つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=8hylF7HUe2Y&feature=related

 この世は泡沫の世とはいうが・・・ 人生を振り返れば、それが分かる。
しかし、その時々の今・現在は存在しており、しっかりと現在の今につながっている。
国家も、世界も共同幻想でしかない。 東北震災で、家や地域社会が一瞬で消滅した人たちは、
今まで生きてきた社会と家族、そして自分とは何だったのだろう?と、置かれた立場が立場だけに
素朴な疑問を持って当然である。 もう、震災前に戻ることは、ない。 それが大震災であったため、
それぞれの人生が露出しただけで、人間が、長生きをすればするほど実感するのは、この思いである。

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2704、共同幻想を抱いていただけ?
 2008年08月30日(土)
 松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」である。
一万年前に農耕牧畜を始めて、「人間圏」を作り上げてきた。 そして右肩上がり人間圏の拡大が
共同幻想だったことを、人類は宇宙に出て地球を俯瞰して初めて知った。 資源が有限であり、農耕以来、
環境破壊を続けてきたことも、これ以上の人間の欲望を拡大できないことも知った。
 ー著者の松井孝典は、次のように人間圏の危機を述べている。
 ≪欲望のカタチは所有であり、人間は地球という大地を「所有」すると、錯覚していたのである。
 これが人類の「共同幻想」というのである。共同幻想は、これだけでなく、貨幣は未来永劫に交換可能とか、
 神様の存在とか、 人間の命は地球より重いとか、民主主義とか、市場主義経済とか、自由平等とか、
 人間を規定する概念すべてといってよい。 21世紀の人間圏にとって、その崩壊の引き金になる
 最も高いシナリオは、これらの共同幻想が多くの人に幻想と 認識されたときである。 
 その一つがインターネットとという。インターネット社会は、個々人を主体化し、 情報が個人に拡散する。 
 情報が拡散するということは、社会が均質化していくことになるが、共同幻想という面では
 理想的かもしれないが、宇宙からの視点から見れば、人間圏のビッグバンになる。
 それは秩序も構造も、情報もあってない、混沌とした社会になる。》
  そこで、共同幻想とは何かを知るためにネットで調べてみた。
 ー以下は共同幻想についてのウィキペディアのコピーであるー
共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。
日本の思想家である吉本隆明が用い、有名になった言葉。
吉本は、自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢がついているから
使いたくなかったと述べている。 吉本隆明は、著書「共同幻想論」で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。
▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。
▼ 対幻想  = 個人と他者とのプライベートな関係。 ?家族・友人・恋人がこれに当たる。
▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合がこれに当たる。
 宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、
共同幻想に当たる。 この分類は効果的であり、世界を正しく見るうえでこの3つの幻想領域を混乱、混同させないことが
大事であると吉本は主張する。これらはそれぞれ独自の法則で動いているのである。  
例えば、吉本は心理学者のフロイトはリビドーと言う対幻想性を、社会領域まで無条件に拡大して
採用しようとしたところに誤りがあると批判する。また、1人の人間もこの3つの領域でそれぞれ違う顔を持っている。
 *職場にいる顔と、*家庭にいる顔、*1人でいるときの顔や行動は、それぞれ違うのである。
外弁慶、内弁慶という言葉があるように、冷酷な独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親であったり、
逆に職場では物静かな男が家庭内では暴力的な暴君として振舞うなどということは、充分ありえる。
吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できないと主張する。
 例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、
 労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。 
 ~~~ 以上だが、
 松井孝典の二冊の本は、大きな衝撃であった。
地球学という視点で、自分を振り返ると、大いなる共同幻想の中で蠢いていた小さな生命でしかないことだ。 
太陽の惑星の一つの地球、その大気圏の中の、物質圏の、生物圏の、人間圏の、極東圏?の中の小さな島国の、
北陸圏の、新潟圏の中の、何でしかない私。地球の外から俯瞰すれば、そういうことである。
そして共同幻想を何の疑問を持たないで抱いていた存在である自分を振り返り、「何?何だったのか?」と
根こそぎ、人生観がぐらついている。恐らく身近に死を感じ取った時に、直感的に感じる恐怖心の向こうに
見える宇宙的な俯瞰の視線は、織田信長が舞ったという敦盛の「人生50年、下天の内をくらぶれば、
夢幻のごとくなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」を彷彿させる。
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2007年08月30日(木)
 2340, さっきみた幻想的、かつリアルな夢
  -v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○o。(-v-★)
 これだけ、ハッキリと憶えている夢は珍しい。毎朝書いているモーニング・ページに夜半にみた夢を書いているが、
殆ど忘れている。それでも、五日に一度位は大筋は書いているだろうか。夢から醒めた直後は忘れないように
反駁をしているが、しかし殆どは反駁したことだけしか憶えていない。ところが、どういうわけかリアルに
殆ど憶えているのである。夢見た直後に、リアルに、詳細に書けば、読んでいても面白いだろうから、
あえて書き出してみる。 まずは、私の夢の世界を、ご覧あれ。 私の潜在意識の公開である!
▼ 近所を散歩していると、面白そうな家が目に付いた。家の向かって右の方に、
子供のための遊び場がつくってある。 そこで主人らしき人が手作りで何かを作っている。 
声をかけると、中に入ってもよいという。そこに入っていくと右が廊下のようになっていて、
手作りの小さな部屋が5つ位ある。 その中に子山羊がいたり、子供の遊び場があり、遊び道具が入っている。
その廊下の奥に少し広い空間があり、カヤックやカヌーなどが置いてある。
家の右全体が自分たちの遊び場として、その主人・松尾という人が自分で手作りで作ったという。 
そういえば去年、大学の学生時代の友人がカヤックを持ってきて新潟の阿賀野川の河口で大水の中、
二時間ぐらい遊んだことがある、と言うと、急に打ち解けてくる。そして、居間に案内をする。
そこには、彼の友人が4~5人遊びに来ていた。毎週のように週末は仲間が集まるという。
そこで奥の方の部屋に行き、そこで松尾さんと話をする。薄っすらとした髭をはやした五十歳位の人で、
自由業のようだ。名刺をだそうとしたが、出さない方がよいと判断、自分の姓だけをいう。
急に睡魔が押し寄せてきたが、そこに10歳位の彼の息子が来て、正座をして挨拶をする。
私も挨拶をしようとしたが、眠くてできない。その松尾さんに、「あなたは自由業でしょう。弁護士か、医者か、
会計事務所の先生とか」というと、その通りだと答える。そうじゃなければ、このような好きなことを好きなまま、
できないはず。ところが、この夢には次の場面がある。翌日、何と家内を連れて、その松尾さんの家に行ったのだ。
そして家内は松尾さんの奥さんと話をしている。半分お互いに知っていたようだ。二人で世間話を始める。
まあ、せっかくのところに何で家内か、と思っているうちに帰ることになった。ところが、何か騒がしいので行ってみると、
この家の老いたお手伝いさんが前日亡くなり、そのお参りに近所の人が来ていたのだ。 そこで私も、
仏壇の前でお参りをする。身寄りではないが、お手伝いとして面倒を見ていた人という。 
聞いていて涙が出てくる。その後、一人で自宅の前に帰ってくると、宅配の人が玄関口にいる。
その前に宅配の人がきていたようで、不在の紙がある。そして、家に入ろうとすると、何か人の気配がする。
二人の息子と、二匹の犬が一Fの部屋にいる。庭から部屋の中を見るとまだ高校生の彼らである。 
その辺りで眼が覚める。何か不思議な、リアルな夢である。心象風景ということか? 他人の夢を垣間見るのも面白い?
というより、珍しいか!私も直後にこれだけ、鮮明に文章化したのは初めてである ネムイ!