つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=k05PX_N5KKk&feature=endscreen

 先週の金曜日に行く予定だったシネマの『エンド・オブ・ウォッチ』、午前中に見てくる。
まあ、暇ということだが、これも面白い。全米NO・1のヒットというのも分かる。
ただ、上映時間が、どんどん少なくって昼上映が無くなる可能性があったので、
敢えて午前中に行くことにした。それにしては20人は入っていた。主役の二人だけでなく、
対峙するギャングも面白半分にビデオを持っていて、その映像を通して物語が進む。
 明日の閑話小題に取り上げるが、面白い設定で、新鮮である。


H0701
事業百訓  
446 “ドーナツの穴”、あれこそ色即是空です。
  ああそれと小沢昭一がいった“色っぽい事をすると空しくなる。
 ”あれも、まさにその意味をいいあてている。 -永六輔
  447 業態とは損益分岐点である。-ヨーカ堂、鈴木社長
  448 「自分なりに」を禁句とせよ!
   自分を限界づけて、その範囲内という意味におちいってしまう。-田舞徳太郎
  449 ほうたいをまいてやるなら、他人の傷にふれてはならない。-ヘッセ
  450 人の痛いのは三年でも我慢する。-ことわざ
  451 好きな事より、してよっかったと後で思える事をせよ。-ドバル
  452 真理はしばしば矛盾の中にある。
  453 釈迦については、人類史上最初に人間の肉体と人生より“精神”というものを抽出し、
それを凝視し、よき作用を見、悪しき作用の機能を指摘した。
   さらに悪しき作用を押さえこむ処方まで与えた。それが仏教であるといえる。
   この凝視と方法に医学が気付くのに十九世紀末のフロイトまでまたねばならなかった。-司馬遼太郎

H0701
テーマ日記
 二年前より日記を“テーマ日記”方式に切り換えた。なれるまでは大変だったが今ではけっこう面白い。
この文も去年の一月七日の“テーマ日記”が下敷きになっている。思いつくまま“テーマ”書き、
それをもとに内容を書く。前日みた“TVドラマ”がテーマであったり。前夜みた“夢”の内容であったり、
“父の思い出”“年記”(年末に日記風に一年をまとめた内容)、“読書感”であったり。
あとでふり返って読んでも面白い。いかに普段あまり深く考えてない事と、その時点の自分の興味の
変化がわかる。“日記”より雑記に近いが…。(随想、随筆の難しさがよくわかる。)

H0703
事業百訓
455 行動の動機が、行動の本当の判断基準である。みかけ上は同じような行動を千人がする。
 本当はその動機が違えば、みな違うものである。<なぜなら行動とは意志のことだからである。>
しかし意志は行動と同じではない。<行動せずに考えたり、意志したりすることは、
そこにチャンスが存在するとしても“壺”の中の炎や、砂にまかれた種と同じである。
燃えずに消え、芽を出さずに死んでしまう。>
仏教徒と同じようにスウェデンボルグは、人間とはその人の意志した行動の総和だと断言する。
<人間の霊的肉体とは彼が自分の意志によってした行動以外の何ものでもない。>
そして<天国への道は、この世の外にあるのではなく、この世にある。>(スウェデンボルグ伝より)
456 自分の“木”をみつけるべし。さがしつづければ、ある日その木はどれだと判るはず。(山尾三省
457 (a)七千万年前に原始ザルが生まれ、  (b)二千年前に霊長類が生まれ、
  (c)七百~八百万年前に今の人類の原型が生まれた。  (d)一万二千年前に農耕がはじまり、
   地球上に三百~四百万人の人類が存在した。
   人類は“森林”の中で天敵がなかった。  その為自らのうちに敵を持つシステムをつくっていった。
   (戦争という)―河合雅雄
H0703
ブラジル旅行記
“行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。カーニバルはリオディジャネロだけでなく、
全国津々浦々の都市で行われており、四日間全国がお祭りの為休みとなる。その最も有名で世界的に
知られているのがリオのそれなのである。
リオのカーニバルのランクがA・B・Cとなっており
Aランクが9チーム、
Bランクが15~16チーム、
Cランクは数十チームとなっている。
AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー800mを80分の持時間で踊りながら行進する。
そこは六万人の観客席があり、審判席で厳格に審査され、その年の優勝等順位があらそわれる。
そのチケットは一般の人はほとんど入手不可能である。TV新聞等で目にするのはCチームが
街頭で行進するものでしかなかった。
チームは四千名が1チームで構成されており、それが約500名×8チームに細分化され統一の
コンセプトのもとに仮装が華やかにつくられている。音楽も各チームごとに毎年新しい
コンセプトのもとに有名作曲家が名誉をかけてつくる。その作曲も採点の大きなポイントになるという。
一日6~8チームが夜の七時より翌朝の七時まで延々と踊りの行進が続く。
観客席もその行進曲にあわせて半数以上が踊っている。音響もすさまじく隣の人の声は全く聞こえない。
上位数チームが翌週の土曜日に優勝をかけて再び行進がおこなわれて、優勝チームは10億以上の
賞金がつき、かつ翌年に向けてのよいスポンサーが約束される。
その年の山車とか衣装は翌年に持ちこさずすべて破棄するという。
カーニバルをみていて“気”とか“色即是空”とか“禅の悟り”が、すべて含まれている。
東洋的なこのような言葉が小さくみすばらしくさえ思えるくらいだ。
ブラジルの印象を書くと、
“サッカー”と、“サンバ”(カーニバル)と、“森林”と、
イグアスの滝”そして“汚職まみれの国”である。さらに加えるなら“まずしさ”である。
H0705
バンジージャンプ
 ナイアガラの二倍の落差のビクトリア大瀑布に息をのみ、そのまま進むと、
ジンバブエザンビアの国境を結ぶ小説等で有名な鉄橋がみえてきた。
よくみるとバンジー・ジャンプで丁度人がとびおりたところであった。思わず“私もやりたい!”
今年の五月にニュージランドで43mの高さを挑戦!今度はその二倍あるという。
現地案内人の黒人女性も、私の気迫におされてOKの返事!
一度国境を出てまったく無国籍の橋の上へ。国境警備員も本当かと何回も念を押した。
そして……。飛び込み台に立って気がついた高さと恐怖心は正比例である事に!
氷つくような恐怖心!後ろをふりむいて“やっぱりやめた!”という一瞬の気の迷いを振りほどいてジャンプ!
何と次の瞬間思いもよらない脳の奥より声!“目をあけてみてみろ!”何とそこには高速道路で170?の
スピードで車をはしった時の世界と、同じような空をとんでいるような感覚。いやに緑の木々の印象の強い
光の中をつきぬけていく風景がみえてきた。さらに恐ろしいのは50m位の中間で何分か宙づりにり、
橋まで再びひきあげられるまでの恐怖であった。(次はヘリコプターよりのジャンプ!?)
ニュージーランドバンジージャンプ
四十三mの渓谷の吊橋より足首に一本のゴム紐をつけて飛びおりるゲーム。
まさに“身も氷るおもい”そのものであった。あの飛びこみ台は死刑台と同じ感覚ではないかとその瞬間思えた。
立って下を見た瞬間まさに金縛りそのもの。自分は何でこんな事をしてしまったのか。
まさか自分がここより飛びおりる?…本当に恐怖のどん底とはあの瞬間であった。
そういえば現地の日本人ガイドが私の申し込みに、四回も私の目をみて念をおしたのも頷けた。
また、その後にのったジェット・ボートの現地の運転手が、その事を聞き真面目な顔で“クレージー”。
(ニュージランド、クラフトチャーチ)

H0705
事業百訓
458 “才能とは自分で決めること、そして人として最も大切な事は
   他人とは何かを考える事。”(山川方夫
459  競争対策とは“差別化”のことです。
   それはより徹することでのみ勝者となります。
   徹することは、より例外を少なくすることです。
   換言すれば“標準化”の徹底ということですが、
   それは内容を“単純化”しないと一向にすすまないものです
  (3S主ギ)―渥美俊一
460 「いや、あの世があるかどうか私にも判らない。
   ただ死ぬ瞬間に“これからいいところにいける”と思って死ぬのと、
   “これから荒涼たる荒野を生ぐさい風と一緒に永久にさまよう” と考えるのと、
   “なにもかも虚無だ”と考えるのと、この三つを並べて考えると
   “楽しいところへ行ける”と考えるほうがよい。
   そこで死ぬ瞬間に、それが信じられるように“想像力”で、一生かかってあの世は
極楽だというイメージを頭の中につくりあげている。それがカトリックというものです。 
   -「上智大学のホイベルス神父」     ―(井上はじめ、司馬遼太郎対談より)
461 “私の経験からすると、 (夢)というのはまさに人間の魂そのものだと思います。
  夢を持っていない人間は、本当に魂がなくなってしまいます。
  カリブ海には一種の魔法使いがいるとされています。そして人の魂を奪ってしまうことがあると。
  そのぬけがらが映画になったゾンビ。  目が大きくなって中をみると何もない…”
462 アインシュタインでの(相対性理論)もう一つの重要な意義は“物質とエネルギーは交換することができる”
という認識である。物質は一つのエネルギーの形態にすぎない。またエネルギーの減速している状態、
または結晶化したものにすぎない。 私たちは肉体もエネルギー体そのものである。…(光の手…)
463 個人レベルでは、現代心理学や精神開発の世界により深くかかわっていくと、
  either/or(どちらかが)の古い形が、both/andの形にとけこんでいくのが判る。 そこにはもはや
善や悪が存在しない。誰かを憎むとか愛しているかでなく、 もっと自身の中に広大な能力に気ずく。 
同じ人間に対して愛と憎しみを感じ、その中間にある総ての感情を感じられるようになる。……
464 人(他人)を指さす時、他の指はすべて自分の方をむいている。(人を批判する時、その大部分は自分にあてはまる)
465 みんあ(自分にとって)自分が主役!
466 欧米等のキリスト教イスラム教にとっての神は、大文字のX(エックス)であるが、
  日本人にとっての神は小文字のxのn乗(神々達)である。従って同じ目線で議論は無駄であり…
467 あなたの事情よりチャンスを考えるのではなく、チャンスよりあなたの事情を考える事だ!
468 「それにしても一体何が残るのだろうか? よく判らぬが私は“想い”が残るとあえている。
  “想い”の“深さ”が残る。  “想い”をつめると幽霊になるという。
   だから幽霊がいたとしても少しも不思議ではない。」(葉山照葉)