つれづれに

イメージ 1

 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=B4FChkrZ6kU&feature=endscreen

 このところの早朝は冷え込む。 例年、こんなものだが。





同月同日のカット分
////
1347, 「自分を活かす極意」-3 読書日記
2004年12月10日(金)

ー情報摂取法
この本は、ダイジェストなので多くの要点がつまっている。本の一番の情報収集は
「三色ペンを使い20対80の法則の20と10を色分けをすることと、それを続けることが
読書術そのものになる」である。情報収集に関しては、本にしても、人からの情報にしても、
収集した情報を的確に要約することが最重要課題である。いわば「ミソ」の部分をマトメルコトだ。
それを、私は随想日記で毎日している。これは、第三者に対してギブ・アンド・ギブであるが、
何よりも自分の基地に情報をコツコツ収集していることになる。
数時間の(情報)エネルギーを文章にして真空パック的に押し込む作業でもある。

本屋の立ち読みでも、何気なく読んでいながらパックしていることになる。
頭の中で文章化をしてしまうのだ。何気ないTVの解説を聞いていてもアンテナが動いている。
毎日、一文章のテーマに対して敏感になりざるをえない。
自分の発信・備蓄基地を持つことの重要性をつくづく実感している。
まあ、斉藤孝の本の内容からずれてしまったが、言おうとしている主旨は同じである。
著者のコミュニケ-ション術と会話の技術が面白い。
ーまずはコミュニケーション術である。
 -抜粋ー
私は、コミュニケーション術を上手にするコツは「質問にある」と考えている。
いい質問さえできれば、会話はクリエイティブなり盛り上がる。
「質問力」というのは私の造語だが、内容は誰にもわかることだ。同じ話を聞いても
思いつく質問は異なる。それらの多様な質問は、同等の価値があるわけではない。
いい質問と、そうでない質問といったようにレベルの差がある。
いい質問というのは、「具体的かつ本質的」ということだ。具体的だが
本質的でない質問と、本質を突いているが、あまりに抽象的で意味がないという質問がある。
質問を向上させるには、TVのインタビュアーの質問に採点をつけることだ。
とりあえず「質問」というコンセプトで、いろいろなコミュニケーションを
みてみることから始めてみることのが手っ取り早い。

  -TVの「徹子の部屋」の黒柳徹子の質問は、まことに的を得ているしセンスがある。
ー次は会話の技術である
ー抜粋ー
私の会話のコツは「沿いつつずらす」だと考えている。
まずは相手の意見の要点を理解する。そのためには、相づちを技化していることが有効だ。
「なるほど」「たしかに」「確かにそうだ」という言葉を間に挟んでいく。
自分と意見が違っていても、とりあえず聞き切るようにする。
その上に、相手のキーワードを使って話を展開する。
自分の言葉を使ってもらえれば嬉しいものだ。自分が肯定されたようになる。
沿っているだけでは発展性がない。そこでずらす必要がでてくる。
コツは、本質的な話に行きかけたら具体的な話に戻し、具体性が強くなったら
話の本筋に少し引き戻すということだ。相手の話の流れを引き受けて少し横にずらす。
「それは例えば・・・ということですか」とか、「それはつまり・・・ということですね」
といった二つの文型を使いこなす。上手くずらすことができる。
「沿いつつずらす」のが会話の基本である。

ー以上であるが、
私の学生時代の友人が、商社の新潟支店に転勤になってきて16年間、暇ができると飲んでいた。
6年前に東京に帰ってしまったが。彼は商社マンになりきっていて、会話や、
人の気持を飽きさせないプロになっていた。会話をしていても、この「沿いずらし」が上手い。
翌日気がつくが、いつの間にか勘定負けが続いていた。私も「質問力」と、「沿いずらし」は
上手いつもりであるが、相手は商社で鍛えられたプロ、やはり敵わない相手であった。
聞き手にまわるというのは学生時代に鍛えていた。聞き手に回って、相手の気持を
引っ張り込むには「目を見て、大きくうなずくことだ。更に相手のキーワードを幾つか
頭に残しつつ、あまり真剣に聞かないことだ。」疲れることと、途中でつまらなくなるが、
真剣に聞いたふりをしないと長い具体的な話でも辛抱強く聞けない。
世の中で、何が面白いといっても人間が一番面白い。それも自分が!

・・・・・・・
2003年12月10日(水)
980, スーパーセンター
 この随想日記で最近話題にしている「スーパーセンター」とは、どういうものか調べてみた。
スーパーセンターとは「生活用品や衣料品のディスカウント-ストア」と、
「食品を主体とするスーパーマーケット」を組み合わせた 新形態のショッピング-センターをいう。
 地価が安い米国の田舎で発達したため、通常は1階建てで1万2000平方メートルから
2万平方メートルもの広大な売り場面積である。「1カ所ですべての買い物ができる
ワンストップショッピングのニーズ」に対応する点が特徴だ。 ジャスコやイトーヨーカ堂の荒利率が
28㌫に対して、この業態は17~18㌫にすぎない。経費率は14~15㌫におさえている。
この10㌫以上の差は顧客にとって大きい。実際の価格差は3割以上の差を感じる。
 -字数の関係でカットー
・・・・・・・・
2002年12月10日(火)
606,ある時間の断片-20
 10月13日 1968年
9時半起床、午前中は何事もなく時間が過ぎる。午後、姉正子さんが来て、一昨日の事を聞く。
姉が東京に友達といって、夜どこかの東京の夜を深井に案内してもらった件だ。
深井にしたらあれが精一杯の接待だったのだろう。その後悠久山に自転車で一人遊びに行く。
夕方になって街に出る。実家の店と靴屋ーキッドに行き靴を買う。その後両親と3人で自宅に帰る。
西村夫妻がおり裏に住む正子夫婦とともに一緒に食事をする。正子の亭主の芳郎さんが急に席をたった?
夜半の0時半に西村幹夫さんが夜行で帰るので、見送りにいく。
 10月14日
7時半に起床。
オリンピックのバレーをTVでみる。日本がアメリカに勝つ。
姉が芳郎さんの席を立った理由を言いにくる。色々あるのだろう。
父の毒舌に腹を立てたようだ。11時43分の佐渡で帰ってくる。
私の留守の間に寮の後輩の駒村がハプニングをおこしたらしい。
誰か友達と騒ぎ、喧嘩になって留置所に入れられたという。
呆れたものだ。2~3日はそっとしていてやろう。明日から卒論の再開だ。
・・・・・・・・
 2001年12月10日(月)
 265,運について
運がいい、悪いというが運とは何か考えてみよう。
「ある事をやった結果がたまたま上手くいった、失敗した」
というのが一般的にいう運の意味である。
運は結果論でもある。そうするとその「決定」が関ってくる。
ある決定の段階で、情報の受けかたと判断が重要になってくる。
そう考えると運のいい人とは、「無意識の判断」が適切・正しいということだ。
運のいい人とは適切な判断家ということになる。適切な判断の連続線が運と言ってよい。
曇りのない心で情報、情勢を見る目が大事だということだ。
以前、情報工学の中山正和氏の講演を聴いた。科学者に似合わない内容だった。
その内容は後でコピーしておく。この文章もそれが土台になっている。
ついている人がいる。そういう人は本当に、どこまでもついているという。
もって生まれた運勢があるという。その共通点をみると。明るく、楽天的で、勘が鋭いという。
(これは私の追加の感想ー>)それと努力家で夢がある人である。
ーこういう問題を自分で提起しておいて、逆に疑問を投げかけてみるー
運なんてあるのだろうか?「能力」の別名でしかないのではないか?
何も努力をしないで、なにも学ばないで「俺は運がない」と呟いている人を
何人も見たからだ。そして他人の努力の結果を運にしか見えない人間の浅さを。
運は字のとうり「はこぶ」である。努力と判断力で結果を呼び寄せるものだ。
多くの人と接していると、その人の将来まで解かる。少しオーバーか?
運の悪い人に多いのは「甘さと狡猾さ」を持った人である。それなら私だけなく、
別に誰でもその人間の将来を見通せる、何故なら誰もそれをもっているからだ。

その逆を重ねていくということか。
ーーーーーーーーーーー
H・0605「般若心経のすすめ 」
十年前に創造工学の中山正和氏の“運のつくり方”
という講演で般若心経のすばらしさを聞いて一ケ月がかりで丸暗記をした。
今まで何万回唱えただろうか。当社では入社教育で丸暗記が必須となっている。
二人の子供ま毎朝の仏壇での私のお経の為か丸暗記をしてしまった。
十年間の経験より(私の実体験より)直観した事を列記すると
①自分サイズの時空を超えた
一つの視点をえた②心臓音に波長があっている(リズム)
③α波がくみこまれている
④“念”がこの中に入っている
⑤お寺・神社等で唱えるとTPOとして、その場のイメージが鮮明に残る
⑥情報雑念等を切断、整理をする働きがあり結果として“運=無意識の判断”を左右する。
⑦これをくり返しているとベースとして“空”がつみ重ねられてゆき自己の中にその中空がつくられる
⑧夢の中で“空”を直感するイメージを得られた、 等々限りない。

・・・・・・・
ある時間の断片
 12月10日 1968年
 昼の13時に起床。
姉の突然の來京で、また予定が狂ってしまった。あと二週間で卒論を書き上げなくてはならない。
どういうことだ、これでは間に合わないではないか。あと二週間では無理である。どうしようか。
おまけに就職予定のジャスコオカダヤに提出しなくてはならない論文がある。
これは来年に一月十五日が期日である。姉の千葉にいる優子さんのところで数日篭るしかない。
図々しいが仕方がないか。明日優子さんに電話で打診である。それと姉の正子さんに満足できたか電話をしてみよう。
深井のところに電話をする。彼いわく「今度の会(聖心女大のグループと、松村と深井と私との会)、
来たかったら来い、来たくなかったら来なくてもよい」とのことだ。先日の件で強く言いすぎたためか、
他に何か思惑でもあるのか。ところが、すぐに電話で「やっぱり来い」との命令口調だ。何を考えているのだ。
行かないことにした。それに時間的・物理的に無理である。まあこういうときは、アマリ頭にこないことだ。
私の道は彼達とは違う。自分に対して誠実であれば、こういう無礼なことに対して気にしないで済む。
このように怒っているのは自分に誠実になりきれない。何か毎日毎日がギリギリである。
・・・・
ー2003年12月10 日記
「深井義明」のことを書く。
 -字数の関係でカット