つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=8-wvA7fmUJ4

 土手の桜の蕾も膨らんできた。
あと数日で開花?で 週末あたりが見どころか。

 隣の更地の住宅工事も来週から始まりそうだ。
モロに私の部屋のまん前、半年は覚悟をしないと!
それも下手をすると二軒同時の着工で、違ったオーナーの
家の同時の工事の可能性。

 高校の同級会の幹事で、何人かに電話をした。出席は13~14名か。
ここで、リタイア組みが多く出てきている。当初からの出席者20人のうち
5名が亡くなって、二割。棒線が引かれているのを見ると、
何か暗くなる。当人たちは、まさかと思っていたのだろうが・・・

 今朝も霧雨の中、信濃川土手のポタリング。流石に殆ど見かけない。


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1458, はだしの学者ー西江雅之
2005年03月31日(木)
以前、図書館から借りた西江雅之旅行記「花のある遠景」を読んで、
常識をはるかに超えた生き方に驚いてしまった。
世界を乞食のように放浪して、その土地・土地の言語と文化の研究に従事、50ヵ国の言語を話す。
ハダシの学者といわれるように、目線が現地人になっている。そのためか、どこの地に行っても
誰とでも友人になってしまう。深い教養があってこそである。
「砂漠で出会った人と、二人で手を取って歩きながら、どちらかが失敗したら
死ぬであろうというギリギリの状況で二月、三月と一緒に過ごしたというような
経験がたくさんある。別れたらもうその人と生涯会えない。
住所を聞こうにも、手紙を書こうにもその人は字が読めないし、書けない。
居所もわからない。そういう経験を何十回も重ねて・・・・・
そのときの思いは言葉では表現できない。いやしたくない」と、ときには言葉を重ねないことの
大切さを述べている。無理に言葉に置き換えるという作業が、驚きを別のものにしてしまいがちになる。
「外国の何とか村を紹介した本があって、読むと面白かったりするでしょう。
だけど本当は、その村が面白いんじゃなくて、書いた人が面白いんです。
その人は何とか村を面白がれる力があるんです。面白がる力があれば、世界中どこでもおもしろい。
実力のない人は、変わったものでないとよく見えないんです。」
以上の言葉から見ても、その言葉の奥行きの深さを充分に知ることができる。
以前読んだ本の概要を紹介してみよう。
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「花のある遠景」
 西江雅之著 (旺文社文庫
 副題は「東アフリカの裏町から」である。
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2004年03月31日(水)
1093, ユビキタスの時代ーIH式炊飯ジャー

数年前TVのコマーシャルで、すし屋がご飯炊きを陰でIH炊飯ジャー
炊いているのを放映していた。
先日、その炊飯ジャーを買って食べたところ、本当にコマーシャルのように
寿司屋のシャリにそっくりに炊き上がっていた。
一粒一粒たっているようなご飯に出来上がっていた。
「今まで食べていたご飯はなんじゃい!」というのが実感である。
20年以上前のジャーと比べるのだから、当然といえば当然だが。
数年前に寿司屋でTVと同じ場面に出くわしたことを思い出した。
シャリが美味しいので褒めたら、炊飯ジャーで炊いたと女将がいっていた。
電子レンジと冷蔵庫も20年使っているが、両方とも当時15~20万もしたもの。
今は5分の1になってしまった。機能も含めると10分の1といってよい。
それにしても、我家の電気器具の物持ちがよいのに驚く。
それが当たり前なのかもしれないが、20年前と今の電化商品は全く別物といってよい。
PDPTVやDVDやビデオやカメラや携帯電話などの技術開発は素晴らしい。
電気売り場に行く度に、その進化に目をみはってしまう。
ユビキタスが、その背後にあるのだろう。
高度の技術が身近な家庭や職場に、どんどん使われだした時に
時代は激変を始めるのだろう。

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2003年03月31日(月)
726, 結婚式で思う
私は結婚式と葬式に参列するのが好きだ。その中に色いろな人生の圧縮がみえるからだ。
 一般には「人生で集まって褒めてくれる」のは、「生まれた時と結婚式と葬式の三回」だけだ。
そのうち結婚式だけが、祝福されるているのが自覚できる。
「人生は結婚式で道半ば」ともいう。それで人生の大半が決定してしまうからだ。
当たりか外れは神のみぞ知るである。
今はジミ婚になってきて「社会の体面や家どうしの対面」というより
「本人同士のお祝い、かつメルクマール」という面が強くなってきている。
以前よりは結婚式に対しては、気楽な式になったようだ。
若い二人が夢を持っての門出を祝うのは気持ちのよいものだ。
 つぎは葬式である。本来葬式はお祝いであるべきだ。
その人が人生を終えて、無に帰っていくのを送る儀式である。
人生の卒業式である。悲しみであると同時に、その人にとって大きい意味を持つ。
参列して思うのは、その人の生き様がそのまま現れていることだ。
その厳粛な雰囲気がなんともよい。その人の「魂と社会と世間がそのまま圧縮されている」
といってよい。人が一人亡くなるのは、その人の積み重ねた人生が無に帰ることである。
ごくわずかな身内の人達の心のこもった葬式が好きである。
それぞれの社会的なものもあろうが、今は生き残った人の体面の場になっている。
葬式もそれぞれの残されたものの価値観があるから、とやかくいう問題ではないが。
最近は葬式に出席すると、いつも遺影を常に自分の顔に当てはめて考えてしまう。
その目で会場の人達を見ると、何ともいえない気持ちになる。「死んでしまえばお終いよ!」と。

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2002年03月31日(日)
362,ある思い出-慈善

中学の頃の話である。隣にMという一家がいた。
そこに一歳年上のカッチャンという遊び友達がいた。その家の裏に倉庫があった。
そこに乞食のような生活をしている親娘が住んでいた。
母親が肺病で、私のある姉にあの家の近くに近寄らないように言われていた。
カチャンの母親が気の毒がって面倒を見ているという。
カッチャンの父親は数年前亡くなり、母親とカッチャンとその姉と3人の家族であった。
今考えるとカッチャン一家は、その生活を維持するのに精一杯の筈だ。
その苦しい中、その親子を面倒見ていたのだから大変だったろう。
ところが彼女(母親)が癌で、なくなってしまった。神も仏もあるものかである。
残されたカッチャンと姉さんは、おじさんと同居する事になった。
その肺病の母親もまた二年後亡くなった。そして娘は施設に引き取られていった。
その事を今から20年前に、何かの拍子に思い出した。そのMという人の心に気がついた。
どういう気持ちでその苦しい生活の中、その人を面倒を見ていたのか。
そしてその中で死を迎えた時の本人の気持ちは、いかなるものだったのか?
人間の一番大事なことは何であるのか?それとは関係なく、現実は非情に動く。
「愛は世界の中心である」という言葉がわかるが、反面本当かとも疑問が湧く。
人生で最後残るのは、そういう愛の行為か。少なくともカッチャンと姉さんには、
深く残っているのではなかろうか?それとその娘の心に!
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<お笑い>
[殿の姉の死]☆☆☆
この小話は7~8年前に仕入れたが、一番気に入っている1つである。
  ーー 
殿様と家老が話をしているところに家老の家来が緊急にと、青い顔して耳打ちをした。
‘殿(家老)の姉ぎみが亡くなった’と。家老はてっきり殿様の姉と、勘違いをしてしまった。
それを聞いた殿は、うろたえ城内は大騒ぎ! しかし、その後家老の姉と判明した。
家老に殿は怒り心頭、「無礼千万な!わしの姉を勝手に殺しおって、打ち首!」と刀を振り上げた!
その瞬間ハッとして、刀をしまった。‘わしには姉がいなかった!’