つれづれに

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 昨夜は大学の同級会、日本橋人形町の魚久で17名参加。
14時32分に長岡発。 大手町の丸善で40分間過ごし、同級会は18~20時20分。 
20時52分の新幹線で帰路。  http://locoplace.jp/t000031936/
ここの社長が、同級生。 服部さんは、飛行機が遅れて間にあわず欠席。

 二人の写真の、一人が仙台で震災にあった奥野さん。
  ・・・・・

3660,音信不通だった友人から連絡が!
2011年04月03日(日)
* 5分の差で助かった
 学生時代の友人の奥野和夫さんから、昨日の午後に電話が入った。安否を知るために、
宮城県亘理町の住所先に葉書を出していた。 それが昨日になって本人の手元に届き、電話をくれたのである。
 彼の話の概要とは! 
≪ 妻が病院に行くのに付き添った後、自宅に帰ってきて、たまたまTVを見ていたら、激しい地震が襲ってきた。
それが長い時間にわたり続いたが、急にTVの画面が変わって6メートルの津波が押し寄せるという緊急の内容。
直ぐに6Mより10Mに変わったのをみて、着のみ着のままで自動車で高台の方面に向かった。しかし、道路は
渋滞で前に進まない。そこで機転をきかせ農道に回ったが、そこも渋滞。その間に余震が激しく前に進めないほど。
それでも何とか高台に辿り着いた後の5分後に大津波が襲ってきたという。 その後、避難所に行ったところ
数百人の先客がいて寝れる状態ではない。そこで車の中で一晩過ごしたが、着の身着のままで逃げてきたため、
寒がきつい。 暖房もガソリンが無くなるので、一晩中、5分ごとにエンジンをつけたり、止めたりして過ごした。
朝までの時間が非常に長く感じた。 水洗トイレは、ボランティアの中高学生が水を近くの川から次々と運んでいた。
命は助かったが・・・ 妻が病のため、避難所では悪化の可能性がある。 ふと30分の所に前の会社の先輩が
住んでいるのを思い出し、そこに9日間、避難させてもらった。そのうちに群馬の実家の兄に連絡がついて、
車でガソリンを新潟県経由で持ってきてもらい、何とか兄のいる実家にたどり着いた。
最近になって道路が復旧してきたので、自宅を見てきたが、1Fが海水の泥で滅茶苦茶のため、
廃材処理の手続きをしてきた。命一つでも助かっただけで充分! 
火災保険に入っていたが、地震保険には入ってなかった。 ≫
 ー以上が、彼の15分間の電話内容だが、一つ判断を間違えれば助からなかったようだ。
住所の亘町荒浜は仙台飛行場の南下に位置し、阿武隈川の河口にある。 終の住処を、そこに選んだ


2011/03/15
3641, 大地震 ーつれづれに -4
  * ところであの男、大丈夫だろうか?
 学生時代の友人が、仙台飛行場の近くの阿武隈川の河口の漁村に、終の住家に選んだ。
このM9の地震津波が直撃したのでは?とブログに書いたら、それをみた友人から電話が入った。
仙台区若林区荒浜は多くの犠牲者が出ている。生きていて欲しいが・・・ いや生きているはずである!
 ――
3040,卒業40年周年か~ -4
2009年08月01日(土)
 昨日届いた、この手紙を本人の了解無しに公開すべきかどうか一日かけて考えた上で判断をした。
私の40年ぶりの問いかけに充分に答えてくれた手紙で、自分の人生を心を込めたダイジェストとして書かれた
手紙を貰うのは初めて。 私一人の心におくより、ここに記しておく方が良いだろうと勝手に判断させて貰った。
‘学生時代の卒業間近に真剣に対話した延長線上’の手紙上の対話だから魂が入ったのだろう。 
それとキャリアの転勤生活で鍛えられた人生の極みの経験の積重ねがある。 
学生時代の友人との対話というより、高潔な精神と魂の対話をさせて貰ったような気持ちである。 
 私にとって一期一会の対話になった。 それだけ良い学生時代を過ごしてきた証明にもなる。  
  ーー
  * 奥野君からの手紙
 お懐かしい堀井さんのお便りを頂戴し学生時代の記憶が一気に甦りました、本当にお久しぶりでございます。
合気道の道場、同志社学習院への合同稽古、合宿打上げ時の泥酔・不味い学食・ご自宅に泊めていただいての
佐渡旅行等々 四十年前の皆さんのお顔と行状のあれこれが懐かしく浮かんで来ました。
堀井さんは当時から将来は事業家の道を目指して行くのだろうなと私なりに思っていました。
どうして? と問われれば、同僚に比べて社会経済の出来事への関心が強かったとお答えします。
その方向に真直ぐに進まれたのですね。しかも大成功されて本当にすばらしいですね。
プログも拝見させていただき堀井さんの人生の一端を垣間見ました。暖かな生活が伝わってきました。
 その後の小生ですが資生堂に入社し最初の赴任地名古屋をスダートし所沢、福岡、東京、札幌、仙台、
名古屋、広島、東京、仙台と転勤族の暮らしを送り、56歳時に早期退職をして現在地に居を構えました。
最終の役職は支店の責任者でした。50歳台に入ると親しかった先輩、同僚、後輩等が次々と鬼籍に
入られるようになりその方々の浬繋のお顔を拝む都度、一度の人生を思うように生きられましたか、
満足されていますかという思考が強くなってきました。 仕事は化粧品の製造、販売業務なので
二十歳前後の若い女性が多く気持は若く、楽しく送れた自負しています、が人生の残り時間があとわずかに
なってきたと感じ始めると、時が無性に愛おしくなり、100%の自分の自由時間をはやく手に入れ、
日ごろより感じていた、生物として本来の姿、自然の中で自然と共に暮らそうと決めた次第です。 
日常生活は太平洋の日の出をワンちゃんと一緒に拝み作った野菜を食し蔵王連峰に沈む
夕陽に1日の健康を感謝する毎日です。
 趣味は海釣りとゴルフです。自宅のすぐ目の前が海です。阿武隈川下流域にて魚影が濃く、黒鯛、サヨリ
ヒラメ、カレイ、海タナゴ、アイナメ、スズキ、ハゼ、イシモチ、アナゴ等々を釣ってきては命をいただく
感謝をしながら食しています。季節とともに変わり行く波と風と海水の濃淡をみて釣り時をきめます。
時の刻みが止まっているように思える一時です。ゴルフはシーズン30-40回といったところです。
自己目標が年1回以上30台のスコアーをだすということでやってます。ちなみに今季は5月に38が出て満足しています。 
家族状況ですが29歳の時妻を娶り子供は息子が一人です。 
妻は若かりし時準ミス瀬戸で容姿はそれなりだったのですが6年前に○○○○を発症し・・・。
最新治療を受診しているのですが○○疾患の為大変厄介な病気です。現在私のサポートが少々必要な状態です。
 そんな事情で立教会や同窓会といった宿泊のともなう集いは参加を断念しています。息子は堀井さんの八と
同じように名を新八(しんばち)といいます。丸の内の○○生命国際投資部で海外債権の売買業務に携わっています。
平均睡眠時間は4・5時間との事です。親より出来がよかったのはカミサンの弟が岐阜大の教授をやっているので
そのようなDNAをすこしばかりひきついでくれたのかなとおもってしまう親馬鹿です。ざっとした近況ですが
一献傾けながら積もる話をしたいと思いつつ先の事情でそれもかなわず拙文とあいなりました。
状況が好転したらぜひお会いしたいですね。  堀井さんとご家族のご健康をお祈りいたします。  
                                         2009年 7月28日 奥野和男
  ―――
 * 奥野君への手紙        
             2009年07月22日        (今日、本人の手元に届く)
 学卒40周年記念に参加をしてクラスの名簿に貴君の名前をみて懐かしく、手紙を書いています。 
卒業前の半年間(S43・9~44・2)日記をつけており、それを20数年前に倉庫の隅から見つけ出しました。 
書いたことすら忘れていたので、タイムマシーンで当時に戻ったような気持ちで読み返しました。 
8年前に始めた私のHPの中央の下にある分類のブログに書き写してあります。
ブログに同月同日に毎日載せたものです。 従って、毎年半年は、当時の日記を毎日読み返しています。
その時に、貴君が、あの馬小屋のような寮に卒業間近かに訪ねてきて、これから社会に出るにあたって
多くを語ったことや、佐渡に広瀬君などとご一緒したことを思い出しています。 
 先日の会では石川譲治君や、服部学園の園長の染谷(服部)、川村、福田君などの顔が見受けられました。 
その前日に銀座に合気道の面々が集まり、一杯やりました。 三崎、木矢、伴、鈴木(加藤)、高杉です。 
三崎さんは10年前まで、新潟に16年近く転勤できていて、2~3ヶ月に一度のわりで古町などで酒を飲んでいました。 
 ところで私は、その後
ジャスコに一年在社後に、
産業能率大学に途中編入をし、
・その後金沢の「いとはん」(その後ジャスコに吸収)に一年半在社、
・千葉の郊外に貸しビルをつくり、その中に居酒屋の養老の滝のFC店と、やはりFC店の焼きたてのベーカーリーを
 二年間従事(その当時に結婚)
・家の事情で実家の事業(衣料量販店と衣料専門店)を5年間従事をし、
・34歳から新潟駅前でビジネスホテルを30年近く経営をしています。
 2001年の9・11のテロと、去年の9・15の金融恐慌以来、苦戦をしていますが、何とかやっています。
  どちらかというと、創業屋的な人生だったと思います。 
 30歳前半までに問題を吐き出し、後半は、それまでの勢いで何とか辿り着いたというところです。
ところで、貴君の住所をグーグルアースに入れてみたら、仙台空港の南10キロほどの漁港のようなところで
驚いています。資生堂に入社して、都会にドップリと浸かっているかと思いきや、その正反対の場所で。 
実際のところ、東京のアスファルトジャングルなどより、遥かに良いことは、新潟飛行場の周辺をみれば分かります。 
それだけでも良い人生を過ごしてきた貴君の姿が目に浮かびます。(それぞれに価値観があるでしょうが) 
何かチャンスがあったら、会うのも面白いでしょうね。 それでは、お元気で。 
あの日語り合った、延長の気持ちで思いのまま書いてみました。     堀井八郎  
 
 追文)8年前より、ブログを開いています。 暇のおり覗いてください。検索に堀井八郎を入れると出てきます。
    当時の写真や、先日のクラブや、同級の二次会の写真があります。 
    分類には当時の私の日記があります。  ~ 22・23・24歳の日記のコーナー~
    ー-
 ー11月19日ー 1968年
・11時起床。
13時半に同級の奥野君が私の部屋に突然くる。1~2年の時、席が隣のこともあって親しかったが。
専門課程になってから疎遠になっていたのに。話をしたかったのだろう。
人生について、倫理観について、その後読んだ本で感銘したことを必死に話をしていった。
特にケネデーの自伝に感銘を受けたというのが印象的であった。

見違えるように自信を持ったらしい。男っぽくなったという言葉がピッタシだ。
4時間ばかりして帰っていった。もうこうして彼と話し合うことは無いだろう。
アパートから一時間以上かけてきたのだから、自分のメッセジーを伝えたかったのだ。

それにしても最近多くの人が吹き付けるように来るのに驚く。
聞き役に徹していることもある。それと大学最後の時が来ているためだろう。