つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=-B3OFHmhsRM

 初日の花火で見ていた場所が最悪だったようだ。
で、二日目は、二年前まで行っていた水道町公園近くの土手にした。
少し遠いが、「フェニックス」や「天地人」は例年どおりで、前日良くなかったのは、
私たちの席取り。最悪の場所のため、そこだけ、人が少ないだけ。
 こうして、録画をみると、d私の偏見でしかなかったことになる。


・・・・・
2004年08月04日(水)
1219, 「君のためにできること」-2 
20年来、年に10回は酒を飲んていた友人が末期癌になり、
終末医療の病院のビハーラに入院している。本人が言うには、「24時間が拷問である」
見舞いに行くたびに衰弱をしていくのが、わか解るから辛い。
丁度その時に、この文章を読んだこともあって身に沁みる内容であった。
お盆は20年近くも、古町を飲むのが恒例になっていた。
そして、今年もその時期が目前になっているが、もう無理である。何か寂しいお盆になる。
ー以下は、作家・大崎善生の奥さんの高橋和の「第24回 言葉にできない」のエッセーであるー
 (サロンのコーナーに、HPが貼り付けてある) 
  
あれはもう15年以上も前の話になるのだろうか。将棋道場へ行った日だから土曜日のことだ。
夕飯の匂いが辺りに漂い始めたころ、友人から電話がかかってきた。 「ワガセンが死んじゃった……」
 ワガセンは小学校時代にお世話になった先生だった。
私を見つけると「おーい、やまとー」と言いながら髪の毛がくしゃくしゃになるまで撫で、
最後にニッと笑って去っていく。風貌はライオン丸、でもその目は穏やかで優しく、大好きな先生だった。
 ワガセンが亡くなったことを聞いた私は無意識に足がガクガクと震え、初めて自分が悲しんでいるのに気がついた。
物心ついてからそれまで「人が死ぬ」ということに直面したことがなかったので、これが大切な人を失う
喪失感なのだと理解した。しかし、頭で理解するのと感情は違う。もう15年以上経っているというのに、
顔も忘れかけているというのに、あのワガセンの瞳だけは記憶よりも鮮明に心に焼き付いている。
『あなたに会えて ほんとうによかった 嬉しくて 嬉しくて 言葉にできない』
 小田和正さんの名曲「言葉にできない」。言葉にしようとしても、それが見つからないというこの歌は、
聴いた人それぞれにそれぞれの思いを抱かせる不思議な力をもった曲だ。
それはおそらく、誰しもがそういう出会いと別れを経験してきたからなのだろう。
 その中でも特にもう二度と会えない人との別れには、深い後悔と感謝の気持ちが入り混じる。
  ーー
「息子のためにサインを書いてもらいたい」。そんなメールをいただいたのはちょうど3カ月前のことだった。
インターネットという顔の見えないところでの話だったので、半分は信用し、半分は疑いの目を持っていたことは
事実だが、とにかく本人に手紙を書かせてください、と私は返事をした。
 彼は10歳の男の子だった。どこで知ったのかは分からないが、私が子供たちに
将棋を教えているのを知り、とてもうらやましい、自分も教えてもらいたいのだが、
体調があまり良くないので行けない――といったことが綺麗な字で書かれてあった。

少年がくれたクマのぬいぐるみ。「2つあるので1つあげる」――そんな優しい心の持ち主だった(撮影・高橋和
「おとうさんから高橋先生もこどものときにこうつうじこで大けがをしてたいへんだったことをききました。
まだいたいですか。いたくならないようにおいのりしています」。
 私は10歳の子がこんなに心配してくれるなどとは思ってもみなかったことだったので、
なんだかとても嬉しい気持ちになり、お礼の手紙と一緒に色紙と使い古しの扇子を送った。
 そして彼からまたそのお礼の手紙が来て、その返事を私が出して……
という具合に手紙をやりとりするようになっていった。
 どんなことが好き? 夢はあるの?
 手紙の内容はそのようなものだった。しかし彼の手紙は必ず「せんせいのあしがいたくならないように
おいのりしています」という言葉で締めくくられていた。
 私が“異変”に気付いたのは2カ月ほど経ったころ、彼の手紙の文字を見た時だった。
今まで上手に書かれていた文字はだんだんと大きくなり、そして少しゆがみ始める。
 この時、彼は既に病魔に襲われていた。震える手を抑え、必死に書いた手紙は、身体中に管を巻きつけられ、
痛さに震えながら書いたもの。後に彼のお父さんからのメールで、「お医者さんに話をしたら、今の状態で手紙を
書くのは奇跡のようなものだ」と言われたくらいに書くことなど無理な状態でのものだった。
 しかし、そのような中でも、彼は「せんせいのあしがいたくならないようにおいのりしています」と書き続け、
実際に亡くなる前日まで毎日祈りを捧げてくれていたという。
 普段私たちが軽く口にする「優しさ」というものがいかに傲慢で、独りよがりで、
優しさでも何でもないことを痛感させられた。人は人を深く思いやることができることを10歳の少年の方が
よく分かっているのだ。彼はもうこの世にはいない。しかし、彼の優しさは私の胸の中でいつまでも生き続けることだろう。
ー感想
「死は直視できない太陽のようだ」というが、この子の肉体的苦痛は、想像を絶したものであることを
見つめてやらなくてはならない。その中で、憧れの先生に対する苦痛に対する祈りは、キリストが十字架で
苦痛の中で死んでいった姿に重なる。何かにすがりたい、「いつまでも友達でいてほしい」という願いが心の奥に
響いてくる。このような手紙をもらったら、本当に辛いであろう。人は簡単にすくうことはできない。
神様でないのだから。そして神は必要なのです。

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2003年08月04日(月)
852, 孤独について -3
 『人は人、我は我、されど仲良く』と武者小路実篤がいっていたが、
それこそそれぞれの 「独」を認め、かつ自分の「独」を大事にする言葉である。
『和して同ぜず』も母校の長岡高校の校是であるが、意味がほぼ同じだ。
 孤独を特に感じるのは、一人旅であろう。若い人のバックパッカーの聖書になっている沢木耕太郎
深夜特急』という小説に、「独り言をブツブツ言いながら一人、旅をしていた」と書いてあった。
サルトルのいう「即自」と「対自」の会話である。青年期によく国内だが一人旅をした。
一人旅に出なくては精神のバランスが崩れてしまいそうであった。
帰ってくると何か大きなものによって満たされる感じがよかった。
旅行の最中は寂しいということは全く無かった。誰かと対話をしていたのだろう。
旅は孤独のプラスの異次元の世界に浸れる。いま振りかってみて、
「旅日記を克明につけておけばよかったのに」と悔やまれる。
「孤独」というキーワードで検索をしていたら、脳性麻痺の青年のホームページが出てきた。
「孤独などと軽がるしく使うな!」とどやされたようだった。口がきけない人や、盲目の人の孤独感は
想像すら出来ない。私の強みは「孤独に強い」と思っていたが、とんでもないことと思い知った。
「孤独は人を殺さないが、絶望は人を殺す」という言葉をアンドレ・マルローがいっているが、
孤独の中の絶望に潰されてしまうのが問題なのだ。その時こそ愛読書が一番自分を癒してくれる。
大いなる孤独ー作家の心ーとの出会いが本を通じて可能になる。
孤独であればあるほどその邂逅が大きくなる。
 いま一つの孤独で考えさせられるのが老人の孤独であろう。結婚後、母と同居をしている時にトラブルが
何回かあったときに、母が「独り暮らしの孤独の知人がいっぱいいる。彼等はどんなにトラブルがあっても、
子供から離れてはならないとシミジミ言っている。我慢をしなくては」とポツリと言った事があった。
知人に数人家庭内離婚者がいる。ほとんどが浮気がきっかけだ。
それでも離婚をして一人暮らしよりましの為だろうか。
一番嫌いなのは、孤独と孤立の違いも解らない輩だ。群れたがる内なる羊である。

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2002年08月04日(日)
477, 人口問題と今後の日本
先日平均寿命が発表された。女85歳、男78歳。
女性の半分以上が88歳の米寿を祝う事ができるという。
童謡で「今年60の爺さんの・・・」と歌っていたが、いまや爺さんは80歳か90歳である。
100年前の日本の人口は4400万人で、現在までに約3倍になった。
これから100年後は丁度半分の6000万前後になるという。
100年で3倍になり、これから100年で半分になる。
人口のピークは2006年で、翌年から60万人が毎年減っていくという。
100年前65歳以上が5㌫であったのが、後10年後には28㌫になり、
50年後は37㌫を超えるという。考えたら背筋が寒くなる。周辺は年寄りだらけになる。
よくぞ100年で人口が3倍になったものだ、それも第二次大戦をのりこえて。
更に国民一人当たりの所得が世界のトップクラスになったのだから。
この100年のシステムは奇跡的な効率であった。
そのシステムがもう終わってしまったことは、誰の目にも明らかである。
中世でヨーロッパの人口が飛躍的に伸びたのは、南米から芋などの穀物の種が流入したことと、
アフリカから椰子の実から取れた石鹸の流入という。高地で旱魃に強い芋などが飢饉を避ける事が
出来るようなった。石鹸は疫病を激減させた。日本のそれは工業化と儒教天皇制度が有効に働いた為である。
今後思い切ったシステムを作らなくては衰退の一途になるだろう。
それよりシステムの均衡縮小をバランスをとりながら目指すのが筋である。
今の若い人たちはこれから大変である。少し硬い話になったが。
デフレはますます進むし、中国の世界への仲間入りで間接的に生活の圧迫が厳しくなる。
これでもまだ90㌫手つかずで背後に控えているという。中国の人件費のアップは今後無いという。
中国の人件費は日本の100分の1、その中間あたりが落としどころとして、今の10分の1に無限に
近づいていくのが自然である。子供は一人っ子になっていきざるをえない。国内需要の右上がりは夢の夢だ。

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2001年08月04日(土)
[98] 現地日本人ガイド
旅行シリーズもそろそろ終わりに近づいてきた。考えると話題はいくらでもある。
現地日本人ガイドのことである。彼らによって印象が全く違ってくる。添乗員から聞いた話だが、
彼らが言い出さない限りあまり聞かないほうがいいらしい。彼らは考えてみれば、色々な事情で
そこでガイドをやっていて当然である。でもそれなりに見えてくる。
ここで数回に分けて事情を書いてみよう。
イスラエルのガイドの話。
63歳の独り者の男性のガイド。イスラエルに来て10年以上とか。
日本の客は本当に少ないらしい。滞在中一回しかシスターの数人連れしか会わなかった。
本人も久しぶりの日本人の為、うれしくて仕方がないらしい。
マイク口からはなさず、喋りっぱなし。一年前癌の手術をして、放射線にかかっているっらしい。
神学生崩れらしくて、神学のイスラエルの大学を卒業しているという。
旧約聖書にしても、新約聖