いま一つのブログ「随想日記」
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今日のYoutube
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世の中は大型連休だが、リタイアの身には関係ない。
昨夜半に突風と雷がなり続いた。これで桜の花の大部分が散っただろう。
隣地のプレハブ、二週間で土台と柱と外壁が出来上がった。
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1120, 「ライフ・レッスン」ー7
2004年04月27日(火)
ー時間のレッスンー
・時間のなかで、すべてのものは変化する。内面も変わり、外面も変わる。
外観も、内的自己も変化している。人生はたえず変化をつづけているが、ふつう、変化を好まない。
それに抵抗しようとする。そうこうしているうちに、周囲の世界のほうが変わってしまう。
変化の速度は、かならずしもわたしたちの内的速度と一致しているわけではない。
たいがいは早すぎるか遅すぎるか、である。
変化とは慣れ親しんだ状況に別れをつげて、不慣れな状況に直面することである。
あたらしい状況そのものでなく、そこにいたる間の時間に不安を感じることもある。
「一つのドアが閉まっても、別のドアが必ず開いている。・・・
でも、それぞれドアにつうじる廊下にいるときが、いちばんつらい」
変化はたいがい、ドアがバタンと閉まってしまった場合始まる。先が見えなくなり、
人は不安な時間を過ごす。この時期はつらいものだ。もうだめだと思った時、何か新しいことが始まり、
ドアが開く。変化に抵抗しようという人間は、自分の人生そのものに抵抗していることになる。
必要なことは変化に乗じること、少なくとも、変化を受け入れることである。
・「西洋文化においては、歳をとることは尊重すべきことではなく、
しわは人生の勲章ではなく、隠すべきもの、避けるべきもの、除去すべきものだと
みなされている。ところが、青春時代の活力を懐かしみながらも、殆どの人は
まったく同じ人生をやり直したいとは思わない。若き日の狼狽や混乱を、ありありと憶えているからだ。
中年になると人生のなんたることかも多少は解り、ばかげたことをしている時間もなくなる。
中年期になると、いたずらに青春時代に戻りたいとはおもわなくなる。
若さの時期は、無垢の時期であると同時に無知の時期である。
青春の夢が中年の後悔に変わるのが、人生が終わったからでなく、
その夢のとおりに生きれなかったからである。
優雅の歳を重ねるということは、毎年、毎日をじゅうぶんに経験しつくす
生き方である。人生を本当に生きた人は、もう一度生きなおしたいとはおもわない。
後悔する人生は、決まって、じゅうぶんに生きれなかった人生である。
人は何歳まで生きたいと思っているのだろうか。
もし200歳まで、あるいは永遠に生きるチャンスを与えられるとしたら、
いったいどれだけの人がそのチャンスを受ける人がいるだろうか。
そう考えてみれば、寿命というものの持つ意味が理解しやすくなる。
時代をこえて生きたとしても、何の意味もない。愛する人が誰もいなくなり、
もはや理解しがたい文明の中で生きつづけるのは、空虚以外の何ものもないだろう。
・夜空をみあげるとき、私たちはじつは遠い過去の光りをみている。
星の光りは地上のいまの光りでなく、何百万年前の光りだ。
他人にたいしても、私たちは同じ経験をしている。
私たちはなかなか現在の目で他人を見ようとしない。それは自分に対しても
おなじである。ほとんどの人はいまの真の自己をみようとせず、過去や自分や、そうなりたかった
自分としての自己を見ている。きのうの自分がきょうの自分を規定しているわけがない。
それに気づくことのなかに、すばらしい自由がある。
もし現在という時間に意識をむけ、あるがままの人生を見つめることができさえすれば、
あたらしい自分になり、まっさらの新鮮な気分で今日とという日をむかえることができる。
ー感想ー
「時間がすべてを解決をする」ということを長く生きてきた人は誰でも実感することである。
だいたい深い傷でも3年が目安である。ただし、深いところで自分で手当てをしておかなくては後々まで引きずるが。
振り返ってみる時、時間と供に自分も変わっていくので、客観的にその変化をみることができる。
時間が経つと同時に、何が大事で何が大事でないかもみえてくる。冷静に屋上の上から見ている自分が「魂」である。
その時々に思い悩み、笑い楽しんでいる感情が「心」といってよい。
時間と供に魂の目を、その時間に伴って上方に上げてくれる。
ただ今日、今という時間に意識を集中しなくては魂は上方には上れない。
一期一会とは、すべてにいえることである。
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2003年04月27日(日)
753, 孤独について考えてみた
自分の強みは何だろうと考えてみた。「孤独に強い事」である。あまり人といなくとも平気である。
若い時の都会の生活や勤めの時代に鍛えられたことと、8人兄姉の末っ子だったこともある。
一人でいつも遊んでいたという。創業を独りで何回か経験をしてきたのが、さらに孤独の訓練になった。
孤独をポジティヴに前向きにしなくては、無から有は創れない。
青年期はそれほど強くはなかった。実際は空元気であった。
「孤独を恐れるのは、ひとりそのものではなくて、孤独であることを責める自分
の中の内在化された他者の声である。それが多くの人の心を責めさいなまし、
安らかな心を破壊してしまう・・・」とある本に書いてあったが、私の場合そのような
内在化された他者の声は全くない。
独り事業を何回か立ち上げてきた為に内在化する余地がなかったのだろう。
それと行蔵が整理?されていたこともある。
あとは幼児期に両親や姉兄にタップリと愛情をそそがれた事が大きい。
日本というのは孤独を白眼視する、同調的で画一的、群れや集団に属さないことを忌避する、
個人が自立できない幼稚な社会である。これは仏教と島国が長年の間に影響してきたのだろう。
現代のように人から嫌われることを極度に恐れ、他人に従順になりすぎる大多数の人には、逆に
「人から嫌われる強さ」が必要である。群れていれば安心している輩があまりにも多い、
まあ如何でもよいことだが!孤独をきっちり確立した上で、寂しさを紛らわしたくなったら、
そういう場に行けばよい。独身時期はきっちりとその組み立てをしていた。
居酒屋に行けばいくらでも、癒してくれる店主やママや飲み仲間がいた。
本当に孤独に対して訓練されてない人が多い。そういう人が仲間になって群れてしまうから更に悪い。
今回の青年会議所仲間同士の殺人事件など、そこがバカや低脳児の集まりの場でしかないことの証明でもある。
本人たちは全く気がついてないのが哀れである。仕事の手段として群れているつもりだろうが、
手段が目的にすりかわってしまうのだ。手段の遊びが、目的になってしまうのだ。
過去を考えると他人事ではないが!??
ー孤独を失った時の損失を考えてみると
・独創性や創造性であり
・夢や目標や目的の喪失であり
・自我の確立であり、また自己の心の成長であり
・自分らしさや個性、独自性、心の自由、行動の自由、趣味の自由などである
群れや際限なき仲良しゴッコはそれを補ってあまりあるものなのか疑問である。
たえず友達や仲間といっしょにいる人は、群れの奴隷となり、自分を失っている。
私の嫌う子狐があちこちで群れているが、「和して同ぜず」ではなく、「同じて和す」ということか。
その「同じる」が恐ろしいのだ。「個性個性、孤独孤独といって石のカタチの違いこそ大事だといっても、
所詮は砂利は砂利でしかないのに、解ったことをぬかすな!」という心の奥の声がする。
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2002年04月27日(土)
389, どういう時代に?
今年来年はどういう年になるだろうか?
・今年はブロードバンド時代の新しい形が、
製品や社会現象で新しい形で出てくる年である。ー孫正義
携帯TV電話、液晶TV、BSハイビジョンTVなどの普及
・何を発信できるか、するかの時代になってきている。-堺屋太一
ホームページは発信の窓か
・嵐の年、そして来年もビッグバンを間接原因にした倒産の嵐、失業の増大
身近に失業者や倒産廃業が増えてくる デフレの進行
・テロの続出と社会不安の増大 新たな戦争?イラク、北朝鮮
・身近に具体的に危ない事件の続出
・思いもよらない大事件が生じるー社会的にも政治的にも
ますます殺伐とした時代になっていくことは間違いはないだろう。
しかし面白いことも事実である。
20世紀的のものの崩壊と、21世紀的の出現が同時に見れるのだから。
時代の変わり目である。こういう時こそ、戦略の練り直しが必要だ。
一人で考え抜かなくては生きていけない時代だ。