つれづれに

イメージ 1

 
今日のYouTube
http://www.youtube.com/watch?v=YUy5Pex84Wc&feature=related

 そろそろ初雪の時節だが、少し寒くなると、良くはなったとしても、腰痛が出てくる。 
  仕方がないが付き合っていくしかない。まずはホッカイロを買ってこなくては! 
 
  ノートパソコンの型落ち(ワンシーズン前の型)の値段が大きく値崩れをしている。
 タブレットスマートフォンに押されて売れないのだろう。家電メーカーは大変な事態だろう。

  さてと、今日はスポーツセンターで、ヨガの日だ。



1699, 人生の価値について -1
2005年11月27日(日)
                       -読書日記 
『人生の価値について』西尾幹二著 新潮選書 
                 (~O~)ふぁ
 この本では、どうしたら人生に成功するかという
  いわゆる人生での成功の秘訣や、いかに生きがいを見つけるか
   といったことは書かれておらず、
    生きがいとは何か、成功は価値に等しいのか、が述べられている。      
     成功失敗、幸福も不幸も、希望も絶望も、
      生も死も、結局は同じものの二面性にすぎないという。

「人生は偶然に支配され、何が起こるか分らないからこそ、生きるに値する」という、
  宿命を認めているところ本人の人生体験を重ねて深いところを見据えている。
   104節からなる各々の文章が、どれを読んでも解りやすい文章で読者を深いところで納得させている。
              ♪~♪~     ((  
                      匚P  
  ー90節の「希望について 」が、心に残った。
 
 重病患者ばかりが入っている病棟に入院したときの著者の記述が鋭い。
  著者がそこで不思議に思えたのは、明日にも死ぬかも知れない
   人々にも「社会生活」があることである。
    余命幾ばくもない患者たちが、
    日常のささいなことに心をとらわれていることである。
   明日の命も知れぬ人が、ナイター中継に夢中になっていたり、
  同じ病室の人に悪く思われないように気をもんでいたりすることなど、
 「死」という大きくて困難な問題を直視しないようにしていることを知る。
                    Σ(゚Д`;)ア…ア…アッハァァァァァァァァ?!!
このような経験から感じたのは日々の小さな出来事に敏感になることで、
 困難で恐ろしい(死)を考えないですむようにする人間のたくましい実態である。
 
パスカルはこんなふうに言っている。「人間と言うものは、どんなに悲しみに満ちていても、
 もし人が彼をなにか気を紛らわすことへの引き込みに成功してくれさえすれば、
  そのあいだだけ幸福になれるものである」  
「人生の長さについて」もよい。 快楽や楽しみごとや不安や緊張や困難でいっぱいに
  たされているのが通例である。 だから時間は素早く過ぎていく。
   しかしそういう物を何かの偶然で突如欠いてしまうと、時間はとたんにだらだらと怠惰に流れ、
    退屈という新しい苦痛が発生するのである。時間はそのさなかではむやみに長く感じられる。」
                          (′O`)hima~
「今過ごしつつある時間を長く感じることを人間は一途に嫌悪し、
  これを避けようとするのだ。できるだけ時間を短く過ごすことが
   生の確証であり、生きがいの充足をしていると思っている。」 

    著者は「あらゆる人間の行動はすべてその人の暇つぶしである」
   と述べている。この人間の行動というものの中には仕事や家事、学術的な研究まで含まれる。           
  暇であるという状態は、その人に自己の生の無意味感を与える。
 それを感じたくないがために、我々は何かを行っていなくては生きていけないのである。

  何かこの辺を読むと人生とは何ぞやとか真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
                          (^_-)つづく
・・・・・・・
2004年11月27日(土)
1334, 「おカネの発想法」ー読書日記

父が末期ガンで死期を悟った時、私に意味深のことを言ったことを思い出す。
「紙に一千万と書いて、この一千万と通帳の一千万と自分にとって何が違うだろうか。
今さら一千万の現金を手にとって使おうとしても何に使えない」と。
死を目前にした父にとって、いくら現金があろうが、それが何にもならない。
お金も、元気なうちに使わなくては価値がない。「使えるから価値があるので、
使えないのは価値がないのと同じである!」と言いたかったのだろう。
好きな事業をしてきて、地方としては戦前・戦後と二つの時代に渡って成功をしてきた人である。
そして、道楽も幾つか持ち人の数倍も人生を楽しんでいた。
「全く同じ人生を、いま一度生まれてきた繰り返したい!」が、父の最期の口ぐせになっていた。
父は事業の恐ろしさを知り尽くしていたので、最悪のヘッジとして不動産や、証券や、古道具や、
現金にして溜め込んでいた。しかし死を目前にして、何だったのか疑問を持ってしまったようだ。
反面、事業をしていると、資金は命の次に大事であるとを思い知る。会社の血液である。
「ある日突然、思いもよらない時代の激変が起こって裸になってしまう!」ことが、経営の宿命である。
そのため、経営はそれに備えて置かなくてはならない。
しかし、あるところまで生きてきたら、生き方そのものを転換をしなくては
ならないことを、その時に父から教えてもらった。

ーーこの本の印象に残ったところを抜粋してみる。
ーあなたは、おカネである金貨を大きな袋に詰め込んで船に乗り込んでいます。
ところが、乗っていた船が激しい嵐に襲われて、船を捨てて避難しなくては
ならなくなりました。そこであなたは、金貨の袋を腰にくくりつけて、海にとびこみました。
海底に沈んでいきながら、あなたは人生を振り返りこう思い悩みます。
私はお金を所有していたのか、それとも、お金が自分を所有していたのだろうか、・・・と。
お金は所有するものであって、所有されるものではありません。お金に振り回されないためにも、
お金を所有することの向こうにあるはずのリアルなコミュニティの重要性に気づくべきです。

ーーー
ーヤップ島の石のおカネの話と我われの通貨とどこが違うというのか。
ヤップ島には、車輪のついた乗り物がなかった。したがって、道路も整備されていなかった。
そこで、、1898年にドイツ政府がコロリン諸島をスペイン政府から買取り、所有権を引き継いだ時、
荒れ果てた道を修繕するように通達を出しました。ところが、全然修繕が進みません。
そこで、ヤップ島の通貨として指定したドイツマルクで金を取ろうしたが、島民達は、
笑うだけで自ら修繕しようとしません。 そこで一計を案じました。
通達を出した村や町に役人を送ると、価値ありそうな現地の通貨の「フェイ」に「×印」をつけて、
政府所有にしたのです。
この政策がウソのように効果をあげ、ドイツマルクに対して、何とも思わなかった島民は
「フェイ」を失ったことを悲観して、ひっしに働きだした。
修繕が終わると、政府は「フェイ」に書かれた「×印」を消して回りました。
島民たちは、自分達の財産が戻ってきたことを心から喜んだという。
ヤップ島のひとを笑うのは自由だが、本当に笑えるだろうか。がお金と信じている預金通帳のデーターも、
というのは、私達本質的には「フェイ」に書かれた「×印」と大同小異だからだ。
ーーー
ー1930年代の前半、まだおカネと貴金属がリンクをしていた時のこと。
フランスの中央銀行は、金塊一オンス20ドル67セントという従来の価格では、
アメリカが金本位制度を堅持できないかと懸念を抱いていた。
そこで、フランス中央銀行は、アメリカで所有しているドル資産と金塊を交換するように
ニューヨーク連邦準備銀行に持ちかけました。
もっとも、金塊を海を越えて搬送するわけでなく、ドル預金を引き落とす代わりに、
ニューヨーク連銀に開設してあるフランス中央銀行名義の口座に移管するだけのことです。
この求めに応じた連銀は金塊の貯蔵所に係員をやると、しかるべき数の金塊を別の棚に移動させて
「フランス所有」というラベルを貼りました。
つまり、連銀はヤップ島のドイツ政府が「フェイ」に×印をつけた同じことをした。
しかし、この効果はすぐに現れました。
新聞の見出しには「金貨減少!」と文字が躍り、「これは、アメリカの通貨制度を脅かす事態である」
と騒がれはじめました。為替相場はドル安・フラン高に動きました。
このアメリカからフランスの金塊の流出ー正確には棚の移動ーは1933年の金融恐慌を起こした
遠因になったのです。
そのラベルのように、ある「データー」をお金として利用しています。    つづく
・・・・・
2003年11月27日(木)
967, PDPテレビをいれて一年、の感想
 一年前の随想日記を振り返って読んでみて、PDPテレビをいれて一年経ったことに気づいた。
丁度その頃、会社の近くにDVDのレンタルショップが開店したため毎週のように借りて見ていた。
オーバーにいえば、そこの見たい映画を殆ど見てしまった、といってよい。
 普通のTVがハイビジョン並みの画面である。それと画面の大きさが一番のポイントである。
映画館にいっているようで、綺麗で迫力がある。その為、劇場中継や音楽番組や自然紀行などの番組がよい。
 次の世代は「実際見るよりより綺麗な画像」になる可能性があるという。
人間の眼よりも世界を鮮明にとらえてしまうのだ。
プロの使うカメラの世界は、ずっと前にその段階まで入ってしまっている。
これからは映像の世界がそうなるというから、想像を超えた世界になるだろう。
 PDPの値下がり幅がもっと進むと思っていたが、それほど下がってない。
しかし「カタ落ち」では1インチ一万円(50インチー50万)に近づいている。
価値はあるかと問われれば、「充分ある」というのが答えである。
「36インチのブラウン管のハイビジョンと変わらないのでは?」といえば、そうではない、
それなりの価値はある。来年から爆発的に売れ出すであろう。3年後、1インチ5千円あたりが
落ち着きどころだろう。
それよりも一緒に買ったDVDがよい。ハードに録画を貯めておくのが非常に便利である。
DVDに録るということは皆無である。どんどん録って、見て面白くないのは消去できるからだ。
あのビデオの物理的な煩わしさから開放されたのが良い。

・・・・・・
593, 八ちゃんの時代
- 2002年11月27日(水)
・・・・・・・・・・
[240] 土日.祭日のすごし方
- 2001年11月27日(火)
・・・・・・・
ある時間の断片
 1968年 11月27日