つれづれに

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  今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=asKv20lEt3g&feature=related



 「私」について考えるほど、難しい問題はない。それは第三者からの呼びかけと、その境目が
複数に重なり、その内側を「私」という。 なるほど、自分の方からラインをつけた内側ではない。
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 * 去年の同月同日の随想日記より
2006年10月05日(木)
2011、「私」のための現代思想  -8       (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ~

 私たちを束縛しているものから自由になるには、束縛している対象を理解しなくてはなりません。
第一章では、その束縛するものの正体を論じたが、いま一度それを取り上げ、それから逃れるには如何すべきかを論じているのが、
この章である。「私」を束縛するものとは、 <言葉>と<価値><社会><世界><物語>などがあります。
束縛から逃れるためには「所有」が必要になる。所有者になることによって、主体者になるのです。
所有することも捨てることもできるのが主体的ということである。 この随想日記を毎日書き続けることは、
その範囲で「言葉」を所有していることになり、自由に考えを述べていることになり、開放されている。
「<価値>の主体者は、<価値>を生み出す側ではなく、それ<価値>を「受益する者」であるということです。」
当然といえば当然だが、私たちはその反対と思いがちである。「消費者本位」というのは、今では当たり前になっているが、
提供者の方は、それを一番忘れてしまうのです。言葉も相手の受け止め方で、救われもするし、加害もする。▽ ̄)■]~~ 珈琲TIME♪
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 第三章 「私」とは何か
ー束縛から逃れるー :<言葉>と<価値>の束縛から逃れる
 私たちが<言葉>の束縛から逃れるためには、「<言葉>を所有すること」が必要になる。
 「言葉による束縛」とは、「自分が使った言葉が、新しい意味を帯びる」ということを認識しない
 ことによって発生する。また、「自分が受け取った言葉に自分が新しい意味を付与することによって、
 それを認識している」ということに気づかないことによって発生する。
   これを換言するならば、
 それは「私がある時点で使った単語は、常に新しい意味で用いられている」と認識し、
 また「他者から発せられた言葉も同様である」と認識することです。
 私たちは、厳密な意味で同じ単語を同じ意味で使うことができません。
 言葉による意思疎通が(不完全であれ)可能となるのは、「了解不可能な他者を了解しようとする意思」
 によって発生するものでしかなく、ある言語体系よって適切に語を使用することで発生するものではありません。
 私たちは、何らかの概念を伝達しようとする時、「この単語は、この程度の意味に使われていたはず」と推測し、
 それに「近似した」新しい意味を付与しつつ発語している。そのとき、言葉の主体者は<私>です。
ー <価値>の束縛から逃れるためには、<価値>を所有するしかありません。しかし、ここで注意しなくてはならないのは、
 <価値>の主体者は、<価値>を生み出す側ではなく、それ<価値>を「受益する者」であるということです。
 <言葉>と<価値>の束縛から逃れるためには、この二つの本性を理解するだけで充分である。逆にいえばー<言葉>とは
 言語体系のこと、そして<価値>は、それを発生する側が主体者である、と考えていることによって、それらによる
 束縛が発生します。その両方が「誤りである」ということを認識するだけで私たちはその束縛から逃れることができるのです。
ー<物語>と<世界>の束縛から逃れるためにはそれを所有しなければなりません。
 そのとき<物語>所有する主体者は、いうまでもなく<私>です。私達は<物語>も<世界>をつくることも捨てることもできます。
 その状態が「所有」であり、そのときそれらの束縛から逃れることができるのです。
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 ここで、<私>と《私》について、もう一度整理をしてみる。
 <私>は、
    * 言葉を用いて対象化された「私の像」
    *「超越確実性言明(つまり言葉)」の束、もしくはそれに支えられている「自己の像」
    *「私」の「論理的」な側面(言葉によって認識・構築された「私」)の意味を持っています。
     これに対し、《私》は、
    *<私>の中核にあり、<私>の存在を支えているもの
    *<身体>の中核部分にあり、<身体>(=対象化された身体)を支えているもの
    *「生そのもの」としての「私の存在」
   サルトルに「対自」「即自」「対他」というキーワードがあるが、それに《私》を関連付けると、さらに面白くなる。