つれづれに

イメージ 1

今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=AnmzNI7FAAw&NR=1&feature=endscreen

 雪が降り続いている。とはいえ、越後では例年の範疇。
米作にとってのダムの役割を果たしている。一度、解けて地下水になり、
それが川になり田圃の米を育てる。と思えば、この景色も良くみえる。

 TPPの参加も、止めようもないグローバル化の一つとして割り切るしかないのか。
結局は、アメリカにつくか、中国につくかの試金石ということ。小沢は中国にスタンスを
移そうとして、官僚(検察官僚)とマスコミにやられた。

1929年に起こった恐慌、本格的現象として表立ってきたのは1932~3年に
かけての本格的株式の暴落からである。当時と違うのは、世界中の主だったトップが
一同に介して話あいをしていること。 
本格的崩壊は、戦争というカタチになるしかないのか。

 
・・・・・
692, 「わたしを認めよ」ー3 読書日記
2003年02月25日(火)
<面白そうなところを抜粋してみた> 
ーわたしをみよー 自己証明をめぐる闘争
 
 あなたのまわりを見渡してみるとよい。
いや、あなた自身をかえりみるだけで十分だ。自分の無意識の言動の大部分が、
いかにつぎのような動機に基づいているかがわかるにちがいない。
世の中のほとんどすべての関係が、つぎのような証明動機に満ち満ちているかがわかるにちがいない。

ー自分がいかにうつくしいか、いかにカッコウいいか、いかに可愛いか、いかに若いか、
いかに頭がよいか  ーこれからはーいかにーを省く。
勇気があるか、度胸があるか、ユーモアがあるか、明るいか、優しいか、いかに凄い体験をしたか、
気がきくか、仕事ができるか、正しいか、ものがわかっているか、忙しいか、金持ちか、ケンカガ強いか、
酒が強いか、ざっくばらんか、大物か、太っ腹か、もてたか、セクシーか、性技巧に優れているか、
自己犠牲ができるか、子供思いか、親思いか、義理堅いか、正義感が強いか、努力をしたか、苦労したかー
(こうもくどくど列挙が文章上、下品だが、ここまで書かないとわたしの気持ちが悪い。寛容を。)・・・・

ーつまり、わたしたちはこのようにいいたいのだーー
わたしを見て、わたしを振り向いて。
わたしを気にかけてくれ。
わたしを好きになって。
わたしを知って。
わたしを理解してくれ、と。
わたしを見る他人の「視線」。
わたしたちの自己証明は、すべて他人の「視線」をひきつけることに
費やされる。
この、わたしを見よ、と。

・・・・
 鷲田はさらにこのようにつづけている。
あるいは、生きることのプライドを、追い詰められたギリギリのところでも
もてるかどうかは、自分が無条件に肯定された経験をもっているかどうか、
わたしがわたしであるというだけで全部認められた経験があるかどうかに
言い換えてもいい。その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして
死んでも耐えられる。
こういう経験がないと、一生どこか欠乏感を持ってしか生きられない。
あるいはじぶんが親や他人にとってじゃまな存在ではないかという疑いが
払拭できない。つまりじぶんを、存在する価値あるものとして認めることが
最後のところできないのである。

 鷲田は、家族による「無条件の肯定」は「じぶんを、存在する価値のあるもの
として認める」と書いているが、わたしはこれを、家族の無条件の承認は、
じぶんを、存在する意味のあるものとして認める、というふうにいいかえたい。
意味の承認は、価値の承認、より無条件であり、より根源的であると考えるからである。
わたしの考えでは、「無条件」ということは、「価値」からはでてこない。
なぜなら、「価値」は交換可能(相対的)だからである。
じぶんという存在の「価値」を証明を求めはじめるのは、家族以外の関係性
においてである。
すなわち、ひとりの異性(あるいは多くの異性)との性的な関係や、
社会的な関係においてである。

ー感想ー
 かの文豪のドストエフスキーが24歳の時に「貧しき人々」が認められ文壇に出た時の話だ。
当時の著名な評論家のネクラーソフが、その原稿を読んで感動し、
友人と連れ立って、夜明けにわざわざドフトエフスキーを訪ねて「きみは天才だ」と
激賞したという。
 その時の気持ちを、ドフトエフスキーはこう記している
「胸がおどる!これが成功なんだ!だが、私にとってなにより嬉しかったのは、
彼らの思いやりだった。朝の4時に、二人は目に涙をためてやってきてくれた。
感激で胸が満ちあふれた」
彼のような暗い感じのする男でも、認められということは最大のこれからの作家生活で必要な
事であった。
  ーーー
私の母の口癖は「人を認めてあげなさい!だれもが認めて欲しいのだから」であった。
両親の呪縛があったとしたら、
「両親の期待を失望させてはならない!」だ。
両親の期待にこたえることであった。