つれづれに

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 今年も、あとニケ月になった。 早いものである。
異常気象以外、あまり目立った事件はなかったが、あとニケ月ある。
プライベートでも、周辺も、さしたる事も無し。 良しとしなければ!
せいぜい、4年間乗った、マウンテンバイクから、クロス自転車に乗り換えたぐらいか。

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1671, 「全ての装備を 知恵に置き換えること」-2
2005年10月30日(日)
「全ての装備を 知恵に置き換えること」は考えるほどに深い言葉である。
‘ハードを、ソフトに置き換える’‘色即是空、空即是色などが直ぐ思い浮かぶ!
ーさらに、この本のポイントになる文章を抜粋する。「レベルの高い難しいクライミング
いくつもこなした後、何がしたいかを問われたある男は言ったそうだ。
歩きたい、と。道の方角へずっといつまでも歩いていたい、そういったんだ。」
この言葉が彼のこれまでの人生を築き上げてきた哲学のように思えた。
実践からくる彼の言葉は一言一言重く深く響いてくる。禅坊主の、シンプルと似ている。
ー著者の言わんとする一節があった。
人類がアフリカで誕生して以来、先祖は移動を繰り返してきた。山を登り、川を越え、海を渡り、空を駆け、
厚さにも寒さにも適応し、今ではジャングルや沙漠、氷河にさえも人の息吹がある。人間はあらゆる環境に
生き延びる野生を持ち、その土地を生き抜く強い生命力を備えている。
あるき続けることによって、肉体も精神も変化をし続け、その過程であらゆるものはそぎ落とされて、
最後には本当に必要な知恵だけが残る。人は旅の中で見て、聞いて、考える。
厳しいフィールドに身を置いている時に感じる幸せも、異文化の中で生活している時に感じる幸せも、
それは変化を求められることへの喜びなのかも知れない。自分はまだまだ歩き続ける。
自分にとって、生きるということは旅をすることだ。それは揺るぎない。
        「全ての装備を知恵に置き換えること」石川 直樹 (著)       
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2004年10月30日(土)
1306, 究極の観光旅行
 朝のニュースで、例の男が「死体で発見された」と報道していた。
「現在の若者の究極の面白い旅行が、イラク旅行」という話は聞いていたが、これが現実である。
ヨルダンのアンマンで宿泊していたホテルマンと、同宿していた日本人が、イラク行きを止めるように
説得したが、「大丈夫!」と振り切って出かけたという。何おか言わんやである。
ロシアン.ルーレットゲームの玉が当たっただけなのだ。
この男は究極のゲーム(命を駆けたエクスタシー・ゲーム)を楽しんだのだ。
イチイチこんな連中のために、自衛隊イラクから撤去する必要はない。
「北海道の共産党の馬鹿親子」と、薬中の「あの女」のために、生命の尊重とかで、
日本中が慌てふためいた騒ぎは何だったのだろう。あの救出劇が正しかったかどうか。
民主党岡田党首が、「この責任は首相にある!」とかいっていたが、
「このボウヤ、何をいているの?」のレベルである。小沢一郎が呆れるのも、当然である。
次の首相候補というから、お笑い以下である。これが真っ当の理屈でないのは、誰でもわかる。
筋が入ってない言葉は、直ぐわかるから恐ろしい。

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ー数日前の産経新聞の「産経抄」の内容がよい。
 コピーを貼り付けておきます。
何という奇跡、何という発見か。地震発生以来行方不明だった車の母子のうち男の子が
埋没現場から救出された。それとは対照的に暗い話だが、小欄はイラク武装勢力の日本人拉致を書く。
小泉首相が「自衛隊は撤退しない」と言明したのは当然だった。
 ▼とはいえ、国には国民の生命保護の義務と責任がある。
 救出に全力を傾注すべきこともまた当然だが、二十四歳のこの男性のイラク入りはボランティアの
ためなどではない。“何でも見てやろう”的漫遊の途上だったという。その無謀と軽率がやり切れないのである。
 ▼この春、同じイラクで日本人誘拐があったが、世論が「退避勧告」を無視した「自己責任」の問題を
取り上げたところ、一部マスコミは人質と家族の不当なバッシングだといって騒ぎ立てた。
しかし見当違いもはなはだしい。
 ▼テロリストの要求をそのまま主張する家族が自覚も反省もないことに、世論は嫌悪感を覚えたのである。
 「個」と「公」のけじめのなさと、それを情緒的にたれ流す新聞やテレビに、“ちょっと違うなあ”
という違和感をもった、ただそれだけのことだったのだ。
 ▼この夏、戦乱のイラク取材にかかわったフリージャーナリスト勝谷誠彦さんの行動基準というのを
ご紹介したことがある。それは「私は国家の『行くな』という意思に背いて、イラクへ出かけるのである。
  ならば何かが私の上に起きた時は、それなりの責任を自ら負うつもりである」と。
 ▼そして「万一の際は日本政府に多大の労力と血税を使わせたことをわびる」
 といっているのである。あっぱれジャーナリストの覚悟と根性というべきだ。
 すべての人がそうであれというのではないが、超危険地帯ではそれに近いものが要るるだろう。
ーこの勝谷という男も、この若者と大して変わりはしないのに、少しオカシイが!何があっぱれだというのだ。

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2003年10月30日(木)
939, ゲーム理論 -1
 一昨夜、コンサルタントの林さんと酒を飲んで「ゲーム理論」の話題が出た。
ほとんど忘れたこともあり、「ゲーム理論」をインターネットで検索して調べてみた。
また本を読み直してみた。なるほど勉強になる面白い理論である。一般的にゲームというと、
「目標を決め、途中に難関を置き、それを乗り越えながら達成するプロセスを、
三者か自分自身と競う事を楽しむこと」であるが「ゲーム理論」というと少し違ってくる。
ー要点を書いてみるとー
「『勝つ』ためには‘損切り’をして『負け』をへらす!」が一番のポイントと思われる。
  ゲームと仕事に勝つための4原則は
・『勝利』より『損切り』を重視する
・裏切りによる勝利は長続きしないことを知る
・相手も自分と同様に利益を求めていると知る
・あらゆることが起こり得ることを知るである。
 ーゲーム理論では「相手の存在』が不可欠である。
ゲーム理論は数学理論をもとにしている。その大前提は、『自分』と『相手』がいて、
それぞれが「合理的・利己的」に「最適な状態」を目指すことにある。
かけひき上手を競うのが「ゲーム理論といってよい。
 ゲーム理論で考えられる世界は、100人が100通りの答えを持ち、相手の存在と立場を
見ながら戦略的に手を打つ。「生き残り」という至上命題のための戦略、科学体系がこの理論である。
 ーゼロサム社会では勝者以外は全て「敗者」である。
いまのような不況は「ゼロサム社会」とよばれる。ジャンケンのように誰かが勝つと
誰かが負けるという二つの和がゼロになる条件下のゲームを指す。
 ゼロサム社会での特徴は、現状の均衡点どちらにふれても誰かが損をする。
別名、利益の再配分の逆の「損の再配分」といえる。この結果は「社会の硬直化」だ。
ものごとが決着しなくなり、社会が保守化し、誰も自分の既得権益のみを守ろうとする。
 ゲームに勝とうとするには、「負けを減らす」ことだ。勝つのではなく、負けた場合の損失を
減らすのは消極的に見えるがゲーム理論では最も重要なことである。
ミニマックス戦略」というこの戦略はこの時代最も重要である。
株式の世界では「損切り」といわれる手法だ。
 ギャンブルがうまい人は、自分の利益が出たときだけ、大穴勝負をする。
それも勝ちの一部だけを賭ける。大穴はほとんど外れる。それでも利益があがる。
一般的には、負けが込んで、追い込まれて最後の勝負を確率の低い大穴にすべてを賭けてしまう。
そしてすべてを失ってしまうのだ。
 人生は一つの大きなゲームである。 そして事業もだ。
人生の利益とは何であるか、愛か、知識か、力か、お金か、誠実性か?事業もしかりである。
拡大か、利益か、社会貢献か?
 事業を創業することは、まさしくゲームである。ゲーム以外の何ものでない。

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565,、ある逸話ーインドで見たこと
- 2002年10月30日(水)
インドの空港で帰国の時である。
修行僧のいでたちの男、杖一本をつきながらやって来た。
素足で身に付けているののはパンツ一枚である。それで飛行機に乗ろうというらしい。
急を聞きつけた警察が数十名が周りを取り囲んだが誰も手を出せない。
空港の制服の女の人が間に立って説明をしているが、どうしても折り合わないのだ。
パスポートも持たないでパンツ一枚で国際線に乗ろうとしているのだ。
恐らくカースト制で身分が高いのだろう、素裸の男の態度がでかい。
大声で入国査察官を怒鳴りつけているのだ。恐らく「神の指示で乗れといわれたのに何故乗せぬ」
と言っているようであった。最後の結末をみないで飛行機に乗ったが、インドの社会を最後まで
見せ付けられた出来事であった。インドは普通の感覚では考えられない身分社会なのだ。
牛が堂々と街を我が物顔で歩いているのだ。宗教上で神聖な生き物なのだ。
以前にも書いたが、20�のある階級は餞民で人間とみなされないのだ。
交通事故死でも警察が取り合わないという、牛なら騒ぎになるが。
実際その経験談を読んだ事がある。同乗した車が餞民を轢き逃げしたが、その後新聞でも
何も載ってなかったとか。轢いた本人も犬を引いた程度としか思ってなかったのに驚いた、
と書いていた。まあ凄い社会である。一度はこういう社会を見てみるのも必要な事だ。

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[203] 夢ー11
 2001/10/30
 五~六年前にみた夢で忘れられないのが、自分の葬式の祭壇を見たことだ。
学生時代住んでいた部屋であった。久しぶりに寮の自分のいた部屋を覗くと、それがあった。
恐らくもう‘あの時の自分がもう終わってしまった’というシグナルだったのではなかろかうか。
何か変な奇妙な印象が残っている。
 どんどん変わっていく中で変わらないのが過去だけだ、しかし夢でさえもうあの時の自分は
消滅したといってくる。それから一年に一度位見ていた寮の夢をほとんどみなくなった。
ーまたこんな夢もみた。
中東?の兵隊の自分が絞首刑になる夢である。7~8年前か。
それを当人になっている自分と、それを上から見ている自分がいた。
その瞬間もう一人の違う自分に移り、やはり絞首刑を経験する夢である。
いやに茶色の埃っぽいイメージが残っている。その前に確か廃墟の建物を訓練で数人と昇っていた。
 非常にリアルな、前世の自分の過去霊をが夢に出てきた?感覚であった。これとは全く違うと思うが、
瞑想をしていると、突如「タジージーダ」という人の名前?が突如出てきた。
「なんだこれは?」と今でもそれが何かわからない。
情報のシャワーの中で、脳が勝手にある単語を吐き出したのだと思うが。