つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=YQ6h2zKcFh4&feature=endscreen&NR=1

 ここにきて急に暑くなってきた。
森を去って、サバンナに来ているはずだが、どうも森の生活生式から抜け出ていない。
朝から、夜寝入るまで、スケジュールに追われている。何か、ただボーっとしていれない。 
それをすると、ボケが出てきそう。家内がみると、どうも優雅な日々を過ごしている
粗大ゴミにしか見えないようだ。「自分は家事をこなしているのに・・・」と。
私の直後の年代の団塊の世代が、定年をむかえ、夫源病とかで大きな問題になっている。
不信感を持っているため、食器の洗物とか、掃除は自分がしないと気が済まない。
ヒトに何かを任せた経験がないので、教えて任せる手順が身についてない。
私も腰痛持ちなので、どうしても家事は億劫になる。最近、私の食器は洗うようになった。


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 2003年06月11日(水)
798,「ありがとう」の言葉  -1

 長年生きてきてつくづく感じるのが「幸せ系の人」と「不幸系の人」がはっきり分かれて
いることである。家柄、結婚の相方との相性、本人の品性等いろいろの要素がある。
多くの人を見てきて、不幸系の人に感謝の念が足りない人ー特に両親に
対する感謝が少ない人ーが多いことに気づいた。両親に対する不信感ーが本人を不幸にしている
ことに気がついてないのが、更に不幸を拡大している。その不信感が人間観になってしまうからである。
夫婦間のトラブルー権力争いーが子供を傷つけ、子供が恨みで感謝を忘れてしまうことも起因している。
人間には感謝はしないが感謝される事を求める傾向がある。
昨日図書館で何げなく借りてきた本を読んでいたら、あるページに目が釘つけになった。
   以下に書き写してみる。
ー不思議なことに、心を込めない「ありがとう」でよいから2万5千回ほど言うと、涙が出てきます。
呪文のように言っておくと、その累計が2万5千回を越えたあたりで、突然涙がどっとあふれてくる
ということが、多くの人にあるようです。
その涙というのは、短い人で1時間、長い人で3時間、平均2時間ほどで、とにかく止まらないのです。
こんなに自分の体から涙が出てくるものと思うほど激しく流れ続けます。
この涙が出終わって、そこからまた続けて「ありがとう」
と言おうとすると、今度は心の底から感謝の念がわいてきて、体中が温かい思いに満たされ、
本当に有り難くて「ありがとう」という言葉が出てくるようです。
 
 さらに、心を込めた「ありがとう」が湧いたところから、2万5千回ほど
心を込めて「ありがとう」を言い続けると、なぜか突然「私」にとって奇蹟と思えることが起こる
ようになります。この話をあちこちでしていて、「実際言ったが、そんな涙出てこない!」
という質問を受けました。私はその人達に同じ質問をしました。
「2万5千回に到達する前に、不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わなかったですね」と。
その答えはすべて「言ってました」でした。
「それを言った瞬間、チ~ンという音がして、『ありがとう』の回数が
ゼロになったのだと思いますよ」と答えています。・・・

ー続くー

・・・・・・・
2002年06月11日(火)
434,創業の勧め??

過去に創業を何回か繰り返してきた。
好きで自分で望んだ事だから、そう苦ではなかった。

しかしそう甘くもなかった。その時は、のるか反るかの大勝負を賭けている。
やはり脳は全開、見えない相手を考え尽くした上で一つづつ判断していかなくてはならない。
ゼロからの出発である。表面には出してないが、しかし色で出ているだろうが、キーワードは「発狂」である。
まったく存在してない自分の主張を、実際のカタチに創り上げていく工程を踏んでいるのだから。
部外者の人は狂っているという。そうでなくては実際新しい創造は不可能だ。
基本に忠実にゼロから一人で、一日一日孤独の行為の積み重ねである。
その時、見えるのは人間の浅ましさと嫌らしさである。これは自分の事でもある、人間の底である。
・人間はエゴであるー生命の発展はそれぞれのエゴイズムが原点である。
・それがどうしたというのかーその当然の行為を始めたのだ。
・その積み重ねが事業の出発点である。
・馬鹿二代目が冷笑している、結構である。 むしろそれが正しい事を証明してくれている。
・赤裸々な莚旗を立てた赤裸々な姿、それが創業である。
・事業に関していえば、まずは金そして金そして金・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・金である。
  それを命を賭けて投資するのである。なけなしの金と銀行から借りた資金を合わせて、
  その「思い込みの対象」に対する命を賭けた博打である。 
  それが面白いといえば面白いが、それは結果がよければの話しである。
   
 いま世の中の風潮で創業の勧めがあるが、そう甘いものではない。
 コツがあるとすれば、時間をかけた準備、準備、準備、計画の練り上げしかない。
 500㌫の成功確立の見通しになるまで練り上げるしかない。
 それで実際のところ50㌫しかうまくいかないだろう。
 実際のところ事業を始める時、自分の心に約束した全て失っても
 後悔はしないと。   創業は勉強になる!!それでこの程度!

・・・・・・
2001年06月11日(月)
「49」一期は夢 ただ狂え

 世の中はチロルにすぐる チロリチロリ
 
 何ともなやなう 何ともなやなう  浮世は風波の一葉よ
 
 何ともなやなう 何ともなやなう  人生70古代稀なリ
 
 ただ何事もかごとも  夢幻や水の泡
 
 笹の葉に置く露の間に あじきなの世や
                   夢幻や南無三宝
 
 燻む人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現がおして
 
 何しょうぞ くずんで 一期は夢よ ただ狂へ
               
                ー 閑吟抄ー

470~480年位前、富士山の近くに庵を開いていた名も知らぬ男
古今集をまねてつくった歌の一つ。

‘人生など一瞬でしかない。
なら狂ったようにしたいことをして生きたいものだ’
と言う内容である。

今年の年賀状にこの一節を載せたほど、感じろところがあった
内容だ。500年前この無名の男の人生‐過去に何があったのだろうか?
今500年の時空を越えて、激しく共感するのはなぜか!