つれづれに

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 一昨日の「シネマの日」 『エリジウム』を見てきた。   評)85点
金持ちは、何処かの星に移住。貧乏人は地球に貧しいまま、残され過酷な労働を強いられる。 
その国に行けば、各家庭に病気を治す、マシーンが設置されている。
地球の難病の人は、そのマシーンでの治療をしたいため、命懸けで行こうとする。
 これは、現在の世界の貧富と高級住宅地区と、下町を揶揄したもの。
それを解説などで知っていて見たこともあり、非常に面白く見ることができた。

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1998, 「私」のための現代思想  -2
2006年09月22日(金)
第一章 「私」を縛るものは何か ー?
ーまずは問題とは
まず「我われの世界は正しいのか」という問題をまず考えなくてはならない。
我われの世界には正しい部分と、腐った部分がある。《「世界」と「私」は、ともに腐っていく》
という方が解りやすい。この世界で自分が腐っていくのを実感することは、さらに腐敗に
まみれないようにするためには、非常に重要である。
 我われを拘束する要素として、<言葉><価値><社会>が考えられる。
ー言葉ー
私たちは<言葉>を使ってこの世界を認識し、他者に何かを伝えます。言葉は「思考の枠組み」であり、
便利な道具ではあるものの、逆にその「枠」の外には出られないという意味で束縛となる場合がある。
ー価値ー
 私たちは何らかの、<価値>を求め、それに照らし合わせて自分の行動を決定したり選択したりします。
 自分が重要だと考えている<価値>そのものが、私たちを束縛している場合がある。
ー社会ー
この枠組みは、私たちがよりよく生きるために構築されてきたものですが、
そこに窮屈感や閉塞感が出ることがある。これらは「束縛」となる場合と、
「自由になるための武器」になる場合がある。この束縛から脱するには、これらを得なくてはならない。
得るためには、まずは言葉・価値・社会とは何か知らなければならない。
 まずはーー《言葉》についてーー
言葉の機能の中心には「分類」があります。これは、言葉は「私たちが知覚したものを分類する」
ために用いられるという意味である。私たちが「何かを学ぶ」ということは、ー社会において
重要とされている分類基準を自分のものとするー
ということを意味しています。このとき私たちは、少しだけ「自分を殺す」ことになります。
それが「大人になる」ということであり、「社会化する」ということです。
 フランスの精神分析家のピエール・ルジャンドルは  =換言すれば、    
「 自己と世界に対する関係は言葉のスクリーンを経由する 」ということです。
人間のアイデンティティには複数の水準がありますが、自己への同一化(主観的なアイデンティティ形成)と、
世界の同定および世界への同一化ということです。その全てにとって前提となるのが言葉のスクリーンなのです。
自由に「思考」するためには=「他人の考えるように考える」ということは、重要である反面、
「他の人が考えるようにしか考えられない」という状況を発生させてしまう。
そのときに人は「言葉による束縛」もしくは「言葉の専制」を実感します。そうならないために、
‘社会の側の分類規準は便宜的なものでしかない’ことを、しっかりと把握しておかなくてはならない。
自分を殺さずに、社会の側の分類規準と上手くやっていかなければならないが、そのとき重要なことは、
「言葉の主人は自分である」という意識を持ち続けることである。
すなわち言葉は、
  自分を拘束するものではなく、
  認識の道具であり、
  意思伝達の道具であり、
  思考の道具である。
言葉が「意思」伝達の手段である時、私たちは社会の側の分類基準に従わなくてはなりません。
しかし言語が「認識や思考」の手段であるとき、私たちはそれに必ずしも従う必要はありません。
問題は、認識と思考のための道具である言語を、伝達のための道具として使ってしまったところにあるわけですから、
その用途を明確に区別することができれば、その束縛から逃れることが可能になる。
しかし、実のところ容易なことではありません。
 ここで、思考や認識は、単に「思考し、認識すること自体」を目的とするのでなく、<価値>という基盤の上に
存在する営みだということに注意が必要です。私たちは言葉を使って何らかの<価値>を実現しようとしています。
 次には、 その<価値>について考えていくことにします。
 ー感想ー
 この随想日記を書き続けることの束縛が、反対に言葉の束縛を一つずつ開放してくれる。
一つの束縛が、一つの開放の獲得になる。要は、それぞれの束縛が物語としての基盤になっていれば、
それが人生の物語の完遂になっていく。まずは、言葉による自分の物語の構想を若いうちからしておくべきである。
 それが、その人の価値観になるのである。
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2004年09月22日(水)
1268, 大相撲に思うーつれづれに
大相撲が始まると、相撲について書くのが恒例になってしまった。場所ごとに刻々と、相撲の様相が変わっている。
最近は、朝鮮相撲、モンゴル相撲、レスリング、そして日本相撲の「国別異種格闘技」の様相に変ってきている。
外国人の出身地もハワイ、アメリカ大陸から、モンゴル・旧ソ連圏になってきた。
彼等は、お金を稼ぐという目的がハッキリしていて、ハングリーなのだ。
それと骨格も違うのだから、日本人がどの面から見ても勝つ要素が少ない。
異種格闘技のK-1では、日本人がほぼ駆逐されてしまったが、相撲も、あと一年で大関横綱
ほぼ外人で独占されるだろう。国別異種格闘技として割り切って大相撲を見ると、むしろ面白い。
日本人も個性的な面白い力士が出始めてきている。小さくて、その小ささを武器にしている力士や、
気力を売りにして神がかり的相撲をとる高見盛などである。一つ気になるのが「一部屋に外国人一人の制限」である。
ある新聞の冗談とも、本音ともいえる提言が書いてあった。
「外人枠を撤廃をして、東西それぞれを日本対外国人に分けて対抗戦にしたら!」
なるほど、そのとおりにすべきである。前半は外人対日本人、後半交流戦とかして。これこそ、グローバル化である。
これに、今のプロ野球を重ねると、面白い姿が見えてくる。このプロ野球の恩恵を受けていたのが、
日本のトッププレーヤーである。グローバルに見れば二流選手(大リーグからみた)でしかない。
2Aか3Aクラスの選手が、二倍以上の年収を受けていた事実が判明した。
今回の騒動の中で、それが露出されるだろうから皮肉なものだ。相撲も、プロ野球も大きな曲がり角にきている。
TVでは巨人戦を開幕来、殆どみていない。しかし大リーグは結構見ている。

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2003年03月12日(水)
707, モンゴル大相撲
 先場所の各段の優勝は序二段を除いて全て外人が取ってしまった。今場所からは、両横綱とも外人である。
外人力士が50数名いるうち8割がモンゴル出身である。下位の有望力士の大部分が外国力士という。
数年後には幕内上位は大部分がモンゴル人に占められる可能性が出てきた。
 今の横綱朝青龍より強くなりそうな素材を持ったようなのが私の目で見ても数人はいる。
彼らはモンゴルの大地で羊の肉を食べ、馬に乗り自由に生きているため骨格からして違う。
 更に所得が日本の100分の一しかないために、関取になれば数ヶ月でモンゴルの一生の生活費が稼ぐ。
目の色が変わるのは当然の事である。今の日本人が敵うわけがない。
 日本の相撲のルーツはモンゴル相撲という説が有望である。グローバルの時代、それでもよいと
割り切ったほうが良いだろう。一時代前には考えられなかったことだ。ロシアに朝鮮にアメリカにモンゴル人と
面白くなってきたが、日本人だけと割り切っていた方がよかったのかもしれない!
巨人・大鵬・玉子焼きの時代は終わったのか。
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[154] 性善説性悪説   
               2001/09/22
以前、身近に[おれは性善説だ]と口癖の男がいた。本当に性善なら‘それを売り言葉に使うのがおかしい’
という事も解らない。 人間なんぞ性善も性悪もごちゃ混ぜになっているもの。
光のあて方でどうにもとれる。「性悪の路線の上を性善で走れ」あたりが少しもっともらしいのかもしれない。
 善良は、ある状態ー苦労やぎりぎりのところに立ってない状態ー
でいっている戯言でしかないというと、言い過ぎか。善悪とは、多様にあり解釈の結果でしかない。
詐欺師やその手合いはその事を熟知している。従って善良という言葉の衣服を綺麗に着こなす。
 本当に世の中、悪がいる!芯からの悪党がいる。
その人間が‘俺こそは実は性善’だと信じていたら、手のつけられない悪党になれる。
それか、政治家いや政治屋向きであろう。 自分中に隠れ住んでいる‘邪悪なるものと神聖なるもの’と、
とことん付きあってみれば、性善説性悪説は見方の一片でしかない事にきずくはずだ。
 どうでもいいことだが、言葉の遊びレベルでいっているだけだが。