つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=aPMfe1vMZuE

 写真は、今朝の信濃川の大手大橋からの朝日。タイミングが丁度、ぴったり!
  iPodから聴こえてくるクラシックが神秘的な気持ちにさせてくれていた。
 何ごとも、続けていると、思わないTPOSのタイミングが合致することがある。


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2043, 「私」のための現代思想  -17
2006年11月06日(月)
 ーこの本の‘まとめ’になるー
今年は「面白い本」の当たり年であった。この本は「面白い」という面で、ベスト3に入る本である。         
私たちは考えごとをする時に、略しているかどうかは別として、《私》という言葉を常に使っている。
意識しないのを含めれば一日数百、いや数千回は使っている。そして、取巻いている世界からは,
他人の《私》の「超越確実言明」を聞く。
人間関係の軋轢の中で都合よく自分勝手な理屈をつくり上げ、その歪みに全く気づかないのが人間である。
さらに悪いことには他人の歪みには敏感に気づくときているから始末が悪い。 近代哲学などで多く
「私」について扱われてきたが、「<私>について何か解りやすい理論がないものか?」と考えていた矢先に、
この書に出会った。
{「他者」と「他人」の違い}も解りやすい。「他人の知らない部分を他者」と思っていた。
自分自身の知らない一面をみてもゾッとすることが度々あるから、自分の中にも他者がいることになる。
ユングの「意味ある偶然の一途」の経験など、まさに未知なる自己である。
「自分の物語」の中で、他者を勝手な配役に振り分け、俺様は主役。主役の俺様にとって、他者へ役割が
「他人」になる。自分の人生劇場の登場人物として都合の良い役割を決めつけてしまうのだ。
その都合よい物語の中で他者を端役として位置づけ、都合の悪い相手は悪役にしたて、
都合に良い相手は善役にする。自意識過剰な軽い女子学生が唯我独尊の独り芝居をしている「あれ」である。
数年前に亡くなってしまった同級生が、チンドン屋のような独演をいていたが。まあ、人生は全ての人が
多かれ少なかれ、同じようなものだろうが。U(^(ェ)^)U
自分のことさえよく解らないのに、他者のことなど解るはずがない。
他人は、自分の妄想でしかないことを自覚すべきである。他者不可知論も肯ける。
いずれにしても、我われは露出しないにしても、何らかのカタチで、《私》と<他者>の軋轢の中で
生きていかなくてはならない。<私>の核の《私》が他者の積み重ねの中から出来ているという指摘には驚いた。
考えてみれば、そうなのかもしれない。簡単に言えばー「私」を認める者の存在ーを通して《私》になる。
 その一番最初は、普通は母である。初めの他者が母である。
「《私》と、その<世界>は腐っていく」というのも、
戸惑ったが、実際周辺をみていると解る。多選の県知事汚職が、そのよい事例になる。     w
県知事も、その周辺も腐っていくのが当然である。   
 こと自分自身について考えると、あまりにも辛辣に聞こえてくるが・・気が付くかつかないの差である!
身体も、《私》も日々腐っていくのである。  柿の実と同じである。   
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2005年11月06日(日)
1678, 読書について
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに
自分でものを考える力を失ってゆく。」ショウペンハウエル(1788‐1860)の寸言である。
読書には、プラスもマイナスもある。
自分自身で世界を観察し、考え、そこに不変の法則をみつけることこそが重要である。
自分で見つけた知識だけが自分のものになり、初めて世界は部分的としても理解される。
人生を振り返ってみて、「自分とは、過去の行蔵の総量である」と実感する。
だから、その蔵の中には良いものにしておかなくてはならない。
「言葉によって表現されていることを直感的に理解するには、その表現されていることを
既に知覚していなければならない」。いや、そのベースの上に書き加えられるという方が正しい。
カントではないが、盲人には『空は青い』は理解できない。視覚という機能があってはじめて
空を知覚できる。自分で体験しないことにはよくわからない(経験主義)。
また人間の理解は、その脳機能の範囲を出ることができない。
思考も言葉で考えを表現して見せたところで、それを考えたことのない人間には通じない。
考えを伝達するのは、その考えを知っている人間に対してはその考えを想起させ、
知らない人間に対してはそれを考えるきっかけを与えるに過ぎないのである。
読書についてショウペンハウエルは、読書についての中で
「読書は、言ってみれば、自分の頭でなく、他人の頭で考えることである。
絶えず読書を続けていけば、仮借することなく他人の思想が我われの頭脳に流れ込んでくる。」
また「読書は思索の代用品にすぎない」と言っている。しかし読書も、その行蔵のお宝のコーナーの
重要な位置づけになる。考えるということは、言葉によって初めて可能になる。
その言葉と、見方、考え方、思考法を学ぶのは読書が中心になる。異質の人との議論といる方法も
あるが、範囲が狭まれてしまう。それにしても、読書をしない人が多い。問題は、読書をしない人は、
読書の効用をほとんど理解できないことだ。書物には、活字の奥に無限の空間がある。
そこには、未知という名の圧縮された世界が存在する。星座の世界に例えると、宇宙の星座と違い、
書物の世界の中にある星座はたやすく得ることができ、人間形成に大きな役目を果たす。
教養とは、自由を獲得するためー生まれた時から縛られてきた先入観からの開放ー
に必要な知識、経験である。その一番身近なのが読書である。それにしても、教養が無い自分に
今さら唖然とする。知らないことが、知らなかったことがあまりにも多い。人生の次の最大のテーマは、
全く経験しなかった分野に目を向けること、[未知への道を歩き続ける]ことである。

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2004年11月06日(土)
1313, まさか、地元で大地震!ー10
ー経済に与える影響は
この地震による家財などの破損などで一般消費は,目先、家具や家電などは売れるだろう。
しかし一般的には災害地以外も含めて大打撃になると予測される。
被害の殆どない新潟市でも飲食店、ホテル、タクシーに大きく影響が出始めている。
新潟では、タクシーは一晩に一組の客が取れかどうかという。飲食店でも学校、企業関係の宴会が
殆んどキャンセルされている。新潟駅前など、新幹線と関越自動車道の不通で、普段の賑わいの
半分以下である。それでなくとも数年来、駅周辺も人出が減っていた。この一ヶ月で、個人飲食店の
閉店が目立ち始めてきた。新潟の事務所の100m以内で、三店も閉鎖した。
長岡だけでなく、新潟もこの冬で多くの飲食店が閉鎖されるだろう。
当社の長期滞在型アパートメントで、フロアー貸しをしている自動車教習所の話しによると、
東京からの「宿泊の教習生」が、殆んどいなくなった。あらゆる分野で影響が出始めてきた。
反面、長岡ではホテルとタクシーは目先特需という。長岡駅裏のタクシーの待合に、
一台しか止まってなかったし、ホテルは今月半ばまで全て満室状態という。
それも長くは続かないだろうが。
JRの在来線と新幹線と、関越自動車道がストップしているのだから、如何にもならない。
昨夜、長岡の殿町の飲食街に飲みに行ってきた。いずこも殆ど客が入ってなかった。
最後に、馴染みの自宅近くの居酒屋に行ったが、近くの避難所に来ていた山古志村の被災民が
一人で飲みにきていた。あまり詳しくは話さなかったが、自宅は壊滅といっていた。
この居酒屋も年内で閉店する。この下書きをしている現在も余震が続いている。
夜半も、かなり大きな震度3~4?の余震が二回あった。どこまでつづくのだろう。

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2003年11月06日(木)
946, 22世紀への伝言ー読書日記

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572, ある時間の断面ー9 
- 2002年11月06日(水)
1968年 9月24日
8時前に市川さんが起こしにくる、そのまま寝てしまう。
9時半に目がさめる。川崎との待ち合わせに間に合わない。
顔を洗い寮を飛び出る。タクシーで校庭の通称4丁目の交差ベンチに行く。
5分の遅れだが、待っていてくれた。その直前に綾部嬢とバッタリ出くわす。
ヨーロッパに行ってきたという。「すごく良かった、ITAの主催の旅行で行って良かった」と
言っていた。そういえば私が紹介したんだっけ?石川のガールフレンドだったが、今は上手くいってないと
彼が言っていた。まだお嬢さんだが気持ちのよい人だ。吉田嬢にも出会う。
アメリカに行ってきたという、去年欧州旅行のグループの一員だった。
川崎と喫茶店に行く。かなり溜まっていた話を一人話していた。松村に腹を立てていた。
彼の言い分はよく解るが、そう言っていたら人とは付き合えない。
川崎もこの一年で成長したようだが、人間に影がなく好きだ。
帰寮後TVを見て、風呂に行く。さて洗濯だ。
   9月25日ー水曜日
また寝過ごしだ。全く何たることだ。流されているのだ。小学生や中学生以下でないか。
自分の中の力があるはずなのに何故流される。この時期一瞬でも大事なはずなのに。
大学の図書館で3時間卒論の本をまとめをする。その後、小作と石川とウエストサイドで話す。
帰寮後、3時間卒論のまとめをして、就寝。
   9月26日
朝9時に学校に向け出発。産関論を30分受講、食事の後掲示板を見るためにタッカーホールに
行くと、ゼミの武澤先生に会う。「学館の問題」でタッカーホールで説明会があるから是非聞くよう
言われた。偶然深井と会ったので、ホールに聞きに行く。
途中で出て、図書館で卒論のまとめ、その後深井と早稲田の本屋へ行く。
彼の求めていた本がなく、途中で分かれて寮に帰ってくる。深井もここで変わってきた。
卒業間じかのせいか友人が皆練れて男臭くなってきたようだ。
19時頃に大妻女子大の人が尾形君のところに来るが、いないので私の部屋で一時間位待つ。
結構面白い子だが、その後市川さんと食事に行く。一時間本を読んで夜半の一時に寝る。
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[217] 夫婦別姓
- 2001年11月06日(火)
夫婦別姓について、あるいは行き過ぎた女性の社会参加についても、如何でもいいとも
言ってられなくなった。そうでもないか?かなりの思い切った男性優位論を掲げた、
ユング系の教授のホーページが面白い。  
http://www09.u-page.so-net.ne.jp/ka2/rindou/contents.html
アメリカに与えられた民主主義で、消化されてない女性の異常な権利
の主張が日本の特質になっているが、それのみならず家庭を崩壊始めている。
誰も男の立場で何も言わなかったが、正々と論陣をはった彼に敬意を表する。
かなり行き過ぎもあるが、どうであれ面白いので、是非彼のページを覗いて見る価値がある。
すっきりするが、今の日本男子の哀れな姿を彼が教えてくれている。
今の原理主義も全く肯定できないが、今の日本の一部の馬?女を見ていると、そのとうりと
言いたくなる。その連中(テロ)の前でこの馬?
女ーどもに「銃を持って戦ってみろ!」と言いたくなる。これは旧約聖書の原理の解釈の戦いだ。