つれづれに

イメージ 1

 今日のYOUTUBE
http://www.youtube.com/watch?v=oOB24oweSC8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Hpz66RYD110&feature=related

 三日間の連休といっても、毎日が日曜日の者にとって関係ない!
ただ、淡々と時間が過ぎていく。何のために生きている?など、わざわざ
意味つける必要もない。 一日一日を、ただ味わうだけ。これが人生のようだ。
噛みしめれば、そこに味が出てくる。そのためには、気持ちに余裕がなければならない。
余裕を持つには、これまでの多くの積み重ねが活きてくる。それも必要ないのかも。


 ー随想日記のカット分ー
・・・・・・
2379, 人は60歳で何をしたか -5
2007年10月08日(月)  
  「人は60歳で何をしたか」藤原治・著
 まずはー大江健三郎『燃えあがる緑の木』ーから、印象的な部分を抜粋してみる。
 ここでは、 大江健三郎の魂に対するイメージを鮮明に言葉にしている。
 「亡くなった人が、生まれる前から割り当てられていた、森の樹木の根っこに戻っていく」
 自分の両親は、どの木に戻っていったのだろうか?もし両親に、 「この木と思う!」と
言われていたとしたら、墓より意味は深いはずである。
 「自分の木を見つけておきなさい!」という言葉にハッとしたことがあったが・・
     今度は本気になって、自分の木を探すことにした。
知人の別荘?に、大きな大きな藤の木がある。多くの花が咲いた写真を見せてもらったが、そこには
祖先が集って咲いているのだろう。そして、そこの根元に自分たち家族も行くと思うと心が安らぐはずだ。 
 そこには会いたくない人もいるのかもしれない?が・・・
多くの先祖が集っていると思いながら手入れをすれば、それは楽しいだろう!
自宅にも藤の花がある。あれが母で、梅の木が父と思うと何か庭が違って見えてくる。 
 そうだ私達の木を植えよう? あまりそういうことを考えると、ここから出れなくなる!
ーP・50
「家庭おける、環境が持っている『癒し』の力から、私は核時代の病んだ社会に対する、被爆者の
『癒し』の力を考るにいたりました。すくなくともいま広島.長崎で核兵器廃絶のために発言し、
活動している被爆者たちに(略)社会全体あるいは惑星の人間全体に対する『癒と』への積極的なねがいを
見てとらぬわけにはゆきません」無視するには心苦しい大江は、還暦の頃どんなものを書いていた
のだろかと、ある種の郷愁を持って訪ねてみた。そうすると『燃えあがる緑の木』三部作にたどり着いた。
しかも、大江は95年のノーベル文学賞発表の際、この『燃えあがる緑の木』三部作を
最後に、創作活動を終え、その後の執筆再開の予定もないと宣言していたのである。
これほど、本稿に相応しいシチュエーションはないと、本屋に走った。
だが待てよ、と思った。『燃えあがる緑の木』というタイトルから内容を、
何も想像できない。この本を読んでもまた、大江のことを何も理解できないかもしれない。
そこで、文庫本コーナーで『私という小説家の作り方』も合わせて買い、読んでみて
ようやくわかった。今まで、都会育ちの僕がわからないのも無理はなかったのだ。
『私という小説家の作り方』には、今まで理解できなかった彼のキーワードが
解説してあった。 例えば「森」。「森」は彼の出自と刷り込みを表しているという。
『燃えあがる緑の木』にも、同様のキーワードが点在する。
「屋敷」「在」「十畳敷」「森の会」百草園」などだ。そんなキーワードは
『私という小説家の作り方』を読んだ後だったので支にはならなかった。
それに主題はたぶん、次の言葉に尽きるのだ。

「私は魂のことをしたいと思います」

そうなのだ。魂のことを仕事にしたら、もうその先は何もないのだ。
それを大江は知っていて、『燃えあがる緑の木』を最後の著作にしようとした。
その「魂は、谷間や『在』の民家にらに体を残して浮ぴ上る。
そして、グルグル旋回しながら上昇して、生まれる前から自分に割りてられている
森の樹木の根方におさまる・・」とし、魂とキーワードとの関連を主題としていのだ。
しかも、随所に、僕の親しみを持つ人たちの名前がちりばめられている。
ドストエフスキー、ンテ、プラトンランボオ……。 そして、こう結論づける。
「自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか?
そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、
一瞬よりは いくらか長く続く間の光景なのじゃないか? そうすればね、カジ、
きみがたとえ十四年間しか生きないとしても、そのような人生と、
永遠マイナスn年の人生とはさ、本質的には違わないのじゃないだろうか?」
息子の作曲家、光さんも登場させている。「ヒカリさんは、これから自分で
作曲してゆく音楽が森の高みから聴えてくる感じで歩いていたよ」
つまり、大江の最後を飾るのに相応しい筋立てなのである。
ーーーー
解)大江健三郎の魂についての言葉に少し衝撃を受け、そして納得?させられた。
何度も何度も次のイメージを繰り返しながら考えてみた。
「魂は、谷間や『在』の民家に体を残して浮ぴ上る。そしてグルグル旋回しながら上昇して、
 生まれる前から自分に割りてられている森の樹木の根方におさまる・・」
その「魂のことをしたいと思います」というのだから・・・
60代以降は「魂のことをする」ということを念頭に生きる時期なのか? 
魂のこととは何? 魂に触れること? それでは魂とは何?当然のことながら解るわけがない。
ヘーゲルも「魂を語るに天使の舌が必要である」と。
理性では語りつくせないということだ。だから、それぞれのイメージを書くしかない。
それを大江は鮮明に表現したから、衝撃を受けたのである。   
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2006年10月08日(日)
2014, ゴミ少女 -1      おはよ~!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・
図書館で「新潮45」の1月号を何気なくページを捲っていると、
ある一枚の写真に眼が吸い寄せられた。電車の中で、女子学生が超ミニスカートで
電車内で座り込んでいる姿があった。その写真と手記を書いているのが、
インドやネパールなどの写真で知られている写真家の藤原新也なのである。
文庫版の彼の写真集を二冊買っているので、何で「こんな写真」と「クソ女」という
過激な文章を書いているのかと、さっそく借りてきて読んだ。
特別寄稿のテーマは ータリウム事件に見る、
「殺さねば出会えない母」に関する一考察ー【藤原 新也】である。

話は変わるが、長岡の駅裏で通勤途上、超ミニの女子学生30人位がバス待ちをしている姿を毎日見ている。
本当にパンツが見えそうなほどで、目のやり場に困ってしまうほどである。そうそう、
地元のラジオで新潟県の女学生のスカート短さが日本で一位と言っていたが・・
数年前のことになるが、女子学生数人が駅の専門店街の中二階で、
股を広げスカートをパンツを   隠すスタイルで座っていた。
そして下から上がってくる男達の目線を笑いながら見ていた。
私も一瞬、眼のやり場に困り、次の瞬間、その娘達の真意を読み取った。
「このクソ女!ガキども」と、思ったことを、この藤原新也の文で思い出した。
恐らく多くの大人が同じような経験をしているのだろうが、このレポートは、その代弁をしている。
ーその書き出しのところを書き出してみる。
[ゴミ少女]
 ネットで話題になった一枚の写真がある。JRの車内。女子高校生の通学風景である。
K駅から乗り込んで向かい合わせのシートに座り一息ついたとき、前方を見てギョッとした。
これまでにも挙動の乱れた女子高校生を何度も目にしているし、昨今そのような風景を
目にすることは珍しいわけではない。しかし、その日の景色は一味違っていた。
それはなぜか昔見た『ソドムの市』という映画の奴隷船のシーンを思い出させるほど
恐ろしく弛緩している。 携帯していた簡易なデジタルカメラを取り出し、
座ったままひとつシャッターを押す。立ち上がって構図を決めず、
そのままの姿で撮ったのは乗客の視線を維持したかったからだ。
したがってその写真を見る者は自らがシートに座ってその平成ニッポンの
‘荒野’を眺めている私の視線を共有することになる。
 (字数制限のためカット)
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543, [エッ嘘だろう!!]
 ー 2002年10月08日(火)
「エッ嘘だろう!!」と思わず叫んでしまった。
自己資本は資本金の2倍以上で、創業時の償却勘定で
 マイナスになった以外は黒字の優良会社と思っていたのに、
 会社の借入金がある銀行の不良債権の可能性があったという。
・政府系銀行の借入れの都合で個人名義で買った
「2箇所の駐車場の土地」の資金を会社から借入をした。
 その役員貸付金が自己資本と同額であった。
 その事情は銀行が解っているのに?金融庁の検査で問題になっているとか。
金融庁の監査の担当がいうには「個人と会社は別物で、その事情は関係ない」
 という。「自己資本と役員貸付金は相殺するのが筋で、そうすれば
 実質資本金はゼロで、健全会社といえない」とか。
 たまたま節税のため、個人の2物件を会社に売却をする報告に銀行にいって、
 その話を聞いて呆然ー足し算引き算も出来ないのが現状なのだ。
 金融庁地方銀行の審査レベルの混乱がこういう現象を生んでいる。
・これがグローバルスタンダード?という事なのだろう。
 考えてみれば個人と会社を一体で見るということ自体おかしな話だろう。
 銀行にしても、金融庁にしても「売却をして相殺しなさい!」ともいえない。
 こちらが判断をするしかないのか。
 とんでもない誤解?で、不良会社になっていたのだろう。
 かなりこういう混乱が全国で起きているのだろう。
 今の日本の自滅のある現象だ。 社会主義世界の崩壊のある断面だろう。
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[178] 忘れられない店ー4(金沢)
ー平家ー鉄板焼き   2001/10/08
金沢にいた時期によく行った店である。もう30年も前の話である。
4~5年前に行った時まだっその店があったが、しかし個性的な親父は死んで
しまっていた。その店のかみさんがそのままいた。高級化して二店になっていた。
落人焼きといって、何でも鉄板で焼く鉄板焼きやで‘平家’というだ名前の店だ。
今でもちょっとないかわった店だ。食塩の箱入りとともに、キャベツが山盛りでツマミにでる。
大きい鉄板の上で魚や肉や野菜や豆腐を焼くのだ。その為店が油でギトギトで真っ黒で、
またそれがいい。親父が遊び人風の個性の塊のような親父で、その話を聞いているだけでよかった。
当然お母ちゃんがいて、人間味あふれた夫婦であった。2時間ぐらいいるうち、
必ず大喧嘩をするのが名物で、皆それが始まるのを待っている節があった。
「マダ喧嘩始まらないの?」と聞く人まで出る始末。そしてすざましい喧嘩である。
たまに奥さんが休みの日、一人ショボンとしているところがまた可愛い。
何回も家に電話しているのだ。たまたま初めて行ったのは、会社の先輩が競馬で
大あてをして連れていってもらったのだが、
「お前の人生は今日で終わりだ、大穴を当てた味を知ってしまったのだからだ!」
と先輩に説教が始まった。それがいやに説得があって面白かった事を思い出す