・・   留置場への道もあるか・・・

・・・・・・・・・
2006年11月07日(火)
2044, 読書週間に読書習慣を考える
先週は、「読書週間」で読書について幾つかの新聞で特集を組んでいた。
驚いたのは、「この一ヶ月間で何冊本を読んだか?」の質問で、
 一冊も読んでない人が半数近くもいたことだ。(雑誌を除く)
・男女はほぼ同じ、女性が50?、男性が48?であった。
 読まなかった人は、この10年間はほぼ変わらなかった。
・20年前に比べると20代では、20年前(22?)に比べると、二倍以上も増えていることだ。
 娯楽が本以外のメディアなどに多様化したことが原因である。
・これに対して、30~60歳代では「読まなかった」人の割合が減少。
 とりわけ前年調査より50歳代、60歳代では6~10?も減っている。
・読む理由として、面白いからが38?、知識や教養を高めるためが36?、
 趣味を生かすためが24?の順だった。
・本を選ぶきっかけは、「ベルトセラーなどの話題」が27?で一位、
「新聞・雑誌などの広告をみて」が26?、「新聞の書評を見て」が24?、
「周囲の人の話を聞いて」が22?という。
・好きな作家は、司馬遼太郎赤川次郎宮部みゆき村上春樹とつづく。
--
 -以上が、読売新聞の世論調査の内容である。
もう少し読んでいるのではないかと思っていたが、案外であった。大学卒業近くになって
「読書の絶対量の不足」に気がついて、社会に出てからは二時間は読書の時間を取ることを
自分に課してきた。40年近くなるが、平均読書時間は2~3時間は維持してきた。
大学時代を入れると40年間×365×2~3≒3~4万時間は読書をしてきたことになるが、
それにしては教養の浅さは何たることか? (ー'`ー;)
 当時、色いろの大學や、地域の人のいる寮や、大學のゼミの中では「この程度のことを知らないのか?」
という雰囲気があった。今から考えてみれば、それぞれが知っていることを披瀝しているだけで、
それほどの教養は無かったのでは?と思うが、当時は知的コンプレックスの塊そのものであったため、
そのまま受けとめていた。それが、大學の最大の収穫といえば収穫であった。
読書は、その知的コンプレックスを小さくしてくれる道であった。社会に出てからジックリと
読んでいない人は、直にわかるから恐ろしい。それも殆ど読んでない人は、会話(対話ではない)が
成立しない。「勉強会と称する会合?」で、一人白けてしまうことが何度かあった。
テーマが解れば、1時間もインターネットの検索で調べた内容が、議論の余地を残さない位の情報を
得ることができる。インターネットの検索は、質量とも膨大な情報を与えてくれる。
それも質の高い順に並んでいるから・・・・        m(。^_^。)m  
反面、どこかの旅行で最下位に位置して、独り呆然としていることも度々である。
                       ┗(・o・)┛ナハ┗(・o・)┛ナハ
対比しないことだが上を見れば限がない 下を見れば底がない 横を見れば情けない!
   (どっちが?) (* ̄0 ̄*)   ということ! 読書の力は、「物凄い!」 
・・・・・・
2005年11月07日(月)
1679, 「自薦エッセイ集 魂の光景」-3
ー「メタモルフォーゼ」ー ?
   <意識の変容>
 
「意識の変容」といえば、夢であろう。夢は裸の自分に出会うところである。
夢について今まで多く書いてきた。そして、その本質について深く考えてきたと思っていたが、
この文章を読んで疑問を持ってしまった。ユングフロイトを読み、実際に不思議な多く体験をして
意識の変容としての夢を冷静にみていたつもりであったが。
まずは、「自薦エッセイ集 魂の光景」 ー『メタモルフォーゼ』の章のポイントを書き写してみる。
著者は深く難しいことを何気なく表現するのがよい。 ジャーナリスト出身だからだろう。
ーーー   
"夢の形で何が現れるのか。少年時代からぼんやりと感じ、30歳代になってかなり意識したのは、
自分の内部に人気のない山奥の古い沼のようなものがあり、そのエメラルド・グリーンの静まり返った
水面下に、自分の体験だけでなく、両親とその先祖たちの何十代、何百年前にわたる同じ一族としての、
同じ民族としての、同じ人類としての経験だけでなく、哺乳類から爬虫類、両生類、魚類、
海中微生物時代の経験までが、深々と薄暗く沈みこんでいるらしい、ということだった。
そしてたぶん私の場合、他のまともな多くの人たちに比べて、その沼の水面の表面張力、
つまり意識と無意識との境の膜が、極度に薄くって弱いらしい、ということも。
 ”ロックフェラー大学のジョナサン・ウィンソン教授の説によると、夢を見るということは、
「昼間の体験の無数の知覚情報を脳内に蓄えられた長期記憶と照合して、
生存に必要な情報か否かを『海馬』にて選別する作業」であるらしい。」
 だから」「夢が常に視覚光景の、しばしばきわめて非論理的な展開の形なのも、
日々の知覚情報と照合される古い脳幹や大脳辺縁系の記憶が、
言語機能発生以前の、言葉を知らない記憶だから、と考えれば納得がゆく」。”
”霊長類の大脳新皮質の異例な進化を促してきたのは、
古い皮質の本能的情動の闇から抜け出ようとする光への憧憬だったのではないか、
とも思えてならない。世界の形と筋道を意味をより広く眺め渡すこと、
とりわけ自分自身を内部から突き動かしている暗い力を意識化することである”
”家庭が貧しすぎて小学校にも行けなかった一女性が、老年になって自ら読み書きを習って本を読み、
自分でも文章を書くようになってから、こう語ったという。
「夕日がこんなにきれいだとは知りませんでした」” 
”解剖学者の養老孟司は、本来全く別々の経路だった聴覚系の神経機能と視覚系の神経機能が
重なり合った結果として、人間の言語活動が可能になったのだろう、と推測している。(「唯脳論」)
・・・つまりわれわれの祖先が言語を欲したからではなく、後頭葉の第一次視覚野と側頭葉の
第一次聴覚野から、それぞれ同心円状に広がる情報処理の波がちょうどうまくぶつかり合ったところに、
視覚性言語中枢と聴覚性言語中枢が生じた。この二つの言語中枢は互いに連結しながら、
さらに前頭前野運動性言語中枢と結びついて、言語の構造化、発語と書字という言語行動が出現した。” 
 ー評ー ノルウェーの同じ街とおもわれるところで、私も全く同じ体験をした。
貿易港の街を歩いている時、自分ではない誰かが以前からそこにいて自分を包み込んで
しまうような何かを! 柏崎の極楽寺に行ったときも、同じ感覚になったことがある。

・・・・・・・
2004年11月07日(日)
1314, まさか、地元で大地震!ー11
ウォーキングで、彼方此方みるうちに地震の大きさに驚いている。
近くに避難所があることと、自宅の裏の空家に被災者一家が入居してきたことと、
一昨日の殿町の飲食街で、具体的な被害を見てきたこともある。
お客は閑散、店と客のボトルは殆ど棚から落ちて割れたとか。次々に廃業をしているという。
30分ほど歩いた所にSCがあるが、ゲームセンターは閉鎖のまま、隣接している玩具のチェーン店
「トイラザス」もやはり閉鎖のまま。ジョウシンという家電の全国チェーンも、店の商品はスカスカ。
駐車場の一角に大きなテントを張って、壊れた商品を一時保管していたのをみても多くの商品が
破損したのだろう。近くのパチンコ店も閉鎖のままである。遊技場など行く雰囲気でもないが。
道路は、陥没のまま手がつけられてない状態。
アルファルトで応急処理をしてある道路も、余震で再び陥没していたところが多い。
この地震で家の崩壊や死傷者が少なかったのは、建物が雪国用に頑丈に作られていたことと、
過疎地で人口の密度が低かったことなどで、第二次災害が最小であったためだ。
これだけの災害でよくぞ三十数人の死者ですんだのは、不幸中の幸いである。
新幹線も、雪国用の特別仕様のため大事故をまぬがれた。この地震の特徴は余震が異常に多く、
現在も続いていて、余震の地域が更に広域に広がっていることだ。
昨日のメルクマールでも書いたが、散歩途中で聞こえてきた農家の人の立ち話が印象的だった。
「丁度良い時期に、地震が起きてくれた。早ければ、稲刈りや農作物の取り入れに影響をしたし、
遅ければ寒さや雪で大変であった。 水害の跡片付けも丁度終わった頃だし」
なるほど、その通りである。大きなマイナスの出来事の中にも、必ずプラスがあるものだ。
これからの被災者の大きな問題は、普段の生活に戻れないことだろう。
一番変化に対応しにくい人達?だからだ。

・・・・・・・
2003年11月07日(金)
947, 女の視線
田中真紀子は選挙になると、一番汚い服を着る」という噂が専らであるとか。
なるほど,その同年代の女の視線を、彼女には解らないのだろう。
所詮は票乞食にならなくてはならないのが代議士だろう。
もっとも選挙運動に綺麗な外行きの服も着ることができないだろうが。
しかしパフォーマンスで着ているかどうかは女の目には誤魔化せない。
目白御殿に住み、何不自由なく生きてきて、今更庶民派もないだろう。
 真紀子パフォーマンスも前回で終わったのか。あまりマスコミも取り上げないのも、
新鮮味が無いことと、彼女への風が吹いてないということだろう。
橋本が破れたのは、彼女の力もあったが橋本が悪すぎたのだ。
外務大臣のときの、大臣芸者としての役者ぷっりがひど過ぎた。
もっと風が吹くと思ったが、パフォーマンスは前回の一度で終わりか。
結局は「親の看板と地盤とカバン」しかないのが彼女の本質である。
 この人から誠意のひとかけらも感じられないのが、彼女の本質を突いている。
国をどうするとかの理念が全くないのは言うまでもない。でも、この選挙には勝つだろうが。
選挙は最後の最後まで何がおきるか解らないが、大勢に影響はないだろう。困ったものだ。

・・・・・・・
573, 健康機器
- 2002年11月07日(木)

 以前ある人に「ニギニギ」を紹介されてから、散歩の時は必ず持ち歩き、
握ぎ握ぎをしながら歩いている。肩こりや目などに非常に良い。
数種類を持っていてその時々に使い分けている。
海外旅行の時など飛行機や移動のバスの中では、必ず手で握り締めている。
ボチボチや突起物が付いており、それが手のツボを刺激をする。
足と目と手にツボが集中しており、手が気楽に一番やりやすい。
100円ショップに多くの種類が売っており、7~8種類を持っている。
 2週間ほど前に会社の近くの家電の量販店をブラブラしていると、磁気付きのニギニギが
あったので早速買ってみた。 使ってみるとなかなか良い。
また自宅の近くのダイエーをブラブラしていると、店頭で磁気付きブレスレッドの
定価8千円のものが1千円で売っていた。 迷わず買って腕にした。
その夜何か寝ていても気分がよく良い夢を見た、そして翌夜も。気のせいもあるだろうが。
 更に再び同じ家電の売り場に再び行くと、アイマスクの磁気入りの物を売っていた。
これを早速買って夜付けて寝ると頭がすっきりした。今度はヨドバシカメラに行くと、
頭に掛けるイヤホーンの形のコメカミに磁気を当てる物があった。これも良い。
付けて本やTVを見ると疲れないのだ。従ってこの二週間で頭や目や肩が非常に楽になった。
腕にブレスレッド、頭にイヤホーン、手にニギニギ、寝室ではアイマスクをしている。
まあ馬鹿みたいだが? 肩こり、目の疲れに間違いなく良い!

・・・・・・
[219] 無駄な事なし
- 2001年11月07日(水)
 人生ふりかえってみて感じる事は[無駄な事は全くない]という事である。
ある程度燃焼してきたから、言えるのかもしれないが! 全く無駄にみえる事ほどふりかえってみた時、
一番重要なポインだったようだ。皮肉と言えば皮肉だ。重要な事はボロを羽織ってくるのだろう。
老年にさしかっかた時、死と同じくらいの恐怖「自分の人生これでよかったのだろうか?」
という問いかけだそうだ。ある本に‘自分の母が死ぬ時「私の人生失敗だった!」という言葉を
残していたと姉より死後に聞いて、立ち上がれないほどショックを受けた’という内容が書いてあった。
なにか非常に悲しい響きが残っている。母に「人生の元をとった?」と聞いたことがある。
「とったとった十分とった!」と嬉しそうに言っていた!
人によって「無駄な事だらけ」という人生もあるのかもしれない。
人生にやはり意味を求めていないと、そうして精一杯生きてないと、失敗だった?という
気持ちになってしまうのだろう。無駄とはどういう事だろう? ある事業に失敗したとする、
それをどういうように解釈するか?自分の解釈で意味ずけをするかだ。 無
駄にみえても、意味があると解釈するかどうかだ。
http://www.youtube.com/watch?v=aPMfe1vMZuE