つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=AJBycnafu0I&feature=endscreen

 何かハッキリしない天気である。時間だけは、淡々と過ぎていく。
ヨガの効果だろう、この時節に出てくる腰痛が表立ってこない。
ただ、少し痛みは残っているが・・ 

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2003年06月07日(土)
794, 夢とイメージ

 学生時代に3番目の姉が結婚をして、家を建てた時の話である。
その姉は節目ごとに私にノウハウを教えてくれていた。
(小学校5年時の勉強のコツ、中学2年時に具体的な目標のたて方と
挑戦の仕方を教えてくれた)

「実を言うとね、この家と庭と旦那とのこの生活、ずっと願って心に
イメージをしていたの。それがね、このままいま現実にあるんだよね。
夢を持って、イメージまで高めなさい。そうすると叶うんだから。
本当に驚いているんだから」と教えてくれた。

 今ではポール・マイヤーとか、ナポレオン・ヒルとかの本に詳細に
そのノウハウが本に書いてあるが、当時は新鮮な情報であった。
「なるほど夢を持ち、それを目標に変えて、具体的にイメージ化をして
実行していけば夢が夢でなくなる」と解釈した。
建物なら平面図を描き、次にビルのイメージ画を先に書いてしまうのだ。

 女性なら好きな女性のイメージを頭に描くのだ。
しかし世の中には自分の想像を超えた理想の女性がいることを現実に
知った、高嶺の花でしかなかったが。
好きなタイプをイメージ化した為、早めの判断をしないで済んだ。
(ダブルデートで、もう一組が何人も結婚していった)
当時、簡単に一生の伴侶を決めてしまうのが不思議であった。
いま考えると、自分の未来を考えてない人が大部分であった為だ。
私の勝手の見方だったのかもしれないが。

 夢のイメージの類の本を小ばかにして拒否している人がいたら、
とんでもないことだ。
夢の実現の方法論として、高度のシステムとして体系化してあるからだ。
特に若い時に、この知識・情報を持っていると人生を効率よく生きる
ことができる。
全く知らないのと知っているとでは天地の差が出る事は間違いない。
偉人などの自伝を読み、その中で自分を投影して夢を創っていくのが
一般的であるが。
もっと割り切った時の方法論である。
末っ子は、つらい反面けっこうノウハウを貰っていたことになる。

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2002年06月07日(金)
430,自分の居場所

誰もが自分の居場所を持っている。
逆に居場所がすくないということは、非常に厳しい状態の時である。

自宅の自分の場所、会社の自分の場所、通勤の自分の場所、
日祭日の自分の居場所、すべて時間と同時に変わっていく。

20代のある時、ある姉にいわれた。
「あなたはすぐ自分の居場所を作り始める。
まず部屋の中に本と椅子と机に本棚に手帳を配置する。
そうすると、そこにあなたの居場所ができあがる。
座ると何気なく自分の物を机の上などに配置する。
いつの間にあなたの場所ができている。」


その時代だけでなく何時もそうだった。
私だけでなく人間すべてがその筈だ。

居場所とは、
・自分が一人でいても寂しくないところ
・何かをしていて、自分が生き生きしてるところ
・すわり心地の良いところ
 
 そうすると趣味など、そういえるかもしれない。
 それをしている時、それが心の居場所だ。
 毎朝あげるお経もそうかもしれない。


引っ越したら、別に住まいだけでなく、まずは居酒屋,
そして昼飯を食べる店と自分の座る席。

猫でもそれを本能的にあるはずだ、テリトリーとして。

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2001年06月07日(木)
[45] 創業の話

27歳、千葉の千城台で千城ビル建設と養老の滝1122号店の立上げをやった。
準備1年4カ月かかった。その間に一緒に計画に携わった父も亡くなった。
今も忘れられない1973年5月30日であった。

11月07日、店の立上げとビルの完成でパニックの頂点をむかえた。
地獄!・・・・・

その頃写真を撮っているいる余裕などない、
写真日記のそれは千城台を引き揚げたあと、懐かしく行った時に撮った写真である。
全く知らない千葉で我ながらよくやったと思う。

この地獄の中で創業のノウハウしっかり身につけることができたと思う。
自らを空にして、おきて来た問題を一つずつ解決していくしかない。
その時本能的に相手に両手で拝んでいた。

どういうわけか拝まれると人間引き受けてくれるものだと感じた事を憶えている。

軽い気持ちで拝むポーズを時々みると,張りたおしたくなるのそのせいだ。
当時のことを記した文章があるのでコピーをしておく。
また写真も写真日記にコピーしておきます。

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H0907 養老の瀧1122号店、店長の日々

 両親の創業を幼児の時みていて、その厳しさを知っていたつもりであったが、
いざ自分がその立場に立って、その認識の甘さをつくづく思い知らされた。
千葉の新興住宅地(五万人)の十字路に“貸ビルの建築”と“養老の瀧オ-プン”と
“結婚”という、人生の初体験を同時に始めた。
丁度石油ショックにより高度成長期が弾け、
ビルの前の数千世帯のマンション計画が中止となり、最悪の出発となってしまたった。
そしてオ-プン...!完全にパニック状態!オ-プン人気も含めお客の列!
しかし、こちらは全くの素人である。ビル建築等、他に諸々が重なり、
地獄のような日になってしまった。辛くて、恐ろしくて、一日一日が精一杯、
今考えても、よく持ちこたえたと思う。当初の、2~3ヶ月は朝8時より
夜半の1時までの激務であった。指導員と私とアシスタントの3人の激しい日々であった。
“勤め人”と自営業の立場の大転換がその時おこった。
それまでは8時間プラス2~3時間、という立場が、“24時間(休んでいても仕事のう
ちという)仕事”という立場になった。
サラリ-マンが事業をおこして大部分失敗するのは前者より脱皮できない為である。
大手ス-パ-の創業期に入社、異常に近い厳しい世界に3年近くいたが...。
その厳しさが全く違うのだ。はじめの数ヶ月は、今日辞めるか明日辞めるかという
位、厳しいものであった。
あの空ビルをテナントで埋めなければ、私の立場が無くなる!という
前提があった為乗り越えられたと思うが。
でも不思議なもので、真っ正面より立ち向かっていると、
いつの間にか辛さが辛さでなくなってくる、適応能力が自然についてくるのだ。
ヤクザ、土方、得体の知れない人間に“気違い水=酒”を飲ませているのだ。
それと兎にも角にも全くの無警察状態に近いのだ。
そこで自分1人で店を衛らなくてはならない。
酒を飲んだ人間の本当の恐ろしさをそれまで、ほとんど知らなかったためだろう、
命が幾つあっても足らない位の事件が月に一度はおきた。
恐怖の中で1人トイレの中で(他の人にはわからないように)震えた事があった。
そこで、大きく唸った。そしてお客に対処したところ腹が据わったのだろう、
お客が逆に竦んでしまった。“これだ!”と直感した。
また店の従業員に前もって、うちあわせをしておき、
お客に怒鳴る変わりに従業員を怒鳴りつけ竦ませたり、
土壇場に立つと知恵がついてくる。
ただフランチャイズのシステムは今でも素晴らしいものであったと思う。
標準化、単純化、マニュアル化がきっちりできあがっていた。
創業時の勉強という点で、このシステムは自らに非常に有効に働いたと
振り返って思えるようになった。
                 創業は辛い! 1973.11.07~