つれづれに

イメージ 1

 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=Tn1O2OFIUKU

 何気なく、ユング的な写真を眺めていたら、イメージがわいてきたので、書き出した。
どうなっていくか私も分からないが、成り行きに任せて、この男にまかせてついていってみようか?
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 その老人みたいな人が奇妙なことを言っているが、何か奇妙に、それが分かったような
気持ちにさせられるから不思議である。 その人の横に、この洞窟の奥が続いているようで、
そこに目をやり、目を戻すと、一瞬で、その人の姿は影も形もなくなっていた。 錯覚だったのだろうか。
そこの岩場に上がり、一歩踏み出すと、突如、狼のような動物が突如うなり声をあげ、迫ってくる。 
足元に、どういうわけか一本の棒があったので、拾いあげ、立ち向かおうと身構えた。 --つづく 

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2007年08月31日(金)
2341, 「私」とは何か?        〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●)
  「狂人三歩手前」-中島 義道 (著)       -読書日記
   ー「私」とは何か?ー
「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。
成る程と合点がいったが・・・ 常に考える時、「私」は何々・・・と一日、数百回も自問自答しているのに、
その「私」とは何ぞや?と考えたことがない。それをキチッと知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。
 ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。
  ある哲学書で「私」についての説明があった。
{「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、さっきの橋を歩いていた主観が
「私」として飛び出してくる。云々}と。成る程と思いつつ、解ったようでもう一つ理解できないモヤモヤが残っていた。
過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある「いま・ここ」の主観は、
まだ私になってないということ? ところが彼は、この本の中で、その「私」を噛み砕いて解りやすく説明をしている。
  -p.86
「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。だが、そうであろうか? いま両肩から下に頭部を欠いた
独特の身体が広がっているが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか?そこに独特の感じがするから?だが、
なぜその独特の感じが「私の」感じなのだろうか? こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。
「私」とは知覚とは別の独特の作用によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など
見いだせない。「私」とは知覚しているときに、同時にそこに感じられるものではないか?いや、胃がきりきり痛い時に
それと並んで独特の「私」という感じなどない。
そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。
そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な
発光点のようなものであるはずがない。あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。
ここで、別の視点から反省してみるに、「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。
「私」とは過去のあの時も同一の「私であった」者である。 しかも、その同一性は二つの対象を見比べて
判定するのではなく、現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。
「私」は、過去と現在との関係において登場してくるのだから、現在の世界を隈なく探しても見いだせないのは当然。
過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。現在の知覚される世界ではなく、
過去の想起される世界を探究することによってはじめて「私」は身を現わすのである。
ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても「私」の同一性は保たれるということだ。
夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は自覚されていない。
「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。
まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を見ていたことになる。
夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを
追いかけている時や、ぼんやりもの思いに耽っている時など、いわば消えている。
しかし、あとから「私は~していた」と語れる限り、その時「私」は存在していたことになるのだ。
夢中で小説を読んでいた。ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。
私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」。
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夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。じゃあ、夢の中で私は何々、云々と
いっているのは何だろうか?ただ夢の中で過去のことを考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない
純粋何とかいう未成立の?が、夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた!
 ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた  グッ。・:*:☆w(´・з・`)バァイ
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2006年08月31日(木)
 1976, 充実した人生
  おはよ~!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・  時差ぼけだ~
先日の新聞広告の「男の品格」という紹介文で「自分の一生が幸福だったかどうかは、男にとっては大した問題でない。
だが充実していたかどうかは大きな問題だ」という内容があった。ところで私の場合はどうか、考えてしまった。
幸福度は70~80点? 充実度は、どうだろう? どうしても知人との比較対象になってしまう。
その充実度は外的なものになってしまう。 それでも、やはり80点か? 幸福度は気持ちの問題だから、
その本人次第だが充実度は? やはり過去の人生の密度に関係してくる・・・
密度は濃かった?、それとも淡白だった?のだろうか・・・ところで「充実したか」と、「幸福」を置き換えて、
「人生は充実していたかどうかは大して問題ではない、だが、幸福と思えるかどうかは大きな問題だ」
という理屈も、成り立つのでは?
充実をした人生を送ってない人も多いから、その見方も大事じゃないかと??     ( ̄ω ̄;)!!
全て解釈ー受け止め方、そう言葉・言葉でしかない。 どう考えても充実した人生を送ってない人が、
自分は充実した人生を送ったと勝手に思い込んでいる人もいるし、充実した人生を送ってきた人が、
自分は充実した人生を送ってこなかったと思い込んでいる人もいる。
だからよいのだろう!人生は。  充実した人生か~ やはり大事なのだろう!
 ところで充実した人生とは?
・感動・感激・感謝の詰まった人生
・自分の夢を追い求め、そのプロセスで自分の力を出し切った人生
・自分の好きなことをやり遂げた人生
・燃焼しきった人生
・よく遊び、よく学び、よく働いた人生  というところか!!    ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
 美味い酒を飲んで、美味い飯食べて、上さんで満足して、ニコニコしていて、
充実した人生のことなど我関せずで人生を終えるのも良いのだが・・・
ところで充実している時って充実感など意識してないものである。食べている時満腹感がないのと同じこと。 
感動・感激、そして達成感などが、溜まった状態をいうからだ。不幸のときに充実感はない!
しかし充電をしているのだか、空の状態。下手に充実感など持たないほうがよほどよいのでは?
とも考えられる。まあ、いいか! この旅行の直後のためかイヤニ充実感がある! 
気功をすれば、 早朝の散歩も、 気の充実はできる。 それで充分といえば、それまでだが・・・           
               ホンジャ(。・ω・)ノ☆゜+.バイ!