つれづれに

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 追い立てられるような人生を40数年過ごしてきて、ここで重荷から解放され、
思いのまま、気ままな日々である。 昔は良かったとも、大変だったとも今さら
考えることはないが、振り返ると自分の枠組みが見えてくる。
 そのときどき、精一杯取り組んでいれば、何かが開けてきた。
結局、時代が我々を動かしているのだ。時代のウネリの中で、どう判断するか、出来るかである。


 


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2005年07月06日(水)
1555, 将来の不安-3

不安について考えてきたが、図書館で島田裕己の「不安を生きる」という本があった。
2005年・4月10日発刊というから最近の本である。オウム教事件の時にオウム教擁護的発言で
バッシングにあって、東京女子大学の教授を辞めざるをえなくなった人である。
宗教学が専門のためか「不安」心理に対しては専門であり、深い。
宗教には「不安」に対する明確な解答が用意されている。不安と宗教心は裏腹の関係にある。
不安こそ誰もが何時も直面している心の闇である。その闇に神の世界を提示して見せるのが宗教である。
不安の正体を知ってしまえば、自然と解決方法は出てくる。更に不安を解消する一つの手段として
具体的にネットワークの存在を提案している。ー面白そうなところを抜粋してみる。
P-76
ところが不安がないということは、下手をすると今の状態に安住することにつながってしまう。
そうなると緊張感もなければ、進歩もない。進歩もないということは達成感もないということです。
イニシエーションという言葉を使えば、一つの役に挑戦することがイニシエーションになってくれない。
逆にそれをイニシエーションにするには不安が必要になってくる。心の安定ということでは、
不安を悩みに変えていく必要があるけど、安定は停滞につながっていくから、いっぽうで不安も必要になる。
海老蔵は、弁慶をやる前日に寝過ごしてしまったと思った時、これで役者をやめなくてはならないと
思ったそうです。それだけ不安を経験しているからこそ、不安が欲しいという発言が出てくる。
彼は不安を次の発展へのバネにしようとしている。
ーー
不安について以前にも書いてきたが、その対応として思い当たるものをドンドン書き出してみることだ。
それが悩みという具体的に落とし込むことになる。そして、その対応として思考と行動が生まれるきっかけになる。
そういえば、10代、20代の頃は、不安が常につきまとって、それがエネルギーになっていた。    ーつづく

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2004年07月06日(火)
1190, 大丈夫!-2 
 * 哲学について-13
ー不安の哲学ー キエルケゴール

「大丈夫!」を繰り返していうことで、漠然とした不安感が半減したと前に書いた。
これを読んでいて、もし鼻先で笑っている人がいたら、その人は表面的人生しか
生きてない人である!不安感は大きい人ほど、それは自分に目覚め、自由と可能性を考えているか、
生きているからだ。大丈夫!を繰り返すことは、その毒消しに単純だが絶大の効果がある。
単純であるが、どうしてそこまで心理的の効果があるかを考えてみる。
人間の不安の90数㌫は、考えすぎの影でしかない。ルーズベルト大統領が就任演説で言ったという、
「われわれが恐れるべきは『恐れ』そのものだけである」
人間は全て、恐れから派生する大きな影に脅えているのだ。
その意味で「大丈夫」を繰り返すこととは、90㌫の影を消す効果がある。
不安といえば、哲学者のキエルケゴールが主題にしたテーマである。
彼が考えた「不安」は「ああもなれる、こうもなれるという、いろいろな可能性を持っているからこそ、
不安が生まれる」と考えた。そして「不安はたとえてみれば目眩のようなものである。
・・・・自由がいまや自身の可能性をのぞきこんだとき、めまいがおこるのである」といっている。
若いときは、その意味で多くの自由と可能性があった。その分だけ、大きい不安が自分を支配していた。
そして絶望感に陥っていた。さまざまの可能性を持つからこそ、不安と絶望感があるのだ。
不安感が絶望へのプロセスを生むことになる。不安から「絶対的な何か」が欠けているという
絶望感に陥ってしまうのだ。「どうしようもならないもんな~」という言葉が出てきて、
そしてお決まりの繰り返しの暗い気持を引き込んで絶望の世界に入っていくのだ。これが、神の前に
1人たたずむありかたであり、人間としての基本的な姿としてとらえて「単独者」と呼んだのだ。
真の自分に至ることとは、神と触れ合うことである。しかし、人間はさまざまな現世的価値観の中で生きている。
しかも、その価値観は全て有限なものである。そして有限なるがゆえ不安に襲われ、神と自分との
絶対的な距離を感じる。それが絶望のきっかけとなるとキエルケゴールと考えた。
大丈夫という言葉は、ある意味で「神からの言葉」ともいえる。
「ありがとう」という言葉と同格の重要な意味の可能性を含んでいる。
キエルケゴールは、その不安と絶望からくる内面の大きな揺れを(心の中の)「大地震」といっている。
それだけ、この大地震は人間にとって一大事である。
最近香港で、生活保護を受けていた人が亡くなったあと、通帳が発見されたという。
そこには、なんと数億あったという。この人は不安感にさい悩まされていたのだろう。
大丈夫と楽観し過ぎて地震や火災から逃げ遅れたり、倒産したり、失業したりして明日の生活に
困ることが多いのが人生だが。
過剰な不安感をあくまで問題にしているから、勘違いをしないことだ。自分自身のことであるが。

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2003年07月06日(日)
823,ある時間の断片ー30
11月2日 1968年
10時起床、食事後12時半まで床屋。
13時頃から「早稲田祭」に行く。
14時半頃に帰ってくると深井が部屋に来ている。
1時間位話して彼は帰る。その直後急に頭が痛くなる。「香港風邪」というやつにかかったらしい。
佐藤君のところに行ってお茶を飲んでいると、佐々木さんから電話で東京駅に迎えにこいとのこと。
でかい荷物だ、やっとのことで寮に運ぶ。その佐々木さんが「明日のバスハイキング」のバスの値段が高いと
苦情をいいにくる。道理からいって、因縁をつけているだけとうことが露骨だ。
今更キャンセルや値下げができるわけがないだろう。幹事ということで言い返せないし、一応先輩だ。
折れることにした。差額の半額を私が持つことにした。頭の回転がきかないのか、
自分の面子を立てたいのか解らないが。よく自分で我慢したと驚く。クールに割り切った方が良い。
その反動で。孝道を怒鳴りつけてしまった。佐々木さんに対する怒りと香港風邪で頭がいたいことも含めて、
彼にぶつけてしまった。人間的な含みがまだまだないということか。

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2002年0706
旅行中
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2001年0706
旅行中