つれづれに

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 今朝は雨。 やはりポタリングに出れないと、気持ちが落ち着かない。
先日借りてきた本に『人生で大切なことは雨が教えてくれた』ドミック・ローホー著がある。
 ーその序文の一文であるー
《 「雨が好きな人は少ないと思う。でも雨は私たちの精神、感情、人生を隠喩し、
  そのメタファーは天地万物の理解にまで及んでいる。 ・・・
  雨を好きになり、雨を眺め、雨音に耳を澄ますようになると、不思議と一瞬一瞬を
  より深く、存在意識を持ちながら味わえるようになる。 》

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2026, 戦後生まれが 80%弱に
2006年10月20日(金)
(。^0^。)オッ(*^○^*)ハ~
「戦後生まれが80?」と新聞にあった。
私より年上は全体からみて二割弱しか存在してないことになる。
世界からみれば一割もいないということだ。
私が終戦の半年後に生まれたので、戦後生まれの境目の年代になる。
10年の区切りごとに「戦後生まれが何?」と発表されるので、
それがそのまま、自分より歳下の比率になる。
ある統計値を調べてみたら
ー私より歳下が
10歳時点で  25%
20歳で    40?
30歳で    50?
48歳で    66?(三分の二)
60歳の現在は 78?
75歳で    90?が歳下になる。
 
  それにしては地方のせいか、老年が多く目立つ。齢を重ねるとともに、当然のことながら
年上の人が少なくなり、そして自分も消滅していく順番になる、それが人生というもの。
現在の平均年齢は38歳という。新幹線で通勤していても、背広を着ている同年輩は少なくなった。
いつの間にか、歳を重ねてしまっている。
歳を重ねるにしたがい、世の中が澄んで見える反面、新鮮な感覚が少なくなっているのに気づく。
人生二度無いと何時も口癖にして、その時々にやれることを 最大限実行してきたつもりだが、
まだまだやり残していることが無限にある。誰もだろうが・・・
\(^▽^*)バイ!

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2005年10月20日(木)
1661, 腰痛ー3
過去に何回か腰痛について書いたことを思い出し、HP内の検索で調べたら一昨年と三年前に書いてあった。
家内からは、去年の10月に腰痛になっていたといわれたので、毎年一度は腰痛になっていることになる。
例年、5月の連休前後か11月になる。
今年は、イタリア旅行でなってしまった。軽い時で、二週間。重い時は一ヶ月近くかかる。
今回の腰痛は全治三週間である。痛みのピークは一昨日で、昨日の夕方から反転して
時間ごとに良くなり始めた。しかし、油断をすると直ぐに元に戻る。
腰痛はきつい、そして気力が失われる。季節要因と内臓の問題もある。特に寒さに弱い。
そういえば5~6年前に、思いで深い腰痛があった。横になっても立っても何をしても痛いのだ。
脂汗が滲み出て、うなっているしかない。一回も医者にいったことが無いのが、腰痛に対する私の態度である。
しかし、その時だけは一人で救急車を呼ぼうとした。
ホッカイロを腰に当てて、時間を稼げば半月もすれば直る経験則がある。だから、ただ耐えるしかない。

ーーー
2003/11/13
953, 腰痛ー2
 腰痛のことは以前にも書いたが、一昨日の朝、例年どおり腰痛が出た。
いつも季節の変わり目に出るが、私の場合は寒さで体を冷やしてしまうのが一番の原因である。
いま一つは、パソコンを座って打っていると腰に負担がかかる。
今のところ時間をかけて暖めるしか方法はない。
 間接的には、パソコンと寒さがあるが散歩の後、屈伸とストレッチをしたのが悪かったようだ。
 腰痛になると何もする気が起きなくなる。
また一回一回ごの痛みの内容が微妙に違う。しかし今まで一回も医者がかりはない。
経験上、暖めていると長くて10日で大体直ってしまうからだ。その治療法を40年近くしている。
 インターネットで調べたら、腰痛にも色いろある。
デスクワークの人や、お産や生理が原因であったり、内臓の負担からくるものや、運動のやりすぎ、等々ある。
今朝おきたら3分の1位に痛みが減っていた。全治四日の予測が当たっていたようだが、どうなることやら。

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401, 腰痛 - 1   
 2002年05月09日(木)
昭和38年の三八豪雪の時、長岡高校の屋根の雪落としをしていて、腰痛になってしまった。
母が腰痛もちで、よく腰が左右に曲がっていたのを見たが、それがそのまま遺伝したようだ。
腰の骨が本当に左右にずれるのである。その時の痛みは言葉に言いがたく、脂汗がにじみ出る。
大体が季節の変わり目に出る。
その対策として15年前から散歩を始めたが、今は腰痛対策というより、精神的肉体的両面の
健康のすべての対策になっている。散歩も一日30000歩を超えると、逆に腰痛になる。
人間の今の身体の構造は、歩く前提で出来ているという。何かあったら歩くのが一番自然だ。
腰痛は猿が人間に進化する過程で、腰に不自然な力がかかるようになった。
その結果、人類共通の持病になってしまった。
歩行がその対策によいことは、15年続けての実績で解る。しかし完治はしない。
腰痛が出はじめたら、ホッカイロをその部分に当てるのが一番効果がある。
(母の対策を見て知ったことだが)それで4~5日で直るからだ。
医者には一度もかかったことはない。あとは腰痛と仲良くしていくしかない。

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2004年10月20日(水)
1296, 新潟市官製談合
 昨日の全国紙が数社、一面トップで「『新潟市官製談合』で強制調査」を取りあげていた。
今朝の新聞では「新潟市役所の幹部を逮捕!」と出ていた。
やらないよりよいが、今さら何をやっているのかの感がする。
自民党の(土建たかり派閥の)衰退が背景にあるのだろう。
このコーナーで、当初より何度か、政治家を含めた国家的犯罪を指摘してきた。
かなり、偏った見方ではないかと思われた人が多かっただろうが、こうして、マスコミに出る様になった。
現在の日本は、自民党の土建族の議員を金目とした、ゼネコン・マフィアシステムが全国津々浦々まで
張り巡らされいるのだ。巧く見積もりを出したつもりでも、設備屋とか、鉄骨業者から全てが筒抜けになる。
彼等は薄ら笑いしながら、談合をしているのだ。ちなみに仕切りは新潟県では、
・箱物は大成建設
・土木は鹿島建設
というのは、その筋では公然の秘密?である。末端の市の幹部本人にとって、マフィア・システムに
沿って前の上司の談合汚職の手順を、ただ受け継いだだけだ。
そこで今までの流れに反することをすれば、直に左遷される。
それなら自分にとっても利益になる談合システムに誰が逆らえるだろうか。

全国の市役所で、恒例的におこなわれているのは誰の目にも明らかだ。
恒例で彼ら土建担当が定年退職をすると、第二の職場としてゼネコンの「名刺部長」と採用され、
元部下に談合を半強要する。担当者も定年退職後の職場として想定しているので従いざるをえない。
お互い、一石二鳥の構造汚職システムとして利益になる。全く面白い国である。
「その何処が悪いのだ!という、感覚が面白い」のだ。
グローバル・スタンダードのよいところが、こういう部分で出ている。
地元最大手の??組の社長と、土建派閥の故竹?の娘が確か結婚をしていたようだが。

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[242] ゼネコンー2
2001/11/25 10:18 NoName
 同じ見積もりでも、3~4割の値段が違ってくる。平気で目の前で2000万・3000万、
いや数億の値引きをする。普通の感覚の世界とはかなり違った世界である。今の不況の原因をつくったのは、
ゼネコンの存在が大きいといってよい。日本的特質がそのまま現代的に残っている。この30年近くは
ゼネコンの付合いを欠かせたことがなかった。社会勉強をその世界を知る事で,たっぷりさせてもらった。
悲劇、喜劇の渦巻く世界でもある。しかし男の世界でもある。新しい創造に携わるからだ。
よしやるか!という決断から、彼等との付合いが始まる。彼らのシステムに現場主任(現場代人)と言う
責任者が、殆どの権限を与えられる。その能力次第で完成のレベルが違ってくる。
システムを含め、やはり大手の会社はしっかりしている。
何年か経つとそれがわかってくる。またフォローの体制が大手ほどいい。
大手と準大手では総て含め、建築費に5~7パーセントの差があっても、それだけの出来上がりの差がある。
その業界が現在大きい危機に瀕している。供給過剰なのである。
それは20年前から言われていた。しかし減ったというより、むしろその数は増えている。
ある売り上げの量が、役所のその格づけの大きい判断材料にされる。
その為原価割れでも、請け負う事がある。その反面その役所から談合で元を取るのだ。
今でも公然である。そのつけは国民にきているのだが、誰も知って知らぬふりだ。
この体質の結果が今の危機になっている。
工事には「箱物」といはれるビルと土木がある。それと民間と公共にわけられている。
公共は今はどうか?解からないが、100?談合?である。民間の工事もかなりの確率で談合と云われている。

設計事務所も設備とか建材とかで、メーカー指定をしてそこからはねる?こちらもそれを解かっているから、
見積もりを出す時指定外でもよいといって渡す。そういう関係・因縁がびっちり詰まっている世界である。

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2001/12/21
ゼネコンの世界-1
 26歳から増築2回も含め八回工事を経験したことになる。
そしてその業界の深さ、得体の知れない不気味さを書いてみよう。
まずは「談合世界」が基本にある。それと業界の情報網がある。
国家が認める?犯?システムである。こんな事を書いていいのか?もちろんよい。
誰も告発は出来ないからだ。全員が解かっていながら薄ら笑いをしながら、集っているからだ。
イタリヤのマフィアの日本的国家版だからだ。私ら素人?が如何あがいても、どうにもならない世界である。
新潟県のその大本は「大成建設」という話を聞いた事がある。ヤクザの世界にそっくりだ、いやそのものだ。
普通の素人は、その世界に入ってきた子羊一匹といったところ。その中で自分が出来る最大の抵抗を試みるだけだ。
考えてみれば、出来上がりの製品を買うわけでないし、設計事務所を100パーセント信用してよいわけがない。
甘ければ甘いだけ商品の価値を下げた建物を造ってくる。それとその噂を聞くと、
色いろな因縁を作って業者が寄ってくる。もし親戚とか同級生の業者を入れたとしたら、そこはノーチェックとなる。
それがあるから彼らは因縁があるほど有利になる。もしそれが成立すれば‘いただき!’である。
そんな善意(利害をを目指した因縁)は金を屋上よりばら撒く以下だ。
その連中(騙す奴と騙される奴)がいるから、世の中が成り立っているのだ。
こんな事を書いているだけ、私が純粋か低脳だからだ。もちろんこのバラシを楽しんでいる。
建物を創るほうから見れば、命を懸けた魂の塊だ!もちろんそれを受けるほうもそうだ。
だから談合もあるのだろう。

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2003年10月20日(月)
929, 忘れられない「悲しい話」
 昨夜は知人の父親が亡くなり、その通夜であった。
87歳の大往生であったが、親の死は傍目で見ているよりずっときつい。死は直視できない。
 死に関しての悲しい話を書いてみる。
我家の分家は二軒ある。
父が長男で、弟が二人いたためである。
長岡にその一軒がある。
母の7回忌にオバが来てくれた。
86歳で影が薄かったのが印象的であった。
その半年後にあっさり亡くなってしまった。
母の法事で「こういう会に出れるのは最期では」というのが、もの悲しかった。

 その時の酒席で、「人生で色いろ多くのことがあった!」と言っていた。
その数年前に溺愛していた長男が自死をしていた。
そして、その数年前には近くに嫁いだ長女が癌で亡くなっていた。
そのうえに、長男の葬式を取り仕切っていた長女の亭主も数ヵ月後に自死してしまった。
その時「自死する気持ちが良くわかる!」といっていたのが気になっていた。
また叔父は40年前に亡くなっていた。そのことは触れず、ある子供の死のことを打ち明けていた。

「赤ちゃんを病気で死なせてしまった。今の技術では助かっていたのだが、当時は仕方がなかった。
病院から死んだ子供を家に一人で背負って帰るとき、段々子供が冷たくなって死後硬直をしていくのが
背中を通して感じた時は、本当に悲しかった!」とシミジミ言っていた。
 最後、私にその悲しみを言い残しておきたいのだろうと思った。
聞いているだけで、その時の悲しみが、そのまま直に伝わってくるようだった。
 叔母は天理教の熱心な信者になることで、その苦しみの数々を乗り切った。
最期の最期は、宗教しか人間の苦しみを救うことが出来ないのだろう。
「神はあるかないかでなく、あらねばならない」という言葉が、こういう話を聞くと納得できる。

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555, 針と糸
- 2002年10月20日(日)
 先日、25年来の知人と酒を飲んだ。大手の支店長をしていたが、請われて奥さんの
実家の専務に3年前に納まった。地元の中堅の会社である。義弟が社長で大変だろというと、
糸と針の喩えで自分が糸に割り切ってしまえば問題がないといっていた。
面白く、ずばり本質をついた喩えにいやに納得をした。社長業を針というのも上手い喩えだ。
時代に対して一点集中で鋭く縫いこむのが社長業だ。何か耳が痛いが、もっと痛い人が今は多いだろう。
この針と糸の喩えを社長専務の関係だけでなくいくらでも云える。
このテーマ随想日記もそうだ。テーマが針、それに対しての随想記が糸である。
なかなか良い針が見つからない。糸なら経験がたっぷりあるから?いくらでも材料はある。
戦略と戦術の関係もそうだし、頭脳と心の関係も、夫婦の関係もいえるだろう。
夫婦では最近はどっちが針か糸かハッキリしないが。それを使い分けるのはあくまで主体の自己ある。
最近は布ー服の流行が激しく変わっていくので大変だ。デザインの選定と工賃も厳しくなっているし、本当!!

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[192] 種銭ー2
2001/10/20
物覚えのついた4~5歳のころから、年末の31日にお年玉を姉兄揃って貰った。それが楽しみだった事を思い出す。
一旦渡しておいて、次の日に全額取り上げられるのだ。そして貯金通帳に入れられてしまう。高校になるまで
それが続いた。そして高校に入って暫くすると、なにか株を自分で考えて決めろと言う。
そしてある株を買った。その日から株式のコナーを目を凝らしてみるようになった。
子供のころから、両親に玩具を一回も買って貰った憶えがない。
友達の家に行くと、箱に玩具が一杯入っているのを見て、信じられなかった事を今でもありありと憶えている。
といってお年玉は自分で稼いだ金でないことも確かだ。株の上達の本を読んだとき、「まずは種銭をつくれ、
それも強い金でなくてはならない。それは自分が汗水を流した芯のある金でなくてはならない。
そういう金でなくては株で利益は絶対にあげることは不可能だ」これは事業でも当たり前だ。
しかしこの強い金を創るのが一番大変なのである。父は子供たちに、我慢をしてまず種銭つくりを教えたかったのだ。
お金に対してシビアなのは、実際のこういう教育があったからだ。実際のところ、金に対してみるところあまりにも甘い。